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第四十話 『ちはやぶる』
【輝夜】
酒呑童子が両袖から腕を抜いて上半身裸になると、衣に焚きこまれたのだろう護摩の匂いと酒の匂いが漂ってくる。
あたりを圧する声を発すると、肩や腕の筋肉が盛り上がり、背中には岩のようなこぶが連なった。
義守が両手を突き上げると、その両手に指を絡ませて、組み合った。
止めなかったことを後悔した。
これは弓や太刀の勝負ではないのだ。
しかも、相手は鬼である。
加えて酒呑童子と義守の体格は、大人と子供ほど違う。
その手も驚くほど大きい。ゆうに一尺はあろう。
人の顔をつかんで握りつぶすことなど造作もないように見えた。
組んだ指も尋常な太さではない。
いまさらながら義守の手を砕いてしまうのではないかと恐ろしくなった。
八尺近い酒呑童子が、上から押し潰すかのように攻めたてる。
義守の両腕が大きく左右に広がっていく。
もはや勝負が決したと思った。
あれでは力が入るまい。
押し倒され、あの巨体を預けられればひとたまりもない。
血の気が引いていくのが分かった。
せめて大きな怪我がなければと願った。
だが、信じられないことが起こった。
――義守が、その体勢から盛り返したのだ。
広がっていた腕が徐々に狭まり、上がっていく。
吉平が口にした、気が迸る、という意味が理解できた。
酒呑童子が一瞬、驚愕の表情を浮かべた。
すぐに怒りに満ちた表情に変わり、見る間に顔を赤く染める。
その巨躯に力を込め、押しつぶそうと覆いかぶさる。
こめかみに血の管が浮かんだ。
肉と骨がきしむような音が聞こえたのは気のせいだろうか。
親王様のことも忘れて、目の前の光景に釘付けになった。
突然、酒呑童子と義守の周りで何かが弾けた。
一度も聞いたことが無い音だ。
足元の焚き火に目をやったが、火の粉ひとつ飛んでいない。
だが、気のせいではなかった。
続いて空気が裂けるかのような破裂音が二度響き渡った。
そしてひときわ大きな重い音が耳朶をうち、地を揺らせた。
あわてて親王様を抱き寄せた。
何が起こったかわからなかった。
酒呑童子と義守の立つ岩から粉塵が舞い上がった。
酒呑童子の足元から三方に向かって亀裂が入っている。
裂け目の幅は一寸ほどあった。
目を疑った。
少なくとも厚みが六尺以上ある大岩である。
男二人が乗って力比べをしたぐらいで割れるはずがない。
酒呑童子が法力を使ったのだ。
天を突くほどの巨漢の鬼が、使わざるを得ないほど追いつめられたのだ。
その酒呑童子は、義守と組み合ったまま哄笑していた。
義守が無事だったことに胸をなでおろしながら、そっと手を合わせた。
【酒呑童子】
追いつめられた挙句、「法力」が迸ったのだ。
暴走したのだ。
呪も唱えず、印も結ばずにである。
しかし、僥倖というべきか、こたびは相手を傷つけずに済んだ。
なにより、それに安堵した。
ただし、わしが力を制御できるようになったのか、こやつが、わが身を護る能力を持っているのか。その、判別はつかなかった。
それにしても、こやつといると面白いことが起きる。
しかも愉快である。
これほどの力を持ちながら、名を知られることなく生きてきたには理由があろう。
こやつの力は、明らかに人の範疇を超えている。
自分と同じ鬼の類であろう。
角はないように見えるが、まれに角のない鬼もいると聞く。
どちらにせよ、頭をここまで徹底して隠しているのは見せられぬ事情があるのだ。
少々癖はあるが、わしと違い、人に見える。
わしは法力で人とつながっているが、この男にはそのようなものはあるまい。
独りが寂しければ、人のふりをするほかないのだ。
腹を割って話をするには時が足りぬが、それでもこやつの事が知りたくなった。
「飲もうではないか」と、酒杯を差し出す。
本気で、こやつと飲みたいと思った。
身分も学識もあるまい。
愛想もなければ面白い話ひとつするでもない。
そのような男に、輝くほど美しい若き姫君が好意を抱いている。
何がそうさせるのか興味もあった。
何より……訊ねたいことがあった。
今、この時を見計らったかのように、わしの前に現われたことだ。
知りたかった。
口を開かせたかった。
すべてとは言わぬ。
お前が何者であるのか……いや、魚の焼ける匂いを嫌う、その理由だけでも良い。
……お前が同類であると確信できれば、それで良かった。
ならば、わしは立ち向かえよう。
たとえそれが、天命と呼ばれるものであろうとも。
「飲めぬことはあるまい」
杯を交わしたかった。
酒の力を借りてでも心を開かせたかった。
それが、この男の一端に過ぎなかったとしても。
酒を注いだかわらけを差し出した。
酒が回るとしつこくなる。
わかってはいるがやめられぬ。
「いらぬ」
飲みたい奴が飲め、とばかりの、そっけない返事しか返って来ない。
むろん、姫君や若君を守るためにも怪しげな鬼の棲家で酔うわけにはいかぬ、のだろう。
だが、それだけではあるまい。
心を開くのが恐ろしいのだ。
一方のわしも意固地になった。
真に怯えているのはわしのほうだ。
恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
背を押してくれる存在が欲しかった。
かわらけを引っ込めることができなかった。
「わたしが頂きましょう」
横から声をかけてきたのは姫君だった。
驚いた。
姫君の言葉にではない。
義守が意外そうに顔を上げたことにだ。
ならば、こちらが思っているほど親しい間柄ではないということか。
義守に代わって姫君に問うた。
「飲めるのですかな?」
「もちろんです」
飲んだことなどあるまい。
微笑みながらも緊張を隠せないでいた。
義守のために飲むのだ。
それに喜びを感じている目だ。
義守は、それに気づかぬようだ。
人と接することが少ないからか、生来のものなのかはわからぬが、おなごの気持ちに疎いことは確かだ。
むろん、わしとて偉そうなことは言えぬ。
だが、いつ切り捨てられるかと言う日々を送っていれば、おのずと人の顔色を読めるようになる。
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