あさきゆめみし

八神真哉

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第四十三話  『安住の地』

【酒呑童子】

姫君は誉めてくれたが、どこで覚えたのかも定かではない。
実の母が歌ってくれるはずもない。
生まれてすぐに捨てられたのだから。

連れ帰った修験者――わが師が歌ってくれたとは思えない。
もの心ついたころ、乳飲み子を抱えた人間の母の歌を聞いたことがあるのだろう。

寝かしつけた若君を、そっと畳の上に降ろすと、
「酒呑童子――あなたのためにあるような名ですね」
他意のない微笑みを浮かべて、姫君が話しかけてきた。

この呼び名は、自分でも気に入っていた。
呪術師は、名を隠さねばならぬというのに、嬉しさに、つい口をすべらせた。
「幼き頃は「青」と呼ばれておったのです……」

「珠玉(たま)のように美しいその瞳を見れば、そう呼びたくもなりましょう」
さもありなん、とばかりに、真顔でほめられ、あいまいに笑った。
それも通称だ。
本当の名――偉(いみな)を知る鬼などいなかった。

「制多迦童子(せいたかどうじ)」とも呼ばれていた。
「制多迦童子」とは仏の生まれた地の言葉で奴隷・従者を意味すると聞いた。

少々喋り過ぎた。
女神のように美しい姫君が、歌と瞳を褒めてくれたこともあろう。
だが、酒が入るといつもこうだ。

わかってはいるが、酒は手放せない。
断てば手足が震える。
なにより、かつての気の弱い役立たずの鬼に戻ってしまう。
無理に笑顔を作って酒を流し込む。

姫君は笑い上戸のようだ。
目元をほんのりと赤く染め、怖れるでもなく横に座り込み、しきりに笑い、わしの腕を、ぱちぱちと叩き始めた。
檜扇も畳の上に置いたままだ。
裳着はとうに済ませている齢にもかかわらず、化粧ひとつしていない。

良いのか、お前のおなごであろう、と義守に目をやるが、警戒を解いたと見え、何も言わず鍋の具を黙々と口にしている。

空を見上げると、蒼々とした望月が浮かび上がっていた。
その光は、貴族の姫君にも鬼の身のわしにも分け隔てなく降り注ぐ。

姫君は、やがて舟をこぎはじめた。
その膝に若君の頭を置いて。

誰もが、わしが鬼であることを忘れてでもいるようにふるまっていた。
至福の時だった。
このただなかに、ずっと身を置いていたかった。

だが、そう思う相手だからこそ、無粋を承知で伝えねばならないこともある。
それを察したように義守と呼ばれる男がこちらを向いた。
手にしていた鉢の酒をあおり、口元をぬぐいながら問うた。
「国にはいつ帰る?」

こやつの言葉には西国訛りがある。
姫君の家来でもないという。
わしの問うた意味、真意を測るかのように、瞳をひたと見つめてきた。

わずかに間を置き、男は答えた。
「次の望月には」

「早いほうが良い」と、教えてやった。
「占いも得意か?」
喰えぬやつだ。
「からきしよ」
正直に答えた。

「だが、悪いことは言わん。胸騒ぎがするのよ……これは、驚くほど当たる」
というと、はっきりと言え、とばかりに鋭利な視線をおくってきた。

「もう一つ……」
唐突過ぎるのはわかっていた。
だが、言葉は口をついて出る。
「人とのかかわりは、ほどほどにしておけ」
信頼関係ひとつ築けていない相手にする話ではなかった。

だが、止めることはできなかった。
「鬼や、物の怪の恐ろしさなど何ほどのことがあろう。この世で最も怖ろしいもの……それは、人じゃ。人の心じゃ。そこに人あらば妬み、意に沿わねば切り捨てる。わが利のためとあらば、血のつながりがあろうともいとも簡単に裏切る」

一瞬、義守が笑ったように見えた。
何を今さら、と言わんばかりに。
つまらぬ愚痴や説教など聞きたくないとでも言うように。

わかっている。
だが、この男には伝えておきたかった。
「……生まれてすぐに、わしは捨てられたのだ。母は人であったと言う」

そうだ。
わしは捨てられた。
いや、売られたのだ。
誰とも知れぬ、性根ひとつわからぬ法師に。

この先、死ぬより辛い日々が待っていると予見できるにもかかわらず。

人は、われら異形の者を鬼と呼んで怖れるが、人の心の方がよほど怖ろしい。
人の心の中にこそ鬼は棲んでいるのだ。

生まれて初めての愚痴だった。
誰にも話せなかった。
聴いてくれる者もいなかった。
つまらぬ話を始めたものだという後悔もあった。

それでも、この男には聴いてほしかった。
慰めを期待したわけではない。
憐れんでほしかったわけでもない。
こやつも同類であると感じたのだ。

ならば、覚えていてほしいと思ったのだ。
世の噂にのぼる鬼の法師ではなく、酒を酌み交わした酒呑童子という名の漢(おとこ)がいたことを。

義守が口を開いた。
「生まれたばかりの赤子を間引くは訳もないことだと聞いた」

――おまえは生かされたのだ、とでもいいたいのか。

生まれてきたことを後悔したことのない奴の言葉だ。
日々、奈落の底を覗き込み、死ねばこの苦界から解放される、と怯え、懊悩煩悶(おうのうはんもん)していた者の気持ちを斟酌できぬ奴の言葉だ。
十五、六の若造が、一回りも上の鬼を捕まえて、真顔で説教を始めようというのか。

義守は続けた。
「いつ、餓死するかと言う中、おばばは、おれに食い物を与えた」

ずいぶんと恵まれた生涯を送ってきたようだ。
それに嫉妬を覚えたのだろうか、口をついて出たのは皮肉だった。
「なるほど。世は広い。稀なる強運に恵まれたと見える。しかし、この世の正負は半々という者もいる。ならば、この先……お前が窮地に立った時……わが身を投げ出してまで、助けようとする人間がおるかのう」

かろうじて、この姫君が、という言葉を飲み込んだ。
人ではないおまえを、という言葉とともに。

この男は、わしの問いの核心を理解したはずだ。
にもかかわらず、須弥山の麓にある凪(なぎ)の日の蓮華池の水面のような目で、
「お前が助けを必要としているのなら……」
と問い返してきた。

手にした鉢の中の酒が小さく波打ち始めた。

鉢を岩の上に置き。腕を組む。
「おかしなことを言う。今や、わが名は都中に鳴り響き、寄進は引きも切らず。好きな酒もたらふく飲める。極楽浄土におるも同然よ。わしほど、その言葉から縁遠いものはおるまい」

「未練があるように見えたのでな」
わしを捨てた母のことを言っているのか。
「あったらどうだというのだ?」
「縁を切れば良い」
人とのかかわりを言っているようだ。
先ほどの様子から見当をつけたのだろう。

だが、やはり、わかっていない。
わしにあるのは、この世への未練だ。
人間どもへの未練ではない。

笑いが、こみあげてくる。
この男に対するものか自嘲なのかはわからなかった。

どこの国であっても鬼は忌諱されるものだ。
人より力があったところで、武器を持った大勢の人間に囲まれ、襲われれば、勝ち目は薄い。
なにより心が耐えられない。

やむを得ず、鬼は人を避け、山奥や人の住んでいない島で暮らす。
だが、鬼にとって真に安住できる地などどこにもない。
貪欲な人間どもが、鬼の土地やわずかばかりの財産を奪いに来るからだ。

それでも、そこで共に暮らしたいと夢想した時期もあった。
だが、虐げられてきた鬼たちは、人間に育てられた鬼など信用すまい。

なにより、自分を育てた国が、手放すはずがなかった。
もっとも、今や、その国は、この地に存在しない。
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