あさきゆめみし

八神真哉

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第五十六話  『訪問者』

【輝夜】

ふとした拍子に女房どもの瞳に脅えが見える。
無理もない。
洛外では死者がよみがえり、あたりを徘徊しているとか、百鬼夜行に遭遇したという噂には事欠かない。

そのさなかに洛中から出たい者などおるまい。
まともな神経の持ち主であれば当然であろう。

だが、自分たちの仕える中宮は、まともではない。
実家の火事見舞い、と言いながら地下の役人の邸に立ち寄り、皆が気づいた時には、その邸の主人が手配した従者とともに姿を消してしまうほどに。

しかも、一晩経っても帰ってこなかった。
とんでもない所業である。

万一、その詳細が明らかになろうものなら、中宮は出家。
それに気づかなかった女房達は厳しい罰を受けたうえ解雇。
次の職には一生ありつけまい。

翌朝現れた陰陽助が、
「中宮さまは昨日、体調を崩され、急遽われらがお供し、内裏に戻られた。皆さまも内裏に戻られるよう」
と、つじつまひとつ合わない説明をしたところで誰が信用しよう。

その陰陽助にすがりつくように、お貸しした従者は帰ってきておりませんぞと、訴える邸の主人の姿が、ありありと思い浮かぶ。

皆、わたしが何かを画策し、再び内裏を抜け出そうとしているのではないかと疑っているのだ。
巻き添えにされるのではないかと神経をとがらせているのだ。

一度失った信用は取り戻せない。
それが命に係わることであればなおさらに。

     *

帝より親王様ご養育の承認がおり、七日が経った。

学びごとの合間合間に親王様は、わたしの傍においでになった。
美しく賢いうえに笑顔を絶やさない親王様に、あれほど拒否感を示していた女房達も虜になった。

「まとわりついていらっしゃる」
「実の親子でも、こうはいかないでしょう」
「見ているわたしどもも、幸せな気持ちになります」

幸せだった。
だが、座して待っていても何も変わらない。
宿直を自分の局に下がらせ、親王様が安心しておやすみになれるよう、お手を握り、
宮中を抜け出す方法を二つ三つ考えていると灯りが揺れた。

御簾の向こうに小さな影が立っている。
息を切らせ、平伏する。

「小次郎……ですね。入りなさい」
力なく床に額づき、
「姫様、不敬を承知で参りました。罪に問われることも……」
声をひそめながらも、必死で訴えてくる。

「何があったのです」
小次郎は顔を上げなかった。
礼儀を教えられたのだろう。
「妹が、るりが倒れたのです……姫さま、なにとぞ、お力を……るりを助けてください」

「まさか……」
また、毒を、と言うわたしの心を読み取ったかのように、
「いえ、毒ではないと思いますが、具合は悪くなる一方で……しかも小属・直丁どもが……」
遮るように口にした。
「薬師は呼んだのですか?」

「我らごときが薬師になどかかれましょうか。野の草を煎じて飲むが良いところ」  
「小属らが何もしてくれないと?」
「それならば、姫様の手を煩わそうとは思わなかったでしょう」

その意味を訊ねようとすると、小次郎が、すがるように顔を上げた。
御簾越しの、ほのかな灯りに照らされたその顔が、歪んでいるのがわかった。
「疫病(えきびょう)に違いないと断じられまして」

疫病であれば、当然、内裏の外に運び出すだろう。
死人がでれば穢れとなり、物忌のため外出もできなくなる。
何より、うつる病である。

問題は行き先だ。
眉をひそめ、尋ねた。
「どこに移すというのです」
「答えぬのです」
と、小次郎が拳を握りしめ、うつむいた。

わたしは先日、酒呑童子から聞いたばかりだが、小次郎はとうに知っていたのだろう。
貴族であればともかく、治る見込みがなければ、生きているうちに捨てることもあるのだ、と。

貧しい者は、僧侶の読経を上げてもらうことなどできない。
鳥野辺まで運んでもらえればよい方で、夜のうちに往来に捨てることも珍しくないという。

早くに起きた門番は、それを見つけると隣の邸の前に移動させる。
門の前に捨てられると、その邸の貴族が外出できなくなるからだ。
一番遅くに起きる怠け者の門番を雇っている貴族が貧乏くじを引くことになるのだと。

小次郎とともに飛香舎を出ようとすると、宿直の女房が険しい顔で行く手を阻んだ。
自業自得である。
わかってはいても、ため息が出た。

「薬師に尋ねたいことがあります」
なぜ、とは問い返せぬよう、強い口調で伝える。

しかし、女房は職務に忠実だった。
「それでしたら、使いを出します。藤壺様は、身舎でお待ちください」
「太夫に直接命じます」
「ならば、太夫様をこちらにお呼び致しましょう」と、譲らない。

一刻を争う、この時に無駄な問答で費やしたくない。
さらに評判が落ちることを承知の上で、
「延引している大原野社行啓では歌会を考えています。歌に優れたあなたには是非にも同行してもらわねばなりません」
と、口にした。

これまでであれば、当然のこととして受け取るであろう。
しかし、ここしばらくの所業で反応は全く別物になった。
女房は、物の怪を目の当たりにしたかのように顔色を変え、その場にすとんと腰を落とした。

融通の利かぬ女房を残し、先を急いだ。
小次郎は、塀に梯子をかけ、庭から入って来たという。
むろん、そのような真似ができようはずもない。

小次郎に牛飼い童だけを呼びに行かせ、牛車で、二人が仮住まいさせてもらっているという木工所に向かう。

「るりは、あれに」
簾越しに、小次郎の指さす先を見て、眉をひそめた。
板の壁でこそあるが、大枝山の媼の、あの納屋よりも小さい。
しかも、納屋の隅に簀子を置いただけに見える。

雑用とはいえ、内裏で仕事をする身である。
それなりの待遇を受けていると思い込んでいたわが身を恥じた。

小次郎の身にまとった水干ひとつ見ても、どのような扱いかは見当がつく。
食べ物も十分に与えられておるまい。
親王様の食事のつまみ食いを大目に見られていたのも、小次郎の明るさだけではなかったかもしれない。

小次郎が、「あっ」と、声をあげる。
見ると、二人の男が納屋の前に置かれた荷車にるりを乗せ、縄で括り付けようとしていた。
役職であれば一番下の直丁であろうか。
その傍らで指図している男は小属、史生あたりであろう。

小次郎が、あわてて駆け寄った。
「まて! どこへ連れて行くのじゃ!」
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