2 / 19
2
しおりを挟む
日が暮れると新吉原は妖しくも美しい灯りに包まれる。赤く揺れる独特の光に呼び寄せられるように男たちが大門をくぐり、大小様々な妓楼へと吸い込まれていく様子は文明開化が進んでも変わらない光景だった。
珠吉はそんな新吉原でも指折りの老舗である牡丹楼の下働きとして働いていた。主な仕事は遊女たちの世話で、手先が器用だから簡単な繕い物のほかに髪結いの真似事をすることもある。今夜は牡丹楼一の人気花魁、伊勢太夫の寝所を整える仕事を任されていた。絹でできた赤い布団に漆の枕、傍らには豪華な打ち掛けを立てかけ、枕元には酒と火鉢に煙管入れも用意しておく。
花魁の寝所にだけ使うことが許されているよい香りの油を入れた灯りを用意したところで珠吉を呼ぶ声がした。部屋を出ると三年目の禿が二番席に名を連ねる吉乃太夫が呼んでいると口にする。
部屋へ行き、廊下から「吉乃太夫、お呼びでしょうか」と声をかけた。「お入り」という返事に障子を開けると花魁姿の吉乃太夫が煙管片手に座っている。
「煙草を買ってきておくれでないかい?」
手元に煙草入れがあるものの、肝心の煙草の葉を切らしていたのだろう。
「わかりました。いつものでいいですか?」
「頼むよ」
そう言って太夫が銭を渡した。見ればちょうどひと箱分の銭で、珠吉は内心小さくため息をつく。別に駄賃がもらえないことを憂えたわけではない。
(この半年、吉乃太夫のお客が随分減った気がしてたけど気のせいじゃなかったんだな)
太夫ともなれば、ちょっとしたお使いでも駄賃をはずむものだ。それが駄賃を渡せないほどということは実入りがないということでもある。
(ちょっと前までは伊勢太夫と並ぶ花魁だったのに)
落ちる一方の吉乃太夫と違い、昇り龍のように人気が上がっているのが伊勢太夫だ。少し前からは、横濱の異国人街に滞在しているという金髪碧眼の色男までもが通うようになった。異国人は葵の元に通っている商館勤めの男の上司で、接待で訪れたところ伊勢太夫に惚れ込んでしまったらしい。今夜もお大尽らしく奥の座敷から賑やかな笑い声や三味線の音が聞こえている。
「急いで行ってきます」
「あぁ、お客は夜更けの一人きりだ。急がなくてもいいからね」
それには答えず、頭を下げて部屋を後にした。そうして階段を下りたところで茶々丸が近づき三本の尻尾でするりと珠吉の足元を撫でる。
「おまえもついてくる?」
『夜は危険だからな』
「まるで用心棒みたいだね」
『みたいじゃなく用心棒だろう?』
茶々丸の言葉にひょいと肩をすくめた珠吉は、妓楼の主人に使いに出る旨を伝えて店を出た。昼間と違って通りを歩く人のほとんどは男で、なかには酔っ払っている者もいる。猫のときは決して大きくない茶々丸では踏まれてしまうかもしれない。そう考えた珠吉は茶々丸を腕に抱えることにした。すっかり秋風が吹くようになったからか、抱えた小さな体がやけに温かく感じる。
「あったかいな」
『猫だからな』
「化け猫のくせに」
『猫には違いない』
珠吉と茶々丸の出会いがいつなのか珠吉は知らない。新吉原の大門前に捨てられていた赤ん坊の珠吉のそばに子猫の茶々丸がいたということしか聞いていないからだ。茶々丸自身も多くを語ることはなく、ただ「おまえの用心棒みたいなものだ」と言うだけだ。
珠吉を拾った牡丹楼の主人は大の猫好きだった。そのため珠吉と一緒に茶々丸も拾い、おくるみに入っていた書き付けどおり赤ん坊には珠吉、猫には茶々丸と名付けた。その後、一人と一匹は遊女たちに可愛がられながら育ち、気がつけば十六年もの月日が経っている。珠吉はすくすくと育ち、茶々丸も長寿猫、招き猫として新吉原ではちょっとした有名猫になった。おかげであちこちの妓楼で好物をもらうお大尽さながらの暮らしを送っている。
(どうして茶々丸も一緒に捨てられたかはわからないけど、自分が捨てられた理由はなんとなくわかる)
捨てられた理由は十中八九、妖が見えるせいだろう。茶々丸の尻尾が三本だということも最初から見えていた。おそらく赤ん坊のときから妖が見えていて、それを生みの親は恐れたに違いない。口がきけない赤ん坊でも一緒に暮らす親なら異変に気づく。
(小さい頃はよくおかしなことを口にしてたって姐さんたちも言ってたからなぁ)
それでもここは新吉原、様々な事情を抱えた人が多く集まる場所では大した問題ではなかった。赤ん坊のときから牡丹楼で暮らす珠吉は追い出されることもなく、こうして下働きとして働き続けている。
そんな珠吉は小さい頃から自分が普通でないことを自覚していた。自分に見えるものが周りの人にも見えているわけじゃない。そう自覚したのは四歳のときで、それからは妖のことを口にするのをぴたりとやめた。珠吉はそれくらい賢い子どもでもあった。
(きっと新吉原みたいな場所なら、わたしみたいな者でも生きていけるって思ったんだろう)
だから生みの親は大門の前に置き去りにしただ。もしくは遊郭に縁のある人だったのだろうか。
(おかげで五体満足に育ったけど、ちょっと小柄すぎるのがなぁ)
珠吉はなぜか体があまり大きくならなかった。小さい頃から十分な食事を与えられていたにも関わらず、十六になっても同年代の少女たちより小柄なままだ。ただ、そんな小柄な体だったからこそ禿になることもなく遊女の道に進まなくてよくなったのもたしかだった。
「ま、それ以前に遊女にはなれないけどさ」
『おまえが遊女になったら天地がひっくり返るぞ』
「うるさいな」
『それとも伊勢太夫のような人気者になるか……顔立ちは悪くないしそれなりに頭も回る。人相手ならたんと稼げるかもしれないな』
「馬鹿なこと言わない。そんなことよりさっさと買いに行かないと」
『そうだった。ついでにまんじゅうの一つでも買うというのはどうだ?』
茶々丸の言葉にため息をつきながら人混みをすり抜け、大通りの端にある小間物問屋に近づいたときだった。
「危ない!」
珠吉はそんな新吉原でも指折りの老舗である牡丹楼の下働きとして働いていた。主な仕事は遊女たちの世話で、手先が器用だから簡単な繕い物のほかに髪結いの真似事をすることもある。今夜は牡丹楼一の人気花魁、伊勢太夫の寝所を整える仕事を任されていた。絹でできた赤い布団に漆の枕、傍らには豪華な打ち掛けを立てかけ、枕元には酒と火鉢に煙管入れも用意しておく。
花魁の寝所にだけ使うことが許されているよい香りの油を入れた灯りを用意したところで珠吉を呼ぶ声がした。部屋を出ると三年目の禿が二番席に名を連ねる吉乃太夫が呼んでいると口にする。
部屋へ行き、廊下から「吉乃太夫、お呼びでしょうか」と声をかけた。「お入り」という返事に障子を開けると花魁姿の吉乃太夫が煙管片手に座っている。
「煙草を買ってきておくれでないかい?」
手元に煙草入れがあるものの、肝心の煙草の葉を切らしていたのだろう。
「わかりました。いつものでいいですか?」
「頼むよ」
そう言って太夫が銭を渡した。見ればちょうどひと箱分の銭で、珠吉は内心小さくため息をつく。別に駄賃がもらえないことを憂えたわけではない。
(この半年、吉乃太夫のお客が随分減った気がしてたけど気のせいじゃなかったんだな)
太夫ともなれば、ちょっとしたお使いでも駄賃をはずむものだ。それが駄賃を渡せないほどということは実入りがないということでもある。
(ちょっと前までは伊勢太夫と並ぶ花魁だったのに)
落ちる一方の吉乃太夫と違い、昇り龍のように人気が上がっているのが伊勢太夫だ。少し前からは、横濱の異国人街に滞在しているという金髪碧眼の色男までもが通うようになった。異国人は葵の元に通っている商館勤めの男の上司で、接待で訪れたところ伊勢太夫に惚れ込んでしまったらしい。今夜もお大尽らしく奥の座敷から賑やかな笑い声や三味線の音が聞こえている。
「急いで行ってきます」
「あぁ、お客は夜更けの一人きりだ。急がなくてもいいからね」
それには答えず、頭を下げて部屋を後にした。そうして階段を下りたところで茶々丸が近づき三本の尻尾でするりと珠吉の足元を撫でる。
「おまえもついてくる?」
『夜は危険だからな』
「まるで用心棒みたいだね」
『みたいじゃなく用心棒だろう?』
茶々丸の言葉にひょいと肩をすくめた珠吉は、妓楼の主人に使いに出る旨を伝えて店を出た。昼間と違って通りを歩く人のほとんどは男で、なかには酔っ払っている者もいる。猫のときは決して大きくない茶々丸では踏まれてしまうかもしれない。そう考えた珠吉は茶々丸を腕に抱えることにした。すっかり秋風が吹くようになったからか、抱えた小さな体がやけに温かく感じる。
「あったかいな」
『猫だからな』
「化け猫のくせに」
『猫には違いない』
珠吉と茶々丸の出会いがいつなのか珠吉は知らない。新吉原の大門前に捨てられていた赤ん坊の珠吉のそばに子猫の茶々丸がいたということしか聞いていないからだ。茶々丸自身も多くを語ることはなく、ただ「おまえの用心棒みたいなものだ」と言うだけだ。
珠吉を拾った牡丹楼の主人は大の猫好きだった。そのため珠吉と一緒に茶々丸も拾い、おくるみに入っていた書き付けどおり赤ん坊には珠吉、猫には茶々丸と名付けた。その後、一人と一匹は遊女たちに可愛がられながら育ち、気がつけば十六年もの月日が経っている。珠吉はすくすくと育ち、茶々丸も長寿猫、招き猫として新吉原ではちょっとした有名猫になった。おかげであちこちの妓楼で好物をもらうお大尽さながらの暮らしを送っている。
(どうして茶々丸も一緒に捨てられたかはわからないけど、自分が捨てられた理由はなんとなくわかる)
捨てられた理由は十中八九、妖が見えるせいだろう。茶々丸の尻尾が三本だということも最初から見えていた。おそらく赤ん坊のときから妖が見えていて、それを生みの親は恐れたに違いない。口がきけない赤ん坊でも一緒に暮らす親なら異変に気づく。
(小さい頃はよくおかしなことを口にしてたって姐さんたちも言ってたからなぁ)
それでもここは新吉原、様々な事情を抱えた人が多く集まる場所では大した問題ではなかった。赤ん坊のときから牡丹楼で暮らす珠吉は追い出されることもなく、こうして下働きとして働き続けている。
そんな珠吉は小さい頃から自分が普通でないことを自覚していた。自分に見えるものが周りの人にも見えているわけじゃない。そう自覚したのは四歳のときで、それからは妖のことを口にするのをぴたりとやめた。珠吉はそれくらい賢い子どもでもあった。
(きっと新吉原みたいな場所なら、わたしみたいな者でも生きていけるって思ったんだろう)
だから生みの親は大門の前に置き去りにしただ。もしくは遊郭に縁のある人だったのだろうか。
(おかげで五体満足に育ったけど、ちょっと小柄すぎるのがなぁ)
珠吉はなぜか体があまり大きくならなかった。小さい頃から十分な食事を与えられていたにも関わらず、十六になっても同年代の少女たちより小柄なままだ。ただ、そんな小柄な体だったからこそ禿になることもなく遊女の道に進まなくてよくなったのもたしかだった。
「ま、それ以前に遊女にはなれないけどさ」
『おまえが遊女になったら天地がひっくり返るぞ』
「うるさいな」
『それとも伊勢太夫のような人気者になるか……顔立ちは悪くないしそれなりに頭も回る。人相手ならたんと稼げるかもしれないな』
「馬鹿なこと言わない。そんなことよりさっさと買いに行かないと」
『そうだった。ついでにまんじゅうの一つでも買うというのはどうだ?』
茶々丸の言葉にため息をつきながら人混みをすり抜け、大通りの端にある小間物問屋に近づいたときだった。
「危ない!」
41
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる