垂れ耳兎スピンオフ

朏猫(ミカヅキネコ)

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花のように3

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 その日、クリュスは朝から少し気分が滅入っていた。理由は夕方から客が一人来ると下働きに聞かされたからだ。
 自分を求めてくれる客が来るのはありがたいものの、その客だけは歓迎できない。しかし華として役に立たなくなったクリュスに、その客を断ることはできなかった。

(どうして放っておいてくれないんでしょうね)

 客の顔を思い出すたびにため息が漏れる。それでも長年に渡って染みついた動きが止まることはなく、迎えるための支度は淡々と進んでいった。
 まずは身を清め、長い髪を結い、華として客を迎えるための衣装に身を包む。そうして客用のキセルや香油などの小物を入れた盆を用意し、客を迎えるための部屋に入った。ほの暗い部屋の釣り提灯に火を入れてからベッドを整え、水差しには果実水を満たしておく。それから自分用のグラスには普通の水を入れ、小さな丸薬を飲み下した。

(これももう必要ないかもしれませんね)

 丸薬の苦さに眉をひそめながら、口直しの薄荷の葉を少し噛んで用意を済ませる。
 クリュスが口にした丸薬は華街かがいで広く使われている避妊薬だ。子を成せなくするだけでなく、痛みを緩和する効果と体を火照らせる媚薬の効能も得られる。これはどの街の華街かがいでも手に入れられる薬で、華たちが必ず持っているものでもあった。
 しかし、この丸薬は苦い。苦みにどうしても耐えられない者は尻から入れる特製の香油玉を使う。この香油玉は交わりを助ける効果もあるが、注がれた種を確実に駄目にする役目を担っていた。
 クリュスは華として客を取り始めたときからずっと丸薬を服用していた。兎族は雄であっても子が成せるため、雌雄関係なく誰もが丸薬の世話になる。

(アフィーテのわたしには、本来必要のない薬なんでしょうけれど)

 丸薬の入った小さな袋を盆に戻し、水色の目で窓の外を眺める。
 アフィーテは繁殖力の高い兎族にあって子を成しにくいと言われている。小柄で貧弱にしか育たず、適齢期になっても発情しにくい。だから劣勢種と蔑まされるのだと小さい頃から何度も聞かされてきた。
 それでも念のためと丸薬を飲み続けた。それもここ三年ほどは飲む回数が減り、いまではこれからやって来る客と会うときだけ服用している。

「本当は飲まなくてもいいようにするのが一番なんでしょうけれど」

 そうつぶやくと、背後から「何が一番?」という声が聞こえてきた。予想外に早い到着に、一瞬だけ垂れ耳の毛がぶわっと逆立つ。それを誤魔化しながら振り返ると、灰色の毛にオレンジ色の目をした若い狼族が立っていた。

「早かったのですね、ディニ様」

 クリュスの挨拶にディニと呼ばれた狼族がわずかに眉をしかめる。

「その余所余所しい感じ、いい加減やめてほしいんだけど」
「ここではこれが普通ですよ。それにディニ様はお客様でいらっしゃいますから」
「俺は客じゃなくて番になりたくて通ってるんだ」
「またそんなご冗談を」
「冗談なんかじゃないって何度言えば信じてくれる?」

 強く光るオレンジ色の目からそっと視線を外す。何もかもを見透かされそうな若い瞳を見ないようにしながら、クリュスはことさらゆっくりとグラスに果実水を注ぎ入れた。それをディニの前に置き、手元の明かりをほんのわずか落とす。

「ここは華街かがいで、番を選ぶ場所ではありませんよ」
「知ってる。だから華折りを申し込んだんだ」
「華折りだなんて、簡単に口にするものじゃありません」
「俺は本気だ。だから何度だって言う。俺はあなたを番にしたい。スキアさんにも話を通してるし、あとはあなたの返事だけだと聞いてる」

 ディニの言葉に垂れ耳がわずかに震えた。遠い昔に夢見ていた言葉がチクチクと胸を突き刺す。

「それは叶わないことです。わたしは華街かがいの華なのですから」
「そんなの関係ない」
「関係なくはないでしょう? あなたはいずれキュマ様の後を継がれる身ですよ?」

 ディニはこの港街でも一、二を争う名家の狼族だ。港街でいまもっとも力を持つキュマという狼族には後継ぎがいない。代わりにキュマの弟の子であるディニが養子となり後を継ぐのではともっぱらの噂だった。

(たしかに狼族は兎族の雄と番になるのが普通だけれど、わたしを番に選んでは駄目だ)

 雌が生まれなくなり同族同士で子ができなくなった狼族は、種を受ければ立派な狼族の子を宿す兎族の雄を番に選ぶようになった。とくに名家と呼ばれる地位の高い狼族は、自らの力を子に引き継がせるために“月の宴”と呼ばれる場で優秀な兎族の花嫁を選び番にする。
 それが普通なのに、名家のディニが華街かがいの華を番に選ぶなんてことがあってよいはずがない。華というだけでなく、選んだのがアフィーテだと知られれば間違いなくディニはよくない立場になるだろう。

(狼族もアフィーテが劣勢種だと知っているはずなのに、ディニ様はどうしてこうも頑ななのでしょうね)

 狼族だけじゃない。他の種族も垂れ耳のアフィーテが劣勢種だと知っている。だからアフィーテは慰み者として買われるのだ。
 名家の後継ぎになるだろうディニは、いずれ月の宴に参加し優秀で美しい兎族を花嫁に迎える。まだ十八歳と若いディニは兎族に触れたことがないと言っていたし、初めての相手となったクリュスへの思いも一時的な気の迷いに違いない。

「たとえ後継ぎになったとしても、俺はあなたがいい。あなた以外の番なんていらない」

 あぁ、何て真っ直ぐな言葉だろうか。クリュスの胸が少しずつざわついていく。もし十年若ければ、うっかり頷いていたかもしれない。こんな自分をこれほど求めてくれる存在に縋りつきたいと思ったかもしれない。

(しかし、わたしはアフィーテなのです)

 アフィーテがどういう存在か、クリュスは人生のすべてをかけて思い知らされてきた。それに夢を見るには年を取りすぎている。もはや枯れゆくばかりの華に若く美しい狼族の隣はふさわしくない。

(そもそもわたしは子が成せないのですし)

 それがアフィーテの次に気がかりなことだった。
 狼族は子を成すために兎族とつがう。それなのに子が成せないアフィーテとつがっては意味がない。すぐに新しい花嫁を探すことになるだろうし、その花嫁とディニが仲睦まじく暮らす姿を近くで見守ることになる未来は火を見るよりも明らかだった。

(それを見たくないなんて、わたしも傲慢になったものです)

 しかしそれが本音だった。そう思ってしまうほど、クリュスは一回りも年下の狼族に恋をしてしまった。かつての客たちに抱いた淡い気持ちよりもずっと濃く鮮やかな思いを抱いている。

(それを知られるわけにはいきません)

 知られれば、ディニはますます華折りに熱心になるだろう。それではディニの未来に影を落とすことになる。大事なディニをそんな目に遭わせるわけにはいかない。

(そのくらいしか、わたしにできることはありません)

 気づかれないようにそっと息を吐き出すクリュスにディニが近づいた。そうして細い肩に手を載せる。

「俺は絶対に諦めない。あなたを番として手に入れてみせるから」

 何と強い言葉だろうか。現実よりも情熱が先走る若さに目眩がする。

(これが最後の思い出になるのなら、やはりわたしは幸せ者ですね)

 クリュスは眩しすぎる若者の情熱に鼓動を早めながら、さらに明かりを小さくした。それからベッドの端に移動し肩掛けをゆっくりと脱ぐ。華が身につける薄い衣装だけになると、ディニの目がますます強く光った。

(いつまでそんな目で見てもらえるのでしょうね)

 オレンジ色の瞳は小さな灯りだけでも十分なほどギラギラと光っている。ピンと立った耳は興奮のためか時々ピクッと動き、尻尾も左右に大きく揺れていた。その尻尾が激励するかのように太ももをパシッと叩いている。

(なんて美しい狼族なんでしょう)

 クリュスは見慣れてしまったはずのディニの姿に今夜も見惚れていた。
 ディニが客としてやって来たのは半年ほど前だった。何かあったのか思い詰めたような表情に、最初は悩み相談のようなことをしていた。しばらくは客というより年の離れた弟のような気持ちを抱いた。そのうちディニがクリュスに恋をし、それに引きずられるようにクリュスもディニに恋をした。

(でも、この恋は実ってはいけないのです)

 アフィーテであり華街かがいの華でしかないクリュスが恋をするのは御法度だ。これまでもそう思い、ただひとときの夢を客に見せることだけを考えてきた。「今回もそうすればいい」と、切なくきしむ痛みから目を背ける。

(今宵もまた夢を見せるだけ)

 これ以上華折りのことを口にさせないようにするには行為に没頭させればいい。長く華を勤めるクリュスにとっては容易なことだ。
 薄い衣装の胸元を指先で撫でる。そのまま腰紐を掴み、ゆっくりとほどいた。右足を少し前に突き出せば、前合わせの衣装の間から白く華奢な足が太ももまで顕わになる。その様子をじっと見守っていたディニから喉を鳴らすような音が聞こえてきた。

(こんな体でも、まだ欲情してくれる)

 それがたまらなく嬉しかった。枯れる一方の体に欲情してくれる若く美しい狼族に肌が粟立つ。

「さぁ、ディニ様」

 立ち尽くしているディニに微笑みかけた。そうして両手を広げベッドへといざなう。

「クリュス……!」

 勢いよく抱きしめられ鼓動が跳ねた。クリュスはディニの肩に額を寄せながら、いつかは終わる夢に今夜も溺れるように身を投じた。
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