垂れ耳兎スピンオフ

朏猫(ミカヅキネコ)

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狼と猫7

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「ひぃっ」

 狼族の一人が悲鳴を上げた。その声にアスミの眉が不快そうにピンと跳ね上がる。

「な、なんであんたみたいな奴がこんな北のほうにいるんだよ!」
「俺がどこにいようとおまえたちには関係ない」
「ひっ!」
「ここが長の目の届かないところだということも関係ない」
「ひぃっ」
「オリヴィと俺の前に二度と姿を現すな。わかったか?」

 アスミの言葉にブンブンと勢いよく頷いた二人は、半分地面を這うように大慌てで逃げ出した。気のせいでなければ耳はぺしゃりとうな垂れ、尻尾は股の間に入り込んでいたように見える。

「大丈夫か?」
「あ、あぁ……」

 いつの間にか壁を背に地面に座り込んでいた。慌てて下半身を整えたオリヴィが差し出された手を掴む。ところが腰が抜けたようでうまく立ち上がることができない。
 それに気づいたアスミが「緊急措置だから我慢してくれ」と言ってひょいと抱え上げた。突然横抱きに抱き上げられたオリヴィは目を白黒させたものの、助けてくれたアスミの手を煩わせるのはどうかと思いおとなしくする。

(アスミってやっぱり狼族なんだな)

 アスミは猫族より背が高い。そのぶん重いはずなのに、狼族のアスミは軽々と持ち上げた。そのことに、雄としての嫉妬や純粋な感嘆がまぜこぜになったような複雑な気持ちになった。それなのに心臓は変にバクバクし、触れている胸板に妙な気恥ずかしさを感じる。

(こいつ、思ってたよりすごい体つきしてるな)

 思わずすり寄るように肩に頬を寄せた。腕に当たる筋肉に多少悔しく思うものの、それよりホッとする気持ちのほうが強い。むしろ逞しい感触が心地よくて……そこまで考えたオリヴィはハッとした。
 何かとんでもないことを思いかけたことに慌てて頭を振る。尻尾も忙しなく揺れ、動揺しているのが丸わかりだった。それをごまかすように「なんで俺の居場所、わかったんだ?」とアスミに尋ねる。

「胸騒ぎがして、それで探しに来たんだ」
「よくあそこだってわかったな」
「……匂いがしたから」
「匂い?」
「……雌の匂いだ」

 気遣うような声色に「あぁ、うん」とだけ返事をした。
 家に着くと、アスミの甲斐甲斐しい世話が始まった。「取りあえず肌を拭ったほうがいい」と湯を入れた洗面器とタオルを渡される。それであちこちを拭いていると「着替えだ」と新しい部屋着を渡された。よく見れば着ているズボンはあちこちが土で汚れ、腰回りを縛る紐が半分千切れかけている。
 それを見た途端に背中がぞわっとした。慌ててズボンを脱いだところで着替えの中に下着が入っていることに気がつく。オリヴィは下着を脱ぎながら背中を向けているアスミをチラッと見た。

(俺が何をされかけてたかわかってるってことか)

 なぜか腹の底がひゅっと冷えるような感覚がした。
 オリヴィはこのとき初めて「アスミに嫌われたかもしれない」と不安になった。もしくは雄のくせに雄に襲われる汚らわしい奴だと蔑んでいるのかもしれない。そう思うだけで腹が重くなる。
 それを払拭するように着替え、敢えていつもどおり「ありがとな」と広い背中に声をかけた。

「いや、間に合ってよかった」
「うん。……その、おまえが言ったとおり気をつけるべきだった。ごめん」
「オリヴィのせいじゃない。俺の言葉が足りなかったせいだ」

 振り返ったアスミの顔が悔やむように歪んでいる。

「……もしかして、あの狼族のことに気づいていたのか?」
「何度か店の近くで見かけたことがある。あの猫族も一緒だったから何か仕掛けてくるのではと思っていたんだが……すまない」
「アスミが謝ることじゃないだろ」
「だが、オリヴィに卑劣なことをしようとしたのは狼族だ」

 アスミの言葉に「思ったとおりだな」と思った。同時にあれ以上のことをされなくてよかったと胸をなで下ろす。そうでなければ、きっとこうして顔を合わせることは二度となかったはずだ。

「おまえのせいじゃないだろ」

 同じ狼族でもあの二人とアスミはまったく違う。

「それにおまえは助けてくれた」

 感謝を込めてそう告げると、オレンジ色の目がつらそうに歪んだ。

「アスミ?」
「俺はそんなふうに言ってもらえる立場じゃない。俺は……オリヴィが本当は雌なんじゃないかとずっと思っていたんだ」

 そう口にしたアスミの目が一瞬ギラリと光った。まるで睨みつけるような目力に一瞬怯んだものの、オリヴィはすぐにそれが捕食者の目だということに気がついた。

(何だよ、その目……それじゃまるで、俺のこと……)

 脳裏をよぎった言葉にごくりと喉が鳴る。しかし、すぐに「勘違いするな」と己をたしなめた。

「そういや初めて会った日、雌の匂いがとか言ってたよな」
「最初は酒のせいかと思っていた。次の日は匂わなかったし、その後匂ったこともなかった。それなのに俺はあの匂いが忘れられなかった。オリヴィは雌じゃないのに、あの匂いがまたしないか……密かに期待してもいた」
「期待って、」

 アスミが申し訳なさそうに目を伏せた。しかしすぐに強い色を滲ませた瞳でオリヴィを見つめる。

「その匂いが最近またするようになった。喜びと同時に不安になった。この街に狼族は少ないがいないわけじゃない。それに獅子族も鼻が利く。誰かがオリヴィの匂いに気づいて手を出すのではと、気が気じゃなかった」
「それで口うるさかったのか」
「……すまない」

 いつもはピンと立っている耳が心なしかしょげて見える。足の向こう側に見える濃い灰色の尻尾も不安そうにゆらゆらと揺れていた。

(大勢の雌たちに迫られてもうまく交わすくせに、何だよその顔は)

 オリヴィには、その顔がまるで叱られるのを待つ子どものように見えた。それなのにオレンジ色の目だけは爛々と輝いている。そのちぐはぐとした様子に身震いし、同時に首の辺りが総毛立つような気がした。
 猫族は狼族や獅子族に捕食される立場にはない。もっとも弱いのは兎族で、彼らは猫族の捕食対象でもあった。遠い昔は兎族から豊かな土地を奪ったことさえあると言われている。
 そんな猫族の血を濃く引き、半分は狼族に並ぶ獅子族の血を引いている自分がアスミを前に恐怖を感じていた。

(違う、これは恐怖じゃない。この震えは……これは喜びだ)

 そう思った途端に体の深い場所がズクンと疼いたような気がした。初めて感じる熱と疼きに思わず腹の辺りに手を当てる。
 するとアスミがギョッとしたような顔をした。慌てるように右手で鼻を覆い「オリヴィ」と掠れた声で名前を呼ぶ。

「アスミ?」
「オリヴィ、匂いが、」
「匂い?」
「……雌の、匂いが」

 整ったアスミの眉が苦しそうに寄っていく。それなのに相変わらず目は爛々と光り、より一層捕食者らしい姿を見せた。

「駄目だ、これ以上そばにいたら何をするかわからない」

 そう言ったアスミが慌てて部屋を出て行こうとする。それを止めたのはオリヴィだった。

「出て行かなくていい」
「……オリヴィ」

 自分を抱え上げた逞しい右手を掴み、もう一度「いいから」と引き留める。

「しかし、」
「ここにいてほしい」
「でも、」
「俺がいいって言ってんだよ」

 食い下がるオリヴィにアスミが目を閉じた。それから大きく息を吸い、もう一度「駄目だ」と口にする。

「正直に言う。俺はオリヴィに劣情を抱いている。この匂いを嗅いでいるだけで何をするかわからなくなりそうなんだ。いまの俺はさっきの二人と何ら変わらない。だからここにいることはできない」
「いいんだよ」

 その言葉にオレンジ色の目が見開いた。しかし一番驚いていたのはオリヴィ自身だった。驚きながらも「あぁ、そうか」と腑に落ちる。

(ははっ、そっか。俺はおまえのこと……)

 気がつけば簡単なことだ。いつの間にかアスミはオリヴィの中で誰よりも大きな存在になっていた。「この先も一緒にいられたらいいな」と思い、二人の生活が消えることを恐れるようになった。そんなことを考える理由は一つしかない。

「おまえはあいつらと違うだろ」
「いや、違わない。このままでは同じようなことをしかねない」
「いいや、違う。だっておまえはただヤりたいだけじゃない。そうだよな?」
「そ……れは、」

 オレンジ色の目が右に逸れた。それに合わせるように灰色の尻尾がバサバサと大きく揺れる。

「あいつらは、ただ性欲を発散したくて俺に突っかかってきただけだ。でもおまえは違う。もし本当にあいつらと同じなら、そんなふうに我慢したり部屋を出て行こうとしたりしないはずだ」
「しかし、」
「言っとくが、俺は雄だ」

 突然の言葉にアスミが違う意味で目を見開いた。

「もちろんそれは知っている」
「おまえも雄だ」
「狼族に雌はいない」
「ははっ、そうだったな。おまえは雄で、そして俺も雄だ。でも、俺はおまえが好きだ」
「…………は?」

 アスミがぽかんと口を開いた。しばらく呆けたあと、じわっと顔を赤くしながら「す、好き、とは」とどもる。

「恋愛の好きってことだよ」
「……オリヴィ、本気か?」
「本気もなにも、おまえだって俺のこと好きなんだろ? ま、雌の匂いがしてるからかもしれねぇけど」
「それは違う! いや、違わなくはないが、俺はオリヴィだから惹かれたんであって、」
「別にどっちが先とか気にしてねぇよ」

 オリヴィの言葉にアスミがホッとしたような、しかし戸惑っているような奇妙な顔をした。その表情に「体は俺よりでかいくせに可愛い顔しやがって」と苦笑する。
 オリヴィは長い間一人きりだった。両親を亡くしてからは父親から継いだ店を守ることに手一杯だった。混合種ミックスという見た目からズィーナのような連中に絡まれたり、何より体のことを隠すため常に気を張って生きてきた。
 そんなオリヴィにとってアスミとの生活は久しぶりに感じる穏やかな日常だった。何をしても楽しいし、最近の気まずい雰囲気でさえ新鮮に感じていたくらいだ。「このままこの生活が続けばいいのに」と何度思ったことだろう。

(なんでそんなふうに思うんだろうって疑問だったんだよな)

 しかし、自分を捕食するようなアスミの眼差しにハッとした。食いつかれるような視線に喜びを感じた。

(つまり、それが俺の答えってことだ)

「そういえば恋愛なんて親父がまだいた頃以来だな」なんてことまで思い出し苦笑いしたくなる。

「俺さ、たぶん前からおまえのこと好きだったんだよ。じゃなきゃ、こうしてずっと一緒に暮らしたりしてない」
「……オリヴィ」

 まだ顔を赤くしたまま戸惑っているアスミをグッと引き寄せる。そうして自分より逞しい体を思い切り抱きしめた。

「俺、アスミのことが好きだ」

 ちらりと横目で見たアスミのこめかみは、まるで完熟のりんごのように真っ赤になっていた。
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