孤独なΩはαの牙で目覚める

朏猫(ミカヅキネコ)

文字の大きさ
1 / 20

1

しおりを挟む
「チッ、下手くそが」
「……っ」

 叩きつけるように投げつけられたのは一枚の一万円札だった。お金がもらえただけマシだと思いながら、拓巳たくみは唾液や精液で汚れた口元を乱暴に拭った。そんな拓巳を蔑むように見た男は、さっさとズボンを引き上げて真っ暗な公園を足早に出て行く。
 住宅街の中にありながらさびれきった公園は、街灯の半分が消えたままで人の気配はない。だからこそ好都合だとここを指定したわけだが、桜が咲き始める頃の春冷えの夜の寒さは懐具合と同じくらい堪えた。

(おとといの分と合わせて四万か……)

 いや、昨日の寝床にネットカフェを使ったから、残りは三万九千円だ。ケチって飲食もシャワーもないところを選んだから千円で済んだものの、結局食事にはありつけていない。
 のろのろと立ち上がった拓巳は近くにあった水飲み場で手を洗い、ついでにと頭から水を被った。

「下手くそとか言いながら、二回も出しやがって」

 思わず悪態をついた。しかも二度目は半分顔射のようなものだった。おかげで髪の毛にまで精液が飛び散ったが、ここでは水で洗い流すしかない。
 びっしょり濡れた頭を何度か振り、ハンドタオルを取り出そうとポケットに手を突っ込んだところで指先に紙切れが当たった。取り出した紙切れには自分の字で日時と場所名が書いてある。

(あさっての午後七時に、シンジュクのホテル前か……)

 拓巳は携帯できるデバイスを持っていない。金銭的余裕がなかったため高校まで持つことができず、卒業してからも持てないままでいる。だから定期的にネットカフェに行き、店の端末で客を探す必要があった。
 端末でそういうSNSに書き込み、客からのアクセスを待つ。一時間もすれば二桁ほどの接触があるのだから、この世界はクズばかりだ。しかし世界がクズでなければ自分は生きていけない。アクセスしてきた中から比較的マシだろうと思われる相手を選び、日時と場所の約束を取り付ける。それを店に置いてある雑誌を破った切れ端に書き留め、約束の場所に行って行為をすることで拓巳は金を得ていた。

(わざわざちゃんとしたホテルを指定してきたってことは、身なりを気にする相手かもな)

 大抵は今日のような公園か場末のラブホテルを指定してくる。そうでなければ自分から指定する。そういうときに身なりを気にすることはない。だが、あさっての指定場所は拓巳でも名前を知っている有名なホテルだ。ということは、それなりに清潔さを気にする客なのかもしれない。

「……コインシャワーに行くか」

 どうせホテルでシャワーを浴びるのにと思うと痛い出費だが、相手は「金額の相談に応じる」と書き込んできた。もしかしたら上客かもしれない。それなら第一印象で顔をしかめられるわけにはいかなかった。
 木の陰に置いていたカバンを手にした拓巳は、中からタオルを出してガシガシと頭を拭く。

(この時間なら……飯も兼ねればなんとななるか)

 拓巳は二十四時間営業のファーストフード店へ行くことにした。まずは腹ごしらえをしてから朝を待ち、明るくなったら大きくて安全な公園で寝る。明日は一日そんな感じで時間を潰し、夜は明かりの消えない繁華街でブラブラすればいい。ちょうどシンジュクの東口に眠らない街がある。そこで一晩過ごし、客と会う当日になったらシャワーを浴びて、ついでにコインランドリーで洗濯もしよう。

「よし」

 わずかな着替えと身分証IDの入ったカバンを抱え直した拓巳は、一晩居座っても目立たない席があるファーストフード店へと向かった。
 二日後、夕方になるのを待った拓巳は指定されたホテルへと向かった。上客かもしれない人物に指定されたホテル周辺はスーツを着たビジネスマンたちであふれ返っている。金曜日だからか近くに都庁があるからか、拓巳のように色あせたシャツにデニム姿の人は見当たらない。それを見るとなんとなく居心地が悪くなる。
 足早にホテルの正面に行くと、入口付近に数人のスーツ姿の男が立っていた。その中に今夜の客がいるはずだ。

(右端の人は……年齢的に違うか)

 一番右にいる男は白髪交じりの初老に見える。客からの書き込みには「三十八歳」と書いてあったから明らかに違う。

(そういや二十歳以上かって確認されたけど、なんだったんだろうな)

 身分証IDを見せろと言われたらアウトかもしれないが、十九歳の自分なら見た目だけでバレることはないだろう。そもそも二十歳以上かと確認してくる客なんて初めてだ。

(未成年だと喜ぶ変態はそこそこいるって話だけど、逆は珍しいよな)

 どちらにしてもこの世界はクズだ。そもそも男を買いたがる男が大勢いること自体がクズすぎる。そんなクズ相手に金を稼いでいる自分はもっとクズだ。

(マジでクズばっかの世界だな)

 そんなことを思いながら、初老の男から左の人物へと視線を移した。

(隣は電話してるから別の待ち合わせっぽいな。その隣は……女連れか)

 赤いヒールを履いた女が小走りでスーツ姿の男に近づいていく。長い髪を一つに束ねた後ろ姿と赤いヒールを見た拓巳は、不意に母親のことを思い出した。

(真っ赤なヒールなんて、あいつと会うときしか履くことなかったくせに)

 めいっぱいのお洒落をして母親が会っていた男は拓巳の父親になった。そして、その男に体を触られたことで拓巳は男同士でもそうしたことをするのだと知ることになった。
 母親の再婚相手は、いつも優しそうな顔をしている普通のサラリーマンだった。拓巳にも優しく接する男で、父親という存在を知らなかった拓巳はすぐに懐いた。
 新しい父親は再婚してから半年後、寝ている拓巳を触るようになった。はじめは頭を撫で、顔を撫で、まるで慈しむように優しく触れていた。そのうち布団の中に手を入れ、パジャマの上から体のあちこちを撫でるようになった。そのことに拓巳が気づいたのは十一歳のときだった。
 拓巳が中学生になり勉強部屋で寝るようになると、父親は夜忍び込んできて体を触るようになった。肩や胸、腹、ふくらはぎ、太もも、尻たぶまでも撫で回す。父親に体を触られている間、拓巳はただ体をじっと強張らせることしかできなかった。怖くて声を出すことなんて無理だった。なにより母親にこんなことをされている自分を見られるのが怖かった。
 あの頃の母親の顔を思い出すたびに、父親がしていたことに気づいていたのではと拓巳は思っていた。六畳二間に小さなキッチンがついただけの狭いアパートで、夫と息子の間に流れる空気に気づかないはずがない。いまだに母親が気づいていたかわからないままだが、拓巳が中学を卒業する前に母親と父親は離婚した。

「もしかして、きみがタクミくんかい?」

 声をかけられハッとした。視線を向けるとスーツ姿の男が目の前に立っている。かなり背が高く、平均身長より低い拓巳は少し仰け反らなければ顔が見えないほどだ。

(……外国人? いや、いまの日本語だったし、日本人だよな)

 拓巳の視線の先には、やたらと整った顔があった。前髪を緩く後ろになでつけた黒髪は艶々で、パッと見た感じ髭らしきものもなく、もう夜だというのにさっぱりした雰囲気が漂っている。なにより碧色のような灰色のような不思議な色の目が印象的で、一瞬外国人かと思った。

「違ったかな」
「あ……っと、あの、タクミです」
「よかった。たぶんそうじゃないかと思ってはいたんだが」

 ふわりと笑った顔に、思わずドキッとした。

(こんなイケメンのおじさん、初めて見た)

 芸能人にはいるのかもしれないが、高校のときからほとんどテレビを見ていない拓巳にはそういう芸能人がいるのかわからない。ネットカフェではSNSを使うかゲームをするくらいで、ドラマや映画を見ることがないため知りようがなかった。

「ぼんやりして、どうかしたかい?」
「あ、いえ、別に……」

 男に指摘されて、拓巳は見惚れていたことに初めて気がついた。慌てて視線を逸らしたものの、心臓がやけに忙しなく動いている。

「わたしの勝手でこのホテルにしたんだが、かまわないかな?」
「俺は別に、大丈夫です」

 返事に男がフッと笑ったような気がした。もしかして声が掠れたことを笑われたのだろうか。もう何度も客と会っているというのに、緊張しているように見えるのが恥ずかしくて居たたまれなくなる。客相手にこんな調子になったのは初めてで、拓巳は少し戸惑っていた。

(俺を買う男なんてクズばっかだったのに、なんか調子が狂うっていうか……)

 少し前を歩くスーツ姿の背中をチラッと見る。スッと伸びた背中はできる男といった感じで、これまでの客とはまったく違っていた。間違っても“クズ”と呼ばれるような人種には見えない。

(……あいつも、最初はそうだった)

 新しい父親だと喜んでいた自分を裏切ったあの男も、はじめは普通だった。いま思い出しても“いい父親”だったと思う。それでも中身はただのクズだ。

(この男がそうじゃないかもなんて、そう思うのはまだ早い)

 外面がいいクズは山のようにいる。ひとたび行為が始まれば、暴力を振るったりオモチャのように扱おうとしたりするクズも山のようにいる。だから警戒心を解いてはいけない。拓巳は気を引き締めながら、男に促されてエレベーターに乗った。
 到着した廊下は驚くほど静かだった。部屋数が少ないのかドアはポツポツといった感じで、すれ違う人もいない。一番奥の部屋に入ると、中は見たことがないくらい広くて綺麗だった。窓の外には都会らしい明かりが煌めいていて、相当値の張る部屋だということは拓巳にも想像できる。

(部屋代は相手持ちって、ちゃんと書いたよな)

 あまりの眺めにいろいろ不安になってきた。そんな拓巳に気づいていないのか、男が「ルームサービスも頼めるが、どうする?」と聞いてくる。

「ええと……」
「食事代もわたしが出すから遠慮しなくていい」
「でも……この部屋、高くないですか?」
「さぁ、どうだろう。何年も前に契約したままだから値段のことはよく覚えていないな」
「契約……?」

 上着を脱いで腕時計を外している男の姿に見惚れながらも、拓巳は「契約」の意味を考えた。考えたところでさっぱりわからず首を傾げる。それを見た男がテーブルに腕時計を置きながら「わたしは出張が多くてね」と話し始めた。

「それであちこちのホテルを年単位で押さえているんだ。シンジュクだと昔からここなんだが、もしかしてトラノモンや皇居近くのほうがよかったかい?」
「いえ、そんなことは、ないです」

 あちこちのホテルという言葉に、拓巳は内心驚いていた。いまの話でこの男が相当な金持ちだろうことがわかった。こういう男なら「金額の相談に応じる」なんて簡単に書き込むだろう。
 それほどの客に巡り会えたことに喜ぶよりも、拓巳には不安のほうが大きかった。これまでセレブを相手にしたことはなく、受け答えすら戸惑ってしまう。そもそも拓巳はどこかの店に所属しているわけではない。高校を卒業したての家出少年に稼ぐ術などほとんどなく、手っ取り早いからと体を売るようになり、そのまま続けているだけだ。
 それに店に所属するには身分証IDの提示が必要だろうし、そうなるとどこかで母親の耳に入るかもしれない。母親に知られるのはまだいいとして、高校時代に家に住まわせてくれていた伯父夫婦にまでバレるのは嫌だった。こんな自分を本当の息子のように三年間世話してくれた人たちまで失望させたくないと思った。

(いまさらだろうけど……)

 店に所属せず客を探した結果、これまでの客は“クズ”と呼べるような男たちばかりだった。なかには優しく接してくれる客もいたが、そういう客に限ってしつこく何度も会いたいと言ってくる。一度、そういう客に監禁まがいのことをされかけた拓巳は、それからは妙に優しい客には十分注意するようになったくらいだ。
 目の前の男はどうだろうかと、ネクタイを解いている姿を盗み見る。メッセージには三十八歳と書いてあった。その若さで会社の社長なんだろうか。それとも社長の親を持つお坊ちゃんだろうか。そんな金持ちがあんなSNSで男を買うなんてと眉をひそめる。おおかた金持ちの道楽か、後腐れなく男と遊びたいからか……。

(男を買うってことは、そういうことだよな)

 男が好きという性癖だけなら問題ない。セレブ相手の品のいい男を求めているなら少し困る。文句を言えない男を買ってよくないことをしようと考えているのなら、やばい。

「そんなに警戒されると、いけないことをしているようで困るんだが」
「え?」
「あぁ、いけないことをしようとしていることには違いないか」

 クスッと笑った顔に、拓巳はまたもやドキッとした。こんなに何度もドキッとするなんて自分は一体どうしたんだろうかと、別の意味で不安になる。

(俺は別に男が好きってわけじゃない)

 拓巳は男が好きで体を売っているわけではなかった。自分の欲も解消できて金がもらえるならいいかと安易に考えただけだ。そもそも男を相手にしているのだって、中学まで父親から受けていた行為のせいだと拓巳は思っていた。
 はじめはあんなに怖くて嫌だったのに、気がつけば男の手でないと興奮できなくなっていた。そのせいで女の子に憧れや恋愛感情を抱くことができなくなってしまった。それどころか母親と同じくらいの年齢の女性は苦手で避けるくらいだ。
 いびつに育ってしまった心と体を持て余しながら、拓巳は男を相手に体を売り続けてきた。高校卒業後からこんな生活をしているから、もう一年以上になる。

「気が乗らないのなら、やめておこうか」
「え……?」
「無理やりというのはわたしの趣味ではないからね」

 男の言葉に、拓巳はきゅっと唇を引き締めた。別に気が乗らないわけじゃない。こんな広い部屋の清潔なベッドは初めてだが、嫌になる要素はどこにもなかった。それなのにためらってしまうのは、目の前の男に何度もドキッとしている自分に戸惑っているからだ。

「大丈夫です。あの、先にシャワー浴びてきていいですか?」
「どうぞ。湯船が広いから、ゆっくり浸かっておいで」

 これからそういうことをするというのに、のんびり湯に浸かっておいでなんておかしな客だ。そう思いながらも拓巳は「はい」と答えてバスルームに向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

こわがりオメガは溺愛アルファ様と毎日おいかけっこ♡

なお
BL
政略結婚(?)したアルファの旦那様をこわがってるオメガ。 あまり近付かないようにしようと逃げ回っている。発情期も結婚してから来ないし、番になってない。このままじゃ離婚になるかもしれない…。 ♡♡♡ 恐いけど、きっと旦那様のことは好いてるのかな?なオメガ受けちゃん。ちゃんとアルファ旦那攻め様に甘々どろどろに溺愛されて、たまに垣間見えるアルファの執着も楽しめるように書きたいところだけ書くみたいになるかもしれないのでストーリーは面白くないかもです!!!ごめんなさい!!!

運命じゃない人

万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。 理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。

孕めないオメガでもいいですか?

月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから…… オメガバース作品です。

オメガ大学生、溺愛アルファ社長に囲い込まれました

こたま
BL
あっ!脇道から出てきたハイヤーが僕の自転車の前輪にぶつかり、転倒してしまった。ハイヤーの後部座席に乗っていたのは若いアルファの社長である東条秀之だった。大学生の木村千尋は病院の特別室に入院し怪我の治療を受けた。退院の時期になったらなぜか自宅ではなく社長宅でお世話になることに。溺愛アルファ×可愛いオメガのハッピーエンドBLです。読んで頂きありがとうございます。今後随時追加更新するかもしれません。

学内一のイケメンアルファとグループワークで一緒になったら溺愛されて嫁認定されました

こたま
BL
大学生の大野夏樹(なつき)は無自覚可愛い系オメガである。最近流行りのアクティブラーニング型講義でランダムに組まされたグループワーク。学内一のイケメンで優良物件と有名なアルファの金沢颯介(そうすけ)と一緒のグループになったら…。アルファ×オメガの溺愛BLです。

βな俺は王太子に愛されてΩとなる

ふき
BL
王太子ユリウスの“運命”として幼い時から共にいるルカ。 けれど彼は、Ωではなくβだった。 それを知るのは、ユリウスただ一人。 真実を知りながら二人は、穏やかで、誰にも触れられない日々を過ごす。 だが、王太子としての責務が二人の運命を軋ませていく。 偽りとも言える関係の中で、それでも手を離さなかったのは―― 愛か、執着か。 ※性描写あり ※独自オメガバース設定あり ※ビッチングあり

うそつきΩのとりかえ話譚

沖弉 えぬ
BL
療養を終えた王子が都に帰還するのに合わせて開催される「番候補戦」。王子は国の将来を担うのに相応しいアルファであり番といえば当然オメガであるが、貧乏一家の財政難を救うべく、18歳のトキはアルファでありながらオメガのフリをして王子の「番候補戦」に参加する事を決める。一方王子にはとある秘密があって……。雪の積もった日に出会った紅梅色の髪の青年と都で再会を果たしたトキは、彼の助けもあってオメガたちによる候補戦に身を投じる。 舞台は和風×中華風の国セイシンで織りなす、同い年の青年たちによる旅と恋の話です。

ふたなり治験棟

ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。 男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!

処理中です...