孤独なΩはαの牙で目覚める

朏猫(ミカヅキネコ)

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 目を覚ました拓巳は、自分が見慣れない大きなベッドの端で丸くなっていることに気がついた。ぼんやりした頭のまま上半身を起こし、ぐるりと部屋を見回す。

(……どこだ、ここ?)

 広く綺麗な部屋に見覚えはない。普段ホテルに泊まることはないし、客と行くラブホテルも大抵は狭く猥雑としたところだ。
 拓巳はまだ夢の中にいるんだろうかと思った。何度かパチパチと瞬きをしていると、開いたドアの向こう側を人影が横切ったのが見えた。それでようやく昨夜のことを思い出した。

(……結局、飯食って寝ただけだよな)

 念のため掛け布団の中を覗いてみる。足元は乱れているが、これは自分の寝相のせいだ。それ以外は昨夜着せてもらったバスローブのままで腰紐も解けていない。ゆっくりとベッドから立ち上がってみたものの、足も腰も尻さえ何ともなかった。むしろ、いつもよりもずっと体が軽くなった気さえする。

「あぁ、起きたね。ちょうど朝食がそろったところだ。食事にしようか」
「……はい」

 開いたままのドアの向こうから客だったはずの男が声をかけてきた。朝食と聞いて拓巳の腹がグゥと小さな音を立てる。昨夜あれほど食べたというのに、空腹を感じていることに驚いた。

(いつもなら丸一日食べなくても腹なんて鳴らないのに……)

 拓巳は中学の頃から小食だった。食べ盛りで育ち盛りのはずの高校でも、周囲の同級生より食べる量はずっと少なかった。そのせいで平均身長より小さいままだが、高校を卒業してからは食費を削れるしちょうどよかったと思っていた。それなのに、いまは珍しくしっかりと空腹を感じている。

「おいで」

 昨夜と同じ言葉にドキッとしたが、今度は勝手に体が動いたりはしなかった。

(昨日のは気のせいだったんだな)

 きっと高そうな部屋に緊張していたからだ。そう結論づけた拓巳は、寝室を出ると促されるまま椅子に座った。
 目の前のテーブルにはフワフワのオムレツにベーコン、カラフルな何かがかかったサラダ、それに熱々のスープまである。パンに至っては何種類もあり、バターやジャム、蜂蜜らしきものまで置いてあった。

「好きなものを食べるといい。そうだ、フルーツやヨーグルトも頼もうか」
「あの、これで大丈夫ですから」

 端末に手を伸ばした男に、拓巳は慌てて十分だと伝えた。昨夜もだが、男は自分のことを大食漢か何かだと勘違いしているんじゃないだろうか。どう考えても小柄な自分が何人分も食べられるはずがなく、そんなことはこの体型を見ればわかりそうなものだ。

(……もしかして、痩せてるからってことか?)

 昨夜、痩せすぎだと指摘された。ということは、昨日の食事も目の前の食事も施しなのかもしれない。
 それはそれで微妙な気持ちになるが、久しぶりの朝食らしいテーブルの様子に再び腹が小さく鳴った。考えるのは後にしようと思い、高いであろう目の前の朝食を食べることにした。

「きみは、こういうことは長いのかい?」

 すっきりした甘さのオレンジジュースを飲み、クロワッサンをひと口囓ったところで男がそんなことを口にした。「こういうこと」というのは体を売っていることだろうか。
 拓巳は口に入れたクロワッサンを咀嚼しながら、向かい側に座る男をチラッと見た。ブルーのシャツに濃いグレーのベストとグリーン系のネクタイという出で立ちは、相変わらずできる男といった感じに見える。シャツやスーツの値段はよくわからないが、きっと高価なものなんだろう。見るからにセレブっぽい雰囲気が漂っている。

(セレブには、きっと体を売る奴のことなんてわからないんだろうな)

 俺には男を買う男の気持ちのほうがわからないけどな。そんなことを思いながら拓巳は「そうですね」と答えた。

「いつもあのSNSで客を?」
「はい。あれ、そういう界隈で有名とかですぐに客が見つかるんで」

 その分ピンキリだけどなと心の中で続けながら、ベーコンを口に入れる。カリッとした食感とジュワッとあふれ出る旨みに、今度いつこんなものを味わえるだろうかと頭の片隅で考えた。

「そういえば、お金の話をしていなかったね」
「あー……、ええと、俺結局何もしてないんで、別にいいです」
「そういうわけにはいかないだろう。たしかに一晩きみを買ったんだからね」
「でも、何もしてないんだし、」
「わたしはきみの一夜の時間を買った。その時間に対価を払うのは当然のことだ」

(……男を買う奴にしてはお堅いな)

 これまでこうした客に会ったことがない拓巳には、これが一般的なセレブ客の反応なのかわからない。どうしようかと考えていると、男が「一晩の値段は?」と聞いてきた。

「ええと……口でするなら一万で、本番ありなら、三万ですけど」

 拓巳の返事に、男が整った眉をしかめた。もしかして相場より高かったのだろうか。拓巳はこの世界の相場というものを知らない。SNSで見かけた金額を参考にしているだけで、これが高いのか安いのかなんて知りようがなかった。
 以前、イケブクロで出会った売り専の男と金額について話したことがあったが、そのとき「別にいいんじゃないの」と言われて安心していた。しかしアドバイスをくれた男は金にあまり関心がなさそうなやつでもあった。そんな男の言葉を信じてはいけなかったのかもしれない。それでも大抵の客は言ったとおりの金額を払ったから、このくらいなんだと拓巳は思っていた。
 しかし目の前の男は金額を聞いた途端に眉をしかめた。怒っているように見えなくもない。ということは相場よりも高い金額を言ってしまった可能性がある。
 やっぱり金はいらないと拓巳が言いかけたとき、男が「安すぎないか?」と言ってきた。

「安い、ですか?」
「わたしには安く思える」
「……ええと、」

 それには答えようがなかった。これでシていたなら「じゃあ、もう少し値段をつり上げるか」と考えただろうが、昨夜は手ですることすらなかった。それどころか拓巳は清潔なバスルームでシャワーを浴び、満腹になるまで夕飯を食べた。一晩フカフカなベッドで寝ることもできたし、むしろ自分が金を払うべきではと思うほど贅沢な夜だった。

「きみは店に勤めているわけじゃないんだな?」
「そうですけど……」
「ふむ」

 目の前で男が腕組みをして何かを考え始めた。いつの間にか拓巳の手も止まり、おいしそうな朝食の湯気だけが二人の間に漂っている。
 しばらく考えていた男が、スッと拓巳に視線を向けた。明るい陽の光が室内を照らしているからか、昨夜よりもずっと綺麗に見える目に拓巳はまたもやドキッとした。昨夜から本当にどうしてしまったのだろうかと戸惑っていると、男から「提案がある」と告げられる。

「きみと長期契約を結びたい」
「……へ?」
「一晩ではなく、しばらくきみを買いたいと言ったんだ」
「……ええと、」

 言われた意味がわからず拓巳が眉を寄せると、男が立ち上がりソファに置いてあった上着からモバイル端末を取り出した。それに何かを打ち込みながらテーブルへと戻ってくる。

「まずは半年でどうだろう。日給で十万払おう」
「じゅう、まん、って……」

 聞いたことのない金額に言葉が詰まった。

「それでは安いか。じゃあ、月五百万ならどうかな?」

 端末に何やら入力しているのは金額の計算でもしているのだろうか。何を基準に計算しているのかわからないが、どちらにしてもとんでもない金額だ。

「ちょ、っと、待ってください。そんな金額、無理です」
「どうして?」
「どうしてって……そんなの、おかしいですよ」
「人ひとり買う値段だ、月に五百万でも安いと思うが?」

 人をひとり買う値段としては、そうかもしれない。しかし拓巳は体を売っているだけのただの十九歳の男だ。しかもセレブ専用でもなければ特別顔がいいわけでもなく、男が夢中になるような体を持っているわけでもない。そもそも昨夜は何もしていないわけで、体の具合すらわからないのに大金を払おうとする男の意図がわからなかった。

「俺は、ただ体を売ってるだけです。そんな男に十万とか五百万とか、おかしいですよ」
「別におかしくはないだろう。きみの二十四時間を半年分買うと言っているんだ」
「それでも無理です。……それに、俺の体に、そんな価値はないし……」

 口ごもるように言った言葉は拓巳の本心だった。
 小学生の頃から義理とは言え父親に触られ、高校では入学早々、不良の先輩に襲われるような体だ。その後も所有物のように扱われ、卒業してからも先輩は拓巳を離そうとしなかった。そんな先輩から逃げるため、それなりに居心地のよかった伯父夫婦の家を逃げるように出てきた。そうしてシンジュクやイケブクロで客を取り、何人もの男たちに突っ込まれてきた。
 こんなクズみたいな体に大金を払う価値なんてあるはずがない。そう思い俯いていると、隣に立った男の大きな手がポンと肩を叩いた。

「きみの価値を決めるのは金を払うわたしだ。そのわたしが月に五百万払ってもいいと言っているんだ」

 温かく大きな手の感触に、不意に涙があふれそうになる。慌てて何度も目をしばたたかせた拓巳は、グッと唇を噛み締めた。

(昨日会ったばかりなのに、何言ってんだよ)

 赤の他人が自分のことを理解できるわけがない……そう思っているのに、目頭がじわりと熱くなる。生まれて初めて自分に価値があるような言葉を聞かされたからか、胸がギュッと潰れそうになった。それでも初対面の男の前で泣くなんてみっともないと思い、必死に瞬きをくり返す。

「それに、きみにはそれ以上の価値がある」

 涙に気を取られていた拓巳は、男がつぶやいた言葉を聞き取ることができなかった。聞き返そうと顔を上げると、じっと見つめている男と視線が合って心臓が飛び跳ねる。

「親兄弟は?」

 ドキドキとうるさい胸を押さえながら「い、いません」と答えた。隣県に母親が住んでいるが、いないのと変わらない状況だから「いない」で間違いじゃない。

「住む場所は?」
「……決まってはないです」

 拓巳が過ごすのは二十四時間営業のファーストフード店や公園、たまにネットカフェ、それに客と行くラブホテルくらいだ。定住している場所はなかった。

「それなら、わたしが住む場所を提供しよう。まずはそこできちんと食事をすることだ」
「……そんな状態で、お金をもらうことはできません」
「そこは妥協しよう。報酬を支払わない代わりに、きみのすべてをわたしに任せてほしい。それが対価だ」

 たとえ毎晩相手をしたとしても拓巳には十分すぎる条件だ。そこまでして男にどんなメリットがあるのだろうか。

「……どうして、俺にそこまでしてくれるんですか?」

 拓巳の問いかけに男がふわりと笑った。それは疑問や不安がすべて吹き飛んでしまうほど美しい笑顔だった。

「わたしはずっと人を探していてね。きみがその人かもしれないんだ」
「探してた人……?」

 男の言葉に、拓巳はすぐに「自分じゃない」と思った。こんなセレブに知り合いはいないし、母親にセレブとの繋がりがあったとも思えない。伯父夫婦もごく普通の人たちで、拓巳の周りにはセレブの影ひとつなかった。
 それなのに、出会ったばかりのよく知りもしない男に月五百万も払おうとするセレブの探し人がクズのような自分であるはずがない。わかっていたが、いまは男の言葉にすがりたいと思った。一年以上続く不安定な生活に疲れていたせいかもしれない。

「俺は、その探してる人じゃないと思うけど……。でも、買ってくれるなら、俺を売ります」

 拓巳の返事に、男は美しい笑みを浮かべた。
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