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優一に横抱きにされたまま連れて行かれたのは、拓巳が向かおうとしていたホテルだった。フロントにたどり着く前に制服を着た中年男性が近づいてきて優一と言葉を交わしている。恥ずかしさのあまり拓巳は目をギュッと閉じ優一の体に顔をくっつけた。同時に体もできるだけ小さくし、ほかの従業員や客たちに注目されないようにと祈る。
しばらくして優一が歩き出したのがわかった。足音やポンという電子音からエレベーターに乗ったのだろうと予想した拓巳がそっと目を開ける。そうして陽が落ちて鏡のようになった窓ガラスに映る自分を見て顔を真っ赤にした。
(こんな状態でホテルまで来たとか……恥ずかしすぎるだろ)
いくらなんでもお姫様抱っこはない。ホテルに到着する前から大勢に見られただろうし、たとえ知らない人たちだったとしても拓巳の羞恥心が消えることはなかった。
全身を真っ赤にしながら到着したのは、優一と初めて会ったあの部屋だった。ドアの音で部屋に入ったことがわかり、そっと目を開ける。そこにはあの日と同じ空間があり、そのままベッドルームへ連れて行かれ大きなベッドに横たえられた。
「顔が真っ赤だ」
「…………だって、お姫様抱っことか……恥ずかしすぎる」
うつ伏せになり、顔を隠すように枕に額を押しつけながらそうつぶやく拓巳に優一が小さく笑った。
「大丈夫だ。ほとんどの人の目に拓巳くんは見えていない」
「……え?」
「わたしたちは、そういう目くらましのようなこともできるからね」
よくわからないが、吸血鬼にはそういう力があるということだろうか。それでも拓巳の中から羞恥心が消えることはなく、枕に顔を押しつけたまま唇をキュッと引き締めた。
「しかし、外に出てすぐに狼に狙われるとは。もう少ししっかりと匂いを付けておくべきだったか」
狼と聞いて先ほどの男のことを思い出した。目眩や吐き気を感じたことも蘇り、胸に不快なものが広がる。
「大丈夫かい?」
「……はい。あの、狼って……、さっきの人が、ですよね?」
顔半分を枕に押しつけたまま優一を見ると、冷たく大きな手で優しく頭を撫でられた。穏やかな感触のおかげか不快なものがスッと消えていく。
「そうだ。人には狼男や人狼と呼ばれている。本来は群れで暮らしているんだが、ハーフウルフだからか単独で動いているようだね」
「……ハーフウルフって、何ですか?」
拓巳がこれまで狼や夢魔について訊ねたことはない。しかしメイが夢魔ということを知り、その後狼だという男にも出会った。もはや自力で調べていたのではどうにもならない。それに知らないまま関わりを持つのはきっと危険だ。
「狼と人との混血だ。血統を重んじる狼たちの中では少数派になる」
「けっとう……」
「先祖代々の血の繋がりで……そうだな、たとえるならペットショップで犬猫に血統書が付いている、あれと似たようなものだ。狼は自分たちの血統を一番に考える種族でね」
「さっきの人も、そういう狼ってことですか?」
「狼の血統には金狼、銀狼、黒狼の三種族がある。あの気配は黒狼の血を半分引いているんだろう。鼻は利くようだが、自分の立場をよくわかっていなかったようだ」
「立場……」
拓巳のつぶやきに優一がふわりと笑った。
「血統のよい狼のαは強いが、わたしたちの足元には及ばない。それに気づけないようでは群れにはいられない。それにあの性格では……なるほど、それで一匹狼にならざるを得なかったということか」
拓巳にはわからないことばかりだが、優一が狼よりも強いということは理解できた。
「あれが拓巳くんが話していた例の客だね?」
「え……?」
「以前、監禁されかかったことがあると話していただろう? あの男だったんじゃないかい?」
「あの、……そうですけど、俺、そんなこと話しましたっけ」
「発情中に少しね」
「発情中に……」
「途切れ途切れではあったが、何人か気になる客のことは記憶に留めている。監禁されかけたと聞いたとき心配したんだが、今日出会えてよかったのかもしれない。見つけ出す手間が省けたし、直接罰を与えることもできたしね」
優一の目がわずかに光ったような気がした。フットライトと枕元の小さな灯りしか点いていないからか、拓巳には優一の目が不思議な色合いに光っているように見える。それはとても冷たく、まるで作り物のガラス玉のようだと思った。
(ガラスみたいで綺麗だけど……なんていうか……)
そこには一切の感情がないように見えた。そう感じたからか少し怖くなり、恐怖を感じた自分に戸惑う。そんな拓巳の髪を「大丈夫だ」と言うように優一が撫でるように梳く。
「Ωとして目覚める前から、きみはΩの匂いをわずかに漂わせていたのだろう。稀なことではあるが、きみの客の中に先ほどのようなαや、ほかにもα因子を持った人がまぎれていたのかもしれない」
「だから、俺みたいな男でも客が途切れなかったってことか……」
「わたしからすれば、きみが魅力的だからだと思うがね」
「……それはないですよ」
自分に秀でた部分がないことはよくわかっている。見た目も平凡で男に好かれる要素は何一つない。それでも客がいたということは、きっとΩだったからなのだろう。
(そっか。こんな俺でも、オメガってものだけは持ってたってことか)
ただのクズじゃなかったがΩのクズだったということだ。拓巳の口元が苦笑とも諦めとも取れる形に歪む。その表情に気づいた優一の手が慈しむように頬や耳の縁を撫でた。
「前にも言ったが、きみがΩだというのはきみを構成する一要素に過ぎない」
「……それでも、俺にはほかに何もありません」
撫でていた大きな手がゆっくりと離れた。それを寂しいと思い、そんなふうに思う自分が昔と違いすぎておかしくなる。
(誰かに甘えたいなんて思ったの、いつ振りだろう)
小さい頃は母親に甘えていたような気がする。しかし母親が再婚し、あの男と一緒に暮らすようになって拓巳は甘えることができなくなった。
父親に体を触られるようになってから、そのことがバレてはいけないと思った拓巳は母親と距離を置くようになった。そういうこともあり大人に甘えることができない子どもに育った。親身になってくれた伯父夫婦とも心から打ち解けることはできず、学校でも心を開かないから親しい友達ができることもない。
そんな自分なのに、いまは優一に甘えたい気持ちであふれそうになっている。これがΩになり、さらにつがいになった証なんだろうか。
(優一さんとはたった四カ月しか一緒にいないのに)
その四カ月で自分が少しずつ変わってきたことを拓巳自身も気づいていた。誰かに気にかけてもらう心地よさを知り、求められる喜びを知った。自分も優一のもっと知りたいと、そばにいたいと思うようになった。
だからつがいになることを受け入れた。いや、心のどこかではそうした誰かとの繋がりを望んでいたのかもしれない。だが、それは拓巳がΩだったからだ。もしΩでなければ優一に会うことはなく、会ったとしても求められることはなかっただろう。
(貴重なオメガってやつなら俺でなくてもよかったってことだ)
自分だから必要とされたわけじゃない。甘えたい気持ちがあるぶん切なさも増す。
「オメガっていうこと以外、俺には何もない」
「人がきみをどう見ているかはわからないが、わたしにとってきみが魅力的なことは間違いない」
「それは……俺がオメガ、だからですよね」
「それもある。夢魔からきみの香りを感じて気になったのはたしかだ」
やっぱり……。胸の痛みに耐えるように枕に頬をギュッと押しつける。
「きっかけは香りだったが、ホテル前で初めてきみを見たときわたしのものだと直感した。理屈ではどうにもならない感覚だから説明のしようがないが、ただのΩにそんなことを感じたりはしない」
「それは……運命ってやつだからでしょ」
「運命だから直感するのか、直感した相手だから運命なのかは議論の余地があるだろうが、意味のないことだ。これは当人にしかわかり得ないことだからね」
「……俺には、よくわかりません」
「きみは目覚めたばかりだ。そのうちつがいの、運命の絆を感じられるようになる」
「……でも、俺なんて……体を売ってた、ただのクズだ」
ずっと思っていたことなのに、改めて口にすると情けなくなった。泣きそうな顔を見られたくなくて再び枕に額を押しつける。
「そのおかげで、わたしはきみと出会うことができた。……拓巳くんが想像以上に自分を卑下していることはよくわかった。そういうところも含めて拓巳くんらしいと思っているし、そこも含めて愛しいと思っているよ」
「……そんなの、」
嘘に決まっている。こんな自分は面倒くさいだけだ。最後まで執着を見せていた高校の先輩も「面倒くさい」「辛気くさい」と何度も口にした。それなら相手にするなよと言いたかったが、それでも手放そうとしなかった。もしかしてあれも自分がΩとやらだったせいだろうかと思うと、自分はクズを引き寄せるクズなのだと自嘲したくなる。
「前にも言ったが、わたしは人の儚い命を、存在を愛しいと思っている。儚くて無力で、それなのに活き活きとしているところが好きでね。命の長いわたしにとってはまぶしいくらいだ」
そういう人もいるかもしれないが、少なくとも自分は活き活きとはしていない。ただ流されるままに生きてきただけだ。
「それにね、きみは中身が空っぽだ。じつはそこも気に入っている」
「……え?」
「プライドがないわけじゃないのに自分を大切にしない。自分や周囲を蔑みながら諦めている。それはきみの中に何もないからだ。違うかい?」
優一の言葉はあまりにも辛辣で答えることができなかった。言われた言葉に傷つきながら、そのとおりだと自分でも思った。
「わたしにはそうしたところも都合がよかった。寄る辺がないのなら大いに付け入ることができるし、おかげで出会ったその日から囲うことができた。わたしの言葉だけを信じ、わたしが与えるものだけを受け入れ、わたしだけのつがいとなった」
「優一さん……?」
声が段々といつもと違う気配を漂わせ始めた。そう感じ、そっと優一を見る。残念ながら影になっている表情を窺うことはできなかったが、やはりどこかいつもと違うような気がする。
「きみはわたしだけのΩだ。わたしに愛されるために存在している。そしてわたしに囚われてしまった、かわいそうなΩでもある」
いったいどういう意味だろう。不安に思った拓巳は、そっと手を伸ばしベッドについている優一の手に触れた。
「……っ」
優一の手はいつも以上に冷たかった。いつもなら触れただけで握り返してくれるのに、反応がなく指先すら動かない。ただそれだけのことなのに拓巳の中で少しずつ不安が広がっていく。
「きみは人からもっとも遠い存在であるわたしのつがいとなった。人として享受できたであろうことのすべてを失ったことになる。人であったきみにとって、残酷な命を歩むことになるだろう」
「優一さん……」
「それでも、わたしはきみがほしかった。わたしだけのΩにしたかった。これはαとしての本能であり、吸血鬼としての欲望であり、わたしの願いだ。きっかけは運命だったかもしれないが、まぎれもないわたし自身の望みだ」
拓巳が触れても動かなかった手が動き、冷たい指がそっと拓巳の頬を撫でた。
「八十年近く求め続けてきた存在にようやく出会えた。人でありΩであり、運命であるきみに出会った。いつか出会えるだろうと考えてはいたが、実際に目の前にすると想像以上に自分が抑えきれなかった。きみが空っぽなのをいいことに、わたしの思うがままにしようと考えた。わたしなしでは生きられないようにしたかった。……これでは、あの人と変わらないというのに」
最後のほうは声が小さく聞き取ることができない。それでも優一が何か思い煩っていることは拓巳にも十分に察することができた。
(優一さんは何でもできて完璧な人なんだと思ってた)
セレブでイケメンで、どこから見てもできる男にしか見えない優一だが、そうではない一面があるのかもしれない。αやΩのこと、吸血鬼のことはわからないが、優一にも何か思い悩むことがあるのだろう。
(こういう優一さんを見ると、普通の人っぽく見える)
自分とは別世界の人だと思っていた優一がグッと近づいたような気がした。同じくらい自分も優一に近づきたいと思った。いまは無理かもしれないが、いつか優一に相応しいΩになりたい、堂々と隣に立てるつがいになりたいと思った。拓巳は初めて明確な未来を思い描いた。
「俺……何もわからないけど、でも、優一さんのつがいになったこと、後悔してません」
頬に触れていた指がかすかに震える。
「俺、何もわからないけど、後悔してないことだけはわかります。空っぽだけど、これだけは自信持って言えます」
「あぁ、ひどいことを言ってしまったことは謝ろう。きみを蔑んだわけじゃない」
「わかってます。それに……きっと本当のことだから」
「……きみは、思っていたよりも強いね」
優一の声が少し明るくなったように聞こえた。それにホッとした拓巳は、頬に触れている冷たい優一の手を温めるように握り締めた。
「俺は何も持ってません。オメガってことしかないです。それなのに優一さんがつがいにしてくれたこと、本当にうれしかった。こんなクズみたいな俺を必要だって言ってくれたことが、本当にうれしかったんです。だから、優一さんが俺のことで気にすることは何もないんです」
「拓巳くん」
「俺をつがいにしてくれて、ありがとうございます。俺を優一さんだけのオメガにしてくれて、ありが……っ」
唇を塞がれ、最後まで言うことはできなかった。うつ伏せのまま顔を上に向けるのはつらかったが、首や肩の痛みなんて気にならない。奪うような激しいキスに心が震えて歓喜した。
舌を絡め互いの口内に侵入し、それでも足りないと唇を重ね続ける。そうして息が上がりかけたところで優一の唇が離れた。
「わたしのΩは、本当に涙もろい」
そう言われて、拓巳は初めて涙をこぼしていることに気がついた。
「これは、あの、悲しいわけじゃなくて、」
「わかっている」
冷たい指に目尻を撫でられただけで喜びに体が震えた。
「わたしを生んだ人も、きみと同じこの国の人だった。きみと同じように涙もろいところもあるが、それが悲しみばかりでないことはよく知っている」
「え……?」
「約束したとおり、わたしがきみを満たしてやろう。それがわたしのすべきことであり、きみが受けるべきものだ。……いや、違うな。わたしが与えたいんだ」
優しい笑みを浮かべた優一の顔がゆっくりと拓巳に近づく。
「んっ」
つがいの印にキスされた。それは微笑みと同じくらい優しいものだった。
しばらくして優一が歩き出したのがわかった。足音やポンという電子音からエレベーターに乗ったのだろうと予想した拓巳がそっと目を開ける。そうして陽が落ちて鏡のようになった窓ガラスに映る自分を見て顔を真っ赤にした。
(こんな状態でホテルまで来たとか……恥ずかしすぎるだろ)
いくらなんでもお姫様抱っこはない。ホテルに到着する前から大勢に見られただろうし、たとえ知らない人たちだったとしても拓巳の羞恥心が消えることはなかった。
全身を真っ赤にしながら到着したのは、優一と初めて会ったあの部屋だった。ドアの音で部屋に入ったことがわかり、そっと目を開ける。そこにはあの日と同じ空間があり、そのままベッドルームへ連れて行かれ大きなベッドに横たえられた。
「顔が真っ赤だ」
「…………だって、お姫様抱っことか……恥ずかしすぎる」
うつ伏せになり、顔を隠すように枕に額を押しつけながらそうつぶやく拓巳に優一が小さく笑った。
「大丈夫だ。ほとんどの人の目に拓巳くんは見えていない」
「……え?」
「わたしたちは、そういう目くらましのようなこともできるからね」
よくわからないが、吸血鬼にはそういう力があるということだろうか。それでも拓巳の中から羞恥心が消えることはなく、枕に顔を押しつけたまま唇をキュッと引き締めた。
「しかし、外に出てすぐに狼に狙われるとは。もう少ししっかりと匂いを付けておくべきだったか」
狼と聞いて先ほどの男のことを思い出した。目眩や吐き気を感じたことも蘇り、胸に不快なものが広がる。
「大丈夫かい?」
「……はい。あの、狼って……、さっきの人が、ですよね?」
顔半分を枕に押しつけたまま優一を見ると、冷たく大きな手で優しく頭を撫でられた。穏やかな感触のおかげか不快なものがスッと消えていく。
「そうだ。人には狼男や人狼と呼ばれている。本来は群れで暮らしているんだが、ハーフウルフだからか単独で動いているようだね」
「……ハーフウルフって、何ですか?」
拓巳がこれまで狼や夢魔について訊ねたことはない。しかしメイが夢魔ということを知り、その後狼だという男にも出会った。もはや自力で調べていたのではどうにもならない。それに知らないまま関わりを持つのはきっと危険だ。
「狼と人との混血だ。血統を重んじる狼たちの中では少数派になる」
「けっとう……」
「先祖代々の血の繋がりで……そうだな、たとえるならペットショップで犬猫に血統書が付いている、あれと似たようなものだ。狼は自分たちの血統を一番に考える種族でね」
「さっきの人も、そういう狼ってことですか?」
「狼の血統には金狼、銀狼、黒狼の三種族がある。あの気配は黒狼の血を半分引いているんだろう。鼻は利くようだが、自分の立場をよくわかっていなかったようだ」
「立場……」
拓巳のつぶやきに優一がふわりと笑った。
「血統のよい狼のαは強いが、わたしたちの足元には及ばない。それに気づけないようでは群れにはいられない。それにあの性格では……なるほど、それで一匹狼にならざるを得なかったということか」
拓巳にはわからないことばかりだが、優一が狼よりも強いということは理解できた。
「あれが拓巳くんが話していた例の客だね?」
「え……?」
「以前、監禁されかかったことがあると話していただろう? あの男だったんじゃないかい?」
「あの、……そうですけど、俺、そんなこと話しましたっけ」
「発情中に少しね」
「発情中に……」
「途切れ途切れではあったが、何人か気になる客のことは記憶に留めている。監禁されかけたと聞いたとき心配したんだが、今日出会えてよかったのかもしれない。見つけ出す手間が省けたし、直接罰を与えることもできたしね」
優一の目がわずかに光ったような気がした。フットライトと枕元の小さな灯りしか点いていないからか、拓巳には優一の目が不思議な色合いに光っているように見える。それはとても冷たく、まるで作り物のガラス玉のようだと思った。
(ガラスみたいで綺麗だけど……なんていうか……)
そこには一切の感情がないように見えた。そう感じたからか少し怖くなり、恐怖を感じた自分に戸惑う。そんな拓巳の髪を「大丈夫だ」と言うように優一が撫でるように梳く。
「Ωとして目覚める前から、きみはΩの匂いをわずかに漂わせていたのだろう。稀なことではあるが、きみの客の中に先ほどのようなαや、ほかにもα因子を持った人がまぎれていたのかもしれない」
「だから、俺みたいな男でも客が途切れなかったってことか……」
「わたしからすれば、きみが魅力的だからだと思うがね」
「……それはないですよ」
自分に秀でた部分がないことはよくわかっている。見た目も平凡で男に好かれる要素は何一つない。それでも客がいたということは、きっとΩだったからなのだろう。
(そっか。こんな俺でも、オメガってものだけは持ってたってことか)
ただのクズじゃなかったがΩのクズだったということだ。拓巳の口元が苦笑とも諦めとも取れる形に歪む。その表情に気づいた優一の手が慈しむように頬や耳の縁を撫でた。
「前にも言ったが、きみがΩだというのはきみを構成する一要素に過ぎない」
「……それでも、俺にはほかに何もありません」
撫でていた大きな手がゆっくりと離れた。それを寂しいと思い、そんなふうに思う自分が昔と違いすぎておかしくなる。
(誰かに甘えたいなんて思ったの、いつ振りだろう)
小さい頃は母親に甘えていたような気がする。しかし母親が再婚し、あの男と一緒に暮らすようになって拓巳は甘えることができなくなった。
父親に体を触られるようになってから、そのことがバレてはいけないと思った拓巳は母親と距離を置くようになった。そういうこともあり大人に甘えることができない子どもに育った。親身になってくれた伯父夫婦とも心から打ち解けることはできず、学校でも心を開かないから親しい友達ができることもない。
そんな自分なのに、いまは優一に甘えたい気持ちであふれそうになっている。これがΩになり、さらにつがいになった証なんだろうか。
(優一さんとはたった四カ月しか一緒にいないのに)
その四カ月で自分が少しずつ変わってきたことを拓巳自身も気づいていた。誰かに気にかけてもらう心地よさを知り、求められる喜びを知った。自分も優一のもっと知りたいと、そばにいたいと思うようになった。
だからつがいになることを受け入れた。いや、心のどこかではそうした誰かとの繋がりを望んでいたのかもしれない。だが、それは拓巳がΩだったからだ。もしΩでなければ優一に会うことはなく、会ったとしても求められることはなかっただろう。
(貴重なオメガってやつなら俺でなくてもよかったってことだ)
自分だから必要とされたわけじゃない。甘えたい気持ちがあるぶん切なさも増す。
「オメガっていうこと以外、俺には何もない」
「人がきみをどう見ているかはわからないが、わたしにとってきみが魅力的なことは間違いない」
「それは……俺がオメガ、だからですよね」
「それもある。夢魔からきみの香りを感じて気になったのはたしかだ」
やっぱり……。胸の痛みに耐えるように枕に頬をギュッと押しつける。
「きっかけは香りだったが、ホテル前で初めてきみを見たときわたしのものだと直感した。理屈ではどうにもならない感覚だから説明のしようがないが、ただのΩにそんなことを感じたりはしない」
「それは……運命ってやつだからでしょ」
「運命だから直感するのか、直感した相手だから運命なのかは議論の余地があるだろうが、意味のないことだ。これは当人にしかわかり得ないことだからね」
「……俺には、よくわかりません」
「きみは目覚めたばかりだ。そのうちつがいの、運命の絆を感じられるようになる」
「……でも、俺なんて……体を売ってた、ただのクズだ」
ずっと思っていたことなのに、改めて口にすると情けなくなった。泣きそうな顔を見られたくなくて再び枕に額を押しつける。
「そのおかげで、わたしはきみと出会うことができた。……拓巳くんが想像以上に自分を卑下していることはよくわかった。そういうところも含めて拓巳くんらしいと思っているし、そこも含めて愛しいと思っているよ」
「……そんなの、」
嘘に決まっている。こんな自分は面倒くさいだけだ。最後まで執着を見せていた高校の先輩も「面倒くさい」「辛気くさい」と何度も口にした。それなら相手にするなよと言いたかったが、それでも手放そうとしなかった。もしかしてあれも自分がΩとやらだったせいだろうかと思うと、自分はクズを引き寄せるクズなのだと自嘲したくなる。
「前にも言ったが、わたしは人の儚い命を、存在を愛しいと思っている。儚くて無力で、それなのに活き活きとしているところが好きでね。命の長いわたしにとってはまぶしいくらいだ」
そういう人もいるかもしれないが、少なくとも自分は活き活きとはしていない。ただ流されるままに生きてきただけだ。
「それにね、きみは中身が空っぽだ。じつはそこも気に入っている」
「……え?」
「プライドがないわけじゃないのに自分を大切にしない。自分や周囲を蔑みながら諦めている。それはきみの中に何もないからだ。違うかい?」
優一の言葉はあまりにも辛辣で答えることができなかった。言われた言葉に傷つきながら、そのとおりだと自分でも思った。
「わたしにはそうしたところも都合がよかった。寄る辺がないのなら大いに付け入ることができるし、おかげで出会ったその日から囲うことができた。わたしの言葉だけを信じ、わたしが与えるものだけを受け入れ、わたしだけのつがいとなった」
「優一さん……?」
声が段々といつもと違う気配を漂わせ始めた。そう感じ、そっと優一を見る。残念ながら影になっている表情を窺うことはできなかったが、やはりどこかいつもと違うような気がする。
「きみはわたしだけのΩだ。わたしに愛されるために存在している。そしてわたしに囚われてしまった、かわいそうなΩでもある」
いったいどういう意味だろう。不安に思った拓巳は、そっと手を伸ばしベッドについている優一の手に触れた。
「……っ」
優一の手はいつも以上に冷たかった。いつもなら触れただけで握り返してくれるのに、反応がなく指先すら動かない。ただそれだけのことなのに拓巳の中で少しずつ不安が広がっていく。
「きみは人からもっとも遠い存在であるわたしのつがいとなった。人として享受できたであろうことのすべてを失ったことになる。人であったきみにとって、残酷な命を歩むことになるだろう」
「優一さん……」
「それでも、わたしはきみがほしかった。わたしだけのΩにしたかった。これはαとしての本能であり、吸血鬼としての欲望であり、わたしの願いだ。きっかけは運命だったかもしれないが、まぎれもないわたし自身の望みだ」
拓巳が触れても動かなかった手が動き、冷たい指がそっと拓巳の頬を撫でた。
「八十年近く求め続けてきた存在にようやく出会えた。人でありΩであり、運命であるきみに出会った。いつか出会えるだろうと考えてはいたが、実際に目の前にすると想像以上に自分が抑えきれなかった。きみが空っぽなのをいいことに、わたしの思うがままにしようと考えた。わたしなしでは生きられないようにしたかった。……これでは、あの人と変わらないというのに」
最後のほうは声が小さく聞き取ることができない。それでも優一が何か思い煩っていることは拓巳にも十分に察することができた。
(優一さんは何でもできて完璧な人なんだと思ってた)
セレブでイケメンで、どこから見てもできる男にしか見えない優一だが、そうではない一面があるのかもしれない。αやΩのこと、吸血鬼のことはわからないが、優一にも何か思い悩むことがあるのだろう。
(こういう優一さんを見ると、普通の人っぽく見える)
自分とは別世界の人だと思っていた優一がグッと近づいたような気がした。同じくらい自分も優一に近づきたいと思った。いまは無理かもしれないが、いつか優一に相応しいΩになりたい、堂々と隣に立てるつがいになりたいと思った。拓巳は初めて明確な未来を思い描いた。
「俺……何もわからないけど、でも、優一さんのつがいになったこと、後悔してません」
頬に触れていた指がかすかに震える。
「俺、何もわからないけど、後悔してないことだけはわかります。空っぽだけど、これだけは自信持って言えます」
「あぁ、ひどいことを言ってしまったことは謝ろう。きみを蔑んだわけじゃない」
「わかってます。それに……きっと本当のことだから」
「……きみは、思っていたよりも強いね」
優一の声が少し明るくなったように聞こえた。それにホッとした拓巳は、頬に触れている冷たい優一の手を温めるように握り締めた。
「俺は何も持ってません。オメガってことしかないです。それなのに優一さんがつがいにしてくれたこと、本当にうれしかった。こんなクズみたいな俺を必要だって言ってくれたことが、本当にうれしかったんです。だから、優一さんが俺のことで気にすることは何もないんです」
「拓巳くん」
「俺をつがいにしてくれて、ありがとうございます。俺を優一さんだけのオメガにしてくれて、ありが……っ」
唇を塞がれ、最後まで言うことはできなかった。うつ伏せのまま顔を上に向けるのはつらかったが、首や肩の痛みなんて気にならない。奪うような激しいキスに心が震えて歓喜した。
舌を絡め互いの口内に侵入し、それでも足りないと唇を重ね続ける。そうして息が上がりかけたところで優一の唇が離れた。
「わたしのΩは、本当に涙もろい」
そう言われて、拓巳は初めて涙をこぼしていることに気がついた。
「これは、あの、悲しいわけじゃなくて、」
「わかっている」
冷たい指に目尻を撫でられただけで喜びに体が震えた。
「わたしを生んだ人も、きみと同じこの国の人だった。きみと同じように涙もろいところもあるが、それが悲しみばかりでないことはよく知っている」
「え……?」
「約束したとおり、わたしがきみを満たしてやろう。それがわたしのすべきことであり、きみが受けるべきものだ。……いや、違うな。わたしが与えたいんだ」
優しい笑みを浮かべた優一の顔がゆっくりと拓巳に近づく。
「んっ」
つがいの印にキスされた。それは微笑みと同じくらい優しいものだった。
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