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妖狐、稲荷神社に行く3
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孝志郎の言葉に僕はびっくりした。
(でも、ここって稲荷神社から随分離れてるよ?)
こんなに離れているのにウゴウゴ動くあの黒いものが妖を生むなんておかしな話だ。それに黒いものはあの女にくっついている。それがどうやってあの稲荷神社で妖を生むんだろう。
(それじゃあ、あの黒いものも妖ってこと?)
「妖じゃあない。だが、妖のもとになり得るものではある」
僕はもう一度ウゴウゴしている黒いものを見た。賽銭箱にいたやつと同じならあれは人間の恨みつらみが集まったものだ。その黒いものが今度は妖を生み出そうとしている。
(よくわからないよ。妖になった人間がいるって話は聞いたことがあるけど、恨みつらみの黒い塊が妖になるなんて聞いたことがない)
黒い塊は妖とは別のものになる。それを人間たちはユウレイだとか呼んでいた。あいつらはただの塊のくせに僕たちの棲み処を人間に気づかせたりするから厄介なんだ。
「ま、そういう意味では珍しい妖と言えなくもない。だが、そこそこ古くからいる妖でもある」
(それって妖狐よりも?)
「さて、どちらが古いかは俺にもわからないがな。少なくとも平安の都にはいたという話だから、同じくらいかもしれないぞ」
(それってずっと昔ってことだよね)
「そうだ。当時は禁じられた呪の一つで妖とは呼ばれていなかった。いわゆる蠱術、呪詛の一種だと考えられていたんだ」
孝志郎の説明は難しくて僕にはよくわからない。でも、もし本当に妖なら僕にだって感じ取ることができたはずだ。
(ねぇ、本当に稲荷神社で生まれるのはその妖なの? 犬臭かったけど妖の匂いなんて全然しなかったよ?)
それに本当に犬神なんて名前の妖が生まれるなら大問題だ。
(稲荷神社は妖狐の縄張りなのに……)
それなのに犬の名前がつく妖が生まれる場所になってしまうなんて最悪だ。そもそも、どうして稲荷神社で犬の妖が生まれるのかがわからない。
(犬なら、同じ犬の名前を持つ狛犬がいる神社で生まれればいいのに)
「そりゃあ無理な話だな。そもそも生まれる側は場所を選べない。そういう妖なんだ」
(どういうこと?)
「犬神は埋められた土の中で育つ。どこに埋められるかは埋める側が決めることだ」
それじゃあ、あの黒い塊を人間が土に埋めると妖が生まれるってことなんだろうか。でも、それならあの黒い塊のときに祓ってしまえばいいはずだ。孝志郎にならそれができるし、賽銭箱の端っこにいたやつも一瞬で祓った。それなのに孝志郎は祓えないと言った。
どういうことか聞こうと外套の中で孝志郎を見上げたとき、門のほうから嫌な気配が一気に流れてきた。今度は甘くて吐き気がする匂いもたくさん混じっている。
(うへぇ……この匂いも嫌な感じがする)
「相当煮詰まっているみたいだからな」
孝志郎が何かを見ている。息苦しくなった僕は外套の袖口から鼻先を出し、深呼吸をしながら外を見た。相変わらず着物を着た女はウゴウゴした黒いものに覆われていて、門の奥に続く道を見ている。
(あっ、さっきの男だ)
着物に外套を羽織った男が、変わった着物姿の女の手を握っている。顔を寄せながら楽しいことでも話しているのか、二人ともニコニコと笑っていた。
そのうち男のほうが握っていた女の手を持ち上げた。何かを言いながらニヤッと笑って女の手に口をくっつける。そのまま食べるように指先をパクッと口に入れてしまった。
(ねぇ、人間って人間の手を食べたりするの?)
「ははっ、やっぱりおまえは子どもだな。あれは口づけと言うんだ。あぁいや、いまは西洋風にキスと言うのが流行りか」
(きす)
「好きな相手に『こんなに好きですよ』と伝える手段の一つだな。大抵は額や頬、唇にするもんだが、若旦那は閨の雰囲気が忘れられないらしい」
孝志郎の話はやっぱり難しくてよくわからない。ただ、若旦那という男が何かするたびに嫌な気配と匂いが強くなることはわかった。
「いつの世も憐れなのは蠱術に使われるほうだ。人の欲のために、これまでどれだけの命が無駄に散っていったことか」
(孝志郎?)
「まったく、千年以上経つというのにご先祖様たちの尻ぬぐいをさせられる身にもなってほしいよ」
孝志郎が「やれやれ」とため息をついた。どうしたのだろうと顔を見たところで「さて、帰るか」と歩き出す。
(え? ちょっと待って、あの黒いのはどうするの?)
「言っただろう? いくら俺でも生まれていない妖を祓うことはできない。だが、そろそろ生まれそうなことはわかった。おそらく六日……いや、四日といったところか」
歩きながら「四日後、あの稲荷神社に行くからな」と言われ、僕は取りあえず「うん」と頷いた。
(結局どうして黒いものが妖を生むのかわからなかったや。それに嫌な気配を漂わせていた着物姿の女は何だったんだろう)
そういえば「こじゅつ」という言葉も初めて聞いた。難しい話ばかりで頭がこんがらがってくる。外套の中でうんうん唸っていると、どこからかいい匂いがしていることに気がついた。
(いなり寿司だ!)
大急ぎで外套の袖口から鼻先を出した。間違いない、これはお出汁をたっぷり吸い込んだいなり寿司の匂いだ。それに生姜の匂いもするから、きっと生姜を刻んだ酢飯を使っているに違いない。
(孝志郎、いなり寿司忘れないでよ!)
「はいはい、約束どおり十と三つで十三個だな」
十三個……そんなにたくさん食べられるだろうか。目の前に十三個のいなり寿司が並んでいるのを想像するだけで涎が出そうになる。
「一度に食べるなよ。腹を壊すぞ」
(妖狐がお腹を壊すはずないでしょ!)
「さぁて、おまえは子どもだからなぁ」
(大きいとか小さいとか関係ないから! 孝志郎、早く買いに行こう!)
僕の頭の中は、あっという間にいなり寿司ばかりになった。おかげで犬神や難しい話のことは綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
(でも、ここって稲荷神社から随分離れてるよ?)
こんなに離れているのにウゴウゴ動くあの黒いものが妖を生むなんておかしな話だ。それに黒いものはあの女にくっついている。それがどうやってあの稲荷神社で妖を生むんだろう。
(それじゃあ、あの黒いものも妖ってこと?)
「妖じゃあない。だが、妖のもとになり得るものではある」
僕はもう一度ウゴウゴしている黒いものを見た。賽銭箱にいたやつと同じならあれは人間の恨みつらみが集まったものだ。その黒いものが今度は妖を生み出そうとしている。
(よくわからないよ。妖になった人間がいるって話は聞いたことがあるけど、恨みつらみの黒い塊が妖になるなんて聞いたことがない)
黒い塊は妖とは別のものになる。それを人間たちはユウレイだとか呼んでいた。あいつらはただの塊のくせに僕たちの棲み処を人間に気づかせたりするから厄介なんだ。
「ま、そういう意味では珍しい妖と言えなくもない。だが、そこそこ古くからいる妖でもある」
(それって妖狐よりも?)
「さて、どちらが古いかは俺にもわからないがな。少なくとも平安の都にはいたという話だから、同じくらいかもしれないぞ」
(それってずっと昔ってことだよね)
「そうだ。当時は禁じられた呪の一つで妖とは呼ばれていなかった。いわゆる蠱術、呪詛の一種だと考えられていたんだ」
孝志郎の説明は難しくて僕にはよくわからない。でも、もし本当に妖なら僕にだって感じ取ることができたはずだ。
(ねぇ、本当に稲荷神社で生まれるのはその妖なの? 犬臭かったけど妖の匂いなんて全然しなかったよ?)
それに本当に犬神なんて名前の妖が生まれるなら大問題だ。
(稲荷神社は妖狐の縄張りなのに……)
それなのに犬の名前がつく妖が生まれる場所になってしまうなんて最悪だ。そもそも、どうして稲荷神社で犬の妖が生まれるのかがわからない。
(犬なら、同じ犬の名前を持つ狛犬がいる神社で生まれればいいのに)
「そりゃあ無理な話だな。そもそも生まれる側は場所を選べない。そういう妖なんだ」
(どういうこと?)
「犬神は埋められた土の中で育つ。どこに埋められるかは埋める側が決めることだ」
それじゃあ、あの黒い塊を人間が土に埋めると妖が生まれるってことなんだろうか。でも、それならあの黒い塊のときに祓ってしまえばいいはずだ。孝志郎にならそれができるし、賽銭箱の端っこにいたやつも一瞬で祓った。それなのに孝志郎は祓えないと言った。
どういうことか聞こうと外套の中で孝志郎を見上げたとき、門のほうから嫌な気配が一気に流れてきた。今度は甘くて吐き気がする匂いもたくさん混じっている。
(うへぇ……この匂いも嫌な感じがする)
「相当煮詰まっているみたいだからな」
孝志郎が何かを見ている。息苦しくなった僕は外套の袖口から鼻先を出し、深呼吸をしながら外を見た。相変わらず着物を着た女はウゴウゴした黒いものに覆われていて、門の奥に続く道を見ている。
(あっ、さっきの男だ)
着物に外套を羽織った男が、変わった着物姿の女の手を握っている。顔を寄せながら楽しいことでも話しているのか、二人ともニコニコと笑っていた。
そのうち男のほうが握っていた女の手を持ち上げた。何かを言いながらニヤッと笑って女の手に口をくっつける。そのまま食べるように指先をパクッと口に入れてしまった。
(ねぇ、人間って人間の手を食べたりするの?)
「ははっ、やっぱりおまえは子どもだな。あれは口づけと言うんだ。あぁいや、いまは西洋風にキスと言うのが流行りか」
(きす)
「好きな相手に『こんなに好きですよ』と伝える手段の一つだな。大抵は額や頬、唇にするもんだが、若旦那は閨の雰囲気が忘れられないらしい」
孝志郎の話はやっぱり難しくてよくわからない。ただ、若旦那という男が何かするたびに嫌な気配と匂いが強くなることはわかった。
「いつの世も憐れなのは蠱術に使われるほうだ。人の欲のために、これまでどれだけの命が無駄に散っていったことか」
(孝志郎?)
「まったく、千年以上経つというのにご先祖様たちの尻ぬぐいをさせられる身にもなってほしいよ」
孝志郎が「やれやれ」とため息をついた。どうしたのだろうと顔を見たところで「さて、帰るか」と歩き出す。
(え? ちょっと待って、あの黒いのはどうするの?)
「言っただろう? いくら俺でも生まれていない妖を祓うことはできない。だが、そろそろ生まれそうなことはわかった。おそらく六日……いや、四日といったところか」
歩きながら「四日後、あの稲荷神社に行くからな」と言われ、僕は取りあえず「うん」と頷いた。
(結局どうして黒いものが妖を生むのかわからなかったや。それに嫌な気配を漂わせていた着物姿の女は何だったんだろう)
そういえば「こじゅつ」という言葉も初めて聞いた。難しい話ばかりで頭がこんがらがってくる。外套の中でうんうん唸っていると、どこからかいい匂いがしていることに気がついた。
(いなり寿司だ!)
大急ぎで外套の袖口から鼻先を出した。間違いない、これはお出汁をたっぷり吸い込んだいなり寿司の匂いだ。それに生姜の匂いもするから、きっと生姜を刻んだ酢飯を使っているに違いない。
(孝志郎、いなり寿司忘れないでよ!)
「はいはい、約束どおり十と三つで十三個だな」
十三個……そんなにたくさん食べられるだろうか。目の前に十三個のいなり寿司が並んでいるのを想像するだけで涎が出そうになる。
「一度に食べるなよ。腹を壊すぞ」
(妖狐がお腹を壊すはずないでしょ!)
「さぁて、おまえは子どもだからなぁ」
(大きいとか小さいとか関係ないから! 孝志郎、早く買いに行こう!)
僕の頭の中は、あっという間にいなり寿司ばかりになった。おかげで犬神や難しい話のことは綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
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