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きみの髪の毛、切らせてくれる?~それはおれにとって心中に等しい甘い言葉だった
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「やっぱりやめとく?」
そう言いながらイケメンが顔を覗き込んできた。おれは視線をさまよわせながら「……やめとくっていうか何ていうか」とつぶやいて少しだけ顔を逸らす。
「この前から何度も店の前に来てるよね? てっきり店に入りたいのに入れないんだと思って声をかけたんだけど、違ったかな。店の中、女性ばかりだから男性だとちょっと入りづらいでしょ?」
「もちろん男性客も大歓迎なんだけどね」とイケメンが笑う。
店を見ていたのは本当だ。でも髪を切りたくて見ていたわけじゃない。おれの目的は声をかえてくれたこのイケメンを見ることだった。
(近くで見ると、ほんとイケメンすぎ)
せっかくのチャンスなのに近すぎてじっくり見ることができない。見たいのに見ることができないなんて、こんなの初めてだ。
(それにしても、まさか髪の毛を切らせてほしいなんて)
やっぱり長い髪の毛の男は珍しいんだろうか。……いや、いま目の前を通り過ぎた男も長髪だった。しかもどこの草だよっていうような緑色だった。
「もしかしてカラーが希望だった?」
「え?」とイケメンを見て、慌ててブンブンと首を横に振った。髪の毛を染めるなんてとんでもない。そんなことをしたらどうなるかわかったものじゃない。
「そっか。ってことは、やっぱり俺の勘違いだったのか。それじゃあ驚いたよね。っていうより、これじゃあ不審者だよなぁ。ごめんね、怖がらせて」
「いえ、大丈夫です」
「本当にごめん。実は俺、きみのこと前から気になっててさ。あんまり綺麗な髪の毛だから、もしカットするなら俺にさせてほしいなぁって思って焦っちゃったよ」
照れくさそうに話しているけど、イケメンの笑顔はどこか寂しそうに見える。
(そういう表情もイケメンすぎる)
昔、思いを寄せていた人のことを少しだけ思い出した。あの人も照れくさそうに笑うとき、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
(まぁ、あの笑顔はおれに向けられたものじゃなかったけど)
おれは物陰から見つめることしかできなかった。それにあの頃は「イケメン」なんて言葉もなかった。
(そういう髪をした人もいなかったし)
黒髪に緑色が混じった髪のイケメンは、窓越しに見るよりずっとかっこよかった。こんな人に髪の毛をいじってもらったらどれほど気持ちいいだろう。想像したら体がポッと熱くなり、その熱が髪の毛にじわじわと移っていく。
(この髪が褒められる日が来るなんて、あの頃は想像もできなかった)
別に伸ばしたくて伸ばしているわけじゃない。もしそうなら、さっき通り過ぎた緑頭の男や道の反対側にいる金髪男みたいにいろいろできただろう。
でも、おれのこの長い黒髪は一種のアイデンティティみたいなものだ。ないと困るし、長い黒髪こそがおれ自身だと言ってもいい。そんな長い黒髪のせいで昔は散々な目に遭った。一時はこの髪を恨んだことさえある。
でも、この髪の毛のおかげでお目当てのイケメンに声をかけられた。しかも髪が綺麗だと褒めてもくれた。
「気が変わったらお店に来てくれる? できればその髪をカットするの、俺に任せてほしいなぁと思ってるんだけど駄目かな」
きゅん。
いまのはいわゆる「きゅん」ってやつだ。間違いない。この言葉も昔はなかったけど、どういう感情を指す言葉かおれにもわかる。
(そこまで言ってくれるなら、切らせてあげてもいいかな)
でも、その前にイケメンがどのくらい思ってくれているのか確かめなくては。髪の毛だけでも強く思ってくれているなら望みはある。そう思いながら「おれのほかにも人いたのに、どうして声かけてくれたんですか?」と尋ねた。
店の前にはおれ以外にも何人もの人がいた。おれ以外は全員女でみんなイケメンが目当てだった。漏れ聞こえる声からそのことはすぐにわかった。
それなのに店から出てきたイケメンは迷うことなくおれに近づいてきた。周りで黄色い歓声を上げる女たちにはニコッと微笑みかけただけで、おれの前に立つと「バナナジュース好き?」と声をかけてきたのだ。
(バナナジュースって)
よく考えたら妙な誘い文句だ。それでもおれはコクコク頷いてイケメンの後に付いていった。そうして言葉どおりジューススタンドでバナナジュースを買ってもらい、歩道の手すりに寄りかかりながらこうして話をしている。
「こんなに綺麗な黒髪、初めて見たんだ」
イケメンの返事に、また胸がきゅんとした。耳がそわそわして、それをごまかすようにバナナジュースのカップに視線を落とす。
「窓越しに見ても最高の髪質だってすぐに気づいたよ。こう見えて俺、髪の毛にはうるさ……ええと、美容師だからそれなりに詳しくてね。きみの髪の毛は滅多に出会えない最高の髪だと思う。ううん、そう確信してる。だからこそ、ぜひ俺に切らせてほしくて声をかけたんだ」
思っていたよりもおれの髪にベタ惚れみたいだ。これなら願いが叶うかもしれない。思わず喉を鳴らしたところで「そうだ!」とイケメンが声を上げた。
「カットの予定がないなら、シャンプーはどうかな」
「シャンプー……?」
「シャンプーにトリートメント、それにブローまで俺にさせてもらえると嬉しいなと思って……って、さすがにこんなことまで言ったらドン引きされるか」
イケメンが「ははっ」と笑う。その顔にもどこか寂しそうなものが混じっていた。
「……じつは俺、相当な髪の毛フェチでさ。それで美容師になったようなものなんだけど、少し度が過ぎるみたいでね。口に出すとお客さんに引かれるから言わないように気をつけてたんだよね。それに、思っていたより理想の髪の毛に出会うこともないし。でも、そこにきみが現れた」
言葉が途切れる。どうしたんだろうと思って視線を上げると、やけに熱心なイケメンの目がおれを見ていた。
「近くで見てますます確信したよ。きみの髪は素晴らしい。ここまで真っ黒で艶やかな髪の毛は、いまじゃもう滅多に出会うことがない絶滅危惧種だ。こういうのをきっと濡れ羽色っていうんだろうね。昔の人たちは髪の色を褒めたりして恋文を送ってたって聞いたけど、その気持ち、すごくよくわかる」
イケメンが髪の毛を食い入るように見ている。それだけでおれは鳥肌が立つような気がした。歓喜のあまり体どころから髪の毛まで震えそうで危ない。
「しまった、また怖がらせちゃったかな。ええと、ごめんね? きみ高校生だよね。こんな大人、気持ち悪いよね。できれば怖がらないでほしいんだけど……あー、絶対に変な大人だって思われてる」
困り顔のイケメンの横顔も最高だ。ポリポリと頬を掻く指は長く、その指がどんなふうにおれの髪の毛に触れるのか想像するだけでたまらない気分になる。
(この人になら髪の毛、切られてもいいかな)
初めて会ったおれの髪の毛を、ここまで褒めてくれる人にはもう出会えないだろう。同じくらい、ここまで俺の髪の毛に惚れてくれる人もいないはず。おれの魂、いいや存在そのものの髪の毛にここまで執着してくれる人には二度と巡り会えないに違いない。
そう思うと背中がぞくぞくした。遠い昔なら心中立なんて言葉もあったけど、いまやそんなことをする人はいない。でも、おれにとってはまさに心中立の相手を見つけたも同然だった。
(おれにとって髪の毛を切ってもらうことは心中立のようなものだから)
この街がまだお江戸と呼ばれていた頃、吉原のあたりでおれは生まれた。生まれたといっても人じゃあない。大勢の遊女のいろんな思いが溜まって渦巻いて、気がついたらおれという存在になっていた。
あの頃のおれはどちらが前でどちらが後ろかわからない姿をしていた。前も後ろも黒く長い髪の毛で覆われているからか、人はおれのことを物の怪と呼び怖がった。
(いまとなってはあの頃が少しだけ懐かしい)
侍の時代は終わり、明治大正と時代が過ぎた。さらに大きな戦争を経てピカピカの世の中にもなった。そんな中でおれのような存在は少しずつ姿を消していった。
ところが最近、ピカピカな街のあちこちでお江戸の頃のような澱みを感じるようになった。その澱みに引かれて目覚めるものも多くいる。おれも澱みに引かれて目が覚めた。まるで長い昼寝から目が覚めたようなぼんやりした状態でしばらくさまよっていたおれは、目の前のイケメンを見た途端にパチンと意識がクリアになった。
(こういう男がイケメンって言うんだな)
意識がはっきりしてから、おれはいまの世の言葉を学んだ。文化を知り、男女を知り、同時に澱みも知った。そして、毎日のようにイケメンがいる店に通うようになった。
(どうせなら、こういうイケメンといい仲になりたいなぁ)
通っているうちにそんなことを思うようになった。元々おれを形作った遊女たちの怨念がそう思わせたのかもしれない。
(いいや、この気持ちはおれ自身のものだ)
そうだ、これはおれだけの思いだ。おれはこのイケメンと結ばれたい。そのためにはおれの根源である髪の毛を切って渡さなくては。
お江戸の頃、遊女たちは愛を誓うために心中立を行った。起誓、誓紙、血判、それから体の一部をささげる髪切り、爪剥ぎ、指切り。おれはそうした遊女たちの心と魂から生まれた。それが長い黒髪になり、おれを形作っている。だからこそ黒髪でもって心中立を行おうと思ってきた。
(そもそもそっちから声をかけてきたんだし、いいよな?)
イケメンをちろっと見ながらバナナジュースをちゅるちゅると飲む。そうやって喉を潤したところで「切ってもいいですけど」と口にした。
「え!? 本当に? 本当にいいの?」
こくりと頷くと、イケメンの顔がパァッと明るくなった。その顔を見ただけで「心中するならこの人がいい」と改めて思った。
(まぁ、心中なんて本当にしたりはしないけど)
そもそもいまの時代、そんなものは流行っていない。あの頃は花魁も夜鷹も口を揃えて心中だの何だのとはやし立てていた。そういうものがお江戸で大流行していた。
でも、せっかくなら生きて添い遂げるほうがいい。おれはいつ消えるかわからない存在だし、せっかく目が覚めたのならできるだけ長く思う相手と一緒にいたいと思っていた。
(そのほうが絶対に楽しいし)
おれはもう、お江戸の頃のおれじゃない。吉原だってない。毛倡妓なんて失礼極まりない呼び名で呼ばれていたおれはもういないんだ。
「いつ切る? あ、もし時間があるならいまからどうかな。もちろんシャンプーもトリートメントも、最後まで俺が責任もって担当するよ」
「……いまからで大丈夫です」
おれの返事にイケメンの顔が笑顔全開になる。「あのときの大店の若旦那もすごい人気だったけど、この人のほうがもっと色男だ」なんて胸を高鳴らせながら自分の黒髪を撫でた。
触るとすべすべしていて、まるで絹糸のようだと思う。我ながらいい黒髪に育った。「この人だと思った人に自慢の髪を渡すの」と、どこか夢見心地で話していた花魁を思い出す。
(人ならそれで終わりだろうけど、おれは違う)
おれの髪の毛は死ぬまで相手の魂に絡みつく。そして死んだあとも解けることはない。それが毛倡妓の髪の毛だ。
「じゃあ、お店に行こうか」
「はい」
髪の毛を切るのは生まれて初めてだから、やっぱり緊張する。同時にフワフワした気分になった。「あの指が髪の毛に触ったら……」なんて想像するだけで体の芯がぽぅっと熱くなる。
おれはうっとりしながら、生まれて初めて髪の毛を切ってくれる心中相手の後について行った。
そう言いながらイケメンが顔を覗き込んできた。おれは視線をさまよわせながら「……やめとくっていうか何ていうか」とつぶやいて少しだけ顔を逸らす。
「この前から何度も店の前に来てるよね? てっきり店に入りたいのに入れないんだと思って声をかけたんだけど、違ったかな。店の中、女性ばかりだから男性だとちょっと入りづらいでしょ?」
「もちろん男性客も大歓迎なんだけどね」とイケメンが笑う。
店を見ていたのは本当だ。でも髪を切りたくて見ていたわけじゃない。おれの目的は声をかえてくれたこのイケメンを見ることだった。
(近くで見ると、ほんとイケメンすぎ)
せっかくのチャンスなのに近すぎてじっくり見ることができない。見たいのに見ることができないなんて、こんなの初めてだ。
(それにしても、まさか髪の毛を切らせてほしいなんて)
やっぱり長い髪の毛の男は珍しいんだろうか。……いや、いま目の前を通り過ぎた男も長髪だった。しかもどこの草だよっていうような緑色だった。
「もしかしてカラーが希望だった?」
「え?」とイケメンを見て、慌ててブンブンと首を横に振った。髪の毛を染めるなんてとんでもない。そんなことをしたらどうなるかわかったものじゃない。
「そっか。ってことは、やっぱり俺の勘違いだったのか。それじゃあ驚いたよね。っていうより、これじゃあ不審者だよなぁ。ごめんね、怖がらせて」
「いえ、大丈夫です」
「本当にごめん。実は俺、きみのこと前から気になっててさ。あんまり綺麗な髪の毛だから、もしカットするなら俺にさせてほしいなぁって思って焦っちゃったよ」
照れくさそうに話しているけど、イケメンの笑顔はどこか寂しそうに見える。
(そういう表情もイケメンすぎる)
昔、思いを寄せていた人のことを少しだけ思い出した。あの人も照れくさそうに笑うとき、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
(まぁ、あの笑顔はおれに向けられたものじゃなかったけど)
おれは物陰から見つめることしかできなかった。それにあの頃は「イケメン」なんて言葉もなかった。
(そういう髪をした人もいなかったし)
黒髪に緑色が混じった髪のイケメンは、窓越しに見るよりずっとかっこよかった。こんな人に髪の毛をいじってもらったらどれほど気持ちいいだろう。想像したら体がポッと熱くなり、その熱が髪の毛にじわじわと移っていく。
(この髪が褒められる日が来るなんて、あの頃は想像もできなかった)
別に伸ばしたくて伸ばしているわけじゃない。もしそうなら、さっき通り過ぎた緑頭の男や道の反対側にいる金髪男みたいにいろいろできただろう。
でも、おれのこの長い黒髪は一種のアイデンティティみたいなものだ。ないと困るし、長い黒髪こそがおれ自身だと言ってもいい。そんな長い黒髪のせいで昔は散々な目に遭った。一時はこの髪を恨んだことさえある。
でも、この髪の毛のおかげでお目当てのイケメンに声をかけられた。しかも髪が綺麗だと褒めてもくれた。
「気が変わったらお店に来てくれる? できればその髪をカットするの、俺に任せてほしいなぁと思ってるんだけど駄目かな」
きゅん。
いまのはいわゆる「きゅん」ってやつだ。間違いない。この言葉も昔はなかったけど、どういう感情を指す言葉かおれにもわかる。
(そこまで言ってくれるなら、切らせてあげてもいいかな)
でも、その前にイケメンがどのくらい思ってくれているのか確かめなくては。髪の毛だけでも強く思ってくれているなら望みはある。そう思いながら「おれのほかにも人いたのに、どうして声かけてくれたんですか?」と尋ねた。
店の前にはおれ以外にも何人もの人がいた。おれ以外は全員女でみんなイケメンが目当てだった。漏れ聞こえる声からそのことはすぐにわかった。
それなのに店から出てきたイケメンは迷うことなくおれに近づいてきた。周りで黄色い歓声を上げる女たちにはニコッと微笑みかけただけで、おれの前に立つと「バナナジュース好き?」と声をかけてきたのだ。
(バナナジュースって)
よく考えたら妙な誘い文句だ。それでもおれはコクコク頷いてイケメンの後に付いていった。そうして言葉どおりジューススタンドでバナナジュースを買ってもらい、歩道の手すりに寄りかかりながらこうして話をしている。
「こんなに綺麗な黒髪、初めて見たんだ」
イケメンの返事に、また胸がきゅんとした。耳がそわそわして、それをごまかすようにバナナジュースのカップに視線を落とす。
「窓越しに見ても最高の髪質だってすぐに気づいたよ。こう見えて俺、髪の毛にはうるさ……ええと、美容師だからそれなりに詳しくてね。きみの髪の毛は滅多に出会えない最高の髪だと思う。ううん、そう確信してる。だからこそ、ぜひ俺に切らせてほしくて声をかけたんだ」
思っていたよりもおれの髪にベタ惚れみたいだ。これなら願いが叶うかもしれない。思わず喉を鳴らしたところで「そうだ!」とイケメンが声を上げた。
「カットの予定がないなら、シャンプーはどうかな」
「シャンプー……?」
「シャンプーにトリートメント、それにブローまで俺にさせてもらえると嬉しいなと思って……って、さすがにこんなことまで言ったらドン引きされるか」
イケメンが「ははっ」と笑う。その顔にもどこか寂しそうなものが混じっていた。
「……じつは俺、相当な髪の毛フェチでさ。それで美容師になったようなものなんだけど、少し度が過ぎるみたいでね。口に出すとお客さんに引かれるから言わないように気をつけてたんだよね。それに、思っていたより理想の髪の毛に出会うこともないし。でも、そこにきみが現れた」
言葉が途切れる。どうしたんだろうと思って視線を上げると、やけに熱心なイケメンの目がおれを見ていた。
「近くで見てますます確信したよ。きみの髪は素晴らしい。ここまで真っ黒で艶やかな髪の毛は、いまじゃもう滅多に出会うことがない絶滅危惧種だ。こういうのをきっと濡れ羽色っていうんだろうね。昔の人たちは髪の色を褒めたりして恋文を送ってたって聞いたけど、その気持ち、すごくよくわかる」
イケメンが髪の毛を食い入るように見ている。それだけでおれは鳥肌が立つような気がした。歓喜のあまり体どころから髪の毛まで震えそうで危ない。
「しまった、また怖がらせちゃったかな。ええと、ごめんね? きみ高校生だよね。こんな大人、気持ち悪いよね。できれば怖がらないでほしいんだけど……あー、絶対に変な大人だって思われてる」
困り顔のイケメンの横顔も最高だ。ポリポリと頬を掻く指は長く、その指がどんなふうにおれの髪の毛に触れるのか想像するだけでたまらない気分になる。
(この人になら髪の毛、切られてもいいかな)
初めて会ったおれの髪の毛を、ここまで褒めてくれる人にはもう出会えないだろう。同じくらい、ここまで俺の髪の毛に惚れてくれる人もいないはず。おれの魂、いいや存在そのものの髪の毛にここまで執着してくれる人には二度と巡り会えないに違いない。
そう思うと背中がぞくぞくした。遠い昔なら心中立なんて言葉もあったけど、いまやそんなことをする人はいない。でも、おれにとってはまさに心中立の相手を見つけたも同然だった。
(おれにとって髪の毛を切ってもらうことは心中立のようなものだから)
この街がまだお江戸と呼ばれていた頃、吉原のあたりでおれは生まれた。生まれたといっても人じゃあない。大勢の遊女のいろんな思いが溜まって渦巻いて、気がついたらおれという存在になっていた。
あの頃のおれはどちらが前でどちらが後ろかわからない姿をしていた。前も後ろも黒く長い髪の毛で覆われているからか、人はおれのことを物の怪と呼び怖がった。
(いまとなってはあの頃が少しだけ懐かしい)
侍の時代は終わり、明治大正と時代が過ぎた。さらに大きな戦争を経てピカピカの世の中にもなった。そんな中でおれのような存在は少しずつ姿を消していった。
ところが最近、ピカピカな街のあちこちでお江戸の頃のような澱みを感じるようになった。その澱みに引かれて目覚めるものも多くいる。おれも澱みに引かれて目が覚めた。まるで長い昼寝から目が覚めたようなぼんやりした状態でしばらくさまよっていたおれは、目の前のイケメンを見た途端にパチンと意識がクリアになった。
(こういう男がイケメンって言うんだな)
意識がはっきりしてから、おれはいまの世の言葉を学んだ。文化を知り、男女を知り、同時に澱みも知った。そして、毎日のようにイケメンがいる店に通うようになった。
(どうせなら、こういうイケメンといい仲になりたいなぁ)
通っているうちにそんなことを思うようになった。元々おれを形作った遊女たちの怨念がそう思わせたのかもしれない。
(いいや、この気持ちはおれ自身のものだ)
そうだ、これはおれだけの思いだ。おれはこのイケメンと結ばれたい。そのためにはおれの根源である髪の毛を切って渡さなくては。
お江戸の頃、遊女たちは愛を誓うために心中立を行った。起誓、誓紙、血判、それから体の一部をささげる髪切り、爪剥ぎ、指切り。おれはそうした遊女たちの心と魂から生まれた。それが長い黒髪になり、おれを形作っている。だからこそ黒髪でもって心中立を行おうと思ってきた。
(そもそもそっちから声をかけてきたんだし、いいよな?)
イケメンをちろっと見ながらバナナジュースをちゅるちゅると飲む。そうやって喉を潤したところで「切ってもいいですけど」と口にした。
「え!? 本当に? 本当にいいの?」
こくりと頷くと、イケメンの顔がパァッと明るくなった。その顔を見ただけで「心中するならこの人がいい」と改めて思った。
(まぁ、心中なんて本当にしたりはしないけど)
そもそもいまの時代、そんなものは流行っていない。あの頃は花魁も夜鷹も口を揃えて心中だの何だのとはやし立てていた。そういうものがお江戸で大流行していた。
でも、せっかくなら生きて添い遂げるほうがいい。おれはいつ消えるかわからない存在だし、せっかく目が覚めたのならできるだけ長く思う相手と一緒にいたいと思っていた。
(そのほうが絶対に楽しいし)
おれはもう、お江戸の頃のおれじゃない。吉原だってない。毛倡妓なんて失礼極まりない呼び名で呼ばれていたおれはもういないんだ。
「いつ切る? あ、もし時間があるならいまからどうかな。もちろんシャンプーもトリートメントも、最後まで俺が責任もって担当するよ」
「……いまからで大丈夫です」
おれの返事にイケメンの顔が笑顔全開になる。「あのときの大店の若旦那もすごい人気だったけど、この人のほうがもっと色男だ」なんて胸を高鳴らせながら自分の黒髪を撫でた。
触るとすべすべしていて、まるで絹糸のようだと思う。我ながらいい黒髪に育った。「この人だと思った人に自慢の髪を渡すの」と、どこか夢見心地で話していた花魁を思い出す。
(人ならそれで終わりだろうけど、おれは違う)
おれの髪の毛は死ぬまで相手の魂に絡みつく。そして死んだあとも解けることはない。それが毛倡妓の髪の毛だ。
「じゃあ、お店に行こうか」
「はい」
髪の毛を切るのは生まれて初めてだから、やっぱり緊張する。同時にフワフワした気分になった。「あの指が髪の毛に触ったら……」なんて想像するだけで体の芯がぽぅっと熱くなる。
おれはうっとりしながら、生まれて初めて髪の毛を切ってくれる心中相手の後について行った。
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