物じゃない探しもの

星磨よった

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物じゃない探しもの

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 私はあの頃、不登校で引き籠もりだった。そして、自分が一体どんな人間なのかをずっと探していた。 


 引き籠もったきっかけは小学校1年の時の事だった。まだ、学校が始まったばかりで、ようやく初めて授業というものを受け始めた頃だった。


 授業中に突然尿意が襲った。最初は我慢するつもりだったのだが、やがてそんな余裕は無くなり、私は思い切って手を上げた。先生が訪ねた。


「どうしましたか?〇〇君」


 私は焦って早口で答えた。


「トイレ行って来てもいいですか?」


 先生はこういう場合をよく経験していたからか、わざとらしい優しそうな声で


「ええ、もちろんいいですよ」と言った。


 だから私は、あまり目立ないように教室ではわざとゆっくりと歩いて、ドアを閉めて廊下に出るなり全速力で走った。トイレには何とか間に合い、気持ち良く用を足す事が出来た。


 だが、一息ついて安心した途端、私は突如とてつもない不安に襲われた。戻るのがなんだかとても恥ずかしくなったのだ。トイレで行ったり来たりしてなかなか戻れずにいると、やがて5分程時間が経ってしまった。


 今度は何だかサボりだと思われて先生に叱られるのではないかと思い、怖くなって来た。だから、早歩きで教室へと戻った。


 ドアを開けると一斉にこちらを皆見て来た。私は視線を反らして、下を向いて自分の席に戻った。その後、授業は何事もなく進んだ。だが、授業が終わり皆が立ち上がって動き出したとき、何かいつもとは違う違和感を感じた。


 いつも大きな声で話し合っていた男子グループが、やけに小さな声でひそひそ話し合っていた。さらに、こころなしかこちらを見ているようだった。


 まだ、入学したばかりで、その男子のグループともう一つの女子のグループ以外の子は、誰かと仲良くなったりしておらず、皆静かに席に座っていた。私もまだ仲の良い子は出来ていなかったので、一人静かに席に座っていた。


 私はその男子達に違和感を感じていたが、その日は何事もなく終わった。だが、次の日明らかな変化があった。その日、私はいつもより少し遅い時間に学校に着いた。


 すると、何だか周りの席が自分の席から少し離れていた。違和感を感じつつも、もうすぐ先生が来るので私は席へと着いた。朝の会が終わって先生が教室から出た直後だった。


 昨日心なしかこちらを見てひそひそ話していた、男子グループの一人がこちらに向かって歩いて来た。何だかとても目が合った。その男子はとても冷たい目をしていた。


 私の横を通りかかろうとした次の瞬間、男はわざとらしく体を反らして私を避けた。その顔は満面の笑みを浮かべていた。続けて、そのグループの何人かも同じように私の方へ歩いて来て、わざとらしく避けて行った。私から少し離れたところで集まると、かすかに笑い声が聞こえた。


 私は怖くて振り返る事は出来なかった。そして、それがその日の授業の間の休み時間、昼休みと、何度も繰り返された。私は学校が終わるやいなや、逃げるように家へ帰った。


 そして、次の日学校へ行く事が出来なかった。私は行かなければと思い玄関に向かったのだが、とてつもない腹痛と異常な程の汗に見舞われた。それに耐えられず、私は激しい自己嫌悪感に陥りながら自分の部屋へと戻ってしまった。


 次の日もその次の日も、私は家を出る事が出来なかった。最初は、両親に何度も学校に行くよう怒鳴られた。だが、やがて、私が玄関から家を出ようとしている時のただならない表情を見て、そう言うのを辞めたらしい。


 私は、来る日も来る日も玄関に座りこんでいた。覚悟を決め、何度も立ち上がるのだが、その度に足が自分のものではないように重くなってろくに動いてくれなくなった。心臓の鼓動が速まる音が聞こえて来て、目の前で何か燃えているかのように体が火照っていく。気づいたらまた座りこんでしまっていた。


 なんとも悔しい事に、こうやって座り込むと心臓の鼓動はゆっくりとなり、体が肌寒く感じるくらいに冷えていくのだ。呼吸も安定して苦しさから開放される。


 私はこの誘惑に勝つことが出来なかった。やがて玄関に向かうのもやめ、ただ1人1日中、自分の部屋に座り込んでいた。少しして、父と母に話し合う事を求められ、私はそうした。


 リビングのテーブルで二人と向かい合ったとき、視線を合わす事が出来なかった。他の子は出来ている事が、自分には出来ない事が悔しくて恥ずかしかった。私はただずっと、目から出てしまいそうな涙を堪え続けていた。


 二人は私に、学校に行かない代わりに、学校から送られたり、自分達が決めたプリントや問題集を必ずやる事を約束するか聞いた。私はうつむきながら何度も頷いた。そして、もうどうにかなってしまいそうな、あの不安と絶望を感じなくていい事に心の底から安堵した。


 それから、ただ家にいるだけでいい日々が始まった。最初の内は何もせず、ただボーっとしていた。学校に行っていないのに、本来学校があったはずの時間は、ずっと緊張状態にあった。自分がどんな風に言われているのか、誰か家に来るのではないかと。でもやがて、家にいることに慣れたのかそうならなくなった。


 そして、考えるようになった。何故、自分があんな風にわざとらしく避けられたのか。心当たりは一つだけだ。授業中にトイレに行ったこと。だが、そんな事でと疑問に思った。小学校は6年間もあるのだ。そんな事でああいう嫌がらせを受けるのなら、卒業するまでに何人がああいう目に合うだろうかと。でも、いつしか気づいた。


 結局、時期だったのだ。まだ、学校が始まったばかりで皆慣れていなくて、いろいろなことに不安を感じていただろう。そういう時に、誰かを標的にして嫌がらせをする事で、その不安を解消しようとしていたのだろうと。


 そして、始まったばかりで特に何も起こらないクラスの中で、ちょうど私のあの行為が標的にしやすかったのだと。あの行為とは授業中にトイレに行った事だ。最初は、そんな事でと納得する事ができなかったが、やがてこのように考えた事で理解した。


 小学校とはそう言う所なのだと。まだ、未熟な子供が集まれば、成長すれば普通だと思えることが、異常な事に見えてしまい、一度周りがそう考えたら、もう誰も何も考えずにただそれが正しいと思ってしまうのだ。特に低学年ともなれば、その考え方や行動は顕著だろう。


 まあ、とにかくこうして私は、不登校プラス引き籠もりとなった。最初の2年間は、学校の提出物と親が買って来た問題集をこなして、後の時間は寝るか、テレビを見て過ごしていた。その2年間は私にとって本当に長く感じるものだった。


 だが、小学3年になっていた時の事だった。親が自分達が見るために、映画や海外ドラマをテレビで見る事が出来る、サブスクに加入した。まあ、本来なら親が優先で私がそれを見る事など出来ないのだが、親は共働きで朝から夜まで帰っては来ないので、その時間は見る事が出来た。


 私はそのサブスクにあったアニメ作品を見まくった。ジャンルなど気にせず、アニメであるなら何でも見た。そこには、私の知らない世界があって、私が知らない家族以外の他人がいた。アニメキャラを人とみなす事はおかしなことなのだろうが、全く他人と関わる事のなかった私にとって、それは私が知らなかった他人だった。


 やがて、私はずっと考えるようになった。自分はどのような人間なのだろうと。家にいるときの自分は分かっているし、親といるときの自分も分かる。だが、外に出たとき、同級生といるとき、同級生と話すときの自分はどのような人間なのだろうか。それはいくら探しても、そこにいては見つかることのない探しものだった。


 もしかしたら、あの学校でのトラウマがあって人と関わる事を避けるのかもしれない。だが、それでも良かった。それが、外に出たときの自分だという事が分かるから。


 アニメは本当に面白くて、見るのが大好きだったが、いまいち感情移入というものが出来なかった。それは、自分がそこ以外の場所でどんな人間なのか分からないからだった。自分はどのキャラと考え方や受け止める感情が近いのか、そのような場面に自分がいたらどんな風に思い考えるのだろうか。


 少しでも似たような経験をしていたり、見たりしたら分かるのだろうが、私には全く想像すらつかなかった。結局それを理解するためには、そこにいるだけでは駄目だった。そこを出て、様々な状況に置かれて見なければ、自分がどんな人間なのかは分からないままなのだ。


 私は決心した。今の状況を捨てようと。母と父に再び学校に行きたいと話した。父と母はいろいろ相談し合って、前に通っていた学校とは違う学校に行かせてみようと決めたらしい。小学3年の間は、周りに溶け込むことが難しいかもしれないから、小学4年の4月1日に転校して登校できるよう両親が手続きをしてくれた。


 登校を待つ間、自分がどんな人間なのかという探しものを見つけたい気持ちは、日々強くなった。やがて、その気持ちは止められなくなっていった。自分が学校で周りに溶け込めないかもしれないという不安も起きていたが、その気持ちの前にははるかに小さなものであった。


 そして、登校する4月1日がやってきた。私の朝起きたときの気持ちは、ドキドキと表現するのが一番近い、そんな気持ちだった。そのドキドキは、今まで行くことができかった場所に本当に行けるのかという大きな不安と、自分だけ出来なくて、ずっと悔しかったあの日々がようやく終わるというワクワクが混ざりあったものだった。


 でも、それ以上に一番心の中で大きかったものは、自分という人間をようやく見つけられる気がして起きていた、心が弾むときめきだった。私は朝起きてから何を食べたか、何のテレビを見ていたか、両親と何を話したか全く覚えていない。


 だが、今まで開ける事のできなかった、その日何だかとても重たく感じたドアを開いて、眩しくてただ白い光しか見えなかった場所に、足を進めたあの興奮はいつまでも忘れはしない。私にとって探しものとは物ではなく、ただ逃げていた自分を前に進めてくれた、自分を知りたいという永遠の欲求である。
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