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2.旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません
(2)
いつの間にか意識を失っていたらしいアリエルは、ひとならざるものの気配で目を覚ました。夫と間違えるはずもない、あまりにも神々しい雰囲気に、相手の正体を彼女は言われずとも理解する。
「神の御使いというものはこれほどまでに美しい方なのですね。まあ確かに、非常にひょうきんな方でしたり、あまりにも恰幅がよすぎる方でしたりすると、どうしても本当に御使いなのか疑ってしまいそうですものね」
「褒めているのやら、けなしているのやらさっぱりわからないが、一応誉め言葉として受け取っておこう。それで話を進めてもよいだろうか?」
「もちろん、構いませんわ。天使さま」
息を引き取ったアリエルの元に現れたのは、それは美しい麗人だった。麗人は傷ひとつないなめらかな指を一本立てて、アリエルに提案してきた。
「そなたは、今まで非常に善き人間として暮らしてきた。そこで褒美を授けようと思う。人生における後悔を取り除いてみよ。その結果を見た上で、そなたの行く先を決めようではないか」
「今の時点では、天へ向かうか、地獄へ堕ちるか、決められていないということでしょうか」
「何もしなければ、そなたは天の国へ向かうとも。過去を振り返らず、天に昇ってもかまいはしない。だが、せっかくの機会だ。なかなか過去をやり直す幸運を与えられる人間はいないことは確かだな」
なるほどと、アリエルは頬に手をあてて考え込んだ。過去を振り返ってみれば、確かに苦い思い出は山のようにある。
両親の離婚を阻止することができていたならば、今頃どうなっていただろうか。継母や異母妹に虐められ、家庭内で奴隷のような扱いを受けることもなかったのかもしれない。もしくは縁が切られていたとはいえ、母親の実家に助けを求めていたならば。いっそ金目の物をいくつか抱えて、修道院に逃げ込んだならば。アリエルの人生はよりよいものになっていたのかもしれない。
考えれば考えるほどきりがない。前を向いて生きてきたけれど、意外なほど自分の中には後悔していることがあるのだと思い知らされた。アリエルは小さく息を吐くと、目の前の天使に向かってうなずいてみせた。
「それでは、どうぞ私の旦那さまの子ども時代を幸福にする手伝いをさせてください」
「なんだと?」
「旦那さまは、かつて過酷な子ども時代を送ってきました。それはすさまじいもので、その結果として彼は長い間人間不信に陥ることになりました。旦那さまとご家族の問題は不幸なすれ違いと偶然が重なってできています。過去に戻りそのもつれた糸を解くことができたならば、旦那さまは幸福に暮らすことができるのではないかと私は考えているのです」
麗人は何とも言えない渋い顔になった。深いしわが眉間に刻まれている。
「そなたの考え方は素晴らしい。非常に尊く、美しいものだ。けれど考えてもみてほしい。そなたが夫君に見初められたのは、彼が人間不信に陥り、お飾りの妻を求めたからでは?」
「さようでございます。旦那さまは家族というものを信じてはいらっしゃいませんでした。お立場上どうしても奥方が必要で、爵位も低く、実家の人間も御しやすいという理由で私は娶られました。それでも、旦那さまはお優しい方でした。飢えに悩まされることもなく、暴力に怯えることもありませんでした。最終的に心を通じ合わせることができたのは、何よりの僥倖だと思っております」
「そもそも結婚相手が飢えないことや、暴力に苦しまないことは、最低限の対応であろう。それに夫君のことを愛していると言うのであれば、なぜに彼の過去を変えようなどと言うのか」
アリエルは口元をほころばせた。
「天使さまは、旦那さまの過去を変えれば未来が変わるとおっしゃりたいのですね。結果的に彼に出会うことがなければ、私のほうこそ結婚によって救い出されることなく、不幸のどん底で死ぬことになるだろうと」
「その通りだ」
それでもなお、アリエルは柔らかく目を細めたままだ。その微笑みは、信じられないほど穏やかで晴れ晴れとしたものだった。
「過去を変えて発生する不利益はそれだけなのですね。旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません。もともと私の命は、旦那さまに出会えなければいつ潰えてもおかしくないものでした。たまたま旦那さまのお慈悲によって生かされていただけ。これまでの幸福は、本来私が受け取れるはずがないものだったのです。ですから、私はもう十分。私は受け取った幸せを彼に返さなければなりません」
「返すだと?」
「今の彼は、私がいなくなればまた心を壊してしまいそうな危うさがあります。忘れ形見となる子どもがいたら違ったかもしれません。とはいえ彼の心の弱さでは、子どもがいたとしても今度は彼らに私の面影を重ねてしまい、子どもたちの将来を潰してしまったかもしれませんね」
「夫君のことをこき下ろすではないか」
「今度こそ、彼には本当に幸せになってほしいのですよ。彼の心と身体を育て、根っこをしっかりと生やし、ちょっとやそっとの風雨では枯れることのないようにしてあげたいのです」
「まったくもって、意味が分からない。そもそも過去に戻って後悔を取り除くにしても、介入できるのは限られたわずかな時間だけ。子ども時代の夫君を育て直すことなどできぬ」
「もちろん、それで構いません。ふふふ、子ども時代の旦那さまを可愛がることができたら幸せかもしれませんが、それは私の幸せであって、旦那さまの幸せではありませんもの。それで、いかがでしょう。私の願いを叶えていただくことは難しいでしょうか?」
「まさか。もちろんそなたの望みを叶えよう。そのやり直しの末に、何が起きるのかを楽しみにしている」
アリエルは千載一遇の機会を得た喜びをただひとり噛みしめていた。
「神の御使いというものはこれほどまでに美しい方なのですね。まあ確かに、非常にひょうきんな方でしたり、あまりにも恰幅がよすぎる方でしたりすると、どうしても本当に御使いなのか疑ってしまいそうですものね」
「褒めているのやら、けなしているのやらさっぱりわからないが、一応誉め言葉として受け取っておこう。それで話を進めてもよいだろうか?」
「もちろん、構いませんわ。天使さま」
息を引き取ったアリエルの元に現れたのは、それは美しい麗人だった。麗人は傷ひとつないなめらかな指を一本立てて、アリエルに提案してきた。
「そなたは、今まで非常に善き人間として暮らしてきた。そこで褒美を授けようと思う。人生における後悔を取り除いてみよ。その結果を見た上で、そなたの行く先を決めようではないか」
「今の時点では、天へ向かうか、地獄へ堕ちるか、決められていないということでしょうか」
「何もしなければ、そなたは天の国へ向かうとも。過去を振り返らず、天に昇ってもかまいはしない。だが、せっかくの機会だ。なかなか過去をやり直す幸運を与えられる人間はいないことは確かだな」
なるほどと、アリエルは頬に手をあてて考え込んだ。過去を振り返ってみれば、確かに苦い思い出は山のようにある。
両親の離婚を阻止することができていたならば、今頃どうなっていただろうか。継母や異母妹に虐められ、家庭内で奴隷のような扱いを受けることもなかったのかもしれない。もしくは縁が切られていたとはいえ、母親の実家に助けを求めていたならば。いっそ金目の物をいくつか抱えて、修道院に逃げ込んだならば。アリエルの人生はよりよいものになっていたのかもしれない。
考えれば考えるほどきりがない。前を向いて生きてきたけれど、意外なほど自分の中には後悔していることがあるのだと思い知らされた。アリエルは小さく息を吐くと、目の前の天使に向かってうなずいてみせた。
「それでは、どうぞ私の旦那さまの子ども時代を幸福にする手伝いをさせてください」
「なんだと?」
「旦那さまは、かつて過酷な子ども時代を送ってきました。それはすさまじいもので、その結果として彼は長い間人間不信に陥ることになりました。旦那さまとご家族の問題は不幸なすれ違いと偶然が重なってできています。過去に戻りそのもつれた糸を解くことができたならば、旦那さまは幸福に暮らすことができるのではないかと私は考えているのです」
麗人は何とも言えない渋い顔になった。深いしわが眉間に刻まれている。
「そなたの考え方は素晴らしい。非常に尊く、美しいものだ。けれど考えてもみてほしい。そなたが夫君に見初められたのは、彼が人間不信に陥り、お飾りの妻を求めたからでは?」
「さようでございます。旦那さまは家族というものを信じてはいらっしゃいませんでした。お立場上どうしても奥方が必要で、爵位も低く、実家の人間も御しやすいという理由で私は娶られました。それでも、旦那さまはお優しい方でした。飢えに悩まされることもなく、暴力に怯えることもありませんでした。最終的に心を通じ合わせることができたのは、何よりの僥倖だと思っております」
「そもそも結婚相手が飢えないことや、暴力に苦しまないことは、最低限の対応であろう。それに夫君のことを愛していると言うのであれば、なぜに彼の過去を変えようなどと言うのか」
アリエルは口元をほころばせた。
「天使さまは、旦那さまの過去を変えれば未来が変わるとおっしゃりたいのですね。結果的に彼に出会うことがなければ、私のほうこそ結婚によって救い出されることなく、不幸のどん底で死ぬことになるだろうと」
「その通りだ」
それでもなお、アリエルは柔らかく目を細めたままだ。その微笑みは、信じられないほど穏やかで晴れ晴れとしたものだった。
「過去を変えて発生する不利益はそれだけなのですね。旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません。もともと私の命は、旦那さまに出会えなければいつ潰えてもおかしくないものでした。たまたま旦那さまのお慈悲によって生かされていただけ。これまでの幸福は、本来私が受け取れるはずがないものだったのです。ですから、私はもう十分。私は受け取った幸せを彼に返さなければなりません」
「返すだと?」
「今の彼は、私がいなくなればまた心を壊してしまいそうな危うさがあります。忘れ形見となる子どもがいたら違ったかもしれません。とはいえ彼の心の弱さでは、子どもがいたとしても今度は彼らに私の面影を重ねてしまい、子どもたちの将来を潰してしまったかもしれませんね」
「夫君のことをこき下ろすではないか」
「今度こそ、彼には本当に幸せになってほしいのですよ。彼の心と身体を育て、根っこをしっかりと生やし、ちょっとやそっとの風雨では枯れることのないようにしてあげたいのです」
「まったくもって、意味が分からない。そもそも過去に戻って後悔を取り除くにしても、介入できるのは限られたわずかな時間だけ。子ども時代の夫君を育て直すことなどできぬ」
「もちろん、それで構いません。ふふふ、子ども時代の旦那さまを可愛がることができたら幸せかもしれませんが、それは私の幸せであって、旦那さまの幸せではありませんもの。それで、いかがでしょう。私の願いを叶えていただくことは難しいでしょうか?」
「まさか。もちろんそなたの望みを叶えよう。そのやり直しの末に、何が起きるのかを楽しみにしている」
アリエルは千載一遇の機会を得た喜びをただひとり噛みしめていた。
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