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2.旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません
(3)
謎の力により時を遡ったアリエルは、下町の小汚い長屋の一部屋に飛び込んだ。そこには死にかけている母を前にして、ぽろぽろと涙を流すばかりの幼いトバイアスがいた。薬もなく、ろくな食べ物もない。寒い冬だというのに燃料もなく、お湯を沸かして飲むことさえままならない。そんな状態で、トバイアスは声を押し殺して静かに泣いていたのである。
――俺が、五つの頃だ。流行り病で母が死んだ。母は公爵家の侍女だったが、俺を身ごもったせいで実家である子爵家から縁を切られたらしい。公爵家に睨まれてはたまらないと思ったのだろう。父は必ず迎えに行くと母に約束したらしいが、実際は養育費さえ寄こさぬまま母を見殺しにした最低野郎だ。公爵家を乗っ取ってやった時に、「家令に騙されていた」と泣きながら詫びてきたがその手には乗らない。自分の保身しか考えられぬ偽善者め――
他人を信用しないトバイアスから彼の幼少期の苦労話を聞いたのは、結婚してしばらく経ったある日のことだった。公爵家から追い出され、実家からも見放されたトバイアスの母親は、刺繍の仕事をすることでなんとか生計を立てていたのだという。貴族出身ながら下町の人々に受け入れられたのは、トバイアスの母親の人柄ゆえだろう。
そんなトバイアスの母親も、流行り病には勝てなかった。希少で高価な薬を手に入れることができれば話は別だったが、トバイアス母子にも、周囲の下町の人間たちにも難しい話だったのである。その後トバイアスは亡くなった母の葬式を挙げるために父親の住む公爵家を訪ねたが、けんもほろろに追い返されたらしい。その時に彼は公爵家への復讐を誓い、武勲を立てることで最終的に公爵家の正当な跡取りの座を手に入れることに成功したのである。和解する機会のなかった父親はひとり寂しい老後を送り、早逝したそうだ。
けれどその後何年もしてから、アリエルとトバイアスは残された日記から真実を知ることになった。実はトバイアスの父親は、本当に彼の母のことを愛していたらしい。先代当主の目をかいくぐる形で、自ら財産を運用し、トバイアスの母に養育費として送金していたそうだ。残念ながらそれらのお金は、トバイアス母子の元には一銭たりとも届いていなかったのだが。
公爵家の当主が渡していた金は、秘密裏に対処を任されていたはずの家令がすべて着服していたのである。トバイアスの母親は、あまりにも我慢強い女性だった。もっと声高に不満を訴え、公爵家に押しかけてきていたならば、彼女たちの窮状はトバイアスの父親の知るところになったはずである。けれど現実として、彼女は耐えに耐え、何も語らないまま亡くなってしまうのだ。
これらの真実を知っているアリエルは、今この時こそがトバイアスの人生の分岐点であることを理解していた。もう少し余裕のある時間軸に戻してもらいたかったような気もするが、その場合、きっとトバイアスもその母親も公爵家に迷惑をかけるような行為は望まなかったに違いない。現在の、生きるか死ぬかという究極の事態だからこそ、大胆過ぎる提案を呑んでくれるだろうという確信が彼女にはあった。
「だん……トバイアスさま。ここで泣いていても仕方がありません。お母さまを救うためには、トバイアスさまの勇気が必要です!」
「だ、だれ?」
「わ、私は、トバイアスさまのお生まれの秘密を知る者です。トバイアスさまのお母さまは、このままでは天に召されてしまいます。お母さまをお守りすることができるのは、トバイアスさまだけ。今すぐに私の言うことを信じて、動いてください」
あまりにも怪しすぎることは、アリエルにもわかっていた。母親の死の間際に飛び込んできた見知らぬ中年女が、自分と母を捨てた父親の元に行けと言っている。うさんくさいことこの上ない。それでも、これは彼にしかできないことなのだ。母譲りの美しい緑の瞳と、父親そっくりの整った顔立ち。誰に何を言われようが、彼本人が公爵家に出向いて父親に会うことさえできれば、力技ですべてを解決できるのだから。
「トバイアスさま、お母さまが大事にされている指輪を忘れずに。それは、トバイアスさまのお父さまがお母さまに贈られたものです。あなたの出生を証明する大事なものです。失くしてはいけませんよ」
「わかった。でも、公爵家までは遠いよ?」
「歩きであれば、そうでしょうとも。馬車に乗って行ってくださいませ。支払いはこちらを渡せばよいですわ。公爵家に着いたら、家令ではなく侍女長のマーサを呼んでくださいね。その間、私はお母さまの面倒をみておきますわ。安心してください、きっとうまくいきますから」
アリエルは、少年の手に美しいエメラルドのイヤリングをのせた。それはかつてトバイアスが、アリエルの誕生日に用意してくれたものだ。お飾りの妻へ、世間体のために適当に買い与えたような代物ではなく、ふたりの心が通い合うようになってからトバイアスが自分の色を身に着けてほしくてアリエルに贈った特別な一品。
(天の国まで持っていきたかったけれど、旦那さまの幸せのために使うのなら手放しても惜しくはないわ)
アリエルはトバイアスの手を優しく握りしめた。
――俺が、五つの頃だ。流行り病で母が死んだ。母は公爵家の侍女だったが、俺を身ごもったせいで実家である子爵家から縁を切られたらしい。公爵家に睨まれてはたまらないと思ったのだろう。父は必ず迎えに行くと母に約束したらしいが、実際は養育費さえ寄こさぬまま母を見殺しにした最低野郎だ。公爵家を乗っ取ってやった時に、「家令に騙されていた」と泣きながら詫びてきたがその手には乗らない。自分の保身しか考えられぬ偽善者め――
他人を信用しないトバイアスから彼の幼少期の苦労話を聞いたのは、結婚してしばらく経ったある日のことだった。公爵家から追い出され、実家からも見放されたトバイアスの母親は、刺繍の仕事をすることでなんとか生計を立てていたのだという。貴族出身ながら下町の人々に受け入れられたのは、トバイアスの母親の人柄ゆえだろう。
そんなトバイアスの母親も、流行り病には勝てなかった。希少で高価な薬を手に入れることができれば話は別だったが、トバイアス母子にも、周囲の下町の人間たちにも難しい話だったのである。その後トバイアスは亡くなった母の葬式を挙げるために父親の住む公爵家を訪ねたが、けんもほろろに追い返されたらしい。その時に彼は公爵家への復讐を誓い、武勲を立てることで最終的に公爵家の正当な跡取りの座を手に入れることに成功したのである。和解する機会のなかった父親はひとり寂しい老後を送り、早逝したそうだ。
けれどその後何年もしてから、アリエルとトバイアスは残された日記から真実を知ることになった。実はトバイアスの父親は、本当に彼の母のことを愛していたらしい。先代当主の目をかいくぐる形で、自ら財産を運用し、トバイアスの母に養育費として送金していたそうだ。残念ながらそれらのお金は、トバイアス母子の元には一銭たりとも届いていなかったのだが。
公爵家の当主が渡していた金は、秘密裏に対処を任されていたはずの家令がすべて着服していたのである。トバイアスの母親は、あまりにも我慢強い女性だった。もっと声高に不満を訴え、公爵家に押しかけてきていたならば、彼女たちの窮状はトバイアスの父親の知るところになったはずである。けれど現実として、彼女は耐えに耐え、何も語らないまま亡くなってしまうのだ。
これらの真実を知っているアリエルは、今この時こそがトバイアスの人生の分岐点であることを理解していた。もう少し余裕のある時間軸に戻してもらいたかったような気もするが、その場合、きっとトバイアスもその母親も公爵家に迷惑をかけるような行為は望まなかったに違いない。現在の、生きるか死ぬかという究極の事態だからこそ、大胆過ぎる提案を呑んでくれるだろうという確信が彼女にはあった。
「だん……トバイアスさま。ここで泣いていても仕方がありません。お母さまを救うためには、トバイアスさまの勇気が必要です!」
「だ、だれ?」
「わ、私は、トバイアスさまのお生まれの秘密を知る者です。トバイアスさまのお母さまは、このままでは天に召されてしまいます。お母さまをお守りすることができるのは、トバイアスさまだけ。今すぐに私の言うことを信じて、動いてください」
あまりにも怪しすぎることは、アリエルにもわかっていた。母親の死の間際に飛び込んできた見知らぬ中年女が、自分と母を捨てた父親の元に行けと言っている。うさんくさいことこの上ない。それでも、これは彼にしかできないことなのだ。母譲りの美しい緑の瞳と、父親そっくりの整った顔立ち。誰に何を言われようが、彼本人が公爵家に出向いて父親に会うことさえできれば、力技ですべてを解決できるのだから。
「トバイアスさま、お母さまが大事にされている指輪を忘れずに。それは、トバイアスさまのお父さまがお母さまに贈られたものです。あなたの出生を証明する大事なものです。失くしてはいけませんよ」
「わかった。でも、公爵家までは遠いよ?」
「歩きであれば、そうでしょうとも。馬車に乗って行ってくださいませ。支払いはこちらを渡せばよいですわ。公爵家に着いたら、家令ではなく侍女長のマーサを呼んでくださいね。その間、私はお母さまの面倒をみておきますわ。安心してください、きっとうまくいきますから」
アリエルは、少年の手に美しいエメラルドのイヤリングをのせた。それはかつてトバイアスが、アリエルの誕生日に用意してくれたものだ。お飾りの妻へ、世間体のために適当に買い与えたような代物ではなく、ふたりの心が通い合うようになってからトバイアスが自分の色を身に着けてほしくてアリエルに贈った特別な一品。
(天の国まで持っていきたかったけれど、旦那さまの幸せのために使うのなら手放しても惜しくはないわ)
アリエルはトバイアスの手を優しく握りしめた。
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