2 / 29
(1)椿-1
しおりを挟む
坂の上の家は寒い。山と海が同時に見える景色は最高だが、なにせ風を遮るものがないのだから、家は一日中がたがた揺れている。
その上、昔ながらの日本家屋に断熱という意識はない。おかげで布団から這い出すのが遅くなり、家を出たのは遅刻ぎりぎりの時間帯だった。
『九州はいいよね。暖かいから、コートなんていらないんでしょ?』
そう笑って送り出してきた同僚のことを思い出しながら、ダウンのポケットに手を突っ込む。手袋は玄関先に忘れてきてしまった。
繰り返し説明したいが、九州は常夏のハワイではない。沖縄ですら時期と場所によっては冬服を着るのだ。いわんや北部九州をや。そもそも全国区の天気予報を見れば理解できる話だろう。
「おはよう、今日も寒いね。風邪をひかないようにみんなでくっついておきなね」
「にゃお」
近所の地域猫の一団に声をかけながら、出勤する。ああ、いつものお前かという雰囲気でキジトラの猫たちが見送ってくれた。猫は毛の柄によって警戒心の強さが違うと聞くけれど、この辺りの猫は軒並みひと懐っこい。
坂の町は猫の町でもある。昔から当たり前のようにあちらこちらに猫がいるのだ。人間が近くにいようが自由にごろごろしているし、話しかければ返事をしてくれる。餌の有無なんて関係ない。
東京の猫はびっくりするくらい俊敏で、まさに野生の生き物だった。店の軒先や一般の民家の軒先で、飼い猫のような顔をして寝転がっている地域猫のほうが珍しいのかもしれない。
「今日は時間がないから最短ルートで行くしかないな」
もともと今日通る予定にしていたのは、三毛と茶トラのご家族が縄張りにしている階段道だった。泣く泣く予定変更し、私は職場への最短経路を選んだはずだった。そのはずだったのだが……。
「あれ? 道に迷った?」
途中でおかしなことになってしまった。坂の上に住んでいると、出かけるときの感覚は「下る」になる。帰ってくるときは「上る」のだ。
どんなでたらめな方向に進んだところで、下ることさえ忘れなければ、必ず街の中心部につく。それなのに、なぜか気がつくと道を上ってしまっているのだ。
「どうしてこうも時間がないときに!」
歯噛みしたくなったが、約束であれば仕方がない。どうせ迷い込んだ以上、依頼を引き受けなけないことには、このあやかし坂からは出られないのだから。
祖母に言い含められていた約束を、何も考えずに了承した自分の浅はかさが恨めしい。
私は遅刻を覚悟して坂を上り始めた。
その上、昔ながらの日本家屋に断熱という意識はない。おかげで布団から這い出すのが遅くなり、家を出たのは遅刻ぎりぎりの時間帯だった。
『九州はいいよね。暖かいから、コートなんていらないんでしょ?』
そう笑って送り出してきた同僚のことを思い出しながら、ダウンのポケットに手を突っ込む。手袋は玄関先に忘れてきてしまった。
繰り返し説明したいが、九州は常夏のハワイではない。沖縄ですら時期と場所によっては冬服を着るのだ。いわんや北部九州をや。そもそも全国区の天気予報を見れば理解できる話だろう。
「おはよう、今日も寒いね。風邪をひかないようにみんなでくっついておきなね」
「にゃお」
近所の地域猫の一団に声をかけながら、出勤する。ああ、いつものお前かという雰囲気でキジトラの猫たちが見送ってくれた。猫は毛の柄によって警戒心の強さが違うと聞くけれど、この辺りの猫は軒並みひと懐っこい。
坂の町は猫の町でもある。昔から当たり前のようにあちらこちらに猫がいるのだ。人間が近くにいようが自由にごろごろしているし、話しかければ返事をしてくれる。餌の有無なんて関係ない。
東京の猫はびっくりするくらい俊敏で、まさに野生の生き物だった。店の軒先や一般の民家の軒先で、飼い猫のような顔をして寝転がっている地域猫のほうが珍しいのかもしれない。
「今日は時間がないから最短ルートで行くしかないな」
もともと今日通る予定にしていたのは、三毛と茶トラのご家族が縄張りにしている階段道だった。泣く泣く予定変更し、私は職場への最短経路を選んだはずだった。そのはずだったのだが……。
「あれ? 道に迷った?」
途中でおかしなことになってしまった。坂の上に住んでいると、出かけるときの感覚は「下る」になる。帰ってくるときは「上る」のだ。
どんなでたらめな方向に進んだところで、下ることさえ忘れなければ、必ず街の中心部につく。それなのに、なぜか気がつくと道を上ってしまっているのだ。
「どうしてこうも時間がないときに!」
歯噛みしたくなったが、約束であれば仕方がない。どうせ迷い込んだ以上、依頼を引き受けなけないことには、このあやかし坂からは出られないのだから。
祖母に言い含められていた約束を、何も考えずに了承した自分の浅はかさが恨めしい。
私は遅刻を覚悟して坂を上り始めた。
1
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?
音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。
役に立たないから出ていけ?
わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます!
さようなら!
5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!
没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。
亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。
しかし皆は知らないのだ
ティファが、ロードサファルの王女だとは。
そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました
歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と
罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが
やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、
エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」
辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。
商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。
元夫が「戻ってこい」と泣きつくが——
「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる