婚約者から悪役令嬢と呼ばれた公爵令嬢は、初恋相手を手に入れるために完璧な淑女を目指した。

石河 翠

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 公爵令嬢アンジェラには、かつて未来を覗いた記憶がある。遡ること十年前。その頃の彼女は、自分と同い年とはとても思えない愚かな王太子に本気で頭を悩ませていた。公爵令嬢として自分に求められている役割は理解している。それでも、度し難い馬鹿を一生支え続けなければならないという事実に、ほとほと参っていたのだ。

 王太子との婚約は耐えられない、どうか婚約を破棄してほしい。アンジェラの切実な願いが叶えられることはなかった。何せ、ようやくできた跡取り息子である。どんなに不出来な息子でも、国王夫妻にとっては目の中に入れても痛くない愛息なのだ。そして我が子の出来が中の下どころか、下の下であることがわかっていたからこそ、アンジェラを解放してくれるはずがなかった。

 八方塞がりの状況下でアンジェラの心を絶望させたのは、実は王太子の暴言でも、息子のことばかりを見ている国王夫妻の虫のいいお願いなどでもない。日頃からアンジェラのことを「我が家の天使」と呼んではばからない祖父や父、兄弟が、婚約解消について難色を示したことにこそあった。

 結局、女など政治の駒にすぎないのだと思い知ったアンジェラは、家出を決行することにした。もちろん子ども一人で生きていくことすらできないことはわかっている。それでも粗暴な王太子と救いのない自身の未来を受け入れるためには、いくばくかの時間が必要だった。だからこそ彼女は、普段の彼女なら絶対に手を出さないような無謀な計画を実行してしまったのだ。

(誰も自分のことを知らない場所に行きたい。少しの時間で構わない。淑女たる公爵令嬢としての正しい振舞いを求められるのではなく、自分が自分として過ごしても許される場所。そんな場所が本当にあるのなら、そこでただの子どもとして過ごしてみたい。神さま、少しだけ私に時間をください)

 シーツの切れ端をつなげたロープもどきをバルコニーの柱に巻き付け、部屋から抜け出そうとした。部屋から庭に出たところで、門番に見つかることなく外に出られるはずがないのに。その上、子どもが即席で作ったロープもどきはあっさりと途中で千切れてしまった。落ちる! そう思った瞬間に、アンジェラはまばゆい光に包まれたのである。

(お父さま、お母さま、先立つ不孝をお許しください)

 けれど部屋から落下したはずのアンジェラに、衝撃と痛みは襲ってこない。代わりに、がらりと周囲の景色が変化していた。部屋を抜け出そうとしていたのは、真夜中だったはずなのに、アンジェラが空を見上げれば太陽は既にかなり高い位置まで上っていたのだ。

(ここは一体、どこなの? 貴族街、ではあるようね? なんとなく見覚えがあるもの)

 くうと、情けないお腹の音が響く。疲れと空腹に耐えかねたアンジェラは、無意識のうちに目の前にある小奇麗な外観の店の扉を叩いてしまっていた。その店の中から姿を現した相手こそ、アンジェラを保護し、彼女に様々なことを教えてくれたカルロという若い男だった。

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