リポグラム短編集～『あい』を失った女～

『け』抜きと『こ』盗り

　生はえ際ぎわにできた白髪しらがを抜ぬく。美容院びよういんで染そめるほどではないが、白しろく目立めだつせいで、そのままにするのはどうも恥はずかしい。指先ゆびさきではうまく力ちからが入はいらずもどかしい思おもいをするから、きっちりと髪かみを挟はさめる金属製きんぞくせいの小ちいさな相棒あいぼうは、何物なにものにも変かえがたい。それなりのお値段ねだんがする匠たくみの一品いっぴんなのだ。

　今日きょうも洗面所せんめんじょで確認かくにんしていたら、鏡かがみにある黒くろい染しみに気きがついた。水垢みずあかかと思おもいきや、それは瞬またたく間まに大おおきくなってゆく。今いまにも鏡かがみから溢あふれ出だしそうだ。
　そ・れ・が、わたしの大切たいせつな宝物たからものを狙ねらっているのだと、なぜだかはっきりと理解りかいできた。きっと生いき物ものの本能ほんのうだろう。

　武器ぶきも力ちからもないただの女おんなだが、それでもわたしは勝かたねばならない。柔やわらかで、甘あまい匂においのする、世界せかいで一番いちばん愛いとしい存在そんざいを守まもるために。

　とっさに右手みぎてを鏡かがみに突つき立たてた。跳はね返かえされもせず、腕うでまで深々ふかぶかと沈しずんでゆく。鏡かがみの中なかは妙みょうに生暖なまあたたかい。

　何なにかが指先ゆびさきにあたった。直感的ちょっかんてきに弱点じゃくてんだと思おもいあたり、それを摘つまんで引ひき抜ぬく。もちろん使つかっているのは、先さきほどまで白髪しらがを抜ぬいていたあの金属製きんぞくせいの相棒あいぼうだ。

　ずるり。

　勢いきおいよく出でてきたのは、気味きみが悪わるいほど黒々くろぐろとした、長ながくて太ふとい一本いっぽんの髪かみだった。鏡かがみを見みれば、怪あやしい染しみなどなく、大おおきな蛾がが一匹いっぴきはりついているばかりである。

　穿はいていたスリッパを脱ぬぐと、問答無用もんどうむようで叩たたき落おとした。潰つぶれた蛾がの姿すがたにようやく安心あんしんする。ちょうどスリッパのかかとも擦すり切きれていたようだし、全部ぜんぶまとめて捨すててしまおう。