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1.「僕」と雪女のおはなし

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「全然信じられない。あんなの絶対に偽物に決まってるわ!」

 唇をとがらせた君に、僕は腕をぎゅっと掴まれた。シャンプーのCMみたいに綺麗な君の黒髪が、さらりと僕の頬に触れる。鼻先をくすぐるのは、甘い花の香り。思わずそのまま押し倒したくなるのをぐっとこらえて、僕は君を抱きしめた。今はちょうど夏休み。僕たちはモラトリアムな時代を謳歌する大学生らしく、今日も一日中、部屋の中でダラダラとテレビを見ている。

 この日ちょうど放送されていた番組は、夏の定番、心霊特集。妙に気合の入った謎の金ピカ僧侶が、少女の怨霊とやらを除霊せんと息巻いていた。スタジオの巨大パネルで解説されているのは、女子校の集合写真に写りこんだという白い少女の影。この不遇の死を遂げた少女の幽霊が、とある山を季節外れの雪模様にしているって話だけれど、それって単なる異常気象じゃないのかなあ。この間も、東京にひょうが降っていたことだし。

 っていうかさ、そもそもこういう撮影は昼間に行ったほうが良いんじゃないの? 雪山で夜に撮影とか、何かあったら地元の警察官や山岳警備隊の人に迷惑しかかからないじゃん。僕、嫌だよ。ライブ中継で滑落事故とかさ。謎の幽霊より、実害が酷い。それにしてもこんな都市伝説ですらない迷惑な与太話、かつあからさまな合成写真がやっぱり怖いのだろうか、背中ごとぺったり僕にくっついてくる君が何とも可愛くて僕は思わず笑ってしまう。こういうところが、やっぱり女の子なんだよなあ。

「そうかな。幽霊がいた方が楽しいんじゃない?」

 脳内でのツッコミなんておくびにも出さずにそう答えてみれば、君は心外だと言わんばかりに僕に抗議してくる。ぺしぺし叩かれても、非力な君の腕じゃあくすぐったいだけ。僕は顔がにやけそうになるのをこらえながら、なされるがままだ。

「やだやだ、ちゃんと成仏してくれないと困るんだから!」

 だがしかし、頬を膨らませて拗ねてみせる美少女など、眼福以外のなにものでもない。つんつんとそのまま頬をつつくと、小さく睨まれた。睨んでも可愛い。やはり美少女は最強なのだ。とはいえいくら不機嫌な様子さえ可愛い彼女であっても、やはり機嫌が悪いよりは良いほうがいい。だから僕は話題を変えることにする。

「幽霊はダメでも、妖怪ならいいだろ。ほら、かっ……」

「隣の川辺かわべさん?!」

 被せぎみに返答され、一瞬たじろぐ。そんな僕をよそに彼女がぴしっとベランダを指差した。窓越しに青々と茂った葉っぱが見える。あ、クーラーの室外機にまで蔓が巻きついているのは良くないなあ。故障の原因になる前に、ちょっとどうにかしなきゃ。

「勝手に部屋の仕切りを乗り越えて、他人の家のベランダからきゅうりを取っていくようなギャルなんて大嫌いです! しかも毎回にやにや笑っているところが、余計に腹が立つんだから!」

 そうか、僕が趣味で作っていたベランダ菜園から、いつの間にかきゅうりが消えていたのってそういう理由だったのか。収穫できそうな実からことごとく消えているから、不思議だったんだよね。カラスか何かの仕業かと思っていたんだけど、犯人は河童だったのか。河童って、本当にきゅうりが好きなのね。うん、オーソドックスとかスタンダードって大事だと思うな。僕はひとり納得する。

「じゃあ猫又とかは?」

「あ、下の階の山田さんちのタマ姐ね、この間、ご主人秘蔵のワインを拝借しているのを見られて危なかったって話してたよ。でもそれにしたって、ひとりで2本は正直飲み過ぎだよね」

 一昨日だっけ? 銀婚式に飲む予定のワインが消えたって山田さんご夫婦がずいぶん騒いでたなあ。困惑気味でご主人がお嫁さんをなだめていたんだっけ。あの後、結局どうなったんだろう。タマは確かに猫っぽくないところはあったけれど猫又かあ……。タマって時々犬みたいにはしゃいでいるんだよね。散歩中の犬とも、よくにゃごにゃご、井戸端会議してるし。目の錯覚なのか、白い犬に見える時があったりしてさ。あ、眼精疲労ってやつなのかも。目薬さしとこう。

 まったく世間は狭い。やっぱり、敷金礼金なし、格安家具付き物件だから、妖怪にも人気なのかなこのアパート。まあ妖怪界(?)からの引越しも楽なのかも。メゾン・ド・比嘉っていうアパートの名前は、正直オシャレとは言いがたいんだけどね。いや、だからといって僕にネーミングセンスはないからこの話題は置いておこう。なぜか突然背筋が冷えた僕は、頭を切り替えた。

 そっとため息を吐きつつ、彼女の髪を撫でる。本当になんて可愛いんだろう。純粋で、どこか天然ボケの入ったうっかり屋さんの君。初めてバイト先で君を見たときは、幻覚かと思ったよ。極寒の冷凍倉庫の中に、ノースリーブのワンピースで、文字通り宙を飛び回っている女の子がいるなんてさ。なぜか雪童子やら雪兎たちが一緒に荷物を運んでいるし、ちゃんと毛皮を着ている作業員さんがいるから安心したらイエティだし。あの時僕は、マイナス20度の世界でこのまま凍死するんだと確信したんだからね。

 そもそも名前からして、白雪六花しらゆきりっかとか隠す気ゼロじゃないか。今もクーラーをがんがんにきかせた、夏を見失いそうな寒い部屋の中で、君ときたらにこにこと特大アイスを食べている。僕なんてせめて熱々のラーメンで暖をとろうとしたのに、なぜか勝手に冷やしラーメンに変えられていたし。まったく電気代、大丈夫かな。

 それでも楽しみに待っているんだよ。君の秘密をちゃんと僕に聞かせてくれる時がやってくるのを。なぜか必死に冷凍倉庫のアルバイトを入れ続ける君が、一体何を目指しているのか、いつか僕にも教えてほしい。

 もじもじしながら、君が僕を見つめてきた。緊張しているのだろう。小さなため息の中がひとつ。君の口元から、ひとひらの雪がふわりと舞う。

「じゃあね、その、雪おん……ってどう思う?」

 消え入りそうな震え声。うるうると涙目かつ上目づかいで聞いてくる君があんまりにも可愛いから、そのままぎゅっと抱き寄せて、柔らかな桃色の唇を食べてみる。
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