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第二話 夏
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暑い、暑いという声に、俊参は釣り餌を丸める手を止めて傍らに寝そべる男を見た。
「玄茲さんさぁ!暑いなら飲まなきゃいいだろう!?」
「ええ?」
玄茲は手酌の杯を呷ってから、頬を膨らませる小柄な青年を見た。先ほどから垂らしている釣り糸はピクリとも動かず、色とりどりの鯉があざ笑うように水面に近づいては潜っていく。退屈な午後を、二人は過ごしていた。
「だってお前さんがいるからさ、だから飲むんだよ。酒を。」
「ほとんど飲めない奴と飲んでも楽しくないだろう」
「相手が飲めないから飲むのさ。飲まないってことは、酔わないってことだろう」
酔っ払いにまともな会話なんか無理か。
いらつく指でようやく釣り針に餌を取り付けた俊参は、呆れた様子で玄茲の横顔を見て、そのまま釣り竿を振ることを忘れた。
酔いのために赤くなった玄茲の顔の中で、ただ一つ素面の昏い瞳が手の中で揺れる杯を映している。くるりくるりと杯を手の中で回しながら、玄茲は夢見るように呟く。
「俺が思いあまって池に飛び込んでも、助けてくれるだろうよ……」
俊参のこめかみに汗が走る。釣り竿を露台に置いて、汗を乱暴に拭うと、俊参はもう一度玄茲を見た。
渇いた喉は、つばを飲み込もうとしても、ひきつるような感覚がするだけだ。くっついた唇を剥がすように、俊参は口を開いた。
「思いあまるって、玄茲さん、何があったの?」
ずっと聞きかねていたことだった。
氏素性が卑しくないという祖母の言葉は本当で、どうやら玄茲は科挙をくぐり抜けた高級官僚のようだった。
明言はしないものの、玄茲は嘘もつかない。
玄茲の偉丈夫ぶりに何かを察した祖母は遠回しにそれを聞き取り、俊参にも「偉いお方だから軽率に扱わないように」と注意をしていた。
しかし、進士登第を果たした男がこのような鄙びた里で隠居をするなど普通のことではない。玄茲は俊参よりずっと年上だが、三十を超えたばかりというところだ。働き盛りの男が、今の境遇は異常である。
何かしらあったのだろう。玄茲の過去を聞いてはいけない。そう思っていたが、詩の字句を探している時、食事をしている時、玄茲の瞳に時折走るひどく悲しげな色に、俊参は耐えられなくなっていた。
日が経つにつれて、その目をする玄茲を発見することが多くなる気がしていたから余計だ。
「教えてよ」
「忘れろ。軽口が過ぎただけだ」
「玄茲さん!」
俊参の問いに答えず、いきなり起き上がって室内に戻ろうとする玄茲の袖を、俊参が掴んだ。掴んでしまってから後悔したが、止めようがなかった。
「聞いてどうする」
「悲しいことを人に話せば、少しは、楽になるかもしれないだろう」
「――俺が“将来を約束された”男だから、強盗に押し入られて居合わせた妻子が殺された。家財は戻るが家族は戻らん。……気が晴れたかな俊参」
人の秘密を暴いて、お前が楽になりたかっただけだろう。言外にそう言われ、俊参は玄茲の袖を離した。
予想を上回る答えだった。最低だ。最低最悪。玄茲が自分に語ったとて苦しみは癒えないことは分かっていたのに、言わせた。
暑いはずなのに全身が冷えていく。顔が上げられない。どうしよう。ただの好奇心だったわけではない。だが、玄茲の抱えた秘密を敢えて見過ごす優しさを持てずに、言わせた。言わせて玄茲を傷つけてしまった。
それなのに、玄茲は優しかった。後悔を滲ませた声が上から降ってくる。
「すまん。意地の悪いことを言った」
「……どんなに、悲しくても……池、飛び込まないで、玄茲さん」
ようやく絞り出して言えたのはそれだけで、謝罪も言い訳も、口にすることはできなかった。
「玄茲さんさぁ!暑いなら飲まなきゃいいだろう!?」
「ええ?」
玄茲は手酌の杯を呷ってから、頬を膨らませる小柄な青年を見た。先ほどから垂らしている釣り糸はピクリとも動かず、色とりどりの鯉があざ笑うように水面に近づいては潜っていく。退屈な午後を、二人は過ごしていた。
「だってお前さんがいるからさ、だから飲むんだよ。酒を。」
「ほとんど飲めない奴と飲んでも楽しくないだろう」
「相手が飲めないから飲むのさ。飲まないってことは、酔わないってことだろう」
酔っ払いにまともな会話なんか無理か。
いらつく指でようやく釣り針に餌を取り付けた俊参は、呆れた様子で玄茲の横顔を見て、そのまま釣り竿を振ることを忘れた。
酔いのために赤くなった玄茲の顔の中で、ただ一つ素面の昏い瞳が手の中で揺れる杯を映している。くるりくるりと杯を手の中で回しながら、玄茲は夢見るように呟く。
「俺が思いあまって池に飛び込んでも、助けてくれるだろうよ……」
俊参のこめかみに汗が走る。釣り竿を露台に置いて、汗を乱暴に拭うと、俊参はもう一度玄茲を見た。
渇いた喉は、つばを飲み込もうとしても、ひきつるような感覚がするだけだ。くっついた唇を剥がすように、俊参は口を開いた。
「思いあまるって、玄茲さん、何があったの?」
ずっと聞きかねていたことだった。
氏素性が卑しくないという祖母の言葉は本当で、どうやら玄茲は科挙をくぐり抜けた高級官僚のようだった。
明言はしないものの、玄茲は嘘もつかない。
玄茲の偉丈夫ぶりに何かを察した祖母は遠回しにそれを聞き取り、俊参にも「偉いお方だから軽率に扱わないように」と注意をしていた。
しかし、進士登第を果たした男がこのような鄙びた里で隠居をするなど普通のことではない。玄茲は俊参よりずっと年上だが、三十を超えたばかりというところだ。働き盛りの男が、今の境遇は異常である。
何かしらあったのだろう。玄茲の過去を聞いてはいけない。そう思っていたが、詩の字句を探している時、食事をしている時、玄茲の瞳に時折走るひどく悲しげな色に、俊参は耐えられなくなっていた。
日が経つにつれて、その目をする玄茲を発見することが多くなる気がしていたから余計だ。
「教えてよ」
「忘れろ。軽口が過ぎただけだ」
「玄茲さん!」
俊参の問いに答えず、いきなり起き上がって室内に戻ろうとする玄茲の袖を、俊参が掴んだ。掴んでしまってから後悔したが、止めようがなかった。
「聞いてどうする」
「悲しいことを人に話せば、少しは、楽になるかもしれないだろう」
「――俺が“将来を約束された”男だから、強盗に押し入られて居合わせた妻子が殺された。家財は戻るが家族は戻らん。……気が晴れたかな俊参」
人の秘密を暴いて、お前が楽になりたかっただけだろう。言外にそう言われ、俊参は玄茲の袖を離した。
予想を上回る答えだった。最低だ。最低最悪。玄茲が自分に語ったとて苦しみは癒えないことは分かっていたのに、言わせた。
暑いはずなのに全身が冷えていく。顔が上げられない。どうしよう。ただの好奇心だったわけではない。だが、玄茲の抱えた秘密を敢えて見過ごす優しさを持てずに、言わせた。言わせて玄茲を傷つけてしまった。
それなのに、玄茲は優しかった。後悔を滲ませた声が上から降ってくる。
「すまん。意地の悪いことを言った」
「……どんなに、悲しくても……池、飛び込まないで、玄茲さん」
ようやく絞り出して言えたのはそれだけで、謝罪も言い訳も、口にすることはできなかった。
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