月と裏切りの温度

シオ

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 僕がミファロストを出たのは、十八の時だった。ヨルハとの別れから、一年が経った時のことだ。

 別に、ウェテの身分から解放されたわけじゃない。別の娼館に買われたというだけの話。ミファロストがあった商業都市メーリアと出て、隣国テシィダバルへ。皮肉なことだった。ヨルハと共に逃げようとしていたテシィダバルに来ることになるなんて。

 ヨルハ。

 君はいま、どこでなにをしているのだろう。こんなことを考える権利なんて、僕には無い。けれど、君の幸福を今でも祈っているんだ。







「リュシラさん……、リュシラさん?」

 名前を二度呼ばれて気が付いた。リュシラ。それが今の僕の名前だった。僕付きの見習いウェテ、レジテと呼ばれる少年が、僕の名を呼んでいた。

 初めて客を取った十五のあの日から、すでに十年の歳月が過ぎ去った。僕は今、テシィダバルにあるロファジメアンという娼館で、最上級のウェテとされるウェザリテとして男娼の仕事を続けていた。

「あぁ、すまない」
「随分とぼうっとされていましたが……寝不足ですか?」
「いや、大丈夫。そういうわけではないよ」

 四度目の名、それがリュシラだ。最初はユレイヤ。それから、ラファニナ、ヘンリア、そうして今のリュシラに辿り着いた。リュシラというのは、月光に照らされて金色に輝く宝石の名なのだそうだ。

 所属する店が変わるたびに、名を変えてきた。つまり、ミファロストを出てから四度目の店がこのロファジメアンということだ。

 店で評判となり箔がつくと、格上の店から声がかかる。法外な金額で僕は買い取られ、居を移しているのだ。ロファジメアンはテシィダバルでも随一と言われる娼館だった。

 ロファジメアンのウェザリテ。それが栄誉あるものであるということは理解している。けれどそれを嬉しいと思うような感情は一切ない。

「では、お疲れですか?」
「いや、そういうわけでもない」

 夕暮れに起きて、真昼の前に眠る。太陽から背を向けて生きているような日々だった。ふかふかのベッドで十分に眠り、そして目を覚ました。寝不足でもなければ、疲労感もない。万全だ。万全でいて、いつも通りに気が重い。レジテに髪を梳かれながら、身支度を進めていく。

 今の僕には、分不相応であると感じるほどに大層な部屋が与えられていた。体が深く沈む上等な質のベッドに、上客からの贈り物をしまうための無数のチェスト。立派な鏡台に、精緻な細工がなされた腰掛け。まるで貴族のような生活だった。体を売ること以外は。

「お客様がお見えです」

 ドアをノックし、世話役のウォドスが入ってくる。大柄で、客同士の喧嘩の仲裁も容易くこなしてしまう。ウェテやレジテたちを折檻するときは容赦が無いが、客に酷い暴力を受けたときは必ず守ってくれる。そんなウォドスのことを、ロファジメアンのウェテたちは、恐れながらも信頼していた。

 ウェテの装束は、どこに行っても変わらない。同じ形で、同じ用途。娼館の格が上がるたびに装飾は派手になっていくが、それでも男を誘うことに特化した姿であるのは、どこも一緒だった。

 腰元の紐にはいくつもの宝石がつけられている。首元も大きく開いていて少し手を伸ばせば僕の胸に触れられる。そんな恥ずかしい格好でいることにも慣れた。

 十年だ。もう、この世界に身を浸して十年が過ぎる。慣れない方が可笑しい。僕に与えられた部屋を出て、客の待つ場所を目指す。

「お待たせしてしまって、申し訳ありません」

 ノックをして部屋に入る。そこは、中部屋と呼ばれる場所だった。馴染みの客を食事と酒でもてなす場所。僕の上客の一人、ラギードが席についていた。僕の到着までの間、彼の相手をしてくれていたウェテがすっと下がっていく。こういった娼館はなにもかも、焦らす、ということに熱心になる。

 馴染みの客になるためにも色々な手順があり、馴染みの客になったからといってすぐに抱けるわけでもなく、来館から一時間ほどは僕を待つための時間が設けられ、その間は他のウェテの相手をしなければならない。

 この中部屋では行為を行なってはならず、客は食事と酒を呷ることしか出来なかった。一時間の間に食べた食事代や酒代、ウェテの費用は客持ちとなるという、なにもかもにお金がかかる仕組みとなっている。よくこんな金ばかりかかる場所に来るものだ、と常々呆れていた。

「リュシラ!」

 立ち上がったラギードが僕に駆け寄り、盛大に抱きしめる。筋肉質なラギードの抱擁は、とても硬い。僕の首筋に鼻先を押し当てて匂いを嗅いでいる。嫌悪感は抱かない。なにも、感じなかった。

「ああ、俺の女神様。ずっと会いたかった」
「お久しぶりですね、ラギード様」

 席へと案内して、座らせる。僕も隣に腰掛けた。レジテが僕に杯を二つ差し出し、それを受け取った。ラギードに一つを手渡し、その中に酒を注ぐ。

 たくさん飲ませ、酒代を搾り取る。酔っ払ってくれるなら、このあとの行為も楽になる。そういうことを考えて、少しでも自分の利になるよう行動していた。ウェテとは、ウェザリテとはそういう職業なのだ。

「そうそう、本当に“お久しぶり”なんだよ。俺のこと、リュシラに忘れられたらどうしようって、心配したんだぜ?」
「ご安心ください。ラギード様のことは、決して忘れません」
「リュシラ……っ」

 これくらいの愛想は振りまけるようになった。何もかも処世術だ。楽にこなせるように、僕も色々と勉強した。感極まったラギードがもう一度僕に抱きついてくる。そして、僕の腰に手を当てながらこちらをじいっと見つめた。

 三十代の中頃、といったところだろうか。軍人だという彼の体は引き締まっていて、贅肉に包まれた体に触れられるよりはましに思える体躯。嫌な抱き方もしてこないし、お金も惜しみなく使ってくれる。悪い客ではない。

「ウェザリテのお前に会うためには、莫大な金がいるが、この美しさを見るためなら惜しく無いと思ってしまう。まったく、魔性の女神だ」

 実際のところ、いくらくらいかかるのだろうか。自分の値段というのを気にしたことがないのでよく分からないけれど、きっと大変なのだろうな、と遠いことを考えるようにぼんやりと思った。

「お勤めの方がお忙しいのですか?」
「まぁな……国が国土の拡大にばかり精を出すから、俺たち軍人は休みなしだ。周囲の小国とか、少数部族を潰して回るのさ。……全く気が滅入る」

 少数部族を潰す。それがまさしくヨルハの過去だった。テシィダバルの大陸平定という野望は止まることを知らず、この十年の間にもどんどんと国土を拡張していた。

 ヨルハは今でもテシィダバルに復讐しようとしているのだろうか。同じ部族の仲間と再会して、その願いを果たそうとしているのだろうか。

 なんだって良い。健康で、穏やかに生きていてくれるのなら。彼がなにをしていてもいい。生きていて。どうか、幸せに生きていて。

 ラギードの手が僕の胸元を妖しく触る。薄い布地の上から胸の突起を撫で始めた。この十年で容易く感じるようになってしまった胸は、触れられただけですぐに尖ってしまう。

「……リュシラに癒してもらわないとやってられない」
「ラギード様、ここではいけませんよ」
「分かってる分かってる。ロファジメアンの上品な作法はちゃんと守るよ」

 ラギードは、先の部屋に進むことを望んでいた。


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