月と裏切りの温度

シオ

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「昔馴染みが現れては、やりにくいでしょう」

 それは、ウォドスの気遣いだった。

 務めの準備を進める僕の部屋をわざわざ訪れてそんなことを言うのだから、先日の僕の醜態はきっと酷い様だったのだろう。昔馴染み。その言葉が指すのはただ一人しかいない。ヨルハだ。

「彼を入館禁止にしても構いませんよ」
「……そこまでしなくても、大丈夫です。ただの、客の一人、ですから」
「そうですか」

 ただの客の一人。本当に、そんなふうに割り切れているのだろうか。割り切れているから、彼の入館禁止は不要だと言っているのだろうか。

 本当は、ただ単に会いたいだけではないのか。ウェザリテという身で、彼を個人的に想うことが許されるのか。

 思考はまとまらず、ぐちゃぐちゃに入り交ざって汚れていく。

「さっそく、ヨルハ様から初会の申し込みが来ていますが」
「……分かりました」

 初会は、開催主一人でも開かれるが、大勢で来てもらえた方が館としてはお金を巻き上げやすい。そういった理由もあって、大勢を引き連れての申し込みを館側は優先している。同じ日、同じ時間帯で二つの申し込みがあれば、大勢の方の申し込みを受諾するということだ。

 そういった店の方針を知っているのか、ヨルハは軍の仲間と思われる人々を引き連れての来館だった。全員の客と言葉を交わし、ひとつひとつ席を動く。そうしてついに、ヨルハの席へとやって来た。

「アサヒ」

 ヨルハは嬉しそうに笑って、僕に手を伸ばしていた。その表情も、その手も、かつてと変わらない。僕の大好きなヨルハが、そこにはいた。けれど僕はそれを素直に喜べない。喜んではいけない。客の一人に特別な感情を向けるなんて、許されることではない。

「その名前で呼ばないで」

 アサヒではないのだ。僕はもう、何も知らず純粋で、無垢なアサヒではない。僕は、リュシラ。テシィダバル随一の娼館、ロファジメアンのウェザリテ。その立場を誇りに思ったことはないけれど、他のウェテやレジテのためにも中途半端なことは出来ない。

「……リュシラ」

 困ったような顔で、ヨルハに呼ばれた。ひどい違和感だ。ヨルハに、その名で呼ばれるなんて。けれど、これが現実。僕は、あの日のままのアサヒではない。数えきれないほどの男に抱かれ、今この場所に僕は立っている。

「早く本部屋とやらに連れて行ってくれ」
「本部屋に行くためには、あと四度の初回と、中部屋を経ないと駄目だ」
「絶対に?」
「絶対に」

 下から覗き込むように、彼は僕の顔を見た。そんなことをしても駄目なものは駄目なのだ。特にヨルハは初めての来館を、無効にされたために、これが一回目の初会ということになっている。あと四度も初会をこなさなければならない。

「ねぇ、ヨルハ。無駄なお金だと思わない? こんなことに、大切なお金を使うなんて」
「客に向かってなんてこと言うんだよ」

 ははっ、と声を出してヨルハは笑ったけれど、笑いごとではない。具体的な金額は知らないけれど、莫大なお金がかかるということは分かっている。その莫大なお金、というのを稼ぐのにどれほどの苦労をするのかを僕は分からないけれど、大変なことであることは分かる。

「だってそうだろ……、あまりにも、不毛だ」
「俺はお前に触れられるなら、何だって差し出せる。……そう思ってる男が、ここには何人もいるんだろうな」

 ヨルハの手が僕の頬を撫でた。大きな手。節々のしっかりとした、男の手だ。思わずその手に自ら頬ずりをしてしまった。あまりにも自然な動きで、自分で自分の行動に驚いた。慌てて離れると、ヨルハが小さく笑う。

「お前を抱いた男を、触れた男を……全員殺してやりたいよ」

 口元に笑みを浮かべながら、剣呑な瞳でヨルハが言う。誰にも抱かれていない状態に戻れるのなら、どれだけ幸せなことか。けれど、そんなことは出来ない。時は巻き戻らない。何をどうしたって、過去は過去のまま。受け入れることしか出来ないのだ。

「……ヨルハ、もう会いに来ないで」
「嫌だね。俺はお前をやっと見つけたんだ」

 愛している。だからこそ、会いたくない。ウェザリテのリュシラとしてヨルハに会いたくない。こんな姿を見られたくないのだ。けれど、僕の懇願をヨルハは容易く拒絶する。それを喜んでいる自分に気付く。もう滅茶苦茶だ。僕の心は不整合で、何もかも乱れていた。

「もう逃がさない」

 手首を掴むヨルハを振り切って、僕は他の客のもとへ行く。これ以上、僕を困らせないで。夢を見せないで。君に寄り添う幸せなんて、もう僕には訪れない。

 ロファジメアンにあるのは、まやかしだ。空虚な夢。ヨルハ、君はもうここに来るべきじゃない。けれど、僕の願いに反して彼は初会の回数を重ねていった。

「これで最後だ」

 五回目の初会の日、ヨルハは嬉しそうに笑って僕の肩を抱いていた。嫌だ、来るな、帰って、などと憎まれ口を叩きながら、それでもヨルハと過ごす時間は楽しかった。昔に戻ったようで、離れていた時間を感じさせないほどに、彼との時間は楽しかったのだ。

「……言っておくけど、僕がお客を振ることだってあるんだから」
「振る? お前が、俺を? ありえないね、そんなこと。……お前は、しないよ」

 勝手に決めつけて、自信満々に言ってのける。そういうところも、昔から変わらない。抱いた肩を引き寄せて、ヨルハが僕の耳に唇をつけて、低い声で囁く。

「愛してやるから、早く俺を本部屋に連れていけ」
「なに……言って……っ」

 その近さと、言葉に体が震える。ヨルハの手が肩を撫で、腕に触れて、腰を掴む。ただそれだけのことなのに、奥の奥が疼いてしまう。どうかしている。こんなのは可笑しい。僕はふいと顔を逸らす。

「ヨルハがそんな情熱的なことを言うやつだったとはな」

 体がびくりと震える。ヨルハのものではない声が耳に届いたからだ。二人きりの場ではないと、その声で思い出す。


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