五番目の婚約者

シオ

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 体が熱い。体の中を、灼熱の泥が這うような、嫌な熱さだった。そんな不快感で目を開く。そうして、自分が眠っていたことに気付いた。今は一体何時だろう。いつから俺は寝ていたのだったか。

「ノウェ様」

 目を開いて、天蓋を眺めていた俺に声が掛けられる。顔を向ければ、そこにはイェルマがいた。その顔を見ていると、心の底から安心出来る。もう何も怖いものは訪れない。全てから、イェルマが守ってくれる。無意識に、そんなことを思った。

「……イェ、ルマ」

 喉が枯れている。掠れながら彼の名を呼び、両手を伸ばす。すると、俺の望むことを察したイェルマが俺の体に腕を回し、抱き起こしてくれた。そのまま、ぎゅうっと抱き着く。イェルマの匂いには、俺を落ち着かせる効果があった。

「お守りできず、申し訳ありませんでした」
「……イェルマは何も悪くないだろ」
「いえ、ノウェ様の一番近くにいたにも関わらず……何も出来なかった」

 後悔を色濃く滲ませながら、イェルマは唇を噛みしめる。俺はイェルマの頭を撫でた。そんな顔をする必要はないと、分かって欲しくて。イェルマに抱きしめられながら、イェルマを撫でる。

「今、こうしてそばにいてくれるだけで十分だよ」

 ずっとイェルマが俺の一番そばにいて、俺を支えてくれた。乳兄弟というだけなのに、イェルマから色々なものを奪ってしまっている。本来であればイェルマも、一族の女と結婚しているような年齢だ。子供だっていたかもしれない。

 そんな可能性全てを奪って、俺はイェルマを己のそばに置き続けている。本当の家族以上に家族だと思っているけれど、厳密にいえば他人だ。ロア族という広い枠組みで考えれば親戚くらいではあるかもしれないけれど、それでも血は遠い。

 イェルマは俺をどう思っているのだろう。いつまでも主人面をして、こんな異国の地に留め置きやがって。なんて言われたら、俺はその瞬間に舌を噛み切ると思う。

 俺にとってのイェルマは、この世界でただ一人、全幅の信頼を置くひと。兄であり、父のような人。一番大切な人なのだ。イェルマに、俺も同じように思ってもらえていたら嬉しい。

「ノウェ様、薬湯が用意されています。飲んでおきましょう」
「……うん」

 そういえば、朝にヴィルヘルムが用意しておくと言っていたな、と思い出す。正直なことを言えば、あまり飲みたいとは思えなかった。痒みで頭がおかしくなっていたときは、味のことまで考えられず飲めていたけれど、これはとても苦い薬なのだ。

 けれど、薬湯の入った小さな急須を手にしたイェルマが、その注ぎ口を俺の口に近づけてくるので飲まざるを得なかった。やはり苦い。良薬口に苦しということなのかもしれないが、それにしても苦い。

 急須は三つ用意されていた。一つでも苦痛だというのに、三つだなんて。ひとつひとつ、丁寧に飲ませてくれるイェルマの優しさが無ければ、三杯など絶対に飲めなかった。酷い味のものを飲み干して憔悴した俺を、イェルマの両腕が包んでくれる。

「塗り薬はどうされますか?」
「それって……塗った方がいいのかな」
「腫れている部分には、この薬が一番効くそうです」
「……そうなのかぁ」

 ヴィルヘルムも塗り薬を塗った方が良いと言っていた。早く元通りになりたいのであれば塗るべきなのだろうとは思うのだが、どうにも触ることが恐ろしい。触れることで、またあの痒みが再燃するのではと怖がっているのだ。

「俺が塗りましょうか」

 シーツの隙間から、自分の胸の先端を見ていた。赤く腫れていて、いつもより大きく見える。そんなことを考えていた時に、イェルマがとんでもない言葉を口にした。散々胸に触れてきたヴィルヘルムにだって触れて欲しくなかったのに、イェルマが塗るだなんて。

「いやっ、だ、大丈夫……自分で塗る」
「きちんとご自分で塗れますか?」
「塗れるよ。たぶん」

 ここで、塗りたくないと我が儘を言えば、きっとイェルマが無理にでも塗ろうとしてくるのだ。腫れあがった胸の先端に指が触れてしまえば、もっと触って欲しいとだらしなく強請るのは目に見えている。そんなみっともない姿をイェルマだけには見せたくない。

「俺が塗っては駄目ですか?」
「……駄目。今、腫れてるところを触られると……変になる」
「この場には俺しかいないのですから、変になっても構わないのでは?」
「構うよ! あんな姿……イェルマには見られたくない」
「何故ですか。あの男は見たのでしょう?」

 あの男というのは、ヴィルヘルムのことだった。確かに、ヴィルヘルムは見ている。それどこか、俺の求めに応じて胸をたくさん吸ったり、舐めたり、噛んだりしてくれた。だからこそ、俺の胸は今、こんなにも赤く腫れあがっているのだ。

「だって……、イェルマは家族だろ。家族に、変になったところを見られるのは、恥ずかしい」

 イェルマは俺の大切な家族だ。そんな家族に、胸を舐めて欲しいなどと懇願する姿を想像するだけで死にたくなる。ヴィルヘルムはいいのだ。一応、形式上は夫婦という間柄だし、どう思われたって構わない。でも、イェルマに淫乱などと思われたら本当に耐えられない。

「塗り薬は、もうちょっと落ち着いてからにする。落ち着いたら、ちゃんと自分で塗るから」
「……承知しました」

 不承不承といった感じではあったが、イェルマは俺の言葉に頷いてくれた。じんじんとした緩い痛みはあるけれど、昨夜のような酷い痒みはもう無いのだ。もう少し落ち着くまで様子を見るでも良いだろう。

「……ちゃんと服、着ようかな」
「着れそうですか?」
「うん。なんか今なら着れそうな気がする」

 ずっと全裸のままシーツに包まっているのも落ち着かない。それに、閑所にも行きたいし、とりあず服を着よう。イェルマが新しい下着や、普段着のデールを持ってきてくれた。恐る恐るではあったが、ゆっくりと下着を身に着けて、服を纏う。痒みがぶりかえすこともなく、服を着ることが出来て安堵した。

「そういえば俺って、風呂入ったっけ」
「昨晩、入浴されているようですよ」
「昨晩……? ……あっ」 

 忘れていたことを思い出す。ヴィルヘルムが俺の身を清めてくれたのだ。そして俺は、その時にもまた触れて欲しいと強請っている。体を駆け回る痒みに翻弄され、まともな思考力が無かったとはいえ、あの時の俺の振る舞いはどうかしている。

 思い出すだけで顔が熱い。イェルマが薬の口直しにと入れてくれた甘いお茶の匂いが鼻腔を優しくくすぐるが、昨晩の記憶に打ちのめされて、俺はお茶の入った杯に手を伸ばすことが出来なかった。椅子に腰かけ、杯の中の茶色い水面に映る己を見る。惨めな顔だった。

「……俺に触るなって、ずっとヴィルヘルムに言ってきたのに、自分から……触ってくれって言ったんだ」
「それは、毒のせいです。ノウェ様は何も悪くありません」
「でも……、あまりにも身勝手だろ」

 ヴィルヘルムが俺に触れることを拒絶して、床で寝かせたりしていたのに、自分が苦しいときだけ触れと命じるなんて。ヴィルヘルムは、俺に触れることに対して戸惑いがあったように見えた。それを無理矢理命令して、自分が楽になることを優先したのだ。

「……酷い毒だ。命が助かったとしても、あんな苦しみを味わうなんて」

 涙が溢れてきた。俺は泣き虫なんかじゃないのに。泣きたくなんてないのに。それなのに、大粒の雫は俺の意思に反して、ぽたぽたと流れて落ちる。命を狙われたことも恐ろしい。酷い苦しみを味わったことも怖かった。けれど何よりも、ヴィルヘルムにあんなことを願った己が恥ずかしくて、羞恥で死んでしまいそうだった。

「殺してやりたい」

 小さな声。けれど、その声は低く強く響いて、俺の鼓膜を震わせる。俯いていた顔を上げれば、感情が失せたような表情で俺を見るイェルマがいた。瞳は昏く、それでいて強烈な憎悪が宿っているように見える。

「ノウェ様を苦しめる全ての者を、殺してやりたいです」

 それはきっと、俺を毒殺しようとした人物を指しているのだろう。けれど、一瞬、ヴィルヘルムの身を案じてしまった。馬鹿な妄想だ。イェルマが、ヴィルヘルムを殺そうとするだなんて。そんなこと、あるわけがない。あるわけがないのに、本気でそんなことを心配してしまった。

 どれほどイェルマがヴィルヘルムを嫌っていようと、あの男はこの国の皇帝だ。そんな人物を殺せば、当然裁かれることになる。極刑が言い渡されることだって、当然あるだろう。イェルマが死ぬ未来なんて、俺は見たくない。

「俺は、大丈夫だよ」

 そう言うことしか出来なかった。苦痛と恐怖と羞恥を押し殺して、笑って見せる。イェルマに安心して欲しかった。剥き出しの殺意を消して、穏やかに生きて欲しい。そのためだったら、無理して笑うことだって出来るのだ。

 食事に対する恐れはまだ俺の中に残っており、昼食はイェルマと同じ皿のものを食べた。ヴィルヘルムのように、同じ匙で食べさせてもらうといった愚かな事態にならないように、しっかりと自分の分の匙も用意してもらう。

 昼食のあとにはまた薬を飲まなければならず、その薬を飲んだせいか強い眠気に襲われる。抗うこともなく俺は寝台の上で横になり、意識を手放した。夢の中は穏やかで、痛みも苦しみもなく、自由だった。夢の中でふと思う。ここは平和で優しいけれど、少し寂しい。

 これは夢であると自覚しながら、夢をみる。風が吹いていた。足元には青々とした草原が。ここはクユセンだろうか。それとも、開発局の草地なのだろうか。上空は抜けるような蒼穹で、美しい青色だった。

 美しい青。あの時、口にした毒入りの餡も、美しい青色をしていた。直後、足元が沼に変わる。毒々しいほどに美しく輝く青色の沼だ。慌てて抜けようとするが、足元の全てが沼に変わって逃げる場所などどこにもない。誰か助けて、と叫んだ俺の背後に気配があった。

 助けに来てくれたんだ、と嬉々としながら背後を見る。だが、そこには俺が求めた人の姿はなかった。大きな蛇だ。見たこともないほどに大きい。人を容易く丸呑みしてしまえそうな蛇が、俺の体に巻き付いて締め上げる。苦しい。息が出来ない。

 いつの間にか、俺の体を包んでいた衣服の一切が無くなり、蛇が持つ鱗の感覚が体中を這った。俺の頭と同じ大きさの頭部を持つ蛇が、俺の体に巻き付きながらゆっくりと目線を合わせてくる。鋭い眼光に、俺は死を感じた。この夢から早く覚めてしまいたいのに、抜けられない。蛇が俺の体を逃さないせいだ。

 蛇は細長い舌をちろちろと見せて、俺を狙っている。恐怖に竦む俺の胸に、蛇の舌先が触れた。体が震える。舌が俺の胸を刺激して、再びあの痒みが蘇ってきた。やめて、もうやめてと叫びたいのに、声は出ない。

 大きく開いた蛇の口からは、獰猛な牙が見えた。そうだ、蛇の牙には毒があるのだ。やめてくれ、と叫ぶことも出来ず、蛇は俺の胸に噛みついた。鋭い牙は、胸の先端を貫く。全身を駆け抜けていったのは、痛みと淫らな疼き。助けて。助けて。

「ヴィル……ッ!!」

 勢いよく起き上がり、背中を丸くして胸に手を当てた。酷い汗をかいている。呼吸は荒く、結んでいない髪が乱れたまま寝台の上に流れ落ちていた。慌てて周囲を見回す。青色の餡の沼はない。あの大蛇もいない。けれど、胸は酷く疼いている。

「ノウェ様、どうされたのですか。ずっと、魘されていて……何度も起こそうとしたのですが眠りが深く、」
「ヴィルはどこ……、ヴィル。ヴィルに、助けてもらわないと」

 心配してくれているイェルマの声が頭に入ってこない。恐ろしい熱がまた胸に集まってくる。蛇に噛まれたからだ。蛇の毒が胸に入ってしまったんだ。いや、あれは夢だ。蛇なんてどこにもいない。けれど、胸が熱いことは事実だった。

「ノウェ様?」

 冷静でないことも、狂乱していることも分かっていた。泥沼に落ちて藻掻いている己を、上空から俯瞰する冷静なもう一人の己がいる。足掻く俺にイェルマの声が届かないのも、ヴィルヘルムのことしか考えられないのも、仕方のないことと言えば仕方のないことだった。この熱から俺を救ったのは、ヴィルヘルムしかいないのだから。

「……ヴィル!」

 助けて欲しくて、走り出した。靴も履かず、裸足のままで部屋を出る。背後から俺の名を呼ぶイェルマの声が聞こえていたけれど、足を止めることは出来なかった。昨夜、俺を救うためにヴィルヘルムに願ったことを、俺は再び求めていたのだ。


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