36 / 74
36
しおりを挟む
「やぁ、ノウェ。昨日ぶりだね」
車寄せにやってきたノウェ様を、アリウス様が待ち受けていた。寝室で身支度を整え、いつものデールに身を包んだノウェ様の横顔は少しばかり緊張していたように思う。長い髪を、頭の高い位置でひとつに結びあげた時から、その緊張は始まっていたようだ。
「アリウス様、こんにちは」
挨拶を口にしながら、どこか、ぎこちない笑みを浮かべる。ノウェ様からしてみれば、深い関わりのない先帝は、得体のしれない相手だろう。しかも、これほど年上の人物との接触がノウェ様にはあまりない。緊張してしまうのも、仕方のないことだった。
アリウス様は、馬車の前で立っていた。車に描かれた紋章は、当然のことながら獅子ではない。獅子は皇帝のみが使用を許される紋章だ。かつては、アリウス様の馬車にも刻まれていたのだろうが、今ではその姿を見て取ることが出来ない。
「さぁ、どうぞ。ロア族の君も、乗りなさい」
皇帝はいつも、俺がノウェ様と同じ馬車に乗ることを快く思わない。侍従であれば御者席に座れ、と言うのだ。その言い分は正しいのかもしれないが、あの男に言われると不愉快な気持ちになる。
開発局へ行く時などは、俺はノウェ様と同じ車の中に入り、向かい合う形で座っている。皇帝が同乗するようなときでも、ノウェ様が俺を引き留めてくださるので、俺はノウェ様の隣に座っていることが出来た。
だが、流石に先帝と同じ車に乗り込むことは気が引ける。ノウェ様の乗車を見届けてから御者席に座ろうと思ったのだが、そんな俺を先帝が中へ招いてくれた。
質素倹約を良しとするリオライネン皇帝だったとは思えないほどに、馬車の中は豪奢で華美だ。至る所に、不必要だと感じてしまうほどの宝石が埋め込まれている。どれほど美しいものでも、過ぎれば下品に見えた。
「急に誘ってしまってすまないね。毎日が酷く退屈なんだ。遊び相手がいないせいで」
「あ……、はい」
「硬くならないで。私はもう皇帝ではない。地位で言えば、皇妃であるノウェの方が上だよ」
気さくな人物だと思う。誰もが、好意的な印象を抱いてしまう話し方と、気軽さ。現皇帝とは全く毛色が異なる皇帝だ。同じ血筋からの譲位を禁じているからこそ、違った個性を持つ人間が帝位につくのだろう。
「城下へおりたことがないと聞いた。ヴィルヘルムも、酷なことをするものだ」
「でも……そこまで興味がなかったので、酷だとは思いませんでした」
そもそも、ノウェ様は人混みを嫌う。クユセンとは明らかに異なる人口密度を持つリオライネンの街並みが苦手なのだ。故郷からこの地へやってくる時の馬車の中で、街並みを眺めていただけで人酔いをしていた。今日もそうならないかが心配だ。
馬に乗りたい、馬に触れたいと、そう漏らすことは多かったが、城下へ行きたいなどと言うことは一度としてなかった。俺がちょっとした用事で、城下まで馬を走らせて行った時などは、城下へ行ったことではなく、馬に乗ったことを羨ましがられたほどだ。
「今日は、そんなノウェに興味を持ってもらいたくて誘ったんだ」
片目を閉じて笑ってみせる。年相応とは思えない仕草だけれど、滑稽とは思わなかった。流れていく窓の外の街並みに視線を移すことも出来ないまま、ノウェ様は真っすぐにアリウス様を見つめていた。先帝には、人を惹きつける何かがあった。
馬車が緩やかな坂を下っていく。宮殿を抜けて貴族街へ。宮殿から貴族街あたりの道は、整備されており、馬車の揺れは少なかった。凹凸のないように造られた石畳の道は、何度も何度も馬車に往来され、さらに平らになっている。
だが、がたん、と大きく車体が揺れた瞬間があった。そこからはずっと、がたがたとした道だ。体が小刻みに揺れてしまう。ノウェ様が座面から落ちないように、その体を支えた。
「……凄い人だ」
窓の外に見えた景色は、人で埋め尽くされていた。どうやら、市場のあたりで馬車を止めるようだ。アリウス様が御者に声を掛けると、ゆっくりと馬の速度が遅くなる。そして止まった。
御者が馬車の扉を開くと、真っ先にアリウス様が下りて行った。馬に乗って、ずっと後ろを付いて来ていた警備兵がぞろぞろとアリウス様の周りで護衛を始める。俺はノウェ様よりも先に下り、安全を確認してからノウェ様の下車を手伝った。
「さぁ、行こうノウェ。はぐれないようにね」
ずんずんと進んでいくアリウス様に、警備兵たちも翻弄されていた。身の危険よりも、楽しさを優先するきらいがあるようだ。人の多さに戸惑って、周囲をきょろきょろと伺うノウェ様に手のひらを差し出す。
「ノウェ様、手を」
「あ、うん」
差し出した手に、迷いなくノウェ様の手を重ねてくれる。全幅の信頼を頂いていることに、体が震えるほど嬉しかった。ノウェ様の手をしっかりと握り締めながら、アリウス様のあとを追いかけた。
市場の真ん中、人の往来の集中点。そんな場所にアリウス様は立っていた。そしてノウェ様を手招いている。招きに応じて、アリウス様の近くへ向かっていくノウェ様だが、俺の手は握ったまま離す気配がなかった。
アリウス様の姿を、一般の市民たちが囲っている。そんな光景を、少し離れたところから警備兵たちが目を光らせながら見つめていた。市民の目が、やって来たノウェ様に向けられる。一気に視線を集めたことで、ノウェ様はびくりと肩を震わせた。
「アリウス様、今日のお連れさんは見たことない子だね」
「可愛いだろう。私の偉大なる息子の奥方だ」
「え……って、ことは……皇妃様!?」
素性を明かすなど、どういうつもりなのか。装束から、純粋なリオライネンの民でないことを知られているだろうが、だからといってノウェ様が皇妃であることを喧伝するなど、どうかしている。市民たちは驚愕の声を上げ、場が騒然となった。
「ああ愉快だ」
騒音に包まれて戸惑っているノウェ様をよそに、先帝は愉快だと笑っていた。笑っている場合ではないだろう、と怒りが湧いてくる。市民たちは不躾な目をノウェ様に向け、頭の天辺から足の先まで、食い入るように眺めていた。
「綺麗な赤毛だこと」
「そういえば、皇妃様って毒を盛られたって話じゃ」
「随分と小さい方だな」
「遠目で見ると女の子みたいだわ」
「なるほど、皇帝は趣味が良い」
言葉の洪水が雪崩れ込んでくる。口々に発せられる彼らの言葉すべてを追うのは不可能だった。けれど、好意的な感想が多いように思う。ふいに、アリウス様の手が伸びてノウェ様の手首を引いた。ノウェ様が俺とアリウス様の両者に引っ張られて痛い思いをしないように、俺は反射的に手を離す。
「まぁまぁ、落ち着いておくれ。皇妃ノウェは遠くクユセンの地から遥々、ヴィルヘルム陛下のためにやって来てくれた健気な子なんだ」
手首を引いて自分の近くへ連れてきたアリウス様が、ノウェ様の肩を抱きながらそんなことを宣った。ノウェ様はぎょっとした顔をし、ヴィルヘルムのためにやって来たわけではないのだが、と言いたそうなおもてを浮かべる。
「ヴィルヘルム陛下と仲睦まじく過ごしているのを見て、私も安心していたところなんだが……どうやら、その仲の良さを妬んだ人物によって毒を盛られてしまってね。なんと可哀想な」
なんてこと、と聴衆と化した人々が感嘆する。アリウス様はまるで、劇場の舞台に立つ役者のようだった。芝居がかった言葉と手ぶり。人々の心を鷲掴みにする空気。皇帝と言われるよりも、役者と言われた方が信じられるほどだ。
「陛下自ら付きっ切りで介抱したおかげで、今ではこのように元気になっているというわけだ。新聞屋の諸君は、見てもいないことを好き勝手に書くところがあるが、私は自分の目で見た。この両陛下の睦まじさがあれば、帝国の平穏は約束されたも同然だろう」
よく回る舌だ。呆れを通り越して、尊敬してしまう。俺に判別はつかないがきっと、この場にも新聞記者がいるのだろう。そんな記者たちに向けて、先帝が釘を刺す。ノウェ様を侮辱する記事があった事実を、俺も聞かされていた。先帝もご存じなのだろう。
「随分と人が集まって来てしまったな。これでは警備兵が機能しなくなる。ヴィルヘルムに怒られないように、人気のないところに行こう」
そう言って、アリウス様は素早く歩き出した。ノウェ様も慌ててそのあとを追う。アリウス様の動きに合わせて、警備兵たちもぞろぞろと動き出した。市場を抜けると、今度は飲食店が立ち並ぶ区画に入る。まだ準備中の店ばかりだが、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「買い食いはイーヴァンに禁止されてしまったんだ。残念だよ」
「買い食い?」
「そう。匂いに釣られて買ったものを、食べながら歩くのさ。とても楽しいよ」
買い食いという言葉は、ノウェ様にとっては聞き馴染みのないものだった。それもそうだろう。そのような概念は、クユセンにはなかったのだ。ロア族は、共同体で生きている。狩りの獲物は皆で分け、狩りに行けないものたちは羊を追った。物々交換は存在したが、経済と呼べるような代物は存在しなかったのだ。貨幣は、食料の対価になりえなかった。
「さあ、こっちへおいで」
すいすいと進んでいくアリウス様の背を、ノウェ様は一生懸命追いかける。五十を過ぎた齢だというのに、随分と健脚だった。今度は、人の気配が一気になくなる場所へ入っていく。何故これほどまでに人気が無いのかをすぐに察した。
ここは、色街だ。夜は盛んになるが、陽のある間は寝静まる。そんな街であっても、出歩くひとの一人や二人はいた。豊満な体を見せつけるような、胸元が大きく開いた服に身を包んだ女がアリウス様に近寄ってくる。
「あら、アリウス様。そちらはアリウス様のお嬢様?」
その女性も、どうやらアリウス様の顔馴染みであるようだ。そして、あろうことか、ノウェさまを見てそんなことを口にした。確かに、ノウェ様は可憐な姿をしてはいるが、それでもよく見れば男性であることは一目瞭然だ。女に間違われたことに、ノウェ様は憤慨している。
「まさか。こちらはリオライネン皇妃のノウェ様だよ」
「えっ、私ったらなんてことを」
「まぁ、妃殿下は可愛らしくいらっしゃるから、間違えるのも無理はない。それとね、私に子はいないよ。いや、もしかしたらこの街のどこかに、私のあずかり知らない私生児がいるやもしれないが」
彼らにとっては面白い冗談なのか、アリウス様と女は声を出して笑っていた。俺は少しも笑えない。ノウェ様も、女だと思われたことに対する憤懣が収まっていないのか、むっとした顔をしている。
「また店に来てくださいね」
「あぁ、必ず行くとも。待っていておくれ」
そう言って、アリウス様は再び歩き出した。ノウェ様は、小さな歩幅で早歩きになりながらその背中を追いかける。そして、アリウス様の隣に並び立つと、少し戸惑いながらも問いかけた。
「今の女性は……、娼婦ですか?」
俺は、ノウェ様が娼婦という言葉を知っていたことに驚いてしまった。そんな言葉を、ノウェ様は一体どこで知ったのか。当然、俺はそんな言葉を教えたりはしていない。戸惑う俺を他所に、会話は続く。
「そう。私の熱を鎮めてくれる女神さ。この街には、何人もの女神がいるんだよ」
「奥方様はそれをお許しになるのですか?」
「むしろ、奨励されている。子が出来た場合でもしっかり養育するから申告するようにと言われているほどだ」
「……そういう夫婦の形もあるんですね」
先帝の皇妃を見たことはあるが、言葉を交わしたことなどはない。どのような人物なのかは分からないが、その言葉を聞くだけでも逞しい心の女性だということが伺い知れた。珍しい形の夫婦を知り、ノウェ様は何かをぼんやりと考えているようだった。
「ノウェだったら許せるかい?」
「え?」
「ヴィルヘルムが、ノウェに触れられない苦悩を他所の女性なり男性なりで発散する。それを許容できるかな?」
考えることすら拒否してしまうほどの、許しがたい状況だった。ノウェ様に触れられないからと、他の人間で発散するなどありえない。ノウェ様の夫という座を賜りながら、そのような暴挙を為すのであれば俺は迷いなく皇帝を弑逆するだろう。
一人、己の内で怒りに震えている俺の眼前で、ノウェ様は問われた内容に関して真剣に考えているようだった。どんな表情をしているのだろう、と少しばかり立ち位置を変えて、ノウェ様のお顔を拝見出来る場所に立つ。
「……好きにしろって思います」
「なんだか、怒っているようだけれど?」
「怒ってなんていません!」
眉をひそめ、眉間に皺を寄せて。むっとしたお顔をされている。それはまさに、怒っているとしか思えないおもてだった。俺自身怒っていたというのに、何故かノウェ様が怒りを感じていることに衝撃を覚えた。ノウェ様のそれがまるで、悋気のように思えたからだ。
「まあ、安心するといい。ヴィルヘルムは、ノウェ以外を愛さない。あの子には本当に、ノウェしか見えていないんだよ」
先帝の目にも、皇帝はそのように見えているらしかった。確かに、皇帝の一途さは認めよう。だからといって、その振る舞い全てを許すわけではない。先帝の言葉に耳を傾けながら、ノウェ様は僅かに俯いた。
「それが、何故なのか……分からないんです。一目惚れだって、本人には言われました。でも、そんなことって、本当にあるんですか? 俺の内面を何も知らないのに、好きになるだなんて」
何故自分が一途に思われているのかが分からないと、ノウェ様は零した。確かに、皇帝とノウェ様に互いを深く知り合う機会などなかった。それでも皇帝はノウェ様を深く愛している。それが奇妙で、合点がいかないと言うのだ。
「あると思うよ」
ノウェ様の戸惑いを一蹴するかの如く、迷いのない言葉で肯定した。俯いていた顔がぱっと上がり、ノウェ様は真っすぐに先帝の顔を見た。アリウス様は微笑みながら、歌うように語る。
「運命としか言いようがない出会いがある。どんな言葉で理屈を捏ねようとも、無意味なんだ。言葉では説明が出来ない。ヴィルヘルムは、ノウェを愛するために生まれてきた。ノウェ以外に惹かれることはない。ただそれだけのことだ。……ヴィルヘルムは幸運だった。そんな運命の相手に、巡り合えたのだから」
運命の相手に出会えない人間は、星の数ほどいる。運命の人に出会いながら、その人に愛してもらえない者も。けれど、皇帝は運命を己がものにした。俺の手の内から掠め取り、奪い去っていったのだ。
車寄せにやってきたノウェ様を、アリウス様が待ち受けていた。寝室で身支度を整え、いつものデールに身を包んだノウェ様の横顔は少しばかり緊張していたように思う。長い髪を、頭の高い位置でひとつに結びあげた時から、その緊張は始まっていたようだ。
「アリウス様、こんにちは」
挨拶を口にしながら、どこか、ぎこちない笑みを浮かべる。ノウェ様からしてみれば、深い関わりのない先帝は、得体のしれない相手だろう。しかも、これほど年上の人物との接触がノウェ様にはあまりない。緊張してしまうのも、仕方のないことだった。
アリウス様は、馬車の前で立っていた。車に描かれた紋章は、当然のことながら獅子ではない。獅子は皇帝のみが使用を許される紋章だ。かつては、アリウス様の馬車にも刻まれていたのだろうが、今ではその姿を見て取ることが出来ない。
「さぁ、どうぞ。ロア族の君も、乗りなさい」
皇帝はいつも、俺がノウェ様と同じ馬車に乗ることを快く思わない。侍従であれば御者席に座れ、と言うのだ。その言い分は正しいのかもしれないが、あの男に言われると不愉快な気持ちになる。
開発局へ行く時などは、俺はノウェ様と同じ車の中に入り、向かい合う形で座っている。皇帝が同乗するようなときでも、ノウェ様が俺を引き留めてくださるので、俺はノウェ様の隣に座っていることが出来た。
だが、流石に先帝と同じ車に乗り込むことは気が引ける。ノウェ様の乗車を見届けてから御者席に座ろうと思ったのだが、そんな俺を先帝が中へ招いてくれた。
質素倹約を良しとするリオライネン皇帝だったとは思えないほどに、馬車の中は豪奢で華美だ。至る所に、不必要だと感じてしまうほどの宝石が埋め込まれている。どれほど美しいものでも、過ぎれば下品に見えた。
「急に誘ってしまってすまないね。毎日が酷く退屈なんだ。遊び相手がいないせいで」
「あ……、はい」
「硬くならないで。私はもう皇帝ではない。地位で言えば、皇妃であるノウェの方が上だよ」
気さくな人物だと思う。誰もが、好意的な印象を抱いてしまう話し方と、気軽さ。現皇帝とは全く毛色が異なる皇帝だ。同じ血筋からの譲位を禁じているからこそ、違った個性を持つ人間が帝位につくのだろう。
「城下へおりたことがないと聞いた。ヴィルヘルムも、酷なことをするものだ」
「でも……そこまで興味がなかったので、酷だとは思いませんでした」
そもそも、ノウェ様は人混みを嫌う。クユセンとは明らかに異なる人口密度を持つリオライネンの街並みが苦手なのだ。故郷からこの地へやってくる時の馬車の中で、街並みを眺めていただけで人酔いをしていた。今日もそうならないかが心配だ。
馬に乗りたい、馬に触れたいと、そう漏らすことは多かったが、城下へ行きたいなどと言うことは一度としてなかった。俺がちょっとした用事で、城下まで馬を走らせて行った時などは、城下へ行ったことではなく、馬に乗ったことを羨ましがられたほどだ。
「今日は、そんなノウェに興味を持ってもらいたくて誘ったんだ」
片目を閉じて笑ってみせる。年相応とは思えない仕草だけれど、滑稽とは思わなかった。流れていく窓の外の街並みに視線を移すことも出来ないまま、ノウェ様は真っすぐにアリウス様を見つめていた。先帝には、人を惹きつける何かがあった。
馬車が緩やかな坂を下っていく。宮殿を抜けて貴族街へ。宮殿から貴族街あたりの道は、整備されており、馬車の揺れは少なかった。凹凸のないように造られた石畳の道は、何度も何度も馬車に往来され、さらに平らになっている。
だが、がたん、と大きく車体が揺れた瞬間があった。そこからはずっと、がたがたとした道だ。体が小刻みに揺れてしまう。ノウェ様が座面から落ちないように、その体を支えた。
「……凄い人だ」
窓の外に見えた景色は、人で埋め尽くされていた。どうやら、市場のあたりで馬車を止めるようだ。アリウス様が御者に声を掛けると、ゆっくりと馬の速度が遅くなる。そして止まった。
御者が馬車の扉を開くと、真っ先にアリウス様が下りて行った。馬に乗って、ずっと後ろを付いて来ていた警備兵がぞろぞろとアリウス様の周りで護衛を始める。俺はノウェ様よりも先に下り、安全を確認してからノウェ様の下車を手伝った。
「さぁ、行こうノウェ。はぐれないようにね」
ずんずんと進んでいくアリウス様に、警備兵たちも翻弄されていた。身の危険よりも、楽しさを優先するきらいがあるようだ。人の多さに戸惑って、周囲をきょろきょろと伺うノウェ様に手のひらを差し出す。
「ノウェ様、手を」
「あ、うん」
差し出した手に、迷いなくノウェ様の手を重ねてくれる。全幅の信頼を頂いていることに、体が震えるほど嬉しかった。ノウェ様の手をしっかりと握り締めながら、アリウス様のあとを追いかけた。
市場の真ん中、人の往来の集中点。そんな場所にアリウス様は立っていた。そしてノウェ様を手招いている。招きに応じて、アリウス様の近くへ向かっていくノウェ様だが、俺の手は握ったまま離す気配がなかった。
アリウス様の姿を、一般の市民たちが囲っている。そんな光景を、少し離れたところから警備兵たちが目を光らせながら見つめていた。市民の目が、やって来たノウェ様に向けられる。一気に視線を集めたことで、ノウェ様はびくりと肩を震わせた。
「アリウス様、今日のお連れさんは見たことない子だね」
「可愛いだろう。私の偉大なる息子の奥方だ」
「え……って、ことは……皇妃様!?」
素性を明かすなど、どういうつもりなのか。装束から、純粋なリオライネンの民でないことを知られているだろうが、だからといってノウェ様が皇妃であることを喧伝するなど、どうかしている。市民たちは驚愕の声を上げ、場が騒然となった。
「ああ愉快だ」
騒音に包まれて戸惑っているノウェ様をよそに、先帝は愉快だと笑っていた。笑っている場合ではないだろう、と怒りが湧いてくる。市民たちは不躾な目をノウェ様に向け、頭の天辺から足の先まで、食い入るように眺めていた。
「綺麗な赤毛だこと」
「そういえば、皇妃様って毒を盛られたって話じゃ」
「随分と小さい方だな」
「遠目で見ると女の子みたいだわ」
「なるほど、皇帝は趣味が良い」
言葉の洪水が雪崩れ込んでくる。口々に発せられる彼らの言葉すべてを追うのは不可能だった。けれど、好意的な感想が多いように思う。ふいに、アリウス様の手が伸びてノウェ様の手首を引いた。ノウェ様が俺とアリウス様の両者に引っ張られて痛い思いをしないように、俺は反射的に手を離す。
「まぁまぁ、落ち着いておくれ。皇妃ノウェは遠くクユセンの地から遥々、ヴィルヘルム陛下のためにやって来てくれた健気な子なんだ」
手首を引いて自分の近くへ連れてきたアリウス様が、ノウェ様の肩を抱きながらそんなことを宣った。ノウェ様はぎょっとした顔をし、ヴィルヘルムのためにやって来たわけではないのだが、と言いたそうなおもてを浮かべる。
「ヴィルヘルム陛下と仲睦まじく過ごしているのを見て、私も安心していたところなんだが……どうやら、その仲の良さを妬んだ人物によって毒を盛られてしまってね。なんと可哀想な」
なんてこと、と聴衆と化した人々が感嘆する。アリウス様はまるで、劇場の舞台に立つ役者のようだった。芝居がかった言葉と手ぶり。人々の心を鷲掴みにする空気。皇帝と言われるよりも、役者と言われた方が信じられるほどだ。
「陛下自ら付きっ切りで介抱したおかげで、今ではこのように元気になっているというわけだ。新聞屋の諸君は、見てもいないことを好き勝手に書くところがあるが、私は自分の目で見た。この両陛下の睦まじさがあれば、帝国の平穏は約束されたも同然だろう」
よく回る舌だ。呆れを通り越して、尊敬してしまう。俺に判別はつかないがきっと、この場にも新聞記者がいるのだろう。そんな記者たちに向けて、先帝が釘を刺す。ノウェ様を侮辱する記事があった事実を、俺も聞かされていた。先帝もご存じなのだろう。
「随分と人が集まって来てしまったな。これでは警備兵が機能しなくなる。ヴィルヘルムに怒られないように、人気のないところに行こう」
そう言って、アリウス様は素早く歩き出した。ノウェ様も慌ててそのあとを追う。アリウス様の動きに合わせて、警備兵たちもぞろぞろと動き出した。市場を抜けると、今度は飲食店が立ち並ぶ区画に入る。まだ準備中の店ばかりだが、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「買い食いはイーヴァンに禁止されてしまったんだ。残念だよ」
「買い食い?」
「そう。匂いに釣られて買ったものを、食べながら歩くのさ。とても楽しいよ」
買い食いという言葉は、ノウェ様にとっては聞き馴染みのないものだった。それもそうだろう。そのような概念は、クユセンにはなかったのだ。ロア族は、共同体で生きている。狩りの獲物は皆で分け、狩りに行けないものたちは羊を追った。物々交換は存在したが、経済と呼べるような代物は存在しなかったのだ。貨幣は、食料の対価になりえなかった。
「さあ、こっちへおいで」
すいすいと進んでいくアリウス様の背を、ノウェ様は一生懸命追いかける。五十を過ぎた齢だというのに、随分と健脚だった。今度は、人の気配が一気になくなる場所へ入っていく。何故これほどまでに人気が無いのかをすぐに察した。
ここは、色街だ。夜は盛んになるが、陽のある間は寝静まる。そんな街であっても、出歩くひとの一人や二人はいた。豊満な体を見せつけるような、胸元が大きく開いた服に身を包んだ女がアリウス様に近寄ってくる。
「あら、アリウス様。そちらはアリウス様のお嬢様?」
その女性も、どうやらアリウス様の顔馴染みであるようだ。そして、あろうことか、ノウェさまを見てそんなことを口にした。確かに、ノウェ様は可憐な姿をしてはいるが、それでもよく見れば男性であることは一目瞭然だ。女に間違われたことに、ノウェ様は憤慨している。
「まさか。こちらはリオライネン皇妃のノウェ様だよ」
「えっ、私ったらなんてことを」
「まぁ、妃殿下は可愛らしくいらっしゃるから、間違えるのも無理はない。それとね、私に子はいないよ。いや、もしかしたらこの街のどこかに、私のあずかり知らない私生児がいるやもしれないが」
彼らにとっては面白い冗談なのか、アリウス様と女は声を出して笑っていた。俺は少しも笑えない。ノウェ様も、女だと思われたことに対する憤懣が収まっていないのか、むっとした顔をしている。
「また店に来てくださいね」
「あぁ、必ず行くとも。待っていておくれ」
そう言って、アリウス様は再び歩き出した。ノウェ様は、小さな歩幅で早歩きになりながらその背中を追いかける。そして、アリウス様の隣に並び立つと、少し戸惑いながらも問いかけた。
「今の女性は……、娼婦ですか?」
俺は、ノウェ様が娼婦という言葉を知っていたことに驚いてしまった。そんな言葉を、ノウェ様は一体どこで知ったのか。当然、俺はそんな言葉を教えたりはしていない。戸惑う俺を他所に、会話は続く。
「そう。私の熱を鎮めてくれる女神さ。この街には、何人もの女神がいるんだよ」
「奥方様はそれをお許しになるのですか?」
「むしろ、奨励されている。子が出来た場合でもしっかり養育するから申告するようにと言われているほどだ」
「……そういう夫婦の形もあるんですね」
先帝の皇妃を見たことはあるが、言葉を交わしたことなどはない。どのような人物なのかは分からないが、その言葉を聞くだけでも逞しい心の女性だということが伺い知れた。珍しい形の夫婦を知り、ノウェ様は何かをぼんやりと考えているようだった。
「ノウェだったら許せるかい?」
「え?」
「ヴィルヘルムが、ノウェに触れられない苦悩を他所の女性なり男性なりで発散する。それを許容できるかな?」
考えることすら拒否してしまうほどの、許しがたい状況だった。ノウェ様に触れられないからと、他の人間で発散するなどありえない。ノウェ様の夫という座を賜りながら、そのような暴挙を為すのであれば俺は迷いなく皇帝を弑逆するだろう。
一人、己の内で怒りに震えている俺の眼前で、ノウェ様は問われた内容に関して真剣に考えているようだった。どんな表情をしているのだろう、と少しばかり立ち位置を変えて、ノウェ様のお顔を拝見出来る場所に立つ。
「……好きにしろって思います」
「なんだか、怒っているようだけれど?」
「怒ってなんていません!」
眉をひそめ、眉間に皺を寄せて。むっとしたお顔をされている。それはまさに、怒っているとしか思えないおもてだった。俺自身怒っていたというのに、何故かノウェ様が怒りを感じていることに衝撃を覚えた。ノウェ様のそれがまるで、悋気のように思えたからだ。
「まあ、安心するといい。ヴィルヘルムは、ノウェ以外を愛さない。あの子には本当に、ノウェしか見えていないんだよ」
先帝の目にも、皇帝はそのように見えているらしかった。確かに、皇帝の一途さは認めよう。だからといって、その振る舞い全てを許すわけではない。先帝の言葉に耳を傾けながら、ノウェ様は僅かに俯いた。
「それが、何故なのか……分からないんです。一目惚れだって、本人には言われました。でも、そんなことって、本当にあるんですか? 俺の内面を何も知らないのに、好きになるだなんて」
何故自分が一途に思われているのかが分からないと、ノウェ様は零した。確かに、皇帝とノウェ様に互いを深く知り合う機会などなかった。それでも皇帝はノウェ様を深く愛している。それが奇妙で、合点がいかないと言うのだ。
「あると思うよ」
ノウェ様の戸惑いを一蹴するかの如く、迷いのない言葉で肯定した。俯いていた顔がぱっと上がり、ノウェ様は真っすぐに先帝の顔を見た。アリウス様は微笑みながら、歌うように語る。
「運命としか言いようがない出会いがある。どんな言葉で理屈を捏ねようとも、無意味なんだ。言葉では説明が出来ない。ヴィルヘルムは、ノウェを愛するために生まれてきた。ノウェ以外に惹かれることはない。ただそれだけのことだ。……ヴィルヘルムは幸運だった。そんな運命の相手に、巡り合えたのだから」
運命の相手に出会えない人間は、星の数ほどいる。運命の人に出会いながら、その人に愛してもらえない者も。けれど、皇帝は運命を己がものにした。俺の手の内から掠め取り、奪い去っていったのだ。
27
あなたにおすすめの小説
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。
【完結 一気読み推奨】片想いの相手が「そろそろ恋愛したい」と言ったので、用済みの俺はニートになることにしました。
はぴねこ
BL
高校生の頃、片想いの親友に告白した。
彼はノンケだったから玉砕して友人関係も終わるものだと思っていた。
もしかすると気持ち悪いと軽蔑される覚悟までしていたのに、彼は「今は恋愛をしている時間がないんだ」と自分の夢を語ってくれた。
彼は会社を興した祖父のことをとても尊敬していて、自分も起業したいと熱く語ってくれた。
そして、俺の手を握って「できれば親友のお前には俺の右腕になってほしい」と言われた。
同性愛者の俺のことを気持ち悪いと遠ざけることもせずに、親友のままでいてくれた彼に俺は感謝して、同じ大学に進学して、大学の頃に彼と一緒にゲームを作成する会社を起業した。
あれから二十年間、本当に二人三脚で駆け抜けてきた。
そして、昨年売り出したVRMMOが世界的に大ヒットし、ゲーム大賞を取ったことを祝うパーティーで親友が語った言葉に俺の覚悟も決まった。
「俺もそろそろ恋愛したい」
親友のその言葉に、俺は、長年の片想いを終わらせる覚悟をした。
不憫な拗らせアラフォーが”愛”へと踏み出すお話です。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
人気者の幼馴染が俺の番
蒸しケーキ
BL
佐伯淳太は、中学生の時、自分がオメガだと判明するが、ある日幼馴染である成瀬恭弥はオメガが苦手という事実を耳にしてしまう。そこから淳太は恭弥と距離を置き始めるが、実は恭弥は淳太のことがずっと好きで、、、
※「二人で過ごす発情期の話」の二人が高校生のときのお話です。どちらから読んでも問題なくお読みいただけます。二人のことが書きたくなったのでだらだらと書いていきます。お付き合い頂けましたら幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる