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咄嗟に腕を引き、弟の手を振り払う。
その瞬間だけは、非力な私の腕に随分と強い力が篭った。私自身は、乱暴に弟の手を振り払ったことに驚いてしまったと言うのに、振り払われた当人であるスイは驚愕を微塵も見せることなく、涼しい顔で私を解放する。穏やかな声で、いってらっしゃい、を言うスイをまともに見ることも出来ないまま、私は逃げるように屋敷をあとにした。
「トーカ」
傾斜の緩い石畳の坂道を、足早に進む。少しでも早く、屋敷から離れたかったのだ。私の名を呼ぶ声は、勿論聞こえている。けれど、俯いたまま一心不乱に足を動かす私には、背後から聞こえるレンの声のために足を止める余裕がなかったのだ。沓の音が、慌ただしく響く。それは私の鼓動の早さを如実に表しているようだった。
「トーカ」
先ほどよりも、少しばかり大きなレンの声。そして、後ろから手首が掴まれて、ついに私の足が止まった。早足で進む程度では、容易くレンに追いつかれてしまう。否、それどころか、私が全力疾走をしたとしても、レンは本気を出すことなく私を捕まえることだろう。人の影がまばらに現れだした道の真ん中で、私たちは立ち尽くす。
「……ごめん」
己の口から出て行った謝罪が、何に対しての詫びであったのか。それは、自分にもよく分からなかった。それでも無性に、レンに謝りたくなったのだ。呼び止めてくれたのに、足を止めなかったこと。レンに向けられたスイの悪意。きっと、そういったことに対して、私は申し訳なく思っているのだろう。
「大丈夫?」
体を反転させてレンと向き合えば、私を気遣う優しい声と同じ温度の眼差しに出会う。私がレンの声に足を止めることなく歩き続けたのは、一刻も早くスイから離れたかったからだ。スイの中にある背の者としての一面を強く浴びてしまい、心底ぞっとした。だから逃げ出したのだ。今でも心臓がぞわぞわとして落ち着かない。けれどこれ以上、レンに心配をかけるわけにはいかないと、小さく深呼吸をして気持ちを切り替える。
「何が? 私は、大丈夫だよ」
下手な嘘を吐いた。きっとレンにも、私の吐いた大丈夫という言葉が虚勢であることは、見抜かれていることだろう。それでも、大丈夫だと自分に言い聞かせる。そして、私の手首を掴み続けていたレンの手に触れ、そっとその手を握った。少しばかり手を引けば、レンは素直に私の隣へとやってくる。そして私たちは、肩を並べて歩き出した。
「どうしてスイは、レンに意地悪なことばかり言うんだろうね」
「俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺が嫌いだ。だから、仕方ない」
「……そっか」
嫌いだから。二人の不仲の原因はとても単純なものだった。嫌いならば、仕方がない。単純なものほど覆すことが難しいものだ。弟たちが互いを睨み合う光景に、兄としては心を痛めてしまうが、好きになれと無理強いすることも出来ない。そもそも私自身、スイを苦手としているところがある。それなのに、レンにだけスイと仲良くしろというのは、可笑しな話だった。
昔のスイは、とても可愛くて、少し泣き虫な弟だった。親鴨から離れまいとする子鴨のような必死さで、私のあとをついて歩いていた時期もあったほどだ。あのまま穏やかに私たち兄弟が過ごせていたのなら、今の関係も少しは違うものになっていたのかもしれない。けれど、弟に向けられた次期頭目の期待は、私たちをただの親しい兄弟ではいさせてくれなかったのだ。純血の背の者として生まれたスイは、望まれた通りに――否、それ以上の立派な背の者に成長した。
「トーカは俺とあいつ、どっちが好き?」
ルーフェイの中でも賑わいの強いハイリ地区へと辿り着いたころ、レンがぼそりと呟いた。人が密集し、なかなか思うように進めないような雑踏。そんな状況でも、レンの声は私の耳に届く。私の手を握るレンの力は、優しくも確かなものだった。どれだけ人並みに揉まれようとも、この手が私を手放さないことだけは、はっきりと分かる。
視線を少しばかり上へとあげる。通りを挟むように並ぶ店々を照らす提灯が頭上に吊るされており、夕暮れを超えて闇に染まり始めたというのにも関わらず、私たちの瞳に映る世界は灯りのために随分明るい。提灯の揺れる光をぼんやりと眺めながら、私は二人の弟のことを想った。どっちが好き。そう尋ねるレンの言葉はとても幼くて、それと同時に、ひどく鋭利だ。
「選べないよ。どちらも大切な弟だ」
レンのことは勿論大切だ。けれど、それと同じくらいスイのことも大切なのだ。日に日に、背の者らしく成長していく弟に怯える感情は確かにある。それでも、だからといって今までの全ての思い出が消え去ることはない。恐ろしいけれど、大切。背反する感情の狭間で揺れながらも、私はスイという弟のことも愛しく思っていた。視界の端で、ふいとレンが顔を逸らすのが見える。
「拗ねないで」
思わず、小さく笑ってしまう。レンの気持ちが手に取るように分かったからだ。きっとレンは、自分が一番だと言われたかったのだろう。スイのことなど嫌いで、好きなのはレンだけ。私がそう言うに決まっているという確信すら、レンは持っていたかもしれない。けれど残念ながら、私が告げた言葉はレンの望むものではなかった。だからこそこうして、レンは少しばかり頬を膨らませながら、顔を逸らして拗ねるのだ。
「どちらも大切な弟だけど、こうして今でも手を繋いで歩くのは、レンだけだよ」
付け加えるようにそう言えば、レンの機嫌も些か良くなったようで、彼の双眸がこちらを見る。目尻の下がった柔らかい笑みが、そのおもてには浮かんでいた。けれど、それも束の間。瞬時にレンの表情が真剣なものへと変わり、私の腕が強く引かれる。
気付いた時には、私の体はレンの両腕の中にあった。直後、数人の男たちがずかずかと無遠慮に、荒々しい足取りで私のすぐそばを過ぎていく。通り過ぎて行った彼らからは強烈な酒の匂いが漂っていた。どうやらレンは、私に突進する勢いであった泥酔客たちから、私を守ってくれたようだった。
「気を付けて。酔っ払いが増えてきた」
レンの腕に守られながら、私たちは道のふちへと移動する。このハイリ地区は比較的新しい区域であり、区画整理がしっかりとなされた状態で発展を続けてきた。地区の中は升目状になっており、正方形の土地を囲むような形で細い道が無数に走っている。私たちはそんな小道の一つに滑り込んだ。
人垣から離れ、こちらを気にする事もなく前だけを見て歩き続ける往来の人々を見る。道ゆく人々の中に、顔が赤らんでいる者、声が異様に大きい者など、酒気を感じられる者たちが増えてきた。喧騒を避けるように、私たちは人の少ない細い路地の奥へ奥へと逃げていく。散歩をしたい気分だったとはいえ、暗くなり始めた時分に出かけたことを少しだけ後悔し始めた。
人の気配がない暗い路地は、どこか湿っぽくて不衛生な匂いがする。そんな道を嫌がって、ここを通る者が極端に少ないのだろう。足元の石畳には苔が生え、人通りの少なさを感じ取れる。そんな場所から見えたその煌びやかな建物は、三階建てになっており極めて背が高く、近くにあるように見えてその実、随分と遠い場所にあった。提灯や灯篭に身を包んだそれは、夜にあっても真昼の太陽のように眩しい。
――――煌びやかなそれに、目を奪われる。
暗闇の中で虫を誘う明かりのように輝くその建物は、娼館だった。建物の外周を囲うように設けられた回廊には、見目麗しい女たちが腰を下ろして客を引いている。華々しい光景に導かれ、娼館の入り口に吸い込まれていく男たちが無数にいた。大都市ルーフェイだけでなく、このフェイラン国で最も名高い娼館を私は今、遠景に捉えている。
「あれが、トーカの母親がいた店?」
私と目線を合わせたレンが、私の視線の先に何があるのかを理解した。投げかけられた質問に対し、うん、と小さく言葉を返す。私の母が娼婦であったことは、バイユエに属する者であれば大抵が知っている。娼婦をしていた母を、当時の頭目であった父が見初めて見受けした。それが私の両親の出会い。そして、私たち母子が背の者の一員となった原因。
「母さんは……一時の好奇心で、人生を台無しにした」
発した呟きは、とてもとても小さいものだった。それでも確かにレンの耳には届いたことだろう。母は、フェイラン国の中に住む少数民族の出だった。他の地域の人間と交わることなく、閉じて生活を続けてきた奇異な一族。彼らには、他では見られない薄桃の髪と瞳を持つという特徴があった。母から継いだその血は、私にも色濃く出ており、私の瞳と髪は薄桃の色をしている。
古来より外界に触れずに生きてきた一族。けれどある日、幼かった母は外に出てみたいと思った。そしてその思いのままに、決行したのだ。ほんの出来心だったと、母が残した日記に記してあった。その一族が外と接触していないとはいえ、集落の外に異なる自分たちとは姿の人間が住んでいるという知識は、当時の幼かった母にもあったらしい。自分達とは違う血族が暮らす街を見てみたいと、母は一人で集落を抜け出した。
フェイラン国は豊かで、強い国だ。国土の中に、彼らの支配が及ばない場所など、殆ど存在しない。それでも、母の一族がフェイラン国に属さず自治を許されていたのは、国王の慈悲だったのだろう。一族の集落を囲うように木の杭の柵が張り巡らされ、外から中に入ることも、中から外へ行くことも容易くはなかった。けれど、母は定期的に外からやってくる商人がいることを知っていたのだ。そして、彼らがそう遠くはない場所からやって来ていることも噂で耳にしていた。
遠い場所でないのなら、行ってみたい。ちょっとだけ、見てみたい。母とて故郷と別離がしたかった訳ではない。こっそりと人目を盗んで抜け出して、そしてその日のうちに帰ってくるつもりだったのだ。好奇心に負けた十五の娘の、一日限りの冒険のはずだった。だが、母が故郷に戻ることは永劫なかった。街を一人でいたところを人買いに攫われ、気付いた時には娼館に売られていた。珍しい色合いを持つその血族を、人買いが狙っているなどということを、母は知らなかったのだ。
「………きっと、外の世界が見てみたかったんだろうな」
安全な場所から出て、危険な外へ行く。その愚かしい行為の魅力が、悲しいことに分かってしまう。けれど母が、一瞬の好奇心のために苦しく短い生涯を送ったことも事実だ。十五の時に人買いに攫われ、十八の時には父に見受けされていた。そして十九で私を生み、二十で死んだ。
「最後には、帰りたい、帰りたいって言いながら泣いてた。物心つく前だけど、そう言いながら私を抱きしめて泣いていた母さんを、覚えてる」
それが私の原初の記憶。母に強く抱きしめられ、同じ薄桃の髪が紗幕のように私を囲っていた。ぽたぽたと落ちてくる雫が涙であったことを知るのは、もう少し成長してからではあったが、それでも母が悲しんでいることは理解していて、私も、とても悲しかった。泣き顔の記憶しかない。母は、喜ぶ時、幸せな時には、どんな表情を見せる人だったのだろうか。
「私も外の世界に出て行ったら、帰りたいって言いながら泣くのかな?」
何故か妙に可笑しい気持ちになって、私は笑ってしまった。それは、嘲笑だ。愉快だから笑ったのではない。母が辿った運命を、まるで私もなぞっているかのようで。その奇妙な宿命が、私に諦念の笑みを与えたのだ。そんな私を、レンがよりいっそう強く抱きしめる。優しすぎて、苦しくなるほどの抱擁だった。
「トーカは泣かない。どこにいても、俺が、絶対にトーカを悲しませない」
母を亡くしてからずっと、私は寂しさに苛まれていた。そんな私の悲しみを癒したのが、その当時飼っていた黒い犬だったのだ。だが、その犬も死んでしまい、私の孤独が再び始まる。そして私は、黒い犬の代わりと出会った。路傍に腰を下ろして、じっと座っていた小さな子供。ぼさぼさの黒髪に、汚れが染み付いて黒ずんだ肌。死んでしまったあの子が、姿を変えて蘇ったのだと、当時はそんなことを本気で考えていた。
「そうだね。私にはレンがいてくれるから、大丈夫だね」
私の可愛い黒い犬。いつしか、その犬を弟と思い、常にそばに置いていた。共に食事をとり、共に眠る。いつも抱きしめていたのは私の方だったのに、今ではこうしてレンに抱きしめられることの方が多い。レンはとても強く逞しい青年に育った。体格にも恵まれおり、さらに幼い頃から屋敷の中でバイユエの徒弟たちから体術の手ほどきを受けている。その腕前は相当のものらしく、今では私の護衛の役をレンが買ってくれているほどだった。
レンの腕の中はとても安全で、そして心が安らぐ。
大丈夫。レンがそばにいてくれるのなら、私はもう寂しくない。
抱擁を続けるレンの腕をぽんぽんと叩き、私を抱きしめる手を解いた。そっと指先を伸ばして真っ黒な頭を撫でれば、レンの顔が少しばかり喜びの色に染まる。どれほど苦しいことがあっても、どれだけ幸せなことがあっても、レンの表情に大きな変化はない。だからこそ、彼の小さな顔色の変化が私にとってはとても大切だった。
「散歩を切り上げようかとも思ったけど……ここまで来たし、店に寄って行こうかな」
バイユエの屋敷はルーフェイの中でも中央に位置する場所にあり、そこから最も近い区域が、賑やかで下品な繁華街であるハイリ地区だ。屋敷から出歩く場合、大抵、ハイリを抜けなければ他の地区へ行くことが出来ない。私が買い物をしたいと思う店があるのは、ハイリを抜けて西に進んだ先にあるシャンガン地区だ。そこには画材を取り扱う行きつけの店がある。私の目的地がそこであることは、レンも理解していることだろう。
視線を上げて、レン越しに空を見上げれば、しっかりと濡羽色に染まる夜空に、まん丸な月が浮かんでいた。スイは、私が夜に出歩くことを嫌がる。私の身を案じてくれているからだと言うことは分かっているのだが、それでも行動に制限がかかると言うのはとても窮屈なことだ。それでもやはり、私の身に何かがあれば頭目であるスイに迷惑が掛かることが理解できるからこそ、夜の外出は控えていた。ここにいるのがスイであれば、そろそろ帰ろうと促されていたことだろう。
「トーカは、したいようにすればいい。俺は、ついて行くだけ」
私が望む言葉を、望むように言ってくれる。レンに甘やかされているのだ。けれど、それが私をとても嬉しくて、幸せな気持ちにさせる。だらしなく笑ってしまいそうになる口元を引き締めるために、唇を噛み締めて一呼吸を置いた。
「行こう、レン」
弟の手を握って、私は歩き出す。夜の街の喧騒から離れ、人の少ない方角へ。少しだけ冷たい空気が私たちを包み込むが、繋いだ手から伝わるレンの体温が、私を凍えさせはしなかった。
その瞬間だけは、非力な私の腕に随分と強い力が篭った。私自身は、乱暴に弟の手を振り払ったことに驚いてしまったと言うのに、振り払われた当人であるスイは驚愕を微塵も見せることなく、涼しい顔で私を解放する。穏やかな声で、いってらっしゃい、を言うスイをまともに見ることも出来ないまま、私は逃げるように屋敷をあとにした。
「トーカ」
傾斜の緩い石畳の坂道を、足早に進む。少しでも早く、屋敷から離れたかったのだ。私の名を呼ぶ声は、勿論聞こえている。けれど、俯いたまま一心不乱に足を動かす私には、背後から聞こえるレンの声のために足を止める余裕がなかったのだ。沓の音が、慌ただしく響く。それは私の鼓動の早さを如実に表しているようだった。
「トーカ」
先ほどよりも、少しばかり大きなレンの声。そして、後ろから手首が掴まれて、ついに私の足が止まった。早足で進む程度では、容易くレンに追いつかれてしまう。否、それどころか、私が全力疾走をしたとしても、レンは本気を出すことなく私を捕まえることだろう。人の影がまばらに現れだした道の真ん中で、私たちは立ち尽くす。
「……ごめん」
己の口から出て行った謝罪が、何に対しての詫びであったのか。それは、自分にもよく分からなかった。それでも無性に、レンに謝りたくなったのだ。呼び止めてくれたのに、足を止めなかったこと。レンに向けられたスイの悪意。きっと、そういったことに対して、私は申し訳なく思っているのだろう。
「大丈夫?」
体を反転させてレンと向き合えば、私を気遣う優しい声と同じ温度の眼差しに出会う。私がレンの声に足を止めることなく歩き続けたのは、一刻も早くスイから離れたかったからだ。スイの中にある背の者としての一面を強く浴びてしまい、心底ぞっとした。だから逃げ出したのだ。今でも心臓がぞわぞわとして落ち着かない。けれどこれ以上、レンに心配をかけるわけにはいかないと、小さく深呼吸をして気持ちを切り替える。
「何が? 私は、大丈夫だよ」
下手な嘘を吐いた。きっとレンにも、私の吐いた大丈夫という言葉が虚勢であることは、見抜かれていることだろう。それでも、大丈夫だと自分に言い聞かせる。そして、私の手首を掴み続けていたレンの手に触れ、そっとその手を握った。少しばかり手を引けば、レンは素直に私の隣へとやってくる。そして私たちは、肩を並べて歩き出した。
「どうしてスイは、レンに意地悪なことばかり言うんだろうね」
「俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺が嫌いだ。だから、仕方ない」
「……そっか」
嫌いだから。二人の不仲の原因はとても単純なものだった。嫌いならば、仕方がない。単純なものほど覆すことが難しいものだ。弟たちが互いを睨み合う光景に、兄としては心を痛めてしまうが、好きになれと無理強いすることも出来ない。そもそも私自身、スイを苦手としているところがある。それなのに、レンにだけスイと仲良くしろというのは、可笑しな話だった。
昔のスイは、とても可愛くて、少し泣き虫な弟だった。親鴨から離れまいとする子鴨のような必死さで、私のあとをついて歩いていた時期もあったほどだ。あのまま穏やかに私たち兄弟が過ごせていたのなら、今の関係も少しは違うものになっていたのかもしれない。けれど、弟に向けられた次期頭目の期待は、私たちをただの親しい兄弟ではいさせてくれなかったのだ。純血の背の者として生まれたスイは、望まれた通りに――否、それ以上の立派な背の者に成長した。
「トーカは俺とあいつ、どっちが好き?」
ルーフェイの中でも賑わいの強いハイリ地区へと辿り着いたころ、レンがぼそりと呟いた。人が密集し、なかなか思うように進めないような雑踏。そんな状況でも、レンの声は私の耳に届く。私の手を握るレンの力は、優しくも確かなものだった。どれだけ人並みに揉まれようとも、この手が私を手放さないことだけは、はっきりと分かる。
視線を少しばかり上へとあげる。通りを挟むように並ぶ店々を照らす提灯が頭上に吊るされており、夕暮れを超えて闇に染まり始めたというのにも関わらず、私たちの瞳に映る世界は灯りのために随分明るい。提灯の揺れる光をぼんやりと眺めながら、私は二人の弟のことを想った。どっちが好き。そう尋ねるレンの言葉はとても幼くて、それと同時に、ひどく鋭利だ。
「選べないよ。どちらも大切な弟だ」
レンのことは勿論大切だ。けれど、それと同じくらいスイのことも大切なのだ。日に日に、背の者らしく成長していく弟に怯える感情は確かにある。それでも、だからといって今までの全ての思い出が消え去ることはない。恐ろしいけれど、大切。背反する感情の狭間で揺れながらも、私はスイという弟のことも愛しく思っていた。視界の端で、ふいとレンが顔を逸らすのが見える。
「拗ねないで」
思わず、小さく笑ってしまう。レンの気持ちが手に取るように分かったからだ。きっとレンは、自分が一番だと言われたかったのだろう。スイのことなど嫌いで、好きなのはレンだけ。私がそう言うに決まっているという確信すら、レンは持っていたかもしれない。けれど残念ながら、私が告げた言葉はレンの望むものではなかった。だからこそこうして、レンは少しばかり頬を膨らませながら、顔を逸らして拗ねるのだ。
「どちらも大切な弟だけど、こうして今でも手を繋いで歩くのは、レンだけだよ」
付け加えるようにそう言えば、レンの機嫌も些か良くなったようで、彼の双眸がこちらを見る。目尻の下がった柔らかい笑みが、そのおもてには浮かんでいた。けれど、それも束の間。瞬時にレンの表情が真剣なものへと変わり、私の腕が強く引かれる。
気付いた時には、私の体はレンの両腕の中にあった。直後、数人の男たちがずかずかと無遠慮に、荒々しい足取りで私のすぐそばを過ぎていく。通り過ぎて行った彼らからは強烈な酒の匂いが漂っていた。どうやらレンは、私に突進する勢いであった泥酔客たちから、私を守ってくれたようだった。
「気を付けて。酔っ払いが増えてきた」
レンの腕に守られながら、私たちは道のふちへと移動する。このハイリ地区は比較的新しい区域であり、区画整理がしっかりとなされた状態で発展を続けてきた。地区の中は升目状になっており、正方形の土地を囲むような形で細い道が無数に走っている。私たちはそんな小道の一つに滑り込んだ。
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人の気配がない暗い路地は、どこか湿っぽくて不衛生な匂いがする。そんな道を嫌がって、ここを通る者が極端に少ないのだろう。足元の石畳には苔が生え、人通りの少なさを感じ取れる。そんな場所から見えたその煌びやかな建物は、三階建てになっており極めて背が高く、近くにあるように見えてその実、随分と遠い場所にあった。提灯や灯篭に身を包んだそれは、夜にあっても真昼の太陽のように眩しい。
――――煌びやかなそれに、目を奪われる。
暗闇の中で虫を誘う明かりのように輝くその建物は、娼館だった。建物の外周を囲うように設けられた回廊には、見目麗しい女たちが腰を下ろして客を引いている。華々しい光景に導かれ、娼館の入り口に吸い込まれていく男たちが無数にいた。大都市ルーフェイだけでなく、このフェイラン国で最も名高い娼館を私は今、遠景に捉えている。
「あれが、トーカの母親がいた店?」
私と目線を合わせたレンが、私の視線の先に何があるのかを理解した。投げかけられた質問に対し、うん、と小さく言葉を返す。私の母が娼婦であったことは、バイユエに属する者であれば大抵が知っている。娼婦をしていた母を、当時の頭目であった父が見初めて見受けした。それが私の両親の出会い。そして、私たち母子が背の者の一員となった原因。
「母さんは……一時の好奇心で、人生を台無しにした」
発した呟きは、とてもとても小さいものだった。それでも確かにレンの耳には届いたことだろう。母は、フェイラン国の中に住む少数民族の出だった。他の地域の人間と交わることなく、閉じて生活を続けてきた奇異な一族。彼らには、他では見られない薄桃の髪と瞳を持つという特徴があった。母から継いだその血は、私にも色濃く出ており、私の瞳と髪は薄桃の色をしている。
古来より外界に触れずに生きてきた一族。けれどある日、幼かった母は外に出てみたいと思った。そしてその思いのままに、決行したのだ。ほんの出来心だったと、母が残した日記に記してあった。その一族が外と接触していないとはいえ、集落の外に異なる自分たちとは姿の人間が住んでいるという知識は、当時の幼かった母にもあったらしい。自分達とは違う血族が暮らす街を見てみたいと、母は一人で集落を抜け出した。
フェイラン国は豊かで、強い国だ。国土の中に、彼らの支配が及ばない場所など、殆ど存在しない。それでも、母の一族がフェイラン国に属さず自治を許されていたのは、国王の慈悲だったのだろう。一族の集落を囲うように木の杭の柵が張り巡らされ、外から中に入ることも、中から外へ行くことも容易くはなかった。けれど、母は定期的に外からやってくる商人がいることを知っていたのだ。そして、彼らがそう遠くはない場所からやって来ていることも噂で耳にしていた。
遠い場所でないのなら、行ってみたい。ちょっとだけ、見てみたい。母とて故郷と別離がしたかった訳ではない。こっそりと人目を盗んで抜け出して、そしてその日のうちに帰ってくるつもりだったのだ。好奇心に負けた十五の娘の、一日限りの冒険のはずだった。だが、母が故郷に戻ることは永劫なかった。街を一人でいたところを人買いに攫われ、気付いた時には娼館に売られていた。珍しい色合いを持つその血族を、人買いが狙っているなどということを、母は知らなかったのだ。
「………きっと、外の世界が見てみたかったんだろうな」
安全な場所から出て、危険な外へ行く。その愚かしい行為の魅力が、悲しいことに分かってしまう。けれど母が、一瞬の好奇心のために苦しく短い生涯を送ったことも事実だ。十五の時に人買いに攫われ、十八の時には父に見受けされていた。そして十九で私を生み、二十で死んだ。
「最後には、帰りたい、帰りたいって言いながら泣いてた。物心つく前だけど、そう言いながら私を抱きしめて泣いていた母さんを、覚えてる」
それが私の原初の記憶。母に強く抱きしめられ、同じ薄桃の髪が紗幕のように私を囲っていた。ぽたぽたと落ちてくる雫が涙であったことを知るのは、もう少し成長してからではあったが、それでも母が悲しんでいることは理解していて、私も、とても悲しかった。泣き顔の記憶しかない。母は、喜ぶ時、幸せな時には、どんな表情を見せる人だったのだろうか。
「私も外の世界に出て行ったら、帰りたいって言いながら泣くのかな?」
何故か妙に可笑しい気持ちになって、私は笑ってしまった。それは、嘲笑だ。愉快だから笑ったのではない。母が辿った運命を、まるで私もなぞっているかのようで。その奇妙な宿命が、私に諦念の笑みを与えたのだ。そんな私を、レンがよりいっそう強く抱きしめる。優しすぎて、苦しくなるほどの抱擁だった。
「トーカは泣かない。どこにいても、俺が、絶対にトーカを悲しませない」
母を亡くしてからずっと、私は寂しさに苛まれていた。そんな私の悲しみを癒したのが、その当時飼っていた黒い犬だったのだ。だが、その犬も死んでしまい、私の孤独が再び始まる。そして私は、黒い犬の代わりと出会った。路傍に腰を下ろして、じっと座っていた小さな子供。ぼさぼさの黒髪に、汚れが染み付いて黒ずんだ肌。死んでしまったあの子が、姿を変えて蘇ったのだと、当時はそんなことを本気で考えていた。
「そうだね。私にはレンがいてくれるから、大丈夫だね」
私の可愛い黒い犬。いつしか、その犬を弟と思い、常にそばに置いていた。共に食事をとり、共に眠る。いつも抱きしめていたのは私の方だったのに、今ではこうしてレンに抱きしめられることの方が多い。レンはとても強く逞しい青年に育った。体格にも恵まれおり、さらに幼い頃から屋敷の中でバイユエの徒弟たちから体術の手ほどきを受けている。その腕前は相当のものらしく、今では私の護衛の役をレンが買ってくれているほどだった。
レンの腕の中はとても安全で、そして心が安らぐ。
大丈夫。レンがそばにいてくれるのなら、私はもう寂しくない。
抱擁を続けるレンの腕をぽんぽんと叩き、私を抱きしめる手を解いた。そっと指先を伸ばして真っ黒な頭を撫でれば、レンの顔が少しばかり喜びの色に染まる。どれほど苦しいことがあっても、どれだけ幸せなことがあっても、レンの表情に大きな変化はない。だからこそ、彼の小さな顔色の変化が私にとってはとても大切だった。
「散歩を切り上げようかとも思ったけど……ここまで来たし、店に寄って行こうかな」
バイユエの屋敷はルーフェイの中でも中央に位置する場所にあり、そこから最も近い区域が、賑やかで下品な繁華街であるハイリ地区だ。屋敷から出歩く場合、大抵、ハイリを抜けなければ他の地区へ行くことが出来ない。私が買い物をしたいと思う店があるのは、ハイリを抜けて西に進んだ先にあるシャンガン地区だ。そこには画材を取り扱う行きつけの店がある。私の目的地がそこであることは、レンも理解していることだろう。
視線を上げて、レン越しに空を見上げれば、しっかりと濡羽色に染まる夜空に、まん丸な月が浮かんでいた。スイは、私が夜に出歩くことを嫌がる。私の身を案じてくれているからだと言うことは分かっているのだが、それでも行動に制限がかかると言うのはとても窮屈なことだ。それでもやはり、私の身に何かがあれば頭目であるスイに迷惑が掛かることが理解できるからこそ、夜の外出は控えていた。ここにいるのがスイであれば、そろそろ帰ろうと促されていたことだろう。
「トーカは、したいようにすればいい。俺は、ついて行くだけ」
私が望む言葉を、望むように言ってくれる。レンに甘やかされているのだ。けれど、それが私をとても嬉しくて、幸せな気持ちにさせる。だらしなく笑ってしまいそうになる口元を引き締めるために、唇を噛み締めて一呼吸を置いた。
「行こう、レン」
弟の手を握って、私は歩き出す。夜の街の喧騒から離れ、人の少ない方角へ。少しだけ冷たい空気が私たちを包み込むが、繋いだ手から伝わるレンの体温が、私を凍えさせはしなかった。
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マッチョ、ガチムチな男の絡みが多く出て来る予定です。
苦手な方はご注意ください。
魔法使い、双子の悪魔を飼う
yondo
BL
「僕、魔法使いでよかった」
リュシーは宮廷専属の優秀な魔法使い。
人が寄りつけない程強い自身の力のせいで常に孤独なリュシーは、ある日何気なく街を歩いていた際に闇商人の話を聞いてしまう。貴重で価値ある''モノ''を高値で買い取る悪趣味な会が近くであるらしく気になったリュシーは其処で不思議な双子と出逢いを果たす。
本の見よう見まねで無償の愛を与え続けるリュシーに育てられた双子はいつしか胸の内に何とも言えない感情を抱く様になり...
独りぼっちだった魔法使いが出逢いを通して彼等と関係を紡いでいき幸せを知る微闇要素有りのBLファンタジー。
(※) 過激描写のある話に付けています。
*** 攻め視点
※不定期更新です。
※誤字脱字の報告助かるので嬉しいです。
※何でもOKな方のみ拝読お願いします。
扉絵
YOHJI@yohji_fanart様
(無断転載×)
冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~
大波小波
BL
フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。
端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。
鋭い長剣を振るう、引き締まった体。
第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。
彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。
軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。
そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。
王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
狼領主は俺を抱いて眠りたい
明樹
BL
王都から遠く離れた辺境の地に、狼様と呼ばれる城主がいた。狼のように鋭い目つきの怖い顔で、他人が近寄ろう者なら威嚇する怖い人なのだそうだ。実際、街に買い物に来る城に仕える騎士や使用人達が「とても厳しく怖い方だ」とよく話している。そんな城主といろんな場所で出会い、ついには、なぜか城へ連れていかれる主人公のリオ。リオは一人で旅をしているのだが、それには複雑な理由があるようで…。
素敵な表紙は前作に引き続き、えか様に描いて頂いております。
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