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はっとして、目が覚める。その瞬間、己がどこにいて、今がいつで、何がどうなったのかが分からなくなった。ただ、胸の中には確かな焦燥だけがある。微かな痛みを感じて見れば、私の手にはしっかりとした包帯が巻かれていた。ここは私の部屋だ。まだ随分と暗いが、真夜中を過ぎたような気配がある。私はチャオヤンの細い路地で意識を手放した。あれから、どうなったのだろうか。
「……っ! レン……!」
彼の存在を思い出し、私は布団を蹴飛ばす勢いで寝台から降りた。スイは、レンに地下室行きだと言っていた。彼らがそこにいる可能性は、とても高い。荒々しい足取りで階段を駆け降りる私の姿を、バイユエの徒弟や幹部たちが戸惑いながら見ている。だが、そんな視線を気にしていられる状況ではないのだ。
普段は、近寄ることすら恐ろしい地下の部屋。地面の中に埋まるようにして作られたその部屋は、いつだって強い湿気に包まれており、酷く陰気だ。その鬱々とした空気は、扉を隔てた場所にまで漂っている。私はそんな場所に立ちながら、整わない呼吸を無理に抑えるようにし、行手を阻む男と対峙した。
「トーカ様、いけません」
顔は見覚えがあるが、名前がわからない。そんな男だった。スイやヤザのそばで見かけることがある。つまりは、幹部の中でも高い地位にあるということだ。平素であれば、そういった人物に関わることすら私は忌避していたことだろう。だが今は、縋るように詰め寄って私は大きな声で問いかけた。
「ここにレンがいるんですよね? どいてください」
「頭目から、トーカ様をここへ入れるなと命じられています」
「咎めながら私が受けます、だからどうか!」
スイが私をここに入れないようにと命じた。嫌な予感が強くなる。私は目の前の男を押し除けようと、掌に力を込めた。だが、そのせいで傷が少し開いてしまったらしい。巻かれた包帯に血が滲む。それを見た男が慌てたために、妨害が緩んだ。その隙を見逃すことなく、私は重たい扉を押し退けて中へと駆け込む。
「レン……!」
名を呼び、その姿を認めた。そして私の全身は、恐怖に包まれる。薄暗い部屋の至る所に蝋燭が置かれ、室内は真昼のように明るい。だからこそ、この部屋の中の異常な光景が鮮明に見えた。床に広がるのは血と吐瀉物。酸っぱさのある匂いと、鉄の香りが充満している。レンは、床に伏したままぴくりとも動かなかった。傷は先ほどよりも、明らかに増えている。
「レン……そんな……、なんで、こんなことに……」
震える足で、前へ進む。部屋の中には、レン以外にも男たちが何人かいた。彼らがレンを傷つけたのだろう。その姿をじっくりと見ることすら、心が拒否している。誰が好き好んで、弟を傷つけた人間を眺めなければいけないのか。近づいても、レンは顔を上げなかった。ぼろぼろになったその姿に、私は手を伸ばす。けれど、私の指先がレンに届くことはなかった。
「兄さん、汚れるよ」
スイが私を後ろから引き止めたのだ。それは、抱擁にも近い拘束だった。力を込めて振り払おうとすれば、スイも力を込めて私を捕らえただろう。それが分かるからこそ、私は抵抗せずにその場に止まった。首を少しだけ動かして背後を見る。近い距離で、スイの視線と私の視線が交わった。
「スイ、何をしてるの……? どうして、レンに酷いことを……」
「この犬は、常日頃から兄さんを守ると豪語しておきながら、その役目を果たせなかった。だから、番犬としての任を解こうと思ったんだ。でも、俺が解任を押し付けてもどうせ従わない。それなら、自分の意思で、自分の口で、兄さんの番犬を辞めますと言ってもらおうと思った、……んだけどね。……全くもって、強情な犬だよ」
つまり、レンは言わなかったのだ。スイは無理にでもレンの発言を求めたのだろう。それこそ、暴力を伴った手段で。そもそも、スイの認識は間違っている。レンは私を守ってくれたのだから。我儘で浅慮な私の馬鹿げた行動に付き合ってくれただけでなく、身を挺して守っていてくれた。私が掌に負った傷など些細なもので、これだけであの場を切り抜けられたことを、レンは賞賛されて然るべきだ。
だというのに、目の前のレンは酷い暴行を受けている。レンが受けた痛みを思うと、足が竦んだ。己の体を己の力で支えきれなくなり、視界がわずかに傾くが、すぐにスイが私を支えてくれた。ぽたり、と雫が落ちる。私の瞳から溢れ出した涙が、薄汚れた地下室の床に落ちて染み込んでいった。
「レン……、もういいよ、レン。ごめんね、私が間違ってた。考えが甘かった……ごめんなさい、レン」
もう、私を守ってくれなくていい。そんなことのために、傷つかなくていいのだ。少しも体を動かせないほどに、レンは打ちのめされている。スイがそうさせたのだ。だが、酷いことをしていると、スイを責めるのはお門違いだった。私が悪い。徹頭徹尾、私のせいだ。私を守ってくれる人の意見を蔑ろにして、母の影を追いすぎた。母に似ているだけの虚像を求めた結果、大切な人を傷つけてしまった。
「俺は……これからも、トーカの、……そばに、いる」
掠れた声が、小さく響く。それがレンの声であるということを気付くのに、時間がかかったのは、いつもの声と随分違って聞こえたからだ。声が可笑しい。肺腑が潰されているかのようだった。そんなにぼろぼろになってまで、私に尽くしてくれなくていい。一体私のどこに、そこまでしてもらえるだけの価値があるというのだ。幼い頃、路傍にいた彼を拾ったことに対する恩だというのなら、もう十分だ。私は過ぎるほどに、恩返しをされている。
「腕を」
スイが、短い言葉を放った。どういう意味だ、と思った直後、部屋の隅に立っていた男がレンに近づいた。その男は、手に大槌を持っている。大工作業に使うような道具が、何故こんな場所に。考えるまでもない。人を傷つけるために、それはここにあるのだ。それを振り上げた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。まっすぐに振り下ろされる。その先には、床の上に力無く垂れるレンの腕があった。
「……っ!」
自分の悲鳴と、レンの耐える声と、何かが折れる鈍い音。信じられない。目の前で、大槌がレンの腕を折ったなんて、信じることが出来ない。それでも確かに、レンの腕は奇妙な方に曲がり、レンは歯を噛み締めて痛みに耐えていた。噛み締めすぎたのだろう。歯が僅かに砕け、口をが開いた瞬間に破片が落ちた。
「スイ、お願いだからもうやめて……!」
レンが私の護衛などやめる、と言わない限りスイはレンの手足を順に折っていくつもりなのだ。私は体ごとスイを向いて、スイの腕の中で彼に縋った。服をぎゅっと掴み、懇願する。どうして、私の不始末の代償をレンが払わなければいけないのか。間違っている。苦痛を受けるべきは、レンではなく私だ。
「私が、罰を受けるから。私が一番悪いから……だから、どうか。どんなことでもするから、レンをこれ以上傷つけないで」
「トーカ……! そんなことしなくていい!」
スイに泣訴する私を、レンの声が止める。いつも小さな声で話す彼の言葉とは思えないほどに、大きな声だった。全身が痛みに覆われて、苦しみに苛まれているというのに、それでもレンは私のために叫んでくれている。そんな彼のために、私は私に出来ることをしなければならない。私の言葉を聞き届けたスイは、まっすぐに私を見る。微笑むでも、怒るでもなく、一切の感情を見せないような表情で、ただただ私を見下ろしていた。
「どんなことでも? その言葉を、俺は信じてしまうけど……それでもいい?」
私にとってスイは、大切で愛おしい弟であると同時に、恐ろしく感じるバイユエの頭目だった。今、目の前にいるのは明らかに、バイユエの頭目としての彼。私が口にした言葉を言質とし、何かを引き出そうとしている。狡猾で、獰猛な獣のようだ。そんなスイの前では、私など無力で無価値な餌でしかない。促されるように、求められるままに、唇を動かす。
「なんでもする……、私を罰して」
背後では、レンのくぐもった声が聞こえた。何事かを叫ぼうとしたが、口を押さえられてそれが叶わなかったのだろう。振り返らずとも、レンの姿を思い描くことが出来る。だからこそ私は振り返ることなく、スイをまっすぐに見つめた。刑罰を言い渡される罪人である私は、裁く側の人間であるスイから視線を逸らしてはならないのだ。不意に、スイは表情を和らげる。
「兄さん、誤解をしないで欲しいんだ。俺は兄さんを虐めたいわけでも、苦しめたいわけでもない。ましてや、兄さんのお気に入りの犬を壊したいわけでもないよ。ただ、分かって欲しいだけなんだ。俺たちは、治安の良いとは言えない街で生きている。危険があちこちに転がっていて、兄さんを狙う屑共もいる。だから、シアさんの影を追うことばかりに、執心しないで」
スイの言葉はあまりにも正しくて、耳が痛い。私は、まさしくズーユンに執心していた。彼女の行く末を見守ることが、母の生涯を見届けることのように思えて、固執していたのだ。彼女に会いに行くことを望んだのは私で、そんな私の我儘な行いがレンを危険な目に遭わせた。スイが助けに来てくれなければ、どうなっていたかは分からない。私は母の面影を追うあまり、今、そばにいてくれる大切な人を蔑ろにした。
「兄さんが、ズーユンと深い繋がりを持たなければ、犬が吐くまで殴られることもなかったし、ズーユンが惨たらしく死ぬこともなかった」
「……、……え?」
その言葉の意味を理解するのに、些か時間がかかった。それもそのはず。私は、それを信じることが出来なかったのだ。死んだ、と言った。惨たらしく死んだ、と。私をおびき出して、娼館とこの街から逃げるという自分の願いを叶えた女性。ズーユンが死んだと、スイは言ったのだ。確かに、彼女は逃げきれずバイユエが身柄を押さえたとスイが言っていた。だが、死んだとはどういうことなのだろうか。
「逃げた娼婦を見せしめにするっていうのは、殺すっていうことだよ。兄さん」
私は愕然とする。体から力が抜けていっていることにも気付かぬまま、その場で放心していた。私をヘイグァンに捧げる生贄としたズーユンだが、彼女を憎むような気持ちはなかった。逃げてほしかったのだ。自由になってほしかった。だというのに、私の願いは何一つ叶っていないなんて。
「ごめんね、兄さん。逃げ出した娼婦の扱いは昔から決まっているんだ。複数の男たちに犯されたあと、足を切り落とす。そして最後に首を絞めて、殺す。そうする決まりなんだよ。足は、ハンファの娼婦たちのもとに届けられて、足抜けを企てた者の末路を伝えるんだ」
胃の腑から込み上げるものがあり、私は不快感をそのまま吐き出した。醜い声と共に、胃液に包まれた吐瀉物を床に零す。スイの手は優しく私の背中を撫でてくれるけれど、彼の行いは決して優しくはなかった。複数の男たちに犯される、という仕打ちだけでも非道だというのに、足を切り落とすとは。しかも、殺す前に。生きたまま足を切り落とされる痛みというのは、一体どれほどなのだろうか。痛みだけで、死んでしまいそうだ。
苦痛と屈辱。それらに苛まれ、ズーユンは命を奪われた。自由になりたいと願ったことの罰がそれとは、あまりにも重すぎる。足抜けを実行した娼婦がどうなるかを、私は分かっていなかった。もし知っていれば、何がなんでもズーユンを止めたことだろう。いくら自由を欲するとはいえ、捕まった際の罰が重すぎると説得したはずだ。そうするべきだった。彼女の逃避に加担するのではなく、何が何でも止めるべきだったのだ。
「……ごめんなさい、……ごめんなさい、ズーユンさん」
涙を流し、口からは胃液と唾液が混ざったものが流れ落ちる。ぶつぶつと詫びる言葉を呟く私を、汚れることも厭わずにスイが抱きしめる。誰も救えなかったどころか、私は関わった人全てを傷つけた。どうしてこんな愚かな兄を、スイは優しく抱きしめてくれるのだろう。
「足抜けを決めたのは彼女で、ヘイグァンに蛇の依頼をしたのもの彼女だ。兄さんが詫びることはない」
確かに、そうなのかもしれない。だが、そもそも、私がズーユンとの接触を断つことが出来ていれば、彼女の計画は頓挫したはずだ。好きでもない男に身請けされることも辛いだろうが、足を切り落とされてから死ぬよりはましだろう。過去に戻ることが出来たのなら、私は母親の影を追ってズーユンとの密会を続けた己を引き止めた。だが、過去に戻ることなどできない。後悔は、事が起こった後にしか出来ないものなのだ。
「足抜けが露呈したらどうなるかを、彼女も当然知っていた。それでもやると決めたんだ。死と隣り合わせだという覚悟は、彼女にもあったはずだよ」
だから、兄さんのせいじゃない。スイは優しくそう言った。客観的に見ると、そのような解釈が出来るものなのだろうか。それとも、スイが私にとびきり優しいだけだろうか。分からない。私にはもう、何も分からない。ただただ、私を罰してほしいと強く願った。ズーユンは屈辱と苦痛の果てに死に、レンは暴行を受けて痛みに呻いている。私が掌に負った傷などでは、到底釣り合わない。私は、罰を受けなければならない。
「これ以上、ここにいない方がいい。さあ、行こう。兄さん」
「……待って、レンは……、レンはどうなるの?」
「兄さんが俺と一緒に行くなら、もう何もしない」
歩くように促すスイの腕が、私の背中に添えられる。私は背後を振り返りながら、レンを見た。レンも、地面に這う姿勢のまま私を見ている。相変わらず口を塞がれており、レンの唇の間から出てくる音たちは、はっきりとした言葉にならない。それでも、トーカ、と呼んでいるような気がした。レンをこの場から救い出すためにも、私はスイと共に行かなければならない。
「なんでもするって、さっき言ったね」
スイの導きに従い、私は地下室を出た。重々しい扉が、その質量に見合った音を立てて閉じられる。私がスイと進むたび、私はレンから離れて行った。体を支えられながら階段を登る私の耳元で、スイがそう囁く。私はただ、ゆっくりと頷くのみだった。
「兄さんが罰を受ける番だよ」
罰して欲しい。深く、酷く。彼らが負った苦痛に報いるためにも。己の浅はかさを贖うためにも。スイは私が望むものを与えようとしてくれている。果たして、それは罰と言えるのだろうか。色々な事がありすぎて、頭が回らない。ぼうっとしたままの思考で、私はもう一度、頷いた。
「……っ! レン……!」
彼の存在を思い出し、私は布団を蹴飛ばす勢いで寝台から降りた。スイは、レンに地下室行きだと言っていた。彼らがそこにいる可能性は、とても高い。荒々しい足取りで階段を駆け降りる私の姿を、バイユエの徒弟や幹部たちが戸惑いながら見ている。だが、そんな視線を気にしていられる状況ではないのだ。
普段は、近寄ることすら恐ろしい地下の部屋。地面の中に埋まるようにして作られたその部屋は、いつだって強い湿気に包まれており、酷く陰気だ。その鬱々とした空気は、扉を隔てた場所にまで漂っている。私はそんな場所に立ちながら、整わない呼吸を無理に抑えるようにし、行手を阻む男と対峙した。
「トーカ様、いけません」
顔は見覚えがあるが、名前がわからない。そんな男だった。スイやヤザのそばで見かけることがある。つまりは、幹部の中でも高い地位にあるということだ。平素であれば、そういった人物に関わることすら私は忌避していたことだろう。だが今は、縋るように詰め寄って私は大きな声で問いかけた。
「ここにレンがいるんですよね? どいてください」
「頭目から、トーカ様をここへ入れるなと命じられています」
「咎めながら私が受けます、だからどうか!」
スイが私をここに入れないようにと命じた。嫌な予感が強くなる。私は目の前の男を押し除けようと、掌に力を込めた。だが、そのせいで傷が少し開いてしまったらしい。巻かれた包帯に血が滲む。それを見た男が慌てたために、妨害が緩んだ。その隙を見逃すことなく、私は重たい扉を押し退けて中へと駆け込む。
「レン……!」
名を呼び、その姿を認めた。そして私の全身は、恐怖に包まれる。薄暗い部屋の至る所に蝋燭が置かれ、室内は真昼のように明るい。だからこそ、この部屋の中の異常な光景が鮮明に見えた。床に広がるのは血と吐瀉物。酸っぱさのある匂いと、鉄の香りが充満している。レンは、床に伏したままぴくりとも動かなかった。傷は先ほどよりも、明らかに増えている。
「レン……そんな……、なんで、こんなことに……」
震える足で、前へ進む。部屋の中には、レン以外にも男たちが何人かいた。彼らがレンを傷つけたのだろう。その姿をじっくりと見ることすら、心が拒否している。誰が好き好んで、弟を傷つけた人間を眺めなければいけないのか。近づいても、レンは顔を上げなかった。ぼろぼろになったその姿に、私は手を伸ばす。けれど、私の指先がレンに届くことはなかった。
「兄さん、汚れるよ」
スイが私を後ろから引き止めたのだ。それは、抱擁にも近い拘束だった。力を込めて振り払おうとすれば、スイも力を込めて私を捕らえただろう。それが分かるからこそ、私は抵抗せずにその場に止まった。首を少しだけ動かして背後を見る。近い距離で、スイの視線と私の視線が交わった。
「スイ、何をしてるの……? どうして、レンに酷いことを……」
「この犬は、常日頃から兄さんを守ると豪語しておきながら、その役目を果たせなかった。だから、番犬としての任を解こうと思ったんだ。でも、俺が解任を押し付けてもどうせ従わない。それなら、自分の意思で、自分の口で、兄さんの番犬を辞めますと言ってもらおうと思った、……んだけどね。……全くもって、強情な犬だよ」
つまり、レンは言わなかったのだ。スイは無理にでもレンの発言を求めたのだろう。それこそ、暴力を伴った手段で。そもそも、スイの認識は間違っている。レンは私を守ってくれたのだから。我儘で浅慮な私の馬鹿げた行動に付き合ってくれただけでなく、身を挺して守っていてくれた。私が掌に負った傷など些細なもので、これだけであの場を切り抜けられたことを、レンは賞賛されて然るべきだ。
だというのに、目の前のレンは酷い暴行を受けている。レンが受けた痛みを思うと、足が竦んだ。己の体を己の力で支えきれなくなり、視界がわずかに傾くが、すぐにスイが私を支えてくれた。ぽたり、と雫が落ちる。私の瞳から溢れ出した涙が、薄汚れた地下室の床に落ちて染み込んでいった。
「レン……、もういいよ、レン。ごめんね、私が間違ってた。考えが甘かった……ごめんなさい、レン」
もう、私を守ってくれなくていい。そんなことのために、傷つかなくていいのだ。少しも体を動かせないほどに、レンは打ちのめされている。スイがそうさせたのだ。だが、酷いことをしていると、スイを責めるのはお門違いだった。私が悪い。徹頭徹尾、私のせいだ。私を守ってくれる人の意見を蔑ろにして、母の影を追いすぎた。母に似ているだけの虚像を求めた結果、大切な人を傷つけてしまった。
「俺は……これからも、トーカの、……そばに、いる」
掠れた声が、小さく響く。それがレンの声であるということを気付くのに、時間がかかったのは、いつもの声と随分違って聞こえたからだ。声が可笑しい。肺腑が潰されているかのようだった。そんなにぼろぼろになってまで、私に尽くしてくれなくていい。一体私のどこに、そこまでしてもらえるだけの価値があるというのだ。幼い頃、路傍にいた彼を拾ったことに対する恩だというのなら、もう十分だ。私は過ぎるほどに、恩返しをされている。
「腕を」
スイが、短い言葉を放った。どういう意味だ、と思った直後、部屋の隅に立っていた男がレンに近づいた。その男は、手に大槌を持っている。大工作業に使うような道具が、何故こんな場所に。考えるまでもない。人を傷つけるために、それはここにあるのだ。それを振り上げた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。まっすぐに振り下ろされる。その先には、床の上に力無く垂れるレンの腕があった。
「……っ!」
自分の悲鳴と、レンの耐える声と、何かが折れる鈍い音。信じられない。目の前で、大槌がレンの腕を折ったなんて、信じることが出来ない。それでも確かに、レンの腕は奇妙な方に曲がり、レンは歯を噛み締めて痛みに耐えていた。噛み締めすぎたのだろう。歯が僅かに砕け、口をが開いた瞬間に破片が落ちた。
「スイ、お願いだからもうやめて……!」
レンが私の護衛などやめる、と言わない限りスイはレンの手足を順に折っていくつもりなのだ。私は体ごとスイを向いて、スイの腕の中で彼に縋った。服をぎゅっと掴み、懇願する。どうして、私の不始末の代償をレンが払わなければいけないのか。間違っている。苦痛を受けるべきは、レンではなく私だ。
「私が、罰を受けるから。私が一番悪いから……だから、どうか。どんなことでもするから、レンをこれ以上傷つけないで」
「トーカ……! そんなことしなくていい!」
スイに泣訴する私を、レンの声が止める。いつも小さな声で話す彼の言葉とは思えないほどに、大きな声だった。全身が痛みに覆われて、苦しみに苛まれているというのに、それでもレンは私のために叫んでくれている。そんな彼のために、私は私に出来ることをしなければならない。私の言葉を聞き届けたスイは、まっすぐに私を見る。微笑むでも、怒るでもなく、一切の感情を見せないような表情で、ただただ私を見下ろしていた。
「どんなことでも? その言葉を、俺は信じてしまうけど……それでもいい?」
私にとってスイは、大切で愛おしい弟であると同時に、恐ろしく感じるバイユエの頭目だった。今、目の前にいるのは明らかに、バイユエの頭目としての彼。私が口にした言葉を言質とし、何かを引き出そうとしている。狡猾で、獰猛な獣のようだ。そんなスイの前では、私など無力で無価値な餌でしかない。促されるように、求められるままに、唇を動かす。
「なんでもする……、私を罰して」
背後では、レンのくぐもった声が聞こえた。何事かを叫ぼうとしたが、口を押さえられてそれが叶わなかったのだろう。振り返らずとも、レンの姿を思い描くことが出来る。だからこそ私は振り返ることなく、スイをまっすぐに見つめた。刑罰を言い渡される罪人である私は、裁く側の人間であるスイから視線を逸らしてはならないのだ。不意に、スイは表情を和らげる。
「兄さん、誤解をしないで欲しいんだ。俺は兄さんを虐めたいわけでも、苦しめたいわけでもない。ましてや、兄さんのお気に入りの犬を壊したいわけでもないよ。ただ、分かって欲しいだけなんだ。俺たちは、治安の良いとは言えない街で生きている。危険があちこちに転がっていて、兄さんを狙う屑共もいる。だから、シアさんの影を追うことばかりに、執心しないで」
スイの言葉はあまりにも正しくて、耳が痛い。私は、まさしくズーユンに執心していた。彼女の行く末を見守ることが、母の生涯を見届けることのように思えて、固執していたのだ。彼女に会いに行くことを望んだのは私で、そんな私の我儘な行いがレンを危険な目に遭わせた。スイが助けに来てくれなければ、どうなっていたかは分からない。私は母の面影を追うあまり、今、そばにいてくれる大切な人を蔑ろにした。
「兄さんが、ズーユンと深い繋がりを持たなければ、犬が吐くまで殴られることもなかったし、ズーユンが惨たらしく死ぬこともなかった」
「……、……え?」
その言葉の意味を理解するのに、些か時間がかかった。それもそのはず。私は、それを信じることが出来なかったのだ。死んだ、と言った。惨たらしく死んだ、と。私をおびき出して、娼館とこの街から逃げるという自分の願いを叶えた女性。ズーユンが死んだと、スイは言ったのだ。確かに、彼女は逃げきれずバイユエが身柄を押さえたとスイが言っていた。だが、死んだとはどういうことなのだろうか。
「逃げた娼婦を見せしめにするっていうのは、殺すっていうことだよ。兄さん」
私は愕然とする。体から力が抜けていっていることにも気付かぬまま、その場で放心していた。私をヘイグァンに捧げる生贄としたズーユンだが、彼女を憎むような気持ちはなかった。逃げてほしかったのだ。自由になってほしかった。だというのに、私の願いは何一つ叶っていないなんて。
「ごめんね、兄さん。逃げ出した娼婦の扱いは昔から決まっているんだ。複数の男たちに犯されたあと、足を切り落とす。そして最後に首を絞めて、殺す。そうする決まりなんだよ。足は、ハンファの娼婦たちのもとに届けられて、足抜けを企てた者の末路を伝えるんだ」
胃の腑から込み上げるものがあり、私は不快感をそのまま吐き出した。醜い声と共に、胃液に包まれた吐瀉物を床に零す。スイの手は優しく私の背中を撫でてくれるけれど、彼の行いは決して優しくはなかった。複数の男たちに犯される、という仕打ちだけでも非道だというのに、足を切り落とすとは。しかも、殺す前に。生きたまま足を切り落とされる痛みというのは、一体どれほどなのだろうか。痛みだけで、死んでしまいそうだ。
苦痛と屈辱。それらに苛まれ、ズーユンは命を奪われた。自由になりたいと願ったことの罰がそれとは、あまりにも重すぎる。足抜けを実行した娼婦がどうなるかを、私は分かっていなかった。もし知っていれば、何がなんでもズーユンを止めたことだろう。いくら自由を欲するとはいえ、捕まった際の罰が重すぎると説得したはずだ。そうするべきだった。彼女の逃避に加担するのではなく、何が何でも止めるべきだったのだ。
「……ごめんなさい、……ごめんなさい、ズーユンさん」
涙を流し、口からは胃液と唾液が混ざったものが流れ落ちる。ぶつぶつと詫びる言葉を呟く私を、汚れることも厭わずにスイが抱きしめる。誰も救えなかったどころか、私は関わった人全てを傷つけた。どうしてこんな愚かな兄を、スイは優しく抱きしめてくれるのだろう。
「足抜けを決めたのは彼女で、ヘイグァンに蛇の依頼をしたのもの彼女だ。兄さんが詫びることはない」
確かに、そうなのかもしれない。だが、そもそも、私がズーユンとの接触を断つことが出来ていれば、彼女の計画は頓挫したはずだ。好きでもない男に身請けされることも辛いだろうが、足を切り落とされてから死ぬよりはましだろう。過去に戻ることが出来たのなら、私は母親の影を追ってズーユンとの密会を続けた己を引き止めた。だが、過去に戻ることなどできない。後悔は、事が起こった後にしか出来ないものなのだ。
「足抜けが露呈したらどうなるかを、彼女も当然知っていた。それでもやると決めたんだ。死と隣り合わせだという覚悟は、彼女にもあったはずだよ」
だから、兄さんのせいじゃない。スイは優しくそう言った。客観的に見ると、そのような解釈が出来るものなのだろうか。それとも、スイが私にとびきり優しいだけだろうか。分からない。私にはもう、何も分からない。ただただ、私を罰してほしいと強く願った。ズーユンは屈辱と苦痛の果てに死に、レンは暴行を受けて痛みに呻いている。私が掌に負った傷などでは、到底釣り合わない。私は、罰を受けなければならない。
「これ以上、ここにいない方がいい。さあ、行こう。兄さん」
「……待って、レンは……、レンはどうなるの?」
「兄さんが俺と一緒に行くなら、もう何もしない」
歩くように促すスイの腕が、私の背中に添えられる。私は背後を振り返りながら、レンを見た。レンも、地面に這う姿勢のまま私を見ている。相変わらず口を塞がれており、レンの唇の間から出てくる音たちは、はっきりとした言葉にならない。それでも、トーカ、と呼んでいるような気がした。レンをこの場から救い出すためにも、私はスイと共に行かなければならない。
「なんでもするって、さっき言ったね」
スイの導きに従い、私は地下室を出た。重々しい扉が、その質量に見合った音を立てて閉じられる。私がスイと進むたび、私はレンから離れて行った。体を支えられながら階段を登る私の耳元で、スイがそう囁く。私はただ、ゆっくりと頷くのみだった。
「兄さんが罰を受ける番だよ」
罰して欲しい。深く、酷く。彼らが負った苦痛に報いるためにも。己の浅はかさを贖うためにも。スイは私が望むものを与えようとしてくれている。果たして、それは罰と言えるのだろうか。色々な事がありすぎて、頭が回らない。ぼうっとしたままの思考で、私はもう一度、頷いた。
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王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
魔法使い、双子の悪魔を飼う
yondo
BL
「僕、魔法使いでよかった」
リュシーは宮廷専属の優秀な魔法使い。
人が寄りつけない程強い自身の力のせいで常に孤独なリュシーは、ある日何気なく街を歩いていた際に闇商人の話を聞いてしまう。貴重で価値ある''モノ''を高値で買い取る悪趣味な会が近くであるらしく気になったリュシーは其処で不思議な双子と出逢いを果たす。
本の見よう見まねで無償の愛を与え続けるリュシーに育てられた双子はいつしか胸の内に何とも言えない感情を抱く様になり...
独りぼっちだった魔法使いが出逢いを通して彼等と関係を紡いでいき幸せを知る微闇要素有りのBLファンタジー。
(※) 過激描写のある話に付けています。
*** 攻め視点
※不定期更新です。
※誤字脱字の報告助かるので嬉しいです。
※何でもOKな方のみ拝読お願いします。
扉絵
YOHJI@yohji_fanart様
(無断転載×)
狼領主は俺を抱いて眠りたい
明樹
BL
王都から遠く離れた辺境の地に、狼様と呼ばれる城主がいた。狼のように鋭い目つきの怖い顔で、他人が近寄ろう者なら威嚇する怖い人なのだそうだ。実際、街に買い物に来る城に仕える騎士や使用人達が「とても厳しく怖い方だ」とよく話している。そんな城主といろんな場所で出会い、ついには、なぜか城へ連れていかれる主人公のリオ。リオは一人で旅をしているのだが、それには複雑な理由があるようで…。
素敵な表紙は前作に引き続き、えか様に描いて頂いております。
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