下賜される王子

シオ

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◆ 第一章 黒の姫宮

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 叔父上は静かに涙を零し、嗚咽も出さず穏やかに悲嘆していた。凍りついた叔父上の心の中の、唯一温かい部分が今、露わになったような気がした。

 焦がれて、望んで、欲して、求めた唯一人の男が、今まさに天へ帰ろうとしている。その辛さは、忖度せずとも理解出来た。私が清玖無しでは生きていけないと思うように、叔父上も陛下無しでは生きていけないのだ。

「離宮には、他の御兄弟がいらっしゃるのでは?」
「確かにその通りだ……だが、兄上に代わる者は、どこにもいない」

 私の言葉は、何の慰めにもならなかった。清玖が死んだとして、他の兄弟がいるから寂しくないでしょう、と言われても、私は頷けない。兄弟と愛する人は、別物だ。それが分かっているのに、そんな取るに足らないことを口にしてしまった。

「……空しい人生だったなぁ」

 一生の半ばを過ぎて、叔父上の吐き捨てた言葉はあまりにも憐れだった。涙でぬれた目元は赤く染まり、そっと瞑目する。愛する人との死別を経た後に叔父上のもとに残るものは、何もないのだ。ただただ空しさだけが、その身を浸す。

 気付いた時には、私の手は叔父上の頭を撫でていた。ふわふわの白い髪が、手に心地よい。自分よりうんと年上の人の頭を撫でていると気付くと、畏れ多くなったが、叔父上は微笑んで私の無礼を許した。

「優しい子だ。流石は兄上の血を受け継ぐだけのことはある」

 父は、優しかったのだろうか。父の人格を知れるほど、長い時間を共に過ごしたことはない。儀式やら祭事やらで王族一同が集う時もあったが、その時ですら言葉を交わした記憶はない。結局のところ、私も父も根っからの天瀬王族なのだ。兄弟以外にはさほど興味がない。

「……何度も逃げてやろうと思ったし、何度も死んでやろうと思った。けれど、何をしても兄上の迷惑になる。私には、ただ諾々と役目を果たす道しかなかった」

 今は、姫宮の玄人として絶大な存在感を示す叔父上だが、やはりそんな人でも逃げたいと思う時はあったのだ。そして、兄弟に迷惑がかかると、逃亡を諦める。それを延々と繰り返す螺旋の中で、何人の姫宮が苦しみ踠いてきたのだろうか。

「体は満たされても、心は微塵も満たされない。私を満たせるのは兄上だけだ。兄上も私を愛してくれたけれど、王妃のことやら、王子のことやら、国のことで、私だけのものにはなって下さらなかった」

 叔父上は、陛下と二人だけになりたかったのだ。二人だけの閉じた世界で、陛下を独占し、愛し合いたかった。けれどそれは敵わない。叔父上の愛した兄は、この国の王なのだから。

「何故、姫宮などという薄汚れた役目を作ってしまったのか。……黒闢天とやらは、とても残酷だ」

 それは、全ての姫宮の代弁だった。全ての姫宮がそう心の中で叫んでいただろう。こんな、醜い役目でも、天の意向を強く感じる。男を受け入れ易い体に、誰もを魅了する容貌。そこには、天の寵が顕現している。

「今夜、お前は私を残酷だと罵るかもしれない。だが、私のすることなど、姫宮の一生から思えば優しいものだ。私は好きでお前を苦しめている訳ではない。許されるなら、姫宮など廃止だ、と声高に叫んでやりたい。だが皆、分かっているのだ。姫宮という存在の有用性を。……もう疲れた。吉乃、私は……私は、早く、楽になりたい」

 陛下が死去し、紫蘭兄上が国王となり、叔父上が離宮へ移されたあとに、叔父上がそのまま命を絶ってしまうような気がして、胸が苦しくなる。

 侍従や近衛たちが、自死を防ぐとは思うが、叔父上の心中を思えば、きっとすぐにでも陛下のあとを追いたいはずだ。叔父上に死んでほしくない。

 そうして私は気付く。曲がりなりにも、甥として叔父を慕っているのだということに。この、冷たいほどに美しく、哀れなほどに一途な人を、私は心のどこかで慕っていた。

「兄上が即位してからの三十余年。毎日三番目に生まれたことを呪い続けた。愛する人と結ばれないことは分かっていたし、幸福な未来など無いということも理解していた。……予想した通りの幕切れだ。兄は死に、私は姫宮を降りる。何一つ報われぬまま、私は終わっていく」

 ゆっくりと体を起こした叔父上に合わせ、私も触れていた手を離す。再び頬杖をついた叔父上は、自嘲するような目で笑って天を仰いだ。

「……憐れに過ぎる」

 己の人生を振り返って、そのように評するというのは、どのような心情なのだろう。私は一言も発せなかった。今この場で叔父上に向けられるような言葉は持ち合わせておらず、なおかつ、私にはその権利がないように思えた。

「清玖を選んだことが、きっとお前を幸福に導く」

 王族ではない者を選んで良かったな、と叔父上は囁いた。武官ではなく、文官であれば尚良かったが、と付け加えて。

 やはり叔父上も、戦場で清玖の命が散ってしまう可能性を考えているのだ。もしそんなことになれば、私はきっと叔父上と似たような人生を歩むことになるのだろう。

「臆するな。お前は、黒闢天に愛された子。最後には、幸福に抱かれる」

 そう言って叔父上は立ち上がり、私の頭を一度撫でて去って行った。凛とした背筋。私よりもうんと年上であるにも関わらず、微塵もそれを感じさせない。不老であるかのような美しさを保っていた。

 風に吹かれて訪れ、風に攫われるように去って行った叔父上。私はその背を、見えなくなるまで見つめ続ける。天瀬が抱える苦悩を体現したかのような御方だった。

「……あの人を憎めなくて、困っている」

 私の漏らした言葉を聞き届けた淡月は、視界の端で小さく頷いていた。不思議な人なのだ。蠱惑的で、冷酷で。そして、それはつまり、魅力的であるということだった。その魅力をもって、立派に叔父上は姫宮を勤め上げた。

 私も、あのように生きていけるだろうか。めそめそと泣くばかりではなく、毎度傷つくばかりでもなく。毅然とした態度で、仕事だと割り切って、姫宮を務められるだろうか。

 望んでいないものというのは、あっという間に訪れるもので、怯える間もなく夜がやってきた。軽く食事を済ませ、湯浴みをし、身を整えて姫宮の寝所へ向かう。

 一体何が私を待ち受けているというのだろう。寝所の前に来て、今更足が震えだす。もう遅い、と己の中で諦めた。扉の前で淡月を待たせ、私は進む。次の間を通り、すぐに寝所に案内された。

 叔父上は、椅子に深く腰掛け、私を待っていた。叔父上の衣類は整っており、どうにも今から睦み合うという姿には見えない。今夜、叔父上は一切関与しないのだろうか。

「……誰もいないんですね」
「後から来る」
「その人に抱かれろ、ということなんですよね?」
「ああ、そういうことだ」

 その流れはもう身に染みている。ここで叔父上に引き合わされた者たちは、そうなる運命なのだ。そうでなければ、ここからは出られない。誰もがみな被害者。叔父上も含め。

「抱かれることにも慣れてきただろう?」
「……そうですね」
「良い調子だ」

 言い当てられて悔しいが、確かに慣れてきた。濡らして、広げて、受け入れて。中で達ってくれれば楽だが、駄目なら口で致す。それを作業だと思えば、なんとか乗り越えられた。

 私は、男を達かせることに全神経を集中させ、早く達ってしまえと心の中で叫び続ける。それは、愛のある交合などではなかった。見知らぬ男だからこそ、そんな作業のようにこなせるのだ。

 今日で叔父上の指導が最後だと言っていた。私は今代姫宮に、疑問点を聞いておこうと、頭の中で問いたいことを集める。

「姫宮になったあとは、相手より先に私がここにいた方がいいのですか?」
「そこらへんは好みだ。ずっと待っていたという風にして喜ばせるも良し、少し焦らして現われるのも良し」
「……そういったさじ加減が難しいですね」
「嫌でも身について行くさ」
「行為が終わった後は、さっさと出て行ってもいいものですか?」
「それも雰囲気によりけりだろう。こうしなければならない、というものはない。お前の好きにすれば良い。……変なところで真面目だな、吉乃は」

 笑われてしまって、恥ずかしくなる。でも、気になるのだからしょうがない。最中に寝てしまったら怒られますか、だとか、私が達けなくても構いませんか、とか。色々と聞きたいことはあるのに、叔父上は、お前の好きにしろ、としか言ってくれなかった。

「行為の最中に暴力を振るわれることもありますか?」
「無いとは言えないな。少なくとも私はある。私に手を挙げたのは、この国の者ではなく他国の者だが、加虐に興奮を抱く者もいるからな。あまりにも度が過ぎれば、寝所の外で警護をしている者たちが入って、止めてくれる。少なくとも、姫宮に命に係わる暴力を振るった者は、斬首に処すという法もある。それに怯えて、大抵の者は大人しいものだ」
「……そう、ですか」
「あまり不安そうな顔をするな、大丈夫。その黒が、何よりもお前の身を守る」

 尊い黒に害為す愚か者は、そうはいない。叔父上はそう言って私を安堵させようとしたが、それでも私の不安は消えなかった。暴力を振るうことで興奮するような人種がいるなんて、信じられないことだ。

 そういった人物を相手にしなければならない時が来たらどうしよう。暴力を振るわれたことがないため、どんな痛みを伴うかも分からなかった。

「さて、最後の試練とも言うべき相手が来た」

 叔父上との会話ですっかり心が緩んでしまい、私は指導を眼前に控えているということを失念していた。次の間が開き招かれた者が入ってくる。私はその姿を認めた瞬間、体から力が抜けていくのを感じた。床の上に座り込む。自分の力で、己の体重を支えられないほどに脱力していた。

「私を憎んでいい」

 腰を上げて私に近寄った叔父上が、そんな言葉を囁いて離れていく。私は、その言葉の意味を思い知った。叔父上が散々脅すので、相手が誰なのか考えを巡らせていた。色々な人物を思い描いたが、この人だけは違うだろうと思っていたその人が、今ここにいる。

「……そんな」

 姫宮として役目を果たしやすいのは、縁の薄い相手だ。名も知らず、見知らぬ男が一番良い。作業だと割り切り易い。行為の中に感情を持ち込まずに済むからだ。だからこそ、嫌悪はあったが、昨夜の征牙は容易くこなせた。

 今夜だって、そういう相手が来ると思ったのだ。酷い抱き方をする者だろうか、だとか、醜悪な体を持つ者だろうか、などとそんなことを考えていた。私の案は、全て見当違いだったのだ。

「いや、……いやです、それだけは、嫌です」

 良く知った姿。見慣れたその人は、驚愕をおもてに浮かべて立ち尽くしていた。きっと、何も知らされていないのだろう。ただ、叔父上にここに来いと呼び出されただけで。そして、何故私がここにいるのかを思案しているのだ。そんな顔をしている。

 私は叔父上に懇願の声を向ける。立ち上がれない足のまま、首を左右に振って拒否を示す。何度も、何度も嫌だと弱々しい悲鳴をあげた。顔を上げられない。上げてしまえば、そこに立つ人が見えてしまう。私は目を逸らしたかった。目の前に立つ、紫蘭兄上から。

「兄上とだけは……、嫌です」


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