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第8話
花雨
しおりを挟む京師を離れて寧安で過ごせば、身の内の恋情が消えていくと思っていた。
仁瑶は寧安刺史である黄氏の屋敷に滞在し、治水事業の他、農地の開拓などにも積極的に取り組んだ。京師から届いた救済米で粥廠をひらき、周辺の州都から穀物や野菜なども買って当座の民の食糧をまかなう。
永宵が気をきかせてか、優秀な官吏たちも複数名派遣されてきた。仁瑶は彼らと何度も議論を重ね、流れを遮っている巨石を取り除き、川幅を広げることで氾濫を防ぐ案を採用した。
水害による飢饉の影響は大きく、ひどくやせ細った寧安の民を見るにつけ、仁瑶はなんとも言えない心地に襲われた。
とにかく食事と仕事を与えるのが先決だと、田畑や家畜を失った者など、なるべく多くの民を雇い、治水に参加させる。働く意思があれば女子供にも簡単な作業を手伝わせ、日給を支払った。
寧安の民たちは初めこそ遠巻きにしていたが、仁瑶が手ずから大鍋で粥を作る姿や、椀を持って並んだ彼らを忌避することなく温かな粥をよそってくれる姿を見るにつけ、皇族への畏怖よりも親しみが勝ったらしい。数週間後には、官吏以外の者らからも声をかけられるようになっていた。
――このまま寧安の民と寄り添うように過ごしていれば、翠玲のことばかり考えずにすむ。
そう思っていたのに、仁瑶のもとへは三日と空けず京師から文が届く。
寧安へ到着して間もない頃から、翠玲がずっと送り続けてくるのだ。
「……おまえが確認してくれ」
刺史の屋敷へ今日届けられた薄紅色の封書を一瞥し、仁瑶は紅春に告げる。
翠玲からの最初の文を受け取った時は、永宵の妻に戻るという報告かと思った。おそるおそる広げて読めば、書かれていたのは仁瑶の身を気遣う言葉と、寧安へ行きたいという懇願のみ。仁瑶が面食らったのは言うまでもない。
最初の文に返事さえできずにいるうちに、次から次へと文は届いた。
離縁に関する事柄はひとつも書かれておらず、いつも翠玲の近況と簡単な京師の様子などがしたためられているばかりで、仁瑶はますます困惑する。
文を携えてくるのは決まって祥媛王府の下男たちであり、仁瑶は四通目を受け取った折、我慢できずに「翠玲は皇宮へ嫁ぎ直したのか」と尋ねたことがある。
されど、彼らは一様に驚いた顔になり、仁瑶の問いを否定した。
その話が翠玲の耳に入ったのか、次の手紙には優美な水茎で「王妃としてお傍でお世話がしたい」と書かれる始末だ。どうも永宵が、仁瑶の赦しがあれば寧安へ向かってもよいと翠玲に言ったらしい。
仁瑶は困り果て、返書できないまま二ヶ月が経とうとしている。
「一度も返事をしてないのだから、呆れて書くのをやめればよいものを」
独りごちれば、紅春が笑み含む気配がした。
「王妃様は、仁瑶様が確かに文を受け取ったと報告するだけでよいと仰せだったそうですよ」
「……離縁状に関しては? 此度もなにも書いてないのか?」
ばつの悪い心地で尋ねる。
紅春は手紙をひろげ、さっと目を通したのち首肯した。
「薄物の寝衣を何枚か縫われたので、それを仁瑶様にお贈りすると。それから、暑くなる時分ゆえ、お躰をおいといくださいということです。仁瑶様の食が細くなっているのではないかと、ご心配なさっているようですね。あとは、……いつでもお傍にまいれますとありますが」
窺うような視線を向けられ、仁瑶は紅春から顔を背ける。
翠玲はいったいなにを考えているのか。
永宵を思慕しているはずなのに、仁瑶へ幾度も文を送ってくるだなんて。その行動だけを見れば、まるで恋うている相手はおのれなのではないかと勘違いしそうになる。
仁瑶はくちびるを噛み、文とともに届いた薄物を手に取った。
涼しげな色味の上品な寝衣は、ふんわりと金銀花の香りを纏っている。その匂いが鼻腔をかすめた途端、仁瑶の身の内が戦慄いた。
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