皇兄は艶花に酔う

鮎川アキ

文字の大きさ
90 / 132
第8話

花雨

しおりを挟む

 京師みやこを離れて寧安ねいあんで過ごせば、身の内の恋情が消えていくと思っていた。
 仁瑶ジンヨウは寧安刺史ししであるコウ氏の屋敷に滞在し、治水事業の他、農地の開拓などにも積極的に取り組んだ。京師から届いた救済米で粥廠しゅくしょうをひらき、周辺の州都から穀物や野菜なども買って当座の民の食糧をまかなう。
 永宵エイショウが気をきかせてか、優秀な官吏たちも複数名派遣されてきた。仁瑶は彼らと何度も議論を重ね、流れを遮っている巨石を取り除き、川幅を広げることで氾濫を防ぐ案を採用した。
 水害による飢饉の影響は大きく、ひどくやせ細った寧安の民を見るにつけ、仁瑶はなんとも言えない心地に襲われた。
 とにかく食事と仕事を与えるのが先決だと、田畑や家畜を失った者など、なるべく多くの民を雇い、治水に参加させる。働く意思があれば女子供にも簡単な作業を手伝わせ、日給を支払った。
 寧安の民たちは初めこそ遠巻きにしていたが、仁瑶が手ずから大鍋で粥を作る姿や、椀を持って並んだ彼らを忌避することなく温かな粥をよそってくれる姿を見るにつけ、皇族への畏怖よりも親しみが勝ったらしい。数週間後には、官吏以外の者らからも声をかけられるようになっていた。
 ――このまま寧安の民と寄り添うように過ごしていれば、翠玲スイレイのことばかり考えずにすむ。
 そう思っていたのに、仁瑶のもとへは三日と空けず京師から文が届く。
 寧安へ到着して間もない頃から、翠玲がずっと送り続けてくるのだ。
「……おまえが確認してくれ」
 刺史の屋敷へ今日届けられた薄紅色の封書を一瞥し、仁瑶は紅春コウシュンに告げる。
 翠玲からの最初の文を受け取った時は、永宵の妻に戻るという報告かと思った。おそるおそる広げて読めば、書かれていたのは仁瑶の身を気遣う言葉と、寧安へ行きたいという懇願のみ。仁瑶が面食らったのは言うまでもない。
 最初の文に返事さえできずにいるうちに、次から次へと文は届いた。
 離縁に関する事柄はひとつも書かれておらず、いつも翠玲の近況と簡単な京師の様子などがしたためられているばかりで、仁瑶はますます困惑する。
 文を携えてくるのは決まって祥媛しょうえん王府の下男たちであり、仁瑶は四通目を受け取った折、我慢できずに「翠玲は皇宮へ嫁ぎ直したのか」と尋ねたことがある。
 されど、彼らは一様に驚いた顔になり、仁瑶の問いを否定した。
 その話が翠玲の耳に入ったのか、次の手紙には優美な水茎で「王妃としてお傍でお世話がしたい」と書かれる始末だ。どうも永宵が、仁瑶の赦しがあれば寧安へ向かってもよいと翠玲に言ったらしい。
 仁瑶は困り果て、返書できないまま二ヶ月が経とうとしている。
「一度も返事をしてないのだから、呆れて書くのをやめればよいものを」
 独りごちれば、紅春が笑み含む気配がした。
「王妃様は、仁瑶様が確かに文を受け取ったと報告するだけでよいと仰せだったそうですよ」
「……離縁状に関しては? 此度もなにも書いてないのか?」
 ばつの悪い心地で尋ねる。
 紅春は手紙をひろげ、さっと目を通したのち首肯した。
「薄物の寝衣を何枚か縫われたので、それを仁瑶様にお贈りすると。それから、暑くなる時分ゆえ、お躰をおいといくださいということです。仁瑶様の食が細くなっているのではないかと、ご心配なさっているようですね。あとは、……いつでもお傍にまいれますとありますが」
 窺うような視線を向けられ、仁瑶は紅春から顔を背ける。
 翠玲はいったいなにを考えているのか。
 永宵を思慕しているはずなのに、仁瑶へ幾度も文を送ってくるだなんて。その行動だけを見れば、まるで恋うている相手はおのれなのではないかと勘違いしそうになる。
 仁瑶はくちびるを噛み、文とともに届いた薄物を手に取った。
 涼しげな色味の上品な寝衣は、ふんわりと金銀花すいかずらの香りを纏っている。その匂いが鼻腔をかすめた途端、仁瑶の身の内が戦慄いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

さかなのみるゆめ

ruki
BL
発情期時の事故で子供を産むことが出来なくなったオメガの佐奈はその時のアルファの相手、智明と一緒に暮らすことになった。常に優しくて穏やかな智明のことを好きになってしまった佐奈は、その時初めて智明が自分を好きではないことに気づく。佐奈の身体を傷つけてしまった責任を取るために一緒にいる智明の優しさに佐奈はいつしか苦しみを覚えていく。

【完結】利害が一致したクラスメイトと契約番になりましたが、好きなアルファが忘れられません。

亜沙美多郎
BL
 高校に入学して直ぐのバース性検査で『突然変異オメガ』と診断された時田伊央。  密かに想いを寄せている幼馴染の天海叶翔は特殊性アルファで、もう一緒には過ごせないと距離をとる。  そんな折、伊央に声をかけて来たのがクラスメイトの森島海星だった。海星も突然変異でバース性が変わったのだという。  アルファになった海星から「契約番にならないか」と話を持ちかけられ、叶翔とこれからも友達として側にいられるようにと、伊央は海星と番になることを決めた。  しかし避けられていると気付いた叶翔が伊央を図書室へ呼び出した。そこで伊央はヒートを起こしてしまい叶翔に襲われる。  駆けつけた海星に助けられ、その場は収まったが、獣化した叶翔は後遺症と闘う羽目になってしまった。  叶翔と会えない日々を過ごしているうちに、伊央に発情期が訪れる。約束通り、海星と番になった伊央のオメガの香りは叶翔には届かなくなった……はずだったのに……。  あるひ突然、叶翔が「伊央からオメガの匂いがする」を言い出して事態は急変する。 ⭐︎オメガバースの独自設定があります。

ハヤブサ将軍は身代わりオメガを真摯に愛す

兎騎かなで
BL
言葉足らずな強面アルファ×不憫属性のオメガ……子爵家のニコルは将来子爵を継ぐ予定でいた。だが性別検査でオメガと判明。  優秀なアルファの妹に当主の座を追われ、異形将軍である鳥人の元へ嫁がされることに。  恐れながら領に着くと、将軍は花嫁が別人と知った上で「ここにいてくれ」と言い出し……?

殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?

krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」 突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。 なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!? 全力すれ違いラブコメファンタジーBL! 支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。

転移先で辺境伯の跡継ぎとなる予定の第四王子様に愛される

Hazuki
BL
五歳で父親が無くなり、七歳の時新しい父親が出来た。 中1の雨の日熱を出した。 義父は大工なので雨の日はほぼ休み、パートに行く母の代わりに俺の看病をしてくれた。 それだけなら良かったのだが、義父は俺を犯した、何日も。 晴れた日にやっと解放された俺は散歩に出掛けた。 連日の性交で身体は疲れていたようで道を渡っているときにふらつき、車に轢かれて、、、。 目覚めたら豪華な部屋!? 異世界転移して森に倒れていた俺を助けてくれた次期辺境伯の第四王子に愛される、そんな話、にする予定。 ⚠️最初から義父に犯されます。 嫌な方はお戻りくださいませ。 久しぶりに書きました。 続きはぼちぼち書いていきます。 不定期更新で、すみません。

ギルド職員は高ランク冒険者の執愛に気づかない

Ayari(橋本彩里)
BL
王都東支部の冒険者ギルド職員として働いているノアは、本部ギルドの嫌がらせに腹を立て飲みすぎ、酔った勢いで見知らぬ男性と夜をともにしてしまう。 かなり戸惑ったが、一夜限りだし相手もそう望んでいるだろうと挨拶もせずその場を後にした。 後日、一夜の相手が有名な高ランク冒険者パーティの一人、美貌の魔剣士ブラムウェルだと知る。 群れることを嫌い他者を寄せ付けないと噂されるブラムウェルだがノアには態度が違って…… 冷淡冒険者(ノア限定で世話焼き甘えた)とマイペースギルド職員、周囲の思惑や過去が交差する。 表紙は友人絵師kouma.作です♪

処理中です...