上 下
2 / 2
番外編

ロマンスは落ちているわけじゃない

しおりを挟む
「俺のロマンスはどこに落ちているんだろうなー」とうっかり呟いて、皆をドン引きさせた曽根のお話。
********************************************

「曽根氏」

懐かしい呼び名に振り向けば、久々に目にする懐かしい顔だった。

「おう、藤宮。帰って来たか」

曽根の同期で本社営業部の同僚でもあった藤宮舞は、三年前ニューヨーク支社へと転勤した。
それ以来の再会だ。
襟足が覗くショートカットの髪型も。
生き生きと輝くやや切れ長の大きな目も。
悪戯っ子のようにちょっと歪めた口許も。

――じゃあ、ちょと行ってくるから。

まるでその年月を飛び越えて、ここに立っているように見える。

「お前、変わんねぇな」
「一応、ほめ言葉と受け取っておく」

彼女は、くす、と笑いながら目の前までやってきて、曽根の左手に、ちら、と視線を走らせた。

「うっかり孕ませて、どっかの誰かの旦那に納まっているかと思いきや。まだ、うまうまと逃げおおせていたか」
「お前、ほんっとーに、変わんねぇなっ!」

過去の行いを鑑みれば、強ち間違った見解ではないのだろうが。
どういうわけだか、ここ数年の自分がそういう衝動から遠のいていることを考えれば、腹も立つというものだ。
身も蓋もないことを、しれっと言ってのけたその口許を、曽根は、ぐい、と掴んだ。

「いふぁい、いふぁい」

タップする手を、乾いた笑い声を上げながら躱す。
遠慮のない友人関係なのだ、こんなやり取りを互いに許すほどには。
そう、曽根は信じていた――三年前の、あの日まで。
いや、今だってそれなりに親しくはあるのだろう、こんなやり取りをするほどには。
――しかし。
不意に苦い思いが込み上げ、彼女から手を放すと、曽根は視線を逸らした。
その時、外回りから帰って来たのであろう佐久間文月が、何やら目を煌めかせてこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
ここが営業フロアに通じる人目の多い廊下であることを思い出して、曽根は思わず舌打ちする。

「ただいま戻りましたー」
「おう、お帰り」

佐久間は藤宮に興味津々の視線を向けつつ、愛想よく会釈した。
それから曽根の横に立ち止まり、少し肩を寄せて、こそ、と囁く。

「師匠。今日の予定は今日じゃなくてもいいですから。そこんとこ、よく弁えてますから」
「余計な気を回すな、お前はっ」

その頭を、ぺち、と叩くと、「暴力反対ー」と言いながら、逃げていく。
向き直ると、藤宮が佐久間の後ろ姿をじっと見送っていた。

「曽根氏がいつも侍らしていたのとは、えらく違うタイプ」
「アレはそういうんじゃない」
「そうなの?」

彼女はゆっくりと首を傾け、ぼんやりと呟く。

「三年も経てば、思い切れると……そうしなくちゃいけない状況になっているんじゃないかと、思っていたんだけど……」
「何が」

曽根の問いかけに自嘲するかのように小さく笑うと、藤宮は取り繕うように言葉を連ねた。

「ま、四月から本社ここの企画だから、取り敢えずそういう事でよろしく」

問いかけには答えないまま、彼女は、じゃあ、と手を上げ踵を返す。

「――おい」

そのまま行かせてはいけないような気がして、曽根は思わず呼び止めた。

「この後、予定あるか」

 * * *

「今日は、クリーニングに出すばっかりのスーツで備えてきましたっ! 煙も臭いもどんと来い、の仕様です」
「文月ちゃん、ちょっと期待しすぎ」

仕事帰りのサラリーマンが行き交う裏道。
曽根が藤宮と肩を並べて歩く後ろを、佐久間と常盤がついてくる。
どういわけか懐かれてしまった佐久間に強請られて、曽根は時々、こうやって行きつけの店に案内する。
仕事や例の事件で縁の出来た、彼女の騎士ナイトも連れて。

「あら、懐かしい」

そこはかつて、藤宮とも通った焼き鳥屋であった。
大きな赤提灯が軒先にぶらさがり、曇りガラスの引き戸は若干建て付けが悪い。
些かうらさびれた様相のこの店は、しかし、味と値段が抜群なのである。

「向こうにも焼き鳥屋はもちろんあったけど、ここのには全然敵わなかった」

勝手知ったるといった感じで、藤宮が引き戸を開ける。

「そうそう、このガタつき具合。三年前と変わってなくて嬉しくなるわね」
「そうか? そんなに長いこと、何で直さないのかと思うがな」
「嘘ばっかり。次に来たとき、するって開いたら、絶対ちょっと裏切られた気分になるくせに」

彼女は、ふふ、と悪戯っぽく曽根を振り返りながら、白煙が立ち込める店内に足を踏み入れた。
四人掛けの席に案内されて、取り敢えず飲み物と適当な品物を頼むと、改めてそれぞれを紹介する。

「それにしても珍しいわね。曽根氏がこんな風に後輩の女の子を構うなんて」

藤宮が、前の席に座った佐久間をまじまじと眺める。

「あ、ごめんね。嫌味とかじゃないのよ。このヒトの過去の行状をよーく知ってるから、色恋抜きで女性との人間関係が成立しているってことに単純に驚いているだけ」
「お前とも成立してたじゃねぇかよ!」
「だってアナタ、そもそも私を女性のカテゴリーに置いてないじゃない」

そんなことは、ない。いや、あるのか?

「コイツだって同じだ」

佐久間が、ふへっと笑いながら答える。

「あ、それはよくわかってました。それに、私が勝手に師と仰いでいるだけで、曽根さんはちょっと迷惑に思っているかもなんです」
「わかっているなら、少しは遠慮しろ」
「え゛。これでも随分遠慮しているのにぃ」

がーん、と言って仰け反る佐久間の頭を慰めるようにぽんぽんと叩きながら、常盤が薄らと微笑む。

「でも、“女性関係に少々の難アリ”と言われていた割には、ここ二、三年、その手の現場を目にしたことがないですけど」
「――ふん」

鼻で軽くあしらったものの、藤宮が何かを問うように視線を向けてくる。
ちょうど運ばれてきたお通しとビールジョッキに気を取られたふりをして、曽根はそれに気付かないふりをした。

「はい、お疲れ」

ジョッキを重ねると、佐久間は早速藤宮に向かって身を乗り出す。

「ずっと営業をやってらしたんですよね! 海外勤務も経験するとか凄いです!」 
「そうでもないわよ。ちゃんと仕事をして実績を作って、『行きたいです!』って手を挙げる」
「くぅーっ! “実績”! やっぱ、やることやらなきゃダメですよね」

ちっちっち! と人差し指を振りながら藤宮も身を乗り出した。

「違うのよ。それは大前提。大事なのは、“手を挙げる”ってとこ。待ってたって、チャンスは向こうからはなかなか来ないもの。だから、自分で手招きするの」
「なるほどー」

それから藤宮は、営業におけるコツや心構えのようなものを、佐久間に問われるまま語り始める。
盛り上がる二人を目にしながらビールを流し込んでいると、常盤が笑みを浮かべて話しかけてきた。

「一匹狼だと思っていた曽根さんが、実際、こんなに面倒見がいいなんて僕はビックリですよ」
「別に、面倒見とかそういうのじゃない。野崎のあれは、いくらなんでも酷かった」
「それはそうですけど。本当にそれだけなんですかね?」
「――何が言いたい」
「だって、例の事件の後だって、ほらこんな風に」

曽根は眉を顰める。

「でも、僕は今日、ようやく腑に落ちました」

そう言って、常盤は笑みを深めた。

「お待たせしました、焼き鳥盛り合わせです」
「「待ってました!」」

隣から同じような歓声が上がり、そちらにチラと視線を向けた常盤が続ける。

「似てますよね」
「――は?」
「そうですね、サイズ感も、雰囲気も、もしかしたら、仕事に対してのスタンスもかな。だから、思わず口を出してしまったし、構ってしまう、とか?」
「……」

言葉に詰まる曽根の目の前に、ずいと串が差し出された。

「ほら、曽根氏。ぼんやりしてると佐久間さんに取られちゃうわよ」
「あ? ……ああ」

――似ている? 佐久間が藤宮に?

いや、似ていたのは実家のトイプーに、だ。

「酷いです、藤宮さん! 師匠の分にまで手を出すほど、不詳の弟子じゃありません!」
「ほんとに~?」

きゃらきゃらとした笑い声とともに、目の前の串はあっという間に消えていき、次々と新たな皿が届く。
それに半ばうわの空で手を伸ばしながら、曽根は常盤のセリフを反芻していた。
あれはただ、ちんまい犬を足蹴にするようなやり方が、気に入らなかっただけだ。
そしてまた、こうやって連れ歩くのは、変に懐かれたせいだ。
佐久間が誰かを――藤宮を彷彿とさせるような存在だったからではなく。

――いや。

曽根に何の相談もせず、勝手にニューヨーク行きを決めた同僚の面影を、佐久間に見たのだろうか。

そう考えて、失笑する。

相談?
どんなに親しかったとしても、単なる同僚の自分に、相談しなければならない義務は彼女にはなかったし、単なる同僚の自分が彼女に、そんなことを要求する権利なかった。
当時だって自分には、所謂“付き合っている”女がいたはずだし、そういった意味で、藤宮にはきっちりと一線を引かれていたのだから。

だとしたら。

だとしたら何故あの時、自分はあんなにも、裏切られたような気分になったのだろう――

 * * * 

「――どうしたの? 酔ってる?」
「酔ってない」

悶々と考え続けた末に辿り着いた結論に――己の鈍さに腹が立っているだけで。
佐久間と常盤は、先程遅くなるからと席を立った。
思わせぶりな、何か含むような常盤の表情かおを思い出して、曽根は眉間にシワを刻む。
恐らく、曽根を藤宮と二人にさせるために、早めに席を立ったのだろう。
変な気を回しやがって。
冷酒を呷ると、曽根は切り出した。

「なあ、藤宮」
「なぁに?」

藤宮はのんびりと、ぼんじりを齧りながら答える。

「俺は三年前、人事異動のリストにお前の名前を見つけた時、愕然とした。いつか国内の異動はお互いあるだろうとは思っていたが、まさか海外なんてな」
「ふん」
「向こうに行くには、上への意思表明が必要だろう? お前そんなこと、ひとことも俺に言わなかったじゃないか」
「そうだね」
「――何故だ?」

曽根は、三年前に聞きそびれた答えを尋ねた。

「今更なの?」

小さく肩を竦め、藤宮は薄らと微笑む。

「もう、いじゃない。三年も前の話よ」
「よくない。次にお前に何かあった時、全部決定済みのこととして、また第三者から知らされるなんていうのは、俺はもうたくさんだ」
「そういうセリフは、単なる同僚には使わないものよ」
「単なる同僚じゃない」

藤宮が微かに眉を顰めた。

「やっぱり、酔ってるんじゃないの――って、あ、同期ってこと? 同期にだって――」
「当たり前だと思っていたんだ。ずっと側にいたから、特別だとわからなかった」
「へ?」
「特別なものは、もっといかにも“特別”って感じがするもんだと思うだろう? 普通」
「いや、何のことだか私には――」
「それなのに、いかにも“当たり前”にそこにあるもんだから、俺はっ!」

――そういったものを見つけるには、ある種の才能が必要であるに違いない。
  少なくとも俺は、俺の身辺でそれらしい気配を感じたことはない――

そんな風に思っていたのだ。
失くしかけて、やっとその存在に気付いた。
気付いたからには――

「お前だって悪い」
「はぁっ!? なんの話よ! 喧嘩売ってんの?」

三年の時を超えて、こうやって口喧嘩が出来る――
そんな“特別”を、今度は逃さない。

「喧嘩は売ってない」

曽根は藤宮の頬に掛かった髪をそっと払った。

「口説いているんだ」
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...