狼になりたい

須賀マサキ(まー)

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第2話 直貴、望みを奪われる

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 翌日、直貴は朝から奏音とのデートに気を取られて、講義もあまり身に入らなかった。
 放課後一度部屋に戻って、おしゃれな服に着替えよう。デートのあとは食事をおごるべき? でも誘ってきたのは向こうだし、かといっておごられるのも悪いから、最初は割り勘だな。
 講義が終わり、帰宅途中にドラッグストアの前を自転車で走ったときにふとひらめく。
 もしものときに備えてマウスウォッシュとブレスケアの準備が必要かもしれない。
「え? も、もしものとき? ちょ、ちょっとそれは早すぎるって」
 そこからもう一歩先まで考え、我知らず顔が火照る。デートの相手はあの清楚な奏音だ。
 直貴は「何を想像してるんだよ」と自分で自分に突っ込みを入れる。狼になりたいとはいえ、この場面でなると、意味が違ってしまうではないか。将来は別にして、今の時点でそんなことを連想することは奏音には失礼だ。
 ウキウキとドキドキと微妙なスケベ心が浮かんでは消える。下心を必死で抑え、直貴は約束の時間を気にしつつ寮に戻った。

 すれ違う友達におかしな目で見られないように、ゆるみそうになる口元をひきしめる。何気ない表情を作って自転車を停めていると、いきなり着信音が鳴り響いた。
「奏音ちゃんかな」
 清楚な笑顔を思い出しつつ携帯を取り出す。ところがそこに書かれていたのは、薫――今一番かかわりたくない人物の名前――だ。
「あっぶねー、彼女たちからの電話は無視しなきゃ」
 うっかり出たら無理難題を押し付けられるのは明らかだ。スルーして部屋に戻ろうとすると、「ナオくんっ」と背後からキツめの口調で呼びかけられた。
「あたしからの電話だってわかってて、無視するつもりだった……なんてことはないよね」
 直貴は肩をすぼめ、ゆっくりとふりかえった。スマートフォン片手に薫が玄関付近に立っている。

「な、なんだよ、突然……」
 薫の口角は片方だけが上がっている。これはまずい。ここで話を聞くとまたいつものように雑用を言いつけられる。直貴は半身に構えた。
「実はね、女子寮のほうで、食堂に通じる廊下の蛍光灯が切れてしまったの。交換してくれない?」
「それくらい自分たちでできるだろ。難しいわけじゃあるまいし」
 できるだけ不機嫌に返事をしたが、
「大家さんからのお願いだから、ね」
 拝むように手のひらを合わせ、笑顔でウインクされてしまった。
 意外なことに、いつものような上から目線ではない。
 いつも世話になっている大家さんからの頼みでは、引き受けないわけにはいかない。還暦を越えた女性にそんな仕事をさせるのは忍びなかった。
「まあ、それくらいならいいか」
 約束の時刻まではまだ余裕がある。蛍光灯一本交換するのに、そんなに時間は要らないだろう。直貴は渋々ながらも女子寮に行った。

 扉を開けると廊下は真っ暗だ。日の入り時刻は過ぎているが、外灯の明かりも届いていないのは不自然だ。第一、蛍光灯が一本切れたくらいでこんなに暗くなるはずがない。明かりはほかにもあるのだから。
「どうして……」
 尋ねようと直貴がふりかえると、薫は「あとはよろしく」と言い残して外に出て、ご丁寧に扉を閉めてしまった。
「ちょっと待てよ! 真っ暗で何も見えないじゃないかっ」
 直貴は扉を開けようとしたが、鍵かかけられたのかびくともしない。
「なんだよ、蛍光灯を替えるだけなのに。また悪ふざけ? 今日は忙しいんだから、いつものようにつきあってらんない」
 脅かすにしてもやり方が幼い。
 だが直貴は工学部の学生だ。暗いところに閉じ込められた子供ではない。こんなときは慌てることなく、電気のスイッチを入れればいい。これくらいは電子科の学生でなくても解る。直貴は手探りで明かりのスイッチを探し、押してみた。ところが何度スイッチを押しても一向につかない。

「待てよ。電気が切れたんじゃなくて、ブレーカーが落ちたのかもしれないや」
 しかしこれでは中のようすを確認することもできない。どうしたものかと考えているうちに目が慣れ、扉付近に非常用の懐中電灯を見つけた。
 直貴はそれを手に取り、何げなく廊下の奥にある食堂あたりを照らした。
「うわっ」
 驚いたことに、白っぽいワンピースを着た小学生くらいの女の子が。入り口付近で後ろを向いたまま立っている。大家さんの孫娘だろうか。
「あー、びっくりした。ねえ、どうしてこんな暗い所にいるの?」
 女の子は背を向けたまま返事もしない。直貴は少女に近づき肩を軽くたたいた。
 すると少女の首がゆっくりと動く。
 直貴はなぜか金縛りにあったように動けない。混乱した頭で目の前の光景を見ていると、少女の顔が百八十度まで回転した。
「えっ、ええっ?」
 金縛りのとけた直貴は、あとさきのことを考えずに彼女の顔に光を当てた。
 そこにあったのは、血走った目をし、しわくちゃだらけの顔だ。
 口は耳まで避けて、ニタニタと笑いを浮かべている。ホラー映画で悪魔に取りつかれたヒロインそのままだ。

「うわああああああああっっっ」
 直貴は弾かれるように後ろにび、そのまま腰を抜かしてしまった。
「あ、あわわ、ななな、なんだ、なんだよーっ」
 うようにして玄関まで逃げかかったところで、廊下の明かりがついた。思わず天井を見上げる。どれもいつもと同じ明るさで、切れかかっている蛍光灯はない。
「……あれ?」
 エクソシストのヒロインかと思った少女は、よく見ると精巧につくられた人形だ。
 廊下の窓は暗幕でおおわれ、お化け屋敷さながらに、恐ろしい人形がぶら下げられたり、不気味な絵が飾られたりしている。
「これっていったい……どういうことだ?」
 バクバクいっていた心臓も少しずつ収まり、直貴は冷静になってあたりを見回す。すると頭上から「大成功っ」という歓喜の声が響いた。

 玄関の扉が開いていて、薫が口元に手をあて笑いをこらえつつ直貴を見下ろしている。食堂の扉から顔をのぞかせているのは、くすくす笑いを浮かべている優香と千絵里だ。
「ナオくんがこんなに怖がってくれるとは、予想以上の反応だったな」
 千絵里が腰に手を当てて満足げにうなずく。
 直貴は自分の置かれた状況が完全に理解できた。
「なるほど……そういうことか。きみたちは、バンドのアドバイザーであるぼくをひっかけて、脅かすのが目的で、わざわざこんな仕掛けを作ったってわけなんだな」
「それは考えすぎよ。確かにナオくんを怖がらせちゃったけれど、それが目的で作ったんじゃなくってよ。毎年人気のお化け屋敷を、あたしたちのリーダーに真っ先に体験させてあげたんだから」
 目をぱちぱちさせながら優香が答えた。
「お化け屋敷だって?」
 学園祭の出し物でもあるまいし、なぜいまごろ? と直貴は疑問に思う。
「忘れたの? 今日はハロウィン。毎年恒例の女子寮主催のパーティーじゃない」
 優香はそう言うと紙袋から魔女の帽子を取り出し、千絵里と薫に渡す。そして三人は『チャーリーズ・エンジェル』のようにポーズを決めた。

「そういえば今日はハロウィンだった……」
 うろ覚えだが、奏音から渡されたチケットにそれらしい文字が印刷されていたような気もする。
 毎年女子寮の食堂でハロウィンパーティーが開かれる。会場になっている食堂へたどり着く前に、お化け屋敷というかお化け廊下を通ってもらうスタイルが評判だ。
 もちろんそのことは直貴も知っている。しかし今年は奏音からデートに誘われたことで、パーティーのことはすっかり頭から飛んでいた。
「はいはい、わかりました。ぼくを実験台にしたんだね。それなら大成功さ。十分怖かったから」
 精一杯、不機嫌な表情を浮かべて、直貴は女子寮を出ていこうとした。
「待って、ナオくん」
 いきなり薫が直貴の行く手に仁王立ちした。
「実験は終わったんだろ? ぼくの役目は終わったんだ。帰るんだから退いてくれよ」
「帰っちゃダメなのぉ。ナオくんには大切な仕事があるのよ」
 背後から優香が、甘ったるい声で直貴を引き止める。
「幽霊役をするはずだった子が、今朝から熱を出したんだ。彼女はやるって言い張るんだけど、あたしたちで止めたのさ。交代要員はちゃんと用意するから、心配しないで休んでろってな」
「交代要員って……まさか……」
「察しがいいな。ナオくん、きみのことだよ」
 千絵里がはまるで「真犯人はおまえだっ」と宣言するように直貴を指さした。

「待てっ。ぼくはこのあととっても大切な用があるんだ。きみたちの願いは聞け……」
「これに見覚えがない?」
 薫が狼のゴムマスクを目の前で広げる。直貴の言葉が途中で止まった。
「昨日スタジオに忘れてたの。ハロウィンの仮装用グッズでしょ。ナオくんってあたしたちが何も言わなくても、もしものときに備えてくれていたのね」
「違うっ、それは……どうでもいいから早く返してくれよ、千絵里さん」
「ダメだ。こんなの買うくらいだ、よっぽど狼男にあこがれてんだろ? 望み通りその役をさせてやるから、お客さんの女子を思う存分脅かしなよ」
 怒りの通じない苛立ちで肩を震わせる直貴に、千絵里がマスクをかぶせる。
「おお、似合う似合う。いつもの童顔ナオくんとは別人だな」
「本当は用事なんてないんでしょ? いつものように、断るための口実だって解っているのよ」
「薫さんまでそんなこと言うなんて。口実じゃない、本当に今日だけはダメなんだ」
「ふうん……あたしたちの頼みが聞けないっていうのかい?」
 千絵里の口元から笑みが消えた。ノーと言わせてもらえない威圧感がある。
 狼男のマスクを買い、狼男になると誓っても、中身は女子三人組の苦手な直貴そのままだ。

「つべこべ言わず、そこに立って準備するっ。もうちょっとしたら、お客さんが来るんだよ」
 三人組は直貴に説明するチャンスすら与えてくれない。
 なんとか逃げ出し、奏音とのデートに行きたい。だが目の前で三人が目を光らせている。このままでは完全に遅刻だ。
「とりあえず電話して事情を説明しないと……」
 ため息交じりの息を吐き、直貴はスマートフォンを取り出した。
「ええと、奏音ちゃんは……あれ?」
 いくら連絡帳を捜しても、奏音の名前が出てこない。
「しまった。ゆうべメモの文字に見とれてて、登録するのを忘れたんだ」
 バカバカバカバカっと自分の頭をぽかぽか叩く。すると背後から手が伸びて、直貴のスマートフォンがかすめ取られた。

「ナオくん、これは預かっておくわね。お化け屋敷の狼男には要らないものでしょ?」
「おいっ、返せよっ」
 満面の笑みを浮かべる優香から奪い返そうとするが、すぐに千絵里にパスされた。
「マナーモードにしていても、途中で振動すると集中が途切れるだろ」
 千絵里は直貴のスマートフォンを自分のコートのポケットに入れた。
 言い返そうと直貴が口を開きかけたが、薫の人差し指が狼男のマスクの上から唇に触れ、言葉が止まる。
「文句を言わないで、玄関に立って。あと五分ほどで、お客さんたちやってくるんだから」
「効果音はあたしに任せてね」
 優香が手にしたミュージックプレイヤーを操作すると、『ぎゃああああああ!』という少女の甲高い悲鳴が廊下に響いた。
 続いてホラー映画のサウンドトラックが流れる。ジェリー・ゴールドスミスの『オーメン』だ。直貴は選曲の良さに感心する一方で、こんなときまで音楽に耳が行ってしまう自分が滑稽こっけいで悲しくなった。


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