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第一章
二. 見つからない足跡と果てしない不安(三)
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沙樹は今朝もいつもと同じ電車で出社した。車窓から見えるワタルのマンションは、何事もなかったように朝日を反射している。
夕べもワタルと連絡が取れなかった。意を決して何度も電話をかけたが、電源が切られているというメッセージが流れるのみだった。
気持ちが乱される。油断すると、目の前にワタルと浅倉梢のツーショット写真が浮かび、心が休まらない。
だが、それを理由に仕事を休むのはもっと嫌だ。ひとり過ごしていると、そのことばかりを考えてしまう。それくらいなら好きな仕事に集中して、少しでも忘れたかった。
地下鉄を降りて地上に出ると、ひときわ背の高い建物が目につく。あれが沙樹の職場だ。
親会社のテレビ局には、今日も多くの人が出入りする。ロビーを抜けて関係者専用のエレベーターを待っていると、昨日ワタルのマンション前で見かけたカメラマンと鉢合わせた。こちらに気を留めることもない。向こうは沙樹のことを知らないようだ。
FM局のあるフロアで降り、沙樹は崩れるように自分の席に座った。地下鉄を降りたころから体がだるく、立っていることが辛い。
気力を奮い立たせ、今日もノートPCの電源を入れる。番組の時刻まで新企画の構想を整理しておきたかった。ところがディスプレイを見ていると、文字が二重に見えてきた。リーディンググラスを使うような歳じゃないのに、と首をかしげ、目をこすりながら入力していたが、急に頭痛がしてきた。三十分ほどは我慢して企画を書いていたが、画面を見ているのさえ辛い。沙樹はPCを閉じ、腕を枕にして机の上にうつぶせた。
気分が悪く、頭を上げるのもおっくうだ。暖房が効いているオフィスにいるのに背筋がぞくぞくする。思考が鈍ってきたのを自覚していると、
「西田、おまえさんここ二、三日変だぞ。風邪でも引いたか?」
頭上で和泉の心配そうな声がした。
「いえ、なんでもないです」
顔を上げた沙樹を見て、和泉が口元をゆがめた。
「おい、顔が真っ赤だぞ。熱があるんじゃないか?」
和泉は隣の席の裕美に声をかけ、沙樹を医務室に連れて行かせた。体温を測ると三十八度もあり、抵抗する気力もないままベッドに寝かされた。
あの日以来沙樹はあまり眠れず、食事もほとんどのどを通らない。
仕事のことを考えたら、食べられない眠れないではいけないと思い、夕べ無理やりパスタを流し込んだまではよかったが、五分ほどで気分が悪くなってトイレに駆け込み、胃薬を飲んで落ち着く。まさに最悪の夜だった。そしてろくに眠れないまま朝を迎えた。
体のだるさは睡眠不足が原因ではなかった。自分がメンタル的に弱いタイプだと知り、ますます気分が沈む。ベッドの中で熱にうなされながらそんなことを考えていると、番組を終えた和泉がようすを見にきた。
「小川から聞いたぞ。風邪だってな。ここ二三日で急に寒くなったからなあ」
和泉は解熱剤と水を渡してくれた。
「おまえさん不摂生してないか?」
「そんなことは……」
ありませんと胸を張れず言葉を濁す。
「心配事抱えてるだろ」
否定すると、和泉は口元に小さな笑みを浮かべた。
「隠すなよ。これでも部下が今どんな状態かくらいは解るさ」
沙樹はうなずく代わりに、窓越しに曇り空を見上げた。
「やっぱりな。そうじゃないかと思ったんだ」
和泉は一呼吸置いて続ける。
「どうだ。療養という名目でしばらく休みでも取るか。さっき確認したんだが、有給ほとんど使ってないようだな」
「……はい」
仕事がおもしろいのと体力自慢というふたつの理由で、ほとんど消化していない。
「こんなときくらい遠慮せずに使えよ」
「でも……」
「心配するな。おまえさんの帰る場所と仕事は残しておくさ。そのかわり問題は解決しろよ」
和泉はそう言い残すと、沙樹の返事も聞かないで医務室を出た。
半ば押しつけられる形で沙樹は二週間の休みを取ることになった。上司の粋な計らいに、沙樹は心の中で手を合わせた。
「問題を解決する、か」
そのためにはひとりで悩んでいても仕方がない。ワタルが出てこないなら自分から動こう。
だが何をするにしてもある程度の見込みは必要だ。闇雲に動くだけではいくら時間があっても足りない。沙樹はベッドの中で、ワタルの行きそうなところを考えた。
このときになって、沙樹は意外なことに気がついた。
ワタルの思い出の場所が、何ひとつ浮かんでこない。
今のワタルは理解している。だが出会う前のことはあまり知らない。中学生の頃からモテていたと小耳に挟んだことがあるため、昔話をしているうちに知りたくないことまで知るのが怖かった。
そんな些細な拘りが仇になった。もう少しワタルのことを知っていれば、潜伏場所のヒントが見えたかもしれない。
だが幸いにして沙樹には頼りになる仲間がいる。
このあとの行動についてベッドの中で考えているうちに、薬が効いたのか、沙樹は眠りについた。
それはここ数日訪れることのなかった深い眠りだった。
夕べもワタルと連絡が取れなかった。意を決して何度も電話をかけたが、電源が切られているというメッセージが流れるのみだった。
気持ちが乱される。油断すると、目の前にワタルと浅倉梢のツーショット写真が浮かび、心が休まらない。
だが、それを理由に仕事を休むのはもっと嫌だ。ひとり過ごしていると、そのことばかりを考えてしまう。それくらいなら好きな仕事に集中して、少しでも忘れたかった。
地下鉄を降りて地上に出ると、ひときわ背の高い建物が目につく。あれが沙樹の職場だ。
親会社のテレビ局には、今日も多くの人が出入りする。ロビーを抜けて関係者専用のエレベーターを待っていると、昨日ワタルのマンション前で見かけたカメラマンと鉢合わせた。こちらに気を留めることもない。向こうは沙樹のことを知らないようだ。
FM局のあるフロアで降り、沙樹は崩れるように自分の席に座った。地下鉄を降りたころから体がだるく、立っていることが辛い。
気力を奮い立たせ、今日もノートPCの電源を入れる。番組の時刻まで新企画の構想を整理しておきたかった。ところがディスプレイを見ていると、文字が二重に見えてきた。リーディンググラスを使うような歳じゃないのに、と首をかしげ、目をこすりながら入力していたが、急に頭痛がしてきた。三十分ほどは我慢して企画を書いていたが、画面を見ているのさえ辛い。沙樹はPCを閉じ、腕を枕にして机の上にうつぶせた。
気分が悪く、頭を上げるのもおっくうだ。暖房が効いているオフィスにいるのに背筋がぞくぞくする。思考が鈍ってきたのを自覚していると、
「西田、おまえさんここ二、三日変だぞ。風邪でも引いたか?」
頭上で和泉の心配そうな声がした。
「いえ、なんでもないです」
顔を上げた沙樹を見て、和泉が口元をゆがめた。
「おい、顔が真っ赤だぞ。熱があるんじゃないか?」
和泉は隣の席の裕美に声をかけ、沙樹を医務室に連れて行かせた。体温を測ると三十八度もあり、抵抗する気力もないままベッドに寝かされた。
あの日以来沙樹はあまり眠れず、食事もほとんどのどを通らない。
仕事のことを考えたら、食べられない眠れないではいけないと思い、夕べ無理やりパスタを流し込んだまではよかったが、五分ほどで気分が悪くなってトイレに駆け込み、胃薬を飲んで落ち着く。まさに最悪の夜だった。そしてろくに眠れないまま朝を迎えた。
体のだるさは睡眠不足が原因ではなかった。自分がメンタル的に弱いタイプだと知り、ますます気分が沈む。ベッドの中で熱にうなされながらそんなことを考えていると、番組を終えた和泉がようすを見にきた。
「小川から聞いたぞ。風邪だってな。ここ二三日で急に寒くなったからなあ」
和泉は解熱剤と水を渡してくれた。
「おまえさん不摂生してないか?」
「そんなことは……」
ありませんと胸を張れず言葉を濁す。
「心配事抱えてるだろ」
否定すると、和泉は口元に小さな笑みを浮かべた。
「隠すなよ。これでも部下が今どんな状態かくらいは解るさ」
沙樹はうなずく代わりに、窓越しに曇り空を見上げた。
「やっぱりな。そうじゃないかと思ったんだ」
和泉は一呼吸置いて続ける。
「どうだ。療養という名目でしばらく休みでも取るか。さっき確認したんだが、有給ほとんど使ってないようだな」
「……はい」
仕事がおもしろいのと体力自慢というふたつの理由で、ほとんど消化していない。
「こんなときくらい遠慮せずに使えよ」
「でも……」
「心配するな。おまえさんの帰る場所と仕事は残しておくさ。そのかわり問題は解決しろよ」
和泉はそう言い残すと、沙樹の返事も聞かないで医務室を出た。
半ば押しつけられる形で沙樹は二週間の休みを取ることになった。上司の粋な計らいに、沙樹は心の中で手を合わせた。
「問題を解決する、か」
そのためにはひとりで悩んでいても仕方がない。ワタルが出てこないなら自分から動こう。
だが何をするにしてもある程度の見込みは必要だ。闇雲に動くだけではいくら時間があっても足りない。沙樹はベッドの中で、ワタルの行きそうなところを考えた。
このときになって、沙樹は意外なことに気がついた。
ワタルの思い出の場所が、何ひとつ浮かんでこない。
今のワタルは理解している。だが出会う前のことはあまり知らない。中学生の頃からモテていたと小耳に挟んだことがあるため、昔話をしているうちに知りたくないことまで知るのが怖かった。
そんな些細な拘りが仇になった。もう少しワタルのことを知っていれば、潜伏場所のヒントが見えたかもしれない。
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それはここ数日訪れることのなかった深い眠りだった。
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