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第一章
三. 見えてきた手がかり(二)
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沙樹の部屋に入ったとき、哲哉はごく身近にいる人の空気を感じた。ふと正体を知りたくなって、遠慮ぎみに中を観察した。
テレビのそばに置かれているステレオに見覚えがある。少し考えて、ワタルが学生時代に使っていたものだと気がついた。
もしかして、という予感の中で小さな食器棚を見る。ペアの食器がある横に、バーボンの瓶をみつけた。出されたコーヒーはモカ。どちらもワタルの好みだ。
本棚に並んだCDはワタルの好きなアーティストのもので、そばには白い楽譜がある。バンドメンバー全員が映ったポスターとは別に、ワタルだけの写真が本棚に飾られているのを見て確信した。
ここにはごく自然にワタルの跡が残っている。
哲哉の中で、熱愛報道に抱いていた違和感がさらに強くなり、最後に出てきた結論は、ワタルの彼女は沙樹だということだった。
「ワタルは西田さんにも行き先を告げてないのか」
沙樹は申し訳なさそうにうなずいた。哲哉は首を左右にふり、軽く息を吐く。
「おれもゆうべ、弘樹と一緒に心あたりに電話をかけまくったんだ。けど手掛かりなしだよ」
「ワタルさんの実家も、行き先をご存じないの?」
「真っ先に電話したんだけど、だれも知らないってさ」
「隠してるってことはないよね」
「親父さんたちは、少なくともバンドメンバーには嘘や隠し事をしないさ。それどころかあっちにレポーターが押しかけたのがきっかけで、初めて熱愛報道を知ったんだって。おばさんが迷惑がっていたよ」
「相手が浅倉さんじゃなかったら、ここまでの騒ぎにならなかったのにね」
哲哉は沙樹の言葉に軽く頷いた。
「和泉さんが、だれかのリークじゃないかって言ってたの。思い当たるようなことがある?」
「うーん……」
哲哉は最近のワタルについて、変わったことがありはしないかと記憶をたどる。
「そうだな……言われてみれば、ゴールデン・ウィークに入ったころから、浅倉さんがやたらとワタルを訪ねてきては、親しそうにして――」
途中まで言いかけて、哲哉はあわてて口をつぐんだ。
「すまない……こんな話、聞きたくねえよな」
「気にせずに続けて。あたしも詳しいことを知りたいもの」
沙樹の笑顔は、無理して作っているのが解るくらいに痛々しい。ここまで傷ついた笑い方は今まで見たことがなかった。
「解ったよ。でも辛くなったら、いつでも止めてくれよ」
哲哉はカップを手にし、残ったコーヒーを一口飲んだ。いつのまにか冷めて、苦みだけが口に残った。
「浅倉さんとの出会いは、彼女の歌手デビュー前でね。日下部さんから直接ワタルに、曲を提供してくれって話がきたんだ。五~六曲作って渡したら気に入られたみたいで、それからは西田さんも知っての通り、彼女の歌の半分くらいはワタルが作ってるんだよ」
哲哉は一息ついて、沙樹の表情をさりげなく確認した。今は静かに耳を傾けている。
「レコーディングに立ち会ったのがきっかけで、ワタルは仕事以外でも何かと世話を焼いてたようなんだ。歌番組で共演したときも、彼女の方から積極的に話しかけてきてたよ。浅倉さんは甘え上手だし、ワタルは頼られると邪険にできない性格だろ。少なくともワタルはいつもの対応だったから、おれたちみんな、つきあってるなんて発想すら湧いてなかったんだ。それなのにいきなり熱愛報道ときた。あのふたりがどういう関係だろうと、お互いが納得してるならおれたちが口出すことじゃない。けどせめてワタルに事情を訊きたくて連絡したら、事務所にも詳しい説明もないまま雲隠れだ。いったいどういうつもりなんだか」
哲哉は深いため息をついた。沙樹とのつきあいもそうだが、浅倉梢との仲についても何も教えられていなかった。自分がそこまで信用されていなかったのかと気づき、相当のショックを受けている。
「何も知らされてないのは、あたしだけじゃなかったのね……」
沙樹がわずかに安堵の表情を見せた。
「で、思いつく限りをあたったというのは、初めに話した通りさ」
一番大切な人にまで何も告げずに、ワタルはどこで何をしているのだろう。
「恋人なら居場所を知ってると思ってたのに。これじゃあ本当に八方塞がりだよ」
捜索はふりだしに戻った。次の一手をどう打てばいいかと考えていると「浅倉さんなら何か知らないかな」沙樹がつぶやいた。
「彼女が? どうしてだよ」
「だって。恋人が居場所を知っているかもしれないんでしょ」
「ただの予想だよ。みごとに外れてた。西田さんは何も知らなかったんだろ」
「あたしが知らなかったのは、ワタルさんがあたしのことを、もう、恋人とは思って……思ってないから……」
哲哉は思わず立ち上がり、大声で沙樹の言葉を遮った。
「っと、待てよ。西田さん、自分で言ってること、解ってるのか?」
テーブルが揺れ、カップが倒れる。沙樹は哲哉を見上げ、弱々しくうなずいた。
「どうしてそんなつまらねえこと言うんだよ」
倒れたカップからこぼれたコーヒーが、すぐそばを走る電車の音にかき消されながら、小さな音を立てて床に滴を落とす。
「でも――」
沙樹からいつもの気丈さが消えていた。冷静に聞いていると思って、余計なことを話したのではないか。哲哉はいたたまれなくなって、つい沙樹の肩をつかんだ。
「しっかりしろよ。ひとりで変な結論出すんじゃねえっ」
「そんなこと言っても、これが現実なら受け入れなきゃ……」
沙樹がすがるように哲哉を見上げた。唇がかすかに震え、瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちた。
崩れてしまいそうな弱さと折れてしまいそうな脆さを、沙樹は無理して隠していた。やはり話すべきではなかった。思慮の浅い自分を後悔しても遅い。それよりも今はほかにやるべきことがある。
「おれはワタルと、物心ついたときからずっと友達なんだぜ。なぜだと思う?」
沙樹は目を閉じてゆっくりと首を横にふった。
「あいつが誠実だからさ」
「誠実?」
自分がワタルの代わりになれなくとも、信頼を取り戻させることはできるはずだ。
「そうだよ。あいつはお人好しが過ぎて、面倒ごとを押しつけられるだろ。適当にこなせばいいのに丁寧に対応するから。『芸能界いい人ランキング』に名前が載るんだぜ。おまけに人好きのする性格でだれとでも親しくなる。八方美人だって中傷するやつらもいるけど、裏を返せば誠実で本当にいいやつってことなんだ。簡単に人を裏切らない。だから西田さん、ワタルを信じて待っててくれないか」
沙樹の肩をつかむ哲哉の手に力が入る。沙樹は涙をぬぐい、わずかに笑みを浮かべた。
「うん――ありがとう」
「一番つらいのは西田さんだって解ってるからさ」
「あたしこそ、得能くんたちの苦労を考えてなかった。ワタルさんがいなくなって大変な思いしてるのは、みんなも同じなのにね」
「バンドの方は気にすんなって。西田さんは自分のことで手一杯で当たり前だろ」
哲哉は沙樹の肩から手を下ろし、壁に貼られたオーバー・ザ・レインボウのポスターを見た。
「みんなどうして途方にくれるんだろうな。ワタルがここまで偉大なリーダーだなんてさ、夢にも思わなかったぜ」
「いなくなって価値の解るタイプね」
「おれにとっちゃ、空気みたいな存在かもな。一緒にいて当然で、いなくなるとどうしていいのか解らなくなっちまう。重要なことは全部ワタルがやってくれてたんだって、やっと気づいたよ」
哲哉とワタルは家が近所だったこともあり、物心ついたときは隣にいる存在だった。意見の衝突や喧嘩は数えきれない。常に真剣に向き合ってきたからこそ、親友と呼べる友になり絆も生まれた。
苦しさに耐え切れず道を誤りそうになった哲哉に、希望の光を見せ、正しい方向に呼び戻してくれたのはワタルだ。
「そんな話聞かされると、得能くんに嫉妬しちゃうよ」
「こら。おれは西田さんの恋敵じゃねえよ」
「本当に?」
「信じてないのか? 彼女なのに」
沙樹はほんの少し目を丸くし、やがて細めて微笑んだ。
「うん。信じてる」
哲哉もつられて口元が緩んだ。
「でも、まいったな。西田さんの涙、初めて見たよ。高校生のころから知ってるけど、絶対に泣かないタイプだと思ってたぜ」
「血も涙もない人に見えてたの?」
「うん」
即答すると、沙樹は肩を落とし小さくため息をついて、上目遣いで恨めしげに哲哉を見た。
「冗談だよ。強いて言えば、お母さんかな。悪いことするといつも怒られてただろ。でもそれ以上に世話焼いてくれてさ。お袋さんってこんな雰囲気なのかなって思ってたよ」
哲哉にとって沙樹は、口うるさいが面倒見のいい母親のような人だ。
「だからさ、西田さんとワタルがつきあってるって解って、おれマジで嬉しかったんだぜ。なのにあんなこと言って、弱気になるんだから……」
柔らかな頬を濡らす涙を思い出し、哲哉は言葉を詰まらせた。
しばらくの間、ふたりを沈黙が包む。風に乗って電車の音が静かな部屋でかすかに響いた。
やがて沙樹は吹っ切れたような笑顔を浮かべ、
「そうだね。弱気になるなんて、あたしらしくないね」
そう言うと席を立ち、食器棚を開けてグラスを二個出した。
「今日はもうボイストレーニングや打ち合わせとか、ないんでしょ?」
「ああ」
「よかった。準備した料理が無駄にならなくて」
沙樹はキッチンに入ると白ワインとアンティパストを持ってきた。
「ここ二、三日あまり作らなかったから、久しぶりにがんばっちゃった」
カルパッチョにマリネ。ガーリックトーストにはサーモンのパテが添えられている。出されたチーズをおつまみに白ワインを楽しんでいると、ほどなくしてオリーブオイルをたっぷりと使ったブロッコリーとベーコンのペペロンチーノが出てきた。チーズの焦げる匂いもする。ピザを焼いているのかもしれない。
バンドメンバーみんなも一緒だったらよかったのに、と哲哉は思う。アマチュア時代は仲間で何度も集まった。料理好きのワタルが中心になって、みんなでわいわいやりながら、将来のことを熱く語りあった日々が懐かしい。
沙樹はバンドメンバーではないが、だれもが六人目の仲間だと思っている。この中のだれが欠けてもいけない。沙樹とワタルの間に何か問題があるなら、絶対に修復する。まだ間に合うはずだ。いや、間に合わせてみせる。
ただがむしゃらに走っていた懐かしい日々に思いを馳せ、哲哉はその日を取り戻そうと決意した。
☆ ☆ ☆
テレビのそばに置かれているステレオに見覚えがある。少し考えて、ワタルが学生時代に使っていたものだと気がついた。
もしかして、という予感の中で小さな食器棚を見る。ペアの食器がある横に、バーボンの瓶をみつけた。出されたコーヒーはモカ。どちらもワタルの好みだ。
本棚に並んだCDはワタルの好きなアーティストのもので、そばには白い楽譜がある。バンドメンバー全員が映ったポスターとは別に、ワタルだけの写真が本棚に飾られているのを見て確信した。
ここにはごく自然にワタルの跡が残っている。
哲哉の中で、熱愛報道に抱いていた違和感がさらに強くなり、最後に出てきた結論は、ワタルの彼女は沙樹だということだった。
「ワタルは西田さんにも行き先を告げてないのか」
沙樹は申し訳なさそうにうなずいた。哲哉は首を左右にふり、軽く息を吐く。
「おれもゆうべ、弘樹と一緒に心あたりに電話をかけまくったんだ。けど手掛かりなしだよ」
「ワタルさんの実家も、行き先をご存じないの?」
「真っ先に電話したんだけど、だれも知らないってさ」
「隠してるってことはないよね」
「親父さんたちは、少なくともバンドメンバーには嘘や隠し事をしないさ。それどころかあっちにレポーターが押しかけたのがきっかけで、初めて熱愛報道を知ったんだって。おばさんが迷惑がっていたよ」
「相手が浅倉さんじゃなかったら、ここまでの騒ぎにならなかったのにね」
哲哉は沙樹の言葉に軽く頷いた。
「和泉さんが、だれかのリークじゃないかって言ってたの。思い当たるようなことがある?」
「うーん……」
哲哉は最近のワタルについて、変わったことがありはしないかと記憶をたどる。
「そうだな……言われてみれば、ゴールデン・ウィークに入ったころから、浅倉さんがやたらとワタルを訪ねてきては、親しそうにして――」
途中まで言いかけて、哲哉はあわてて口をつぐんだ。
「すまない……こんな話、聞きたくねえよな」
「気にせずに続けて。あたしも詳しいことを知りたいもの」
沙樹の笑顔は、無理して作っているのが解るくらいに痛々しい。ここまで傷ついた笑い方は今まで見たことがなかった。
「解ったよ。でも辛くなったら、いつでも止めてくれよ」
哲哉はカップを手にし、残ったコーヒーを一口飲んだ。いつのまにか冷めて、苦みだけが口に残った。
「浅倉さんとの出会いは、彼女の歌手デビュー前でね。日下部さんから直接ワタルに、曲を提供してくれって話がきたんだ。五~六曲作って渡したら気に入られたみたいで、それからは西田さんも知っての通り、彼女の歌の半分くらいはワタルが作ってるんだよ」
哲哉は一息ついて、沙樹の表情をさりげなく確認した。今は静かに耳を傾けている。
「レコーディングに立ち会ったのがきっかけで、ワタルは仕事以外でも何かと世話を焼いてたようなんだ。歌番組で共演したときも、彼女の方から積極的に話しかけてきてたよ。浅倉さんは甘え上手だし、ワタルは頼られると邪険にできない性格だろ。少なくともワタルはいつもの対応だったから、おれたちみんな、つきあってるなんて発想すら湧いてなかったんだ。それなのにいきなり熱愛報道ときた。あのふたりがどういう関係だろうと、お互いが納得してるならおれたちが口出すことじゃない。けどせめてワタルに事情を訊きたくて連絡したら、事務所にも詳しい説明もないまま雲隠れだ。いったいどういうつもりなんだか」
哲哉は深いため息をついた。沙樹とのつきあいもそうだが、浅倉梢との仲についても何も教えられていなかった。自分がそこまで信用されていなかったのかと気づき、相当のショックを受けている。
「何も知らされてないのは、あたしだけじゃなかったのね……」
沙樹がわずかに安堵の表情を見せた。
「で、思いつく限りをあたったというのは、初めに話した通りさ」
一番大切な人にまで何も告げずに、ワタルはどこで何をしているのだろう。
「恋人なら居場所を知ってると思ってたのに。これじゃあ本当に八方塞がりだよ」
捜索はふりだしに戻った。次の一手をどう打てばいいかと考えていると「浅倉さんなら何か知らないかな」沙樹がつぶやいた。
「彼女が? どうしてだよ」
「だって。恋人が居場所を知っているかもしれないんでしょ」
「ただの予想だよ。みごとに外れてた。西田さんは何も知らなかったんだろ」
「あたしが知らなかったのは、ワタルさんがあたしのことを、もう、恋人とは思って……思ってないから……」
哲哉は思わず立ち上がり、大声で沙樹の言葉を遮った。
「っと、待てよ。西田さん、自分で言ってること、解ってるのか?」
テーブルが揺れ、カップが倒れる。沙樹は哲哉を見上げ、弱々しくうなずいた。
「どうしてそんなつまらねえこと言うんだよ」
倒れたカップからこぼれたコーヒーが、すぐそばを走る電車の音にかき消されながら、小さな音を立てて床に滴を落とす。
「でも――」
沙樹からいつもの気丈さが消えていた。冷静に聞いていると思って、余計なことを話したのではないか。哲哉はいたたまれなくなって、つい沙樹の肩をつかんだ。
「しっかりしろよ。ひとりで変な結論出すんじゃねえっ」
「そんなこと言っても、これが現実なら受け入れなきゃ……」
沙樹がすがるように哲哉を見上げた。唇がかすかに震え、瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちた。
崩れてしまいそうな弱さと折れてしまいそうな脆さを、沙樹は無理して隠していた。やはり話すべきではなかった。思慮の浅い自分を後悔しても遅い。それよりも今はほかにやるべきことがある。
「おれはワタルと、物心ついたときからずっと友達なんだぜ。なぜだと思う?」
沙樹は目を閉じてゆっくりと首を横にふった。
「あいつが誠実だからさ」
「誠実?」
自分がワタルの代わりになれなくとも、信頼を取り戻させることはできるはずだ。
「そうだよ。あいつはお人好しが過ぎて、面倒ごとを押しつけられるだろ。適当にこなせばいいのに丁寧に対応するから。『芸能界いい人ランキング』に名前が載るんだぜ。おまけに人好きのする性格でだれとでも親しくなる。八方美人だって中傷するやつらもいるけど、裏を返せば誠実で本当にいいやつってことなんだ。簡単に人を裏切らない。だから西田さん、ワタルを信じて待っててくれないか」
沙樹の肩をつかむ哲哉の手に力が入る。沙樹は涙をぬぐい、わずかに笑みを浮かべた。
「うん――ありがとう」
「一番つらいのは西田さんだって解ってるからさ」
「あたしこそ、得能くんたちの苦労を考えてなかった。ワタルさんがいなくなって大変な思いしてるのは、みんなも同じなのにね」
「バンドの方は気にすんなって。西田さんは自分のことで手一杯で当たり前だろ」
哲哉は沙樹の肩から手を下ろし、壁に貼られたオーバー・ザ・レインボウのポスターを見た。
「みんなどうして途方にくれるんだろうな。ワタルがここまで偉大なリーダーだなんてさ、夢にも思わなかったぜ」
「いなくなって価値の解るタイプね」
「おれにとっちゃ、空気みたいな存在かもな。一緒にいて当然で、いなくなるとどうしていいのか解らなくなっちまう。重要なことは全部ワタルがやってくれてたんだって、やっと気づいたよ」
哲哉とワタルは家が近所だったこともあり、物心ついたときは隣にいる存在だった。意見の衝突や喧嘩は数えきれない。常に真剣に向き合ってきたからこそ、親友と呼べる友になり絆も生まれた。
苦しさに耐え切れず道を誤りそうになった哲哉に、希望の光を見せ、正しい方向に呼び戻してくれたのはワタルだ。
「そんな話聞かされると、得能くんに嫉妬しちゃうよ」
「こら。おれは西田さんの恋敵じゃねえよ」
「本当に?」
「信じてないのか? 彼女なのに」
沙樹はほんの少し目を丸くし、やがて細めて微笑んだ。
「うん。信じてる」
哲哉もつられて口元が緩んだ。
「でも、まいったな。西田さんの涙、初めて見たよ。高校生のころから知ってるけど、絶対に泣かないタイプだと思ってたぜ」
「血も涙もない人に見えてたの?」
「うん」
即答すると、沙樹は肩を落とし小さくため息をついて、上目遣いで恨めしげに哲哉を見た。
「冗談だよ。強いて言えば、お母さんかな。悪いことするといつも怒られてただろ。でもそれ以上に世話焼いてくれてさ。お袋さんってこんな雰囲気なのかなって思ってたよ」
哲哉にとって沙樹は、口うるさいが面倒見のいい母親のような人だ。
「だからさ、西田さんとワタルがつきあってるって解って、おれマジで嬉しかったんだぜ。なのにあんなこと言って、弱気になるんだから……」
柔らかな頬を濡らす涙を思い出し、哲哉は言葉を詰まらせた。
しばらくの間、ふたりを沈黙が包む。風に乗って電車の音が静かな部屋でかすかに響いた。
やがて沙樹は吹っ切れたような笑顔を浮かべ、
「そうだね。弱気になるなんて、あたしらしくないね」
そう言うと席を立ち、食器棚を開けてグラスを二個出した。
「今日はもうボイストレーニングや打ち合わせとか、ないんでしょ?」
「ああ」
「よかった。準備した料理が無駄にならなくて」
沙樹はキッチンに入ると白ワインとアンティパストを持ってきた。
「ここ二、三日あまり作らなかったから、久しぶりにがんばっちゃった」
カルパッチョにマリネ。ガーリックトーストにはサーモンのパテが添えられている。出されたチーズをおつまみに白ワインを楽しんでいると、ほどなくしてオリーブオイルをたっぷりと使ったブロッコリーとベーコンのペペロンチーノが出てきた。チーズの焦げる匂いもする。ピザを焼いているのかもしれない。
バンドメンバーみんなも一緒だったらよかったのに、と哲哉は思う。アマチュア時代は仲間で何度も集まった。料理好きのワタルが中心になって、みんなでわいわいやりながら、将来のことを熱く語りあった日々が懐かしい。
沙樹はバンドメンバーではないが、だれもが六人目の仲間だと思っている。この中のだれが欠けてもいけない。沙樹とワタルの間に何か問題があるなら、絶対に修復する。まだ間に合うはずだ。いや、間に合わせてみせる。
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