【完結】あなたの幻(イリュージョン)を追いかけて

須賀マサキ(まー)

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第二章

五. かすかな予感(三)

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 この街のライブハウスで、ワタルのサインをおいているところはなかった。ある意味、予想通りの結果だ。
 哲哉と約束した通り、これ以上の深追いはしない。
 
 ――これでよかったのよ、きっと。
 
 ワタルの気持ちが浅倉梢に向いている以上、実家を見つけたところで、どうしようもない。行けば会えるとしても、会いたくなかった。
 ハヤトたちは控え室で声がかかるのを待っている。みんな口を開くことなく、それぞれのやり方で気持ちを集中させている。ハヤトにいたっては、今まで見せたことのない鋭い視線で、大胆にも口元に小さな笑みを浮かべていた。
「ザ・プラクティスさん、出演の時間ですよ」
 控え室の扉が開き、バイトのウェイトレスが知らせに来た。
「じゃあ今日も全力で行くぜっ」
 メンバー四人で円陣を組みマサルがげきを飛ばすと、おおっ! と力強い声が上がる。それぞれが自分の楽器を持ち、部屋を出る。ハヤトもギターを手にし、三人に続いて部屋を出ようとした。
「ハヤトくん。待って」
「え、なに?」
「右耳のピアスがゆるんでる。きちんと止めておかないと、ライブの途中で外れちゃうよ」
 ハヤトは鏡の前に立ち、髪をかき上げと確認した。
「ほんとだ。ありがと。でもよくこんな細かいことに気がついたね」
 ハヤトは手で確認し、止め直しながら問いかけた。
 オーバー・ザ・レインボウがアマチュアのころ、沙樹はいつも最終的な身だしなみをチェックしていた。もう何年もしていないが、そのときの勘はまだ残っている。
「緊張してる?」
「少しね。でもこれくらいの方が、いい演奏ができるよ」
「がんばってね。ちゃんと見て……」
 沙樹は最後まで言えなかった。視界が遮られ、口元に柔らかいものが触れた。沙樹の唇にハヤトのそれが重なっていた。
 
 ――だめ、こんなこと。
 ――離れなきゃ。
 ――なのに、抵抗、でき、な、い……。

 沙樹はハヤトの両手に頬を包まれた。温もりが心に渦巻く黒い雲をかき消す。

 ――どうしたらいいの? なぜ抵抗できないの……?

 ふっと力が緩められたかと思うと、ハヤトの唇がゆっくりと名残惜しそうに離れた。
「あ、ご、ごめんなさいっ。つい……」
 沙樹は何も言えず、無言でハヤトを見つめた。戸惑い、気まずさ、そして……。
「でも、これがぼくの気持ちだから。沙樹さんがだれを想っていてもね」

 ――あたしがだれを想っているって? ……ワタシヲ ステタ ヒトノ コト?

「ライブのあとで返事を聞かせて」
 ハヤトはギターを手にして出ていき、沙樹はひとり控え室に残された。
 手の甲で自分の唇に触れる。長い間キスしていたように錯覚していたが、実際はほんの数秒程度だ。
 一番恐れていたこと、絶対に起きてはならないことが現実となった。
 行き場をなくした気持ちが、安らぎの場所を見つけてしまいそうだ。
 浅倉梢が交際宣言したとはいえ、ワタルへの想いが消えたわけではない。しかしハヤトと過ごしたここ数日間は、沙樹に安らぎと落ち着きを与えてくれた。
 ワタルが消えた瞬間からなくしてしまった心の平穏を、ハヤトが思い出させてくれた。
 唇に残るキスの感触は、ハヤトのものだ。
 ワタルの影とハヤトの姿が重なる。
 沙樹の大切な人はどちらなのか。ワタルからハヤトに変わりつつあるのだろうか。
 いくら考えても、今はまだ結論が出ない。答えを見つけられないまま、沙樹はハヤトたちのライブを見るために、客席に移動した。

   ☆   ☆   ☆

 沙樹が座ったのは前回と同じ最前列の一番端だ。店内はほぼ満席でステージを注目している客も見られる。
 ライブ前に渡されたセットリストによると、今日はオーバー・ザ・レインボウの曲だけを演奏するらしい。スタートは最新アルバムの一曲目に収録されているポップな曲で、先月終わったばかりのツアーでもオープニングに使われていた。
 沙樹は、オーバー・ザ・レインボウを初めて見たときのことを思い出した。アマチュアだけが持つことのできる情熱と新鮮さ、そして何よりも強いのは、プロになんて負けるものかという尖った気持ちだ。昔のワタルたちに優るとも劣らない力強さだ。
 だが沙樹が一番興味を持ったのは、そんなありきたりのものではない。単なるコピーバンドを想像していたが、それをいとも簡単に裏切られた。ザ・プラクティスは曲を楽譜通りに演奏するのではなく、自分たちの手でいろいろなアレンジに挑戦している。中には、オリジナルと異なったアプローチをしている曲もあった。
 とくに際立つのはボーカルだ。
 哲哉の歌はいつも情熱的で、感情をストレートに表現する。哲哉のもつエネルギーが曲という媒体を通して、聴く者の心を激しく揺さぶる。リズミカルな曲では体を動かし、情熱的な曲には圧倒され、悲しい曲では胸が苦しくなる。
 観客が泣くのも笑うのも、哲哉の歌ひとつで決まる。
 対するハヤトは、哲哉とは対極的な歌い方だ。情熱のあからさまな表現を避け、静かに歌い続ける。感情に溺れることも気持ちをストレートにぶつけることもない。そのスタイルは偶然の産物ではなく、試行錯誤を重ねた結果選んだ表現方法に違いない。その証拠に、誠実な表現が逆に詞をうきぼりにし、耳にする人ひとりひとりに意味を解釈する余裕を与えている。
 沙樹は初日に聴いたハヤトたちの曲を思い出した。あれは影響を受けすぎたオリジナル曲ではなく、自分たちでアレンジした曲だったのかもしれない。アルバムと違う表現方法をとっていたので、沙樹はそれに気づかず、これから個性を身につけなくてはいけないと勝手に解釈していた。
 それはまちがいだった。その証拠に、観客は彼らのコピーの仕方をバンドの個性として楽しんでいる。
 だが沙樹には、個性やチャレンジというにはあまりにも無謀な行為に思えた。ここまでやるなら、同じ曲を演奏する意味はない。解釈の仕方が既に個性的なのだから、オリジナル曲を演奏すればいいだけだ。
 それが解っていてなお、異なった解釈をする。何かから逃れたくてたまらず、必死にもがいている。何がハヤトたちをそこまでさせるのか。沙樹は演奏を聴きながら真意を図ろうとした。
 解決の糸口は、次の曲に入ったとたん見つかった。
 
「あれ、ワタルさん……?」
 最新アルバムの中で、初めての試みとして、ワタルがリードボーカルを担当する曲が作られた。哲哉の歌い方とは異なり、言葉ひとつひとつを丁寧に優しく扱うワタルの歌は、バンドのカラーをさらに広げてくれた。
 今ハヤトが歌っているのがその曲だ。
 今までと印象が百八十度変化した。もがくように追い続けていたはずの自分たちによるアレンジが影をひそめた。努力のあとは伺えるがうまく表現できていない。何をやっても最後には、単なる歌まねに戻る。
「なにこれ。ワタルさんが歌ってるの?」
 沙樹は目を閉じてハヤトのボーカルに耳を傾けた。まぶたに浮かんでくるのは、ハヤトではなくワタルの姿だ。
 沙樹は目を細めてステージ上のハヤトを見つめた。
 何気ないしぐさ、曲の解釈、いい意味での感情を抑えた歌い方、途中で客席に視線を送るタイミング――どれひとつ取ってもワタルを連想せずにはいられない。
 
 ヴィジョンが重なる。目の前のハヤトが消え、ワタルに変わる。
 
 今まで気づかなかったが、ハヤトの声はどこかワタルに似ていた。
 あと十五センチ背を高くする。少しだけ髪を伸ばし、軽くウェーブをあてて脱色する。
 ほんの少し手を加えただけで、ハヤトはワタルになってしまう。
「まさか、そんなことって……」
 夫婦が離婚するとき、子供がひとりとは限らない。ふたりいたら幼い方を母親が引き取る可能性は充分ある。
 できすぎた偶然だと思う一方で、沙樹は自分の勘を否定しきれないでいた。
 だがそんな理屈はどうでもいい。今まで何度となくハヤトからワタルを連想していたのに、なぜこの結論に達することができなかったのだろう。

「ハヤトくんとワタルさん、もしかして……兄弟なの?」

   ☆   ☆   ☆

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