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第三章
二. 甘え上手とお節介(四)
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先日の音楽番組で一緒になった後、ワタルたちのバンドがDJを務めるラジオ番組『虹の彼方に』にも来てもらったことがある。また来ます、と話して別れたがそれに関することだろうか。
仕事の件なら、森下というマネージャーがいるのだから、直接話を持ってくるとも思えない。ワタルは心当たりのないまま電話に出た。
『ワタルさん、今日の終業式ですごいことが起きたの。なんだと思う?』
やや興奮ぎみの弾んだ声が耳に届く。
「その様子だと、よほど嬉しいことみたいだね」
『そうなの。このあたしが勉強で成果を出したっていうので、学校の賞を貰ったの。子役のお仕事ばかりであまり勉強できなかったから、マジびっくり』
「それは素晴らしいな。おめでとう」
『最近自分でもびっくりするくらい数学が解るようになったの。今まで半分より前の成績を取ったことがなかったのに、なんと十位以内に入ったんだ。それだけじゃなくてね。他の教科もかなりアップして、担任の先生に『これなら大学もいいところが狙えるよ』って言われちゃったわ』
「梢ちゃんの努力が認められたんだね」
『ワタルさんのおかげよ。勉強をみてくれたでしょ』
あれからもときどき、解らない問題を教えてくれと頼まれることがあった。空いた時間にインターネットを利用してビデオ授業をしたこともある。
梢は芸能活動が忙しかったしわ寄せで、学校の勉強に充てる時間があまり取れず、お世辞にもいい成績とはいえなかった。だが演技力を見てもわかるように、頭が良く勘の鋭い子だ。つまずいたまま放置している部分を丁寧に教えれば、短時間で伸びるに違いない。それは家庭教師や塾のバイトを経験したことのあるワタルの直感だった。
予想通り梢の学力は伸びる。だがその影響で、沙樹と会う時間が減ったのも事実だ。
いつだったか、夜中に泣きながらツアー先まで電話をしてきたことがあった。仲良くしてくれるクラスメートが、陰で悪口を言うのを聞いたという。忙しいからと拒否するのは簡単だ。でもここで突き放せば、梢のつらい気持ちに共感してくれる人はいなくなる。
――詩織も、そうやって電話をかけてきたっけ。
大学入学後、家を出たワタルに何度も相談の電話をしてきた。血のつながりがない分、身内に相談するという気恥ずかしさがなかったのかもしれない。
梢と妹の詩織が重なる。沙樹より妹を優先したことはなかったが、そのことで逆に詩織に対する負い目がある。今まで気づかなかったが、梢を邪険に扱えないのは、詩織に対する罪滅ぼしがあるのかもしれない。
『ワタルさん、今部屋にいるんでしょ。行ってもいい?』
「今から?」
帰宅した直後なのに、どうしてそれを知っているのか。
『付き人の細井さんが、メッセージで教えてくれたの。ワタルさんが今、部屋に帰ってるって』
意外な返答にワタルは肩を落とした。
事務所の人間がタレントの個人情報を流すとはもってのほかだ。芸能人同士だから問題ないと思ったのかもしれないが、二度とこんなことはしないよう釘を刺しておかねばならない。
『今日の午後には帰るって聞いてたから、学校が終わってから駅前のファストフードで時間つぶしてたのよ。十分ほどでつくから待ってて』
梢はワタルの返事も聞かず、電話を切った。
「なんだって? ここに来る?」
幸いにして部屋の中は片づいている。
「いや、そんなことはどうでもいい。女子高生が、それもトップアイドルが来るなんて……。前にも『一人暮らしの男の部屋にはくるな』って注意したのに、忘れたのか?」
ワタルは部屋の中をざっと見まわした。沙樹とつきあっている証拠になるようなものはどこにもおいていない。バンドメンバーも遊びにくるから、そのあたりは抜かりなかった。
「外で会った方が無難か? でもファンに見つかる可能性を考えたら、部屋がいいのか?」
相手が未成年だから余計に気を使う。別れたばかりの細井を呼び出そうとスマートフォンを手にしたタイミングで、部屋のチャイムが鳴った。
『ワタルさん、オートロック開けて』
「あ……はい」
説教して帰らせるつもりだったが、トップアイドルのきらめく笑顔に押されて、ワタルはロビー入り口の鍵を解除した。ほどなくして梢が玄関まで来て、もう一度チャイムを鳴らす。ワタルは大きく深呼吸をし、部屋の扉を開けた。
「こ、ん、に、ち、は、ワタルさん。はい、お土産」
屈託のない笑顔で、梢は手提げつきの小さな箱を出した。駅前にあるケーキ屋のラベルが貼ってある。沙樹もときどき利用するなじみの店だ。制服を着ているところを見ると、学校帰りに寄ったというのは本当だろう。
「あ、ありがとう」
梢はちゃっかりと部屋に入り、リビングのソファーに座った。
ワタルは念のためマンションの廊下に出て、左右を見て誰もいないことを確認する。人の気配がしないことに安心し扉を閉めた。
追い返せない自分が優柔不断なのか。それとも梢の押しが強いのか。翻弄されっぱなしのワタルは肩を落としてキッチンに入り、梢にふるまうコーヒーをセットする。
持ってきてくれたケーキを皿に乗せていると、
「あたしにやらせて」
梢が背後から声をかけてきた。手伝おうとする気持ちはありがたいが、初訪問でキッチンに入るのは幾らなんでも踏み込みすぎだ。
「お客さんは座っていなさい」
ワタルは梢の背中を押して、リビングに戻らせた。
「お客さん扱いしなくていいのに」
「コーヒーを淹れるくらい簡単だよ。それに料理はおれの趣味だから、手伝いは不要なんだ」
「料理が趣味なの? ステキ! あたしワタルさんの手料理が食べたいな。そうだ、今日の夕飯作って」
「無茶言うなよ。ツアーでずっと留守にしてたから、材料は揃ってないんだ」
「あん、ワタルさん。そんな意地悪言わないで。それより、これを見て」
梢はカバンから筒を取り出し、中に入った賞状を広げた。
「ワタルさんのおかげでもらった賞状よ。手料理でお祝いしてもらえたら、二学期はもっと頑張るし、大学受験も絶対うまくいくのに……」
梢は唇をすぼめて上目遣いで、キッチンにいるワタルを見た。
また梢が詩織と重なる。
妹と同じ目で頼まれると、邪険にできない。当時は自分も未熟だったせいで、詩織を泣かせるような失敗を重ねた。義兄妹だけに後で罪悪感に苛まされた。その後悔こそが自分の弱さだ。
ワタルはコーヒーとケーキを持ってリビングに戻った。
テーブルの上にある賞状は、梢の努力が認められた証しだ。忙しい中で協力してよかったとワタルは心から嬉しくなる。。
「おめでとう。苦手意識さえなくなれば、案外できるもんだろ?」
「本当にそう思う。頑張ってよかった。ありがと、ワタルさん」
歓声をあげ、いきなり梢がワタルの胸に飛び込んできた。
「わわっ」
勢いに押されて体を支えられず、ワタルと梢は抱きあったまま床の上に倒れた。長く伸びた髪がワタルの頬をくすぐり、コロンの甘い香りに包まれる。
――さすがにこれはやりすぎだよ。
甘え上手の詩織すらこんなふうに抱きついてきたことはない。
「あの……梢ちゃん……」
ワタルは肘をついて上半身を起こした。梢はまだ胸元に顔をうずめたままだ。
「どくん、どくんって音がする」
「え?」
「ワタルさんの心臓の音。細いと思ったけど、胸板が厚いんだ」
顔を上げた梢とワタルの視線が絡んだ。大きな瞳がすがるようにじっと見つめる。
ただのハグだと解っていても、ワタルはどうにも居心地が悪い。
そのとき、着信音がワタルと梢の間を割って入った。
沙樹からのメッセージだ。今日帰ると伝えておいたから、仕事の合間に連絡をくれたのだろう。留守の間、観葉植物を世話してくれたことを思い出す。小さな思いやりに愛しさが募った。
「メッセージ? もしかして……彼女いるんですか?」
「ただのメルマガだよ。出版社からの新刊情報さ」
質問攻めにされる前にさらりと違う答えを示して、これ以上訊かれないようにした。
女子高生、しかもトップアイドルに迫られている状況は、梢のファンに憎まれそうな状況だ。ファンにとってアイドルは、心の中の彼女だからだ。だがワタルは梢に対して妹以上の感情を持っていない。そして何よりも、沙樹を裏切るようなことはしたくなかった。ただでさえすれ違いが多い状況で、さらに悲しませるようでは、自分で自分が許せなくなる。
梢の肩に手をやり、そっと体を離す。
「ご、ごめんなさい。あたしいつも女子の友達とハグしてるから……」
「梢ちゃんにはなんてことないかもしれないけど、おれは驚いたよ。ハグの相手は女の子か好きな人限定にしておいたほうがいいね。それより冷めたコーヒーは飲みたくないから、テーブルにつきなよ」
「はーい」
下をペロッと出して梢が返事をする。本当にそんなところまで詩織と同じだ。
「いただきまーす」
梢は両手を合わせて食事の挨拶をする。そんな些細なしぐさでさえ人の目を惹きつけた。天性の女優のオーラを、二十歳にもならない梢が持っている。日下部が肩入れするのは、それを見抜いたからに違いない。
「バンドの人とは今日は会わないの?」
頬についた生クリームを指で拭き、梢が尋ねた。
「さっきまでツアーで一緒だったからね。オフの日にわざわざ顔を合わせないよ」
「それもそうか。じゃあ今日は、ワタルさんフリーなのね。あたしが独り占めしても誰にも迷惑はかからないんだ」
コーヒーカップを取ろうしたワタルの動きが止まった。
「なんだって? 独り占めってどういう意味だ?」
「夏休みの宿題を持ってきたの。今日は英語を教えてください、北島先生」
梢はカバンからテキストを取り出し、テーブルの上に置いた。
「英語は専門外なのに……」
英語というと沙樹の顔が浮かぶ。大学で英文学を専攻していたから、ワタルなど足元に及ばないほど得意だ。家庭教師の名目で呼び出せられたらいいのにと考えながら、梢の持ってきた問題集をめくった。この程度の難易度であれば電子辞書と参考書があればなんとかなる。
「数学はまた別の日にお願い。近いうちに解けない問題だけ持ってくるね」
また両手を合わせてウィンクした。
困っている梢を追い返すことはできそうにない。バンドメンバーが相手だと厳しい決断もできるのに、相手が高校生だとそういう態度も取れない。
「仕方がないな。でも夕飯までは勘弁してくれよ。おれもいろいろと、やらなきゃならないことがあるから。少しはこっちの予定も考えてくれよ」
と、食事まではつきあえないことをしっかり伝えた。
「解りました、北島先生。手料理は改めてお願いします」
梢が素直に従ってくれたので、ワタルはほっと一息つく。
――これで沙樹とはなんとか会えそうだな。ちゃんと言えば素直に聞いてくれる子でよかった。
甘え上手でも理由を伝えれば、引くところは引いてくれる。押しが強いだけで、引き際を解っているようだ。
梢が問題を解いている横で、ワタルは沙樹から届いたメッセージを開いた。
『ごめんなさい。裕美に無理やり合コンに誘われたの。彼氏がいるって公言してなかったのが仇になったみたい。人数合わせでいいから来てって頼み込まれて断れなくて。せっかく会えると思って楽しみにしていたのに……。本当にごめんなさい(涙)』
家庭教師が終わったら会えるように調整したのに、つくづく運の悪いカップルだ。しかも合コンとは。
「ワタルさん、ねえ、ここは~ing、それともto?」
「ちょっと待って。~ingは数が限定されてたから」
がっかりした気持ちを悟られないように、ワタルは参考書をめくった。
来週はラジオ番組の収録でFM局に行く。話すチャンスもあるだろう。それだけでも直接会える貴重な時間だ。
仕事が一緒にできる環境に、ワタルは感謝した。
仕事の件なら、森下というマネージャーがいるのだから、直接話を持ってくるとも思えない。ワタルは心当たりのないまま電話に出た。
『ワタルさん、今日の終業式ですごいことが起きたの。なんだと思う?』
やや興奮ぎみの弾んだ声が耳に届く。
「その様子だと、よほど嬉しいことみたいだね」
『そうなの。このあたしが勉強で成果を出したっていうので、学校の賞を貰ったの。子役のお仕事ばかりであまり勉強できなかったから、マジびっくり』
「それは素晴らしいな。おめでとう」
『最近自分でもびっくりするくらい数学が解るようになったの。今まで半分より前の成績を取ったことがなかったのに、なんと十位以内に入ったんだ。それだけじゃなくてね。他の教科もかなりアップして、担任の先生に『これなら大学もいいところが狙えるよ』って言われちゃったわ』
「梢ちゃんの努力が認められたんだね」
『ワタルさんのおかげよ。勉強をみてくれたでしょ』
あれからもときどき、解らない問題を教えてくれと頼まれることがあった。空いた時間にインターネットを利用してビデオ授業をしたこともある。
梢は芸能活動が忙しかったしわ寄せで、学校の勉強に充てる時間があまり取れず、お世辞にもいい成績とはいえなかった。だが演技力を見てもわかるように、頭が良く勘の鋭い子だ。つまずいたまま放置している部分を丁寧に教えれば、短時間で伸びるに違いない。それは家庭教師や塾のバイトを経験したことのあるワタルの直感だった。
予想通り梢の学力は伸びる。だがその影響で、沙樹と会う時間が減ったのも事実だ。
いつだったか、夜中に泣きながらツアー先まで電話をしてきたことがあった。仲良くしてくれるクラスメートが、陰で悪口を言うのを聞いたという。忙しいからと拒否するのは簡単だ。でもここで突き放せば、梢のつらい気持ちに共感してくれる人はいなくなる。
――詩織も、そうやって電話をかけてきたっけ。
大学入学後、家を出たワタルに何度も相談の電話をしてきた。血のつながりがない分、身内に相談するという気恥ずかしさがなかったのかもしれない。
梢と妹の詩織が重なる。沙樹より妹を優先したことはなかったが、そのことで逆に詩織に対する負い目がある。今まで気づかなかったが、梢を邪険に扱えないのは、詩織に対する罪滅ぼしがあるのかもしれない。
『ワタルさん、今部屋にいるんでしょ。行ってもいい?』
「今から?」
帰宅した直後なのに、どうしてそれを知っているのか。
『付き人の細井さんが、メッセージで教えてくれたの。ワタルさんが今、部屋に帰ってるって』
意外な返答にワタルは肩を落とした。
事務所の人間がタレントの個人情報を流すとはもってのほかだ。芸能人同士だから問題ないと思ったのかもしれないが、二度とこんなことはしないよう釘を刺しておかねばならない。
『今日の午後には帰るって聞いてたから、学校が終わってから駅前のファストフードで時間つぶしてたのよ。十分ほどでつくから待ってて』
梢はワタルの返事も聞かず、電話を切った。
「なんだって? ここに来る?」
幸いにして部屋の中は片づいている。
「いや、そんなことはどうでもいい。女子高生が、それもトップアイドルが来るなんて……。前にも『一人暮らしの男の部屋にはくるな』って注意したのに、忘れたのか?」
ワタルは部屋の中をざっと見まわした。沙樹とつきあっている証拠になるようなものはどこにもおいていない。バンドメンバーも遊びにくるから、そのあたりは抜かりなかった。
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『ワタルさん、オートロック開けて』
「あ……はい」
説教して帰らせるつもりだったが、トップアイドルのきらめく笑顔に押されて、ワタルはロビー入り口の鍵を解除した。ほどなくして梢が玄関まで来て、もう一度チャイムを鳴らす。ワタルは大きく深呼吸をし、部屋の扉を開けた。
「こ、ん、に、ち、は、ワタルさん。はい、お土産」
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「あ、ありがとう」
梢はちゃっかりと部屋に入り、リビングのソファーに座った。
ワタルは念のためマンションの廊下に出て、左右を見て誰もいないことを確認する。人の気配がしないことに安心し扉を閉めた。
追い返せない自分が優柔不断なのか。それとも梢の押しが強いのか。翻弄されっぱなしのワタルは肩を落としてキッチンに入り、梢にふるまうコーヒーをセットする。
持ってきてくれたケーキを皿に乗せていると、
「あたしにやらせて」
梢が背後から声をかけてきた。手伝おうとする気持ちはありがたいが、初訪問でキッチンに入るのは幾らなんでも踏み込みすぎだ。
「お客さんは座っていなさい」
ワタルは梢の背中を押して、リビングに戻らせた。
「お客さん扱いしなくていいのに」
「コーヒーを淹れるくらい簡単だよ。それに料理はおれの趣味だから、手伝いは不要なんだ」
「料理が趣味なの? ステキ! あたしワタルさんの手料理が食べたいな。そうだ、今日の夕飯作って」
「無茶言うなよ。ツアーでずっと留守にしてたから、材料は揃ってないんだ」
「あん、ワタルさん。そんな意地悪言わないで。それより、これを見て」
梢はカバンから筒を取り出し、中に入った賞状を広げた。
「ワタルさんのおかげでもらった賞状よ。手料理でお祝いしてもらえたら、二学期はもっと頑張るし、大学受験も絶対うまくいくのに……」
梢は唇をすぼめて上目遣いで、キッチンにいるワタルを見た。
また梢が詩織と重なる。
妹と同じ目で頼まれると、邪険にできない。当時は自分も未熟だったせいで、詩織を泣かせるような失敗を重ねた。義兄妹だけに後で罪悪感に苛まされた。その後悔こそが自分の弱さだ。
ワタルはコーヒーとケーキを持ってリビングに戻った。
テーブルの上にある賞状は、梢の努力が認められた証しだ。忙しい中で協力してよかったとワタルは心から嬉しくなる。。
「おめでとう。苦手意識さえなくなれば、案外できるもんだろ?」
「本当にそう思う。頑張ってよかった。ありがと、ワタルさん」
歓声をあげ、いきなり梢がワタルの胸に飛び込んできた。
「わわっ」
勢いに押されて体を支えられず、ワタルと梢は抱きあったまま床の上に倒れた。長く伸びた髪がワタルの頬をくすぐり、コロンの甘い香りに包まれる。
――さすがにこれはやりすぎだよ。
甘え上手の詩織すらこんなふうに抱きついてきたことはない。
「あの……梢ちゃん……」
ワタルは肘をついて上半身を起こした。梢はまだ胸元に顔をうずめたままだ。
「どくん、どくんって音がする」
「え?」
「ワタルさんの心臓の音。細いと思ったけど、胸板が厚いんだ」
顔を上げた梢とワタルの視線が絡んだ。大きな瞳がすがるようにじっと見つめる。
ただのハグだと解っていても、ワタルはどうにも居心地が悪い。
そのとき、着信音がワタルと梢の間を割って入った。
沙樹からのメッセージだ。今日帰ると伝えておいたから、仕事の合間に連絡をくれたのだろう。留守の間、観葉植物を世話してくれたことを思い出す。小さな思いやりに愛しさが募った。
「メッセージ? もしかして……彼女いるんですか?」
「ただのメルマガだよ。出版社からの新刊情報さ」
質問攻めにされる前にさらりと違う答えを示して、これ以上訊かれないようにした。
女子高生、しかもトップアイドルに迫られている状況は、梢のファンに憎まれそうな状況だ。ファンにとってアイドルは、心の中の彼女だからだ。だがワタルは梢に対して妹以上の感情を持っていない。そして何よりも、沙樹を裏切るようなことはしたくなかった。ただでさえすれ違いが多い状況で、さらに悲しませるようでは、自分で自分が許せなくなる。
梢の肩に手をやり、そっと体を離す。
「ご、ごめんなさい。あたしいつも女子の友達とハグしてるから……」
「梢ちゃんにはなんてことないかもしれないけど、おれは驚いたよ。ハグの相手は女の子か好きな人限定にしておいたほうがいいね。それより冷めたコーヒーは飲みたくないから、テーブルにつきなよ」
「はーい」
下をペロッと出して梢が返事をする。本当にそんなところまで詩織と同じだ。
「いただきまーす」
梢は両手を合わせて食事の挨拶をする。そんな些細なしぐさでさえ人の目を惹きつけた。天性の女優のオーラを、二十歳にもならない梢が持っている。日下部が肩入れするのは、それを見抜いたからに違いない。
「バンドの人とは今日は会わないの?」
頬についた生クリームを指で拭き、梢が尋ねた。
「さっきまでツアーで一緒だったからね。オフの日にわざわざ顔を合わせないよ」
「それもそうか。じゃあ今日は、ワタルさんフリーなのね。あたしが独り占めしても誰にも迷惑はかからないんだ」
コーヒーカップを取ろうしたワタルの動きが止まった。
「なんだって? 独り占めってどういう意味だ?」
「夏休みの宿題を持ってきたの。今日は英語を教えてください、北島先生」
梢はカバンからテキストを取り出し、テーブルの上に置いた。
「英語は専門外なのに……」
英語というと沙樹の顔が浮かぶ。大学で英文学を専攻していたから、ワタルなど足元に及ばないほど得意だ。家庭教師の名目で呼び出せられたらいいのにと考えながら、梢の持ってきた問題集をめくった。この程度の難易度であれば電子辞書と参考書があればなんとかなる。
「数学はまた別の日にお願い。近いうちに解けない問題だけ持ってくるね」
また両手を合わせてウィンクした。
困っている梢を追い返すことはできそうにない。バンドメンバーが相手だと厳しい決断もできるのに、相手が高校生だとそういう態度も取れない。
「仕方がないな。でも夕飯までは勘弁してくれよ。おれもいろいろと、やらなきゃならないことがあるから。少しはこっちの予定も考えてくれよ」
と、食事まではつきあえないことをしっかり伝えた。
「解りました、北島先生。手料理は改めてお願いします」
梢が素直に従ってくれたので、ワタルはほっと一息つく。
――これで沙樹とはなんとか会えそうだな。ちゃんと言えば素直に聞いてくれる子でよかった。
甘え上手でも理由を伝えれば、引くところは引いてくれる。押しが強いだけで、引き際を解っているようだ。
梢が問題を解いている横で、ワタルは沙樹から届いたメッセージを開いた。
『ごめんなさい。裕美に無理やり合コンに誘われたの。彼氏がいるって公言してなかったのが仇になったみたい。人数合わせでいいから来てって頼み込まれて断れなくて。せっかく会えると思って楽しみにしていたのに……。本当にごめんなさい(涙)』
家庭教師が終わったら会えるように調整したのに、つくづく運の悪いカップルだ。しかも合コンとは。
「ワタルさん、ねえ、ここは~ing、それともto?」
「ちょっと待って。~ingは数が限定されてたから」
がっかりした気持ちを悟られないように、ワタルは参考書をめくった。
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