抄編 水滸伝

N2

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第20回 武松、血の雨をふらせること

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ふたたび牢獄にぶち込まれた武松。こんどこそ雨あられと棒をもらい、覚えのない調書ちょうしょをとられます。
寝返りさえできぬ小さな独房どくぼうでお裁きを待つ身となりましたが、思い起こされるのはあの日総出で自分を泥棒にしたてあげた、張司令官とその家来、郎党ろうとうどものにっくき顔。
「だれも助けてはくれなかった……いや、みんなハナから俺を落とし入れるために、偽りの好意を見せていただけだったか」

こちらは孟州知事。張司令からは「死刑にしてくれ」と請願書が届いていますが、しょうじき気乗りいたしません。
「たかが盗みで死罪にできるか。おまけに武松は英雄、街のものが黙っとらん。面倒だ、また流刑にしてしまえ!もし途中で死んでもそれはわしの責任じゃない」
こんどは山東の恩州おんしゅうへ流罪となりました。


恩州めざして出発のあさ、ひそかに牢屋をたずねた者がいます。「武松さん!」
「おお施恩どの。どうしたその傷は?」
「武松さんが捕えられてからすぐ、蔣門神が舞い戻ってきてまた快活林を横取りしやがったんです。やつは孟州を離れちゃいない、自警団長の屋敷にかくまわれてたんでしょう。どうやら団長と張司令官は親戚らしく、それであなたを除くはかりごとを考えたらしい。面目ない、当家のもめ事の助太刀をおねがいしたばっかりに……」
「いや、いいんだ。それよりあんたに会えて良かった。もうあっしに関わってはいけない。いますぐこの街を離れなさい、できれば今日じゅう、暗くなるまえに」
武松の目はらんらんと光っていました。追いつめられた彼は、自分の胆力ひとつを武器にすべてのいきどおりを解決する道をえらんだのです。

しばらく歩いて、ここは飛雲浦ひうんぽという川べりの入り江。向こうから野太刀を持った男ふたりが近づいてきて、護送役人たちと目で合図を送っています。
「よめた。このへんで俺をバラしちまおうって魂胆こんたんか」
武松、川のほうを向いて「ちょっと小便」といいますと、これを好機とみたか背中のほうで役人どもが水火棍すいかこんを振り上げました。
この一撃をひらりとかわすと、自慢の足わざを繰り出して、ふたりを水中にドボン!ドボン!と蹴り落とします。
刺客たちは武松がおもさ七斤半のかせをはめているので野太刀をかまえてまだ戦意満々。されど怒りに染まった彼にとって手枷首枷など何ほどの邪魔になりえましょう、エイッと総身の力でゆすれば、たちまち真っ二つになって外れてしまいました。
けだものを相手にしていると初めてさとった刺客ども、ワアッと叫んで逃げ出しますが武松追いすがって殴りつけ、落とした太刀でふたりともグリグリと刺し殺してしまいました。
さて川べりに戻ってくると、護送役はまだあっぷあっぷしています。ひとりは殺して、残るひとりを締め上げると、
「お、おれは団長と蔣門神の旦那に頼まれただけだ。首尾をきくために、今夜にもみんな張司令のお屋敷にあつまる予定だ」とぜんぶ喋ってくれました。
「ありがとうよ」と武松、やっぱりこいつも殺して、孟州城へ戻ります。

夕闇にまぎれて城門をくぐると、そのまま張司令の屋敷に直行。裏木戸うらきどからスルリと入って、馬小屋の中で日が落ちきるのを待ちます。
ときはの刻(九時ごろ)、馬丁ばていが小屋の鍵かけにやってきたのをキリに、武松は壮絶な復讐劇ふくしゅうげきをはじめました。
「おや、誰かいるのかい?」武松の返事は匕首のひと刺しです。馬丁のむくろをまぐさの上にほうり出すと、勝手知ったる屋敷の間取り、こんどは台所へ。
「今日のお客は一体いつまでうえで飲んでるのかしら、いい加減寝てほしいねえ」
お女中がふたり談笑していますが、ずいと押し入り無言でバッサリ袈裟けさがけにします。もひとりの女中、「ヒイッ」と小さく叫んだまま、恐怖のあまり足はひきつり舌も凍ってしまいました。構わずブスリとやると、廊下をすすんで鴛鴦楼えんおうろうの真下までやって来ました。
階段をあがってゆくと、主犯格かたき三人の声がたしかにいたします。
「司令閣下かっかのご尽力をたまわりまして、ようやく武松のやつを始末できました。お礼はたっぷりいたします」
「いかにヤツが強くとも、こっちは四人がかり。いまごろ飛雲浦の底に沈んでいるだろう」
こういうところへ死んだはずの人間が乗り込んできたのですから、三人とも恐怖のあまり心臓が中天たかく飛び出さんばかり。
まず身じろぎひとつ出来ぬ蔣門神を一刀のもとに斬り捨て、勢いあまって背後のついたてまで両断します。返すかたなで張司令官も始末すると、残るはひとり。
兵団長はさすが軍隊出身、手ぢかの椅子をつかんで抵抗しますが、エイと押したおしてじかに首をっ切ってしまいました。
「どうしたの?何を騒いでらっしゃるの?」
司令官夫人、物音を聞きつけて二階にあがれば、武松がいちめん血の海のなかでたたずんでいます。むろんこれも唐竹からたけわりに斬りつけて、後からやって来たお小姓こしょうふたりも殺します。するとまた階下から声がして……もうキリがありません。
「えいままよ!五人だろうが百人だろうが、つぐなう命はいちどきりだ!」
武松は阿修羅あしゅらとなりました。それから小半刻こはんときは屋敷をうろついて、女中に会えば女中を刺し、腰元にあえば腰元を殺し、血けむりの中を左右してつごう十九人ものひとをあやめます。その中にはあの可憐かれんな玉蘭もいたのですが、乾ききった武松の心にはいささかの迷いもありませんでした。
さいごにしとみ戸を片はしから閉めると、白壁しらかべに血文字で書きつけます。

“人を殺せしは虎退治の武松なり”

「ようやくせいせいしたな。さて、夜が明けぬうちに退散しよう」
屋敷をはなれ州城のさして高くない土壁を越えると、闇にまぎれるように落ちてゆきました。


孟州をあとにした武松、自然とあしは故郷清河県のほうに向きます。もはや家族ひとりいないというのに。
夜は一睡もしなかったうえ、大変なおお立ち回りの直後です。疲労が極限にたっした彼は、山中の小さなほこらにお邪魔して、倒れこむように寝入ってしまいました。
と、そこへ四方から四本の熊手くまで(カギ爪の武器)がおそいかかり、ずるずると身体を引いてゆくではないですか。
武松が眠りから覚めたときには何処とも知れぬ草ぶき小屋のなか。すでにその巨体は縄目のもとにありました。
「熊だと思ってみたら、こりゃあどえらい巨漢が捕まったぞ。おい、あね御を呼んでこいよ。バラしちまえば上等な牛肉のかわりになるぜ」
よく見ればくらい小屋のはりには人のものとおぼしき手足がぶら下がっています。
「ああ、逃げた結果が死体もとどめぬお粗末な最期とは!こんなことなら潔く州庁に出頭すればよかった。八つ裂き刑にされようとも、せめて豪傑としての名ぐらいは残ったろうに!」
もはや観念していますと、「あれっ。二郎さんじゃないのさ」向こうから知った声が聞こえてきます。「あっ、孫ねえさんか。助かった!」
やって来たのは母夜叉の孫二娘そんじじょう。じつは張青夫婦、十字坡いがいにも悪事のための仕事場を持っていて、そのひとつに武松がかかったのでした。
すっかり事情をきいた孫二娘、笑って手下に語ります。
「お前たち運がいいね。この人がぐったり疲れていなければ、四人はおろか四十人でも生きて帰れないだろうさ」
手下四人、バッタみたいに平伏して許しを請いました。


夫婦の屋敷にかくまわれた武松。しばらく時をかせいでいましたが、なんせ二十人近く殺した凶悪犯、目玉が飛び出るほどの賞金がついています。どこかへ移るにしてもこのままの姿では家から一歩も出られません。
「ひたいの入れ墨に膏薬こうやくでも貼りゃ、人相描きぐらい誤魔化せるんじゃないか」と張青。
「天下のひとが、みなお前さんくらいの賢さなら楽なんだけどねえ」これは孫姐さんの皮肉。
「そうだ、良いものがある」たんすの奥から何やら包みを出してきます。
「じつは二年前、例のしびれ薬でたびの雲水行者うんすいぎょうじゃをやっつけて、肉にしちまったことがあったのさ。どうも寝覚めがわるくて荷物を改めてみたらびっくり。ドクロをつなげて出来たおおきな数珠じゅずと、血の匂いの染みついた戒刀かいとうふた振りが出てきたの。どう考えてたってただ者じゃないけれど、もう確かめるすべがない。衣装もそっくり取ってあるから、二郎さんあんたにあげよう」
「おいおい、あっしと修行とは正反対の道ですぜ。成りきれるもんかな?」
ところがどっこい。いざ着付けてみればひたいの鉢金はちがねから墨染すみぞめのころも、肩がけの数珠まで、まるでしつらえたようにぴったりです。
「人間てのはわからない。あっしは雲水行者になるために生まれてきたんじゃないか」
これには夫婦もおお笑い。
かくして武松はたびの修行僧に身をやつし、魯智深あての紹介状を手に二竜山をめざすことになったのです。
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