抄編 水滸伝

N2

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第24回 霹靂火秦明、ひとの世の地獄をみること

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清風寨はいまや外様とざまの黄信がひとり孤塁こるいをまもっている状態。救援もかねて秦明は夜あけを待たずに進発します。漆黒しっこくのよろいかぶとに身をかため、五百の官兵をしたがえてつむじ風のごとく清風山に攻め寄せました。

と。ジャンジャンジャンと銅鑼どらの音あげてお山から下ってくるひと群れの軍馬。先頭をゆく者に秦明は見おぼえがありました。
「おお、花栄め!やはり賊に寝がえっておったか!きさま、父祖ふその代より朝廷のろくをはみながら、なにが不満で反乱いたす。はや、捕らえた劉長官をかえして大人しゅうばくにつけい!」
ところが花栄からからと天を向いてわらい、
「それは出来ぬご相談。まずこたびのことは何から何まで劉高の落ち度、生かしておく道理がないゆえこちらで成敗しておきました。それを反乱とはしゃらくさいではないですか。いじめてくる同僚を斬っただけで、天朝てんちょうさまに弓ひくことにはなり申さぬ」
「劉高を殺しただと!よくもまあいけしゃあしゃあと、そこ動くな!」
秦明じまんの狼牙棒ろうがぼう(釘バットを大きくしたような武器)でもって突きかかりますと、花栄も銀の槍をしごいて応戦します。
ふたりの武者の一騎うちはいにしえの英雄たちの戦絵巻かと見まごうよう。山すそを行きつ戻りつしながら火花をちらし、幾十合と続いていっこう決着をみません。
そのうち花栄はプイと槍をひっこめ、
「ま、今日はこのへんでいかがですか」
などと言いながら、馬首をひるがえして引き上げんといたします。秦明追いすがろうというところ、フッと花栄が無造作に放った一矢いっしは、秦将軍の大かぶとの真っ赤なふさを断ち切っておりました。

しばしの呆然ののち我にかえった秦明、
「なんの!こんな小城、ひら押しでじゅうぶん。ものどもいざ打ちいれッ!」
号令かけて軍勢を突入させますが、お山のなかは逆茂木さかもぎ(木でこさえたバリケード)だらけ。片付けて進もうとすれば矢だまを射かけて邪魔をする、別の登山口をさがせば峰の東西あちこちに旗やらのぼりやらひるがえり、敵兵が現れては消えてゆく。かね太鼓の音は茂みのそこここから響いてきます。日が暮れるまでこのゲリラ戦に付き合わされた官兵たち、まったく泥のように疲れ切ってしまい、谷ぞこに天幕はって夜営することにいたします。そこへ、
「……なんだこの音は?」
「あっ。いかん!水攻めだ!」
気づいたときにはもはや手遅れでした。谷川のせきを切った濁流は、ほとんど土砂崩れのような激しさです。寄手よせての兵も馬も、すべてを洗って流れさり、あとには一兵も残りません。
いや、秦明だけはしぶとく生きています。彼ひとり小高い場所に野宿のじゅくしていたのが幸いしたようです。
秦明、手勢を失った悲しみよりも敵への怒りに脳天は張り裂けんばかり。
「出てこい、花栄!出てこい、草賊めら!」
おめきながら獣みちを登ってゆくうち落とし穴にはまってしまい、動けぬところを縛られて山頂まで引きすえられます。

とりでの心臓部では、頭領たちが総出で待ちかまえていました。
「さっさと殺してくれ。八つ裂きだろうとなんだろうと勝手にせい」
観念しているとあの花栄がやって来て、縄目を切り上座かみざをすすめるではありませんか。
「さきほどは無礼な言葉をはきました。秦将軍、ひらにご容赦を」
「さっぱりわからん。なんでわしをゆるす。この人はだれだ?」
「わたしは山賊・張三という肩がきで劉高に殺されかけたもの。じつのすがたは鄆城の宋江ともうします」
「えっ。じゃ貴公きこうが山東の黒三郎さんで」
宋江はすべてを話し、秦明の誤解をといてやりました。
「やあ、処断すべき悪漢あっかんはあべこべだったか。わしの目もとんだふし穴だ。こうなったからには青州城にせかえり、知事に花長官の無実をつたえなければ」
「それはもう叶いますまい」と宋江。
「将軍はお城を出るときに預かってきた兵隊たちを何人、ふるさとに帰してやれますか。州府にもどれば敗北の責任を取らされるだけ、お身さえ危ういでしょう」
「いっそこのまま俺たちと一緒に、お山で気ままに暮らすのはどうです?」王矮虎も懸命けんめいに誘いますが、
「よしてくれ。わしは生きても死んでも大宋国の忠臣でいたい。この秦明を大切に思うなら、おとこの筋目を立てさせて欲しい」
「……わかりました。今日はまる一昼夜いっちゅうや合戦しておつかれでしょう。二、三日こちらで静養されて、そのあと青州にお帰りになっては」
宋江に言われるがまま、秦明は清風山に逗留してしまいました。


さてその二日後。秦将軍、みなに見送られながら馬に鞭くれ、ひとりさみしく道を急ぎます。
ようやく青州府に近づいたとき。
「なんだあれは?」
街道ぞいの集落からもうもうと煙がたちあがっています。近づいてみれば、
「あっ。。なんという無惨な……」
秦明は絶句しました。数日まえまでたしかにあったはずの人家はすべて燃え残りと化し、道ゆくかぎり焼け焦げたかばね。老人、子ども、いく百あるか分かりません。まこと酸鼻さんびきわまる有りさまで、語るこちらのはらわたさえもきしむ思いがいたします。

集落をすぎれば、ほどなく青州の城門まえにいたります。ところがお堀のはね橋はあがったまんま。
「開門ーッ、開門ーッ!司令秦明、ただいま帰着いたした!これは何ゆえの臨戦態勢りんせんたいせいか?」
へんじ代わりに返ってきたのは矢つぶての雨あられ。
「やめい!なにをする!」
城壁から身を乗り出した兵士が怒鳴ります。
「にっくき秦明め。きさま五百の官兵を失ったに飽きたらず、勝手に山賊どもに降参したな!あまつさえご城下の村を放火掠奪りゃくだつするとはなにごとか!」
「待て!わしは潔白だ。掠奪とはなんのことだ?」
「うるさい!狼牙棒に黒よろい、ひと目できさまとわかる格好の武者が今朝がたやって来て、山賊どもと火をつけて回ったのだ」
「誤解だ、知事にあわせてくれ!妻にあわせてくれ!」
「こんどは家族を連れだすはかりごとか。その手はくわぬぞ、それっ!」
城壁からにゅうっと差し出された槍のさきには、愛する夫人の首がくくられておりました。
「あ。あ。あ。」
秦将軍、あまりのことに物も言えません。
「うって出て秦明をころせ!」
わらわらとせまる州兵を叩いて伏せ、斬って伏せ、どうにか一条の血路けつろを切りひらいて、もときた道を逃げだしました。

トボトボと清風山まで戻ってきた秦明。するとどうでしょう。宋江以下、見送ってくれたはずの男たちがまだそこにいるではありませんか。
「秦将軍、まことに申し訳ない。いっとき武器とよろいを拝借しましたぞ」
ああ!秦明はすべてを悟りました。清風山の面々が、明けがたにじぶんの替え玉を用意して掠奪放火をはたらかせていたのです。それもこれも帰る場所さえ無くしてしまえば、山賊仲間に加わるしかない、という考えからでした。
「あまりといえばあまりの仕打ち。わしの人生はめちゃくちゃだ!外道げどうめ、きさまらみんな殺してやる!」
と秦明、おもわず宋江に飛びかかろうとすれば、脇から花栄がくみつきます。
「まず俺を殺してくれ。このたくらみは俺と宋押司で考えたんだ」
「いや手伝ったわしらも悪い、ぜんぶ秦将軍に戻ってきて欲しい一心だったんだ」
宋江たちは大地にぬかづき、この惨劇さんげきをあやまります。
秦明は思いをめぐらします。これは尋常じんじょうの出来ごとではなく、何となれば怪奇な宿命のめぐり合わせとしか捉えられません。それにいまとりでの親分衆と刺し違えたとて地上から賊徒が何人か消えただけ、悪徳役人どもはかえって枕を高くする、これでは一体なんになりましょう。彼はいよいよ観念しました。
「天に逃れようにも梯子はしごはなく、地にもぐろうにも門がない。ひと思いに死ぬのはたやすいが、それもむなしい。この秦明、もう地獄をぞんぶんに見、涙も忠義の心も枯れもうした。かくなるうえは宋江殿の配下として、いかようにも使ってくだされ。ただ妻を失ったことだけはお恨み申しますぞ」

こうしてじつに苦い計略をもって猛将、霹靂火の秦明を手に入れた清風山の一味たち。さてこれからどうなりますことやら。
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