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我
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私は煙草を買うために、深夜の道路に車を走らせていた。フロントガラスには小粒の雨が張り付いている。昼間に買い足さなかったのは間違いだった。幾分か気だるさを覚えながら、馴染みの看板の下に車を滑り込ませる。
二十四時間、明かりを灯し続ける馴染みのコンビニは、閑散としていた。田舎のコンビニに深夜に来る人間など、大していない。車を止め、財布を掴んでドアを開ける。額に小さな雨粒が落ちた。雨は思っていた以上に、小降りだった。中途半端な雨は、今にも止むのかもしれなかった。または、今にも轟々と、強く降り頻るのかもしれなかった。私にそれを知る術はなかった。
コンビニの自動ドアの前に飛蝗の死体が何匹か転がっていた。光に誘われたのだろうか。その結果が踏み潰される運命だというのなら、なんとも皮肉な話に違いない。
アイスコーヒーを手に取って、レジに向かう。夜勤の、馴染みの店員の顔が見えた。煙草の番号を伝えて支払いを終える。
「やっと涼しくなってきましたねぇ」
店員は会計の手持ち無沙汰に、そう呟いた。自動化されたレジからお釣りを受け取りながら、私は言葉を返す。
「秋が来ますね」
「ですねぇ…」
意味があるのかないのか、その判別はつかない会話だった。そもそも、大抵の人間の行動に意味などないのかもしれない。あるいは、全てに意味があるのかもしれない。どうでもいい思考を自動ドア前の飛蝗の死体に落としながら、喫煙所に向かう。
横にあるポストの上にアイスコーヒーを置いて、私は煙草に火をつけた。スタンド式灰皿の周りには、飛蝗やら蛾やら、何やらの死体とも生きているとも判別のつかない有象無象が地を張っていた。煙草の煙だけが深夜の憂鬱て半端な雨空に昇っていった。何気なく選んだマルボロは、随分と酸味が強い気がした。ニコチンが入っていれば美味しいことには変わりなかった。アイスコーヒーで酸味を苦味に上書きする。深夜のコンビニの醍醐味、といえば少しは特別な夜になるのかもしれない。そこまで感傷的で、詩的な気分にはなれなかった。じんわりと一粒の雨が、マルボロの紙を濡らした。
二本目のマルボロを吹かしながら、私は違和感を覚え始めた。それは言葉にはできなかった。何かが、血管のどこかで引っ掛かっている。どこかの神経が、発火を忘れている。脳細胞の一部が、サボタージュを決め込んでいる。微細な揺れのような違和感が、酸味と共に口の中に広がった。これといって理由は思いつかなった。それは私の自律神経の不調のせいかもしれない。または、単に低気圧による頭痛のせいかもしれない。マルボロが酸味を強くしたからかもしれない。飛蝗の死体がいつもより多かったからかもしれない。考えたところで何にせよ、どれもこれも大した意味を持たなかった。
気持ちの悪い違和感に首を傾げる仕草をして、私は車に乗り込んだ。車内からは女の香水の匂いが一瞬だけ漂った。女など、もう数ヶ月も車に乗せていなかった。単なる勘違いか、嗅覚が性欲に気まぐれな甘い顔でも見せたのだろう。女の匂いは、エンジンを始動するときには消えていた。それに幾許かの寂しさを覚えた。
車を動かし、帰路へ向かう。雨は幾分か強くなっていた。バチバチと雨が車体に当たる音が、エンジンの音を覆い隠している。濡れた路面はライトを反射させて、センターラインを見えにくくさせた。どうせ走っている車など他にはいない。大して、問題はなかった。
田園地帯に入ると、鹿が数頭、道を渡っていた。見慣れた光景だった。特に焦ることもなく、通り過ぎるまで車を止めて眺める。一頭がこちらを振り返って、私を見た。視線が交錯した数秒間、世界は時を止めたように思えた。あぁ、これは恋かもしれない。馬鹿なことをわざわざ考えて、自嘲気味に口角を少しだけ吊り上げ、私はまた車を走らせ始めた。
自宅の庭に車を止め、すっかり強くなった雨の中を玄関に向かって歩く。そこに黒い影が動いた。猫か、鼬か、はたまた狐か。どれとは知れなかった。その黒い影は、私を見つけるなり玄関先から消えた。行方はとうに知れない。私は、自分の目が死んでいくのを感じた。何故かはわからなかった。玄関の鍵を開け、中に入る。玄関の前には蛾が一匹、翅を轢き潰されて痙攣していた。
私はすぐに換気扇の下に向かった。また煙草に火をつける。煙草は私の生活の根幹を成していた。依存という言葉では事足り無い、それはもはや生命活動の一部だった。ニコチンが脳に巡る。血管が収縮する。その快楽に酔う。私が酔うために必要なのは、アルコールではなかった。二度、咳をした。肺の黒さを想像した。既に肺はタールに蝕まれているに違いなかった。そこに悲観を覚えることはなかった。どのみち、ニコチンとタールがないなら、生きている価値などないのだから。
深夜は既に二時を回っていた。時計の秒針の音が響いている。ふとその違和感に気づいた。台所と居間にある、いくつかの時計のどれかが少しだけずれている。秒針の音は、重なり切らずにどこか気持ちが悪かった。思考が、ジワジワと染みるように滲み出し始めた。それは深夜が悪いのかもしれなかった。それかこの雨が、窓を打つ雨が悪いのかもしれなかった。さらには私の不健康が悪いのかもしれなかった。それとも、ただ私がそうできているから、それだけの理由なのかもしれなかった。
脳細胞が軋むように動き始めた。神経が苛烈に発火している。ニコチンで収縮した血管が、内側からの圧力で張り裂けそうになっている。腕の皮膚にむず痒さを感じ、掻き毟った。ぐらり、と軽い眩暈がした。それがニコチンによるものなのか、自律神経失調によるものなのか、判別はつかなかった。沈んでいくように重くなる体と裏腹に、思考は加速をやめなかった。
脳裏で死んだ飛蝗に蟻が群がっている。コンビニの店員が引き攣った笑いのまま、痙攣している。翅を潰された蛾が踠いている。鹿が、俺の目を射抜きながら「何故生きている?」と問うている。赤いポストが血を流して、それを雨が洗い流している。マルボロのパッケージの上で、誰とも知れぬ人間が首を吊っている。
私は吐き気を覚えた。それを押し殺した。吐くのは嫌いだった。瞬く間に自家中毒の記憶が蘇った。俺は、幼少期に散々に嘔吐した。一生分の嘔吐をした。もう、いいだろう。もう、いいだろう。眩暈は加速していた。ソファに体を投げ出し、右側を向いて横になった。これは私が眩暈と吐き気を覚えた時、毎回する対処だった。深く息を吸い、ぐらりぐらりと揺れる脳を押し留めようとした。
脳漿が揺れている。脳の表面を這う血管が、赤赤と破裂しながら、脈動している。俺の脳は、病んでいる。俺の体は、病んでいる。俺は、どうしようもなく、生きることに倦んでいる。俺の思考は沈み込み、現実を失いながら、螺旋状に加速していく。地獄に降りるかのように、階段を下って、無意識の深層へズレ込んでいく。
意識を必死に引き起こそうと、私は深呼吸を繰り返した。腫れた粘膜からする血の匂いに、鼻炎を感じた。点鼻薬を手に取ろうとして、手が空を切った。代わりに手に触れたのは本だった。それは芥川龍之介の『歯車』だった。
たちまち俺の脳は、奇妙な違和感と必然を感じて発火し始めた。それは紫色の火花に違いない。血と、神経と、入り混じった汚い、穢れた火花に違いない。俺は芥川ではない。俺は芥川になどなれない。俺に研ぎ澄まされた神経などない。俺は明瞭で聡明な脳など持たない。俺は吐血すらできない。俺の手にベロナールはない。俺は。俺は。俺は。…
私は、必死に明瞭な意識を繋ぎ止めようとした。脳は発火する。神経が痙攣する。あらゆる映像と音が、脳裏で破裂を繰り返す。呼吸は意識を向けなければ止まるほど浅くなっていた。心臓のあたりに痛みを覚えた。このまま止まって仕舞えばいい、と願いながら、左手で胸元を押さえた。鼓動は続いている。鼓動が続いている。無意識に、鼓動が続いている。
俺の、意思に関係なく、神経は発火する。血液は流れ続ける。鼓動は続いている。閉じた瞼の下で火花が散り続ける。血の匂いがする。血の匂いが、止まない。ずっと、血の匂いがする。それが止められない。どこからだ?血は、鼻炎か。いや、血の匂いが。あぁ。あぁ。
…あぁ、そうだ。
これは、女、と死んだ飛蝗と、蛾の匂いだ。
………
俺の脳は、発火した。
脳細胞が蠢く。神経の異常発火はもはや止めようもない。吐き気が加速する。眩暈が、脳の揺れが、世界の暗転が、加速する。色彩がぐちゃぐちゃに視界を埋め尽くす。世界は崩壊する。俺だけの世界が、崩壊する。血の匂いは止まない。女の香水の匂いは止まない。のみならず、香水の匂いは、女そのものの匂いにすらなっていった。
無意識が、暴れ回る。俺の中にある、俺ですらわからない世界が、奔流する。轟音と共に抑圧の堰を切られた全てが顕現する。
血みどろの女が踊っている。揺れ動く天秤に合わせて、黒いネイルで空を裂きながら。道化師が手を叩きながらそれを見ている。その眼窩に眼球はない。讃美歌が鳴り止まない。鐘の音が聞こえる。讃美歌は悲鳴と判別がつかない。脳が揺れる。脳漿の中で揺れる。髄液が沸騰する。血みどろの女が踊っている。
『あなたは私と一緒』
血みどろの女が踊っている。笑っている。語っている。手招いている。俺を知っている、俺の知っている、女が、踊っている。
秒針のズレが加速していく。ふと見ると自分の足は飛蝗の足になっていた。気持ち悪さに蹴り飛ばした。痙攣している、肩甲骨から轢き潰された蛾の翅が伸びているのがわかる。吐き気が止まらない。眩暈が、もはや正常と異常の差がわからない。
正常?…正常などどこにあった?最初から異常だった?あの違和感たちはなんだ?全部日常だった?いや、全て異常だった?どこまでが、現実だった?コンビニの店員は痙攣していた?飛蝗は生きていたか?蛾は轢き潰されていたか?鹿は目を合わせたか?黒い影は猫だったか?あれはなんだった?
「あ」
俺は。女が踊っている。匂いが強まる。飛蝗の足が部屋中を跳ねている。背中で蛾の翅が動いた。黒い影が、部屋を走り回っている。鹿の目がそこら中から俺を見ている。
違和感。違和感。違和感!!そう!違和感!違和感だ!あぁ!そうだ!正常な!異常な!!!女は踊っている!!!匂いが強まるから、あぁ!
『あなたは、私と、一緒』
俺は、君と、一緒。
鹿の目が、俺の目を、射殺す。…
二十四時間、明かりを灯し続ける馴染みのコンビニは、閑散としていた。田舎のコンビニに深夜に来る人間など、大していない。車を止め、財布を掴んでドアを開ける。額に小さな雨粒が落ちた。雨は思っていた以上に、小降りだった。中途半端な雨は、今にも止むのかもしれなかった。または、今にも轟々と、強く降り頻るのかもしれなかった。私にそれを知る術はなかった。
コンビニの自動ドアの前に飛蝗の死体が何匹か転がっていた。光に誘われたのだろうか。その結果が踏み潰される運命だというのなら、なんとも皮肉な話に違いない。
アイスコーヒーを手に取って、レジに向かう。夜勤の、馴染みの店員の顔が見えた。煙草の番号を伝えて支払いを終える。
「やっと涼しくなってきましたねぇ」
店員は会計の手持ち無沙汰に、そう呟いた。自動化されたレジからお釣りを受け取りながら、私は言葉を返す。
「秋が来ますね」
「ですねぇ…」
意味があるのかないのか、その判別はつかない会話だった。そもそも、大抵の人間の行動に意味などないのかもしれない。あるいは、全てに意味があるのかもしれない。どうでもいい思考を自動ドア前の飛蝗の死体に落としながら、喫煙所に向かう。
横にあるポストの上にアイスコーヒーを置いて、私は煙草に火をつけた。スタンド式灰皿の周りには、飛蝗やら蛾やら、何やらの死体とも生きているとも判別のつかない有象無象が地を張っていた。煙草の煙だけが深夜の憂鬱て半端な雨空に昇っていった。何気なく選んだマルボロは、随分と酸味が強い気がした。ニコチンが入っていれば美味しいことには変わりなかった。アイスコーヒーで酸味を苦味に上書きする。深夜のコンビニの醍醐味、といえば少しは特別な夜になるのかもしれない。そこまで感傷的で、詩的な気分にはなれなかった。じんわりと一粒の雨が、マルボロの紙を濡らした。
二本目のマルボロを吹かしながら、私は違和感を覚え始めた。それは言葉にはできなかった。何かが、血管のどこかで引っ掛かっている。どこかの神経が、発火を忘れている。脳細胞の一部が、サボタージュを決め込んでいる。微細な揺れのような違和感が、酸味と共に口の中に広がった。これといって理由は思いつかなった。それは私の自律神経の不調のせいかもしれない。または、単に低気圧による頭痛のせいかもしれない。マルボロが酸味を強くしたからかもしれない。飛蝗の死体がいつもより多かったからかもしれない。考えたところで何にせよ、どれもこれも大した意味を持たなかった。
気持ちの悪い違和感に首を傾げる仕草をして、私は車に乗り込んだ。車内からは女の香水の匂いが一瞬だけ漂った。女など、もう数ヶ月も車に乗せていなかった。単なる勘違いか、嗅覚が性欲に気まぐれな甘い顔でも見せたのだろう。女の匂いは、エンジンを始動するときには消えていた。それに幾許かの寂しさを覚えた。
車を動かし、帰路へ向かう。雨は幾分か強くなっていた。バチバチと雨が車体に当たる音が、エンジンの音を覆い隠している。濡れた路面はライトを反射させて、センターラインを見えにくくさせた。どうせ走っている車など他にはいない。大して、問題はなかった。
田園地帯に入ると、鹿が数頭、道を渡っていた。見慣れた光景だった。特に焦ることもなく、通り過ぎるまで車を止めて眺める。一頭がこちらを振り返って、私を見た。視線が交錯した数秒間、世界は時を止めたように思えた。あぁ、これは恋かもしれない。馬鹿なことをわざわざ考えて、自嘲気味に口角を少しだけ吊り上げ、私はまた車を走らせ始めた。
自宅の庭に車を止め、すっかり強くなった雨の中を玄関に向かって歩く。そこに黒い影が動いた。猫か、鼬か、はたまた狐か。どれとは知れなかった。その黒い影は、私を見つけるなり玄関先から消えた。行方はとうに知れない。私は、自分の目が死んでいくのを感じた。何故かはわからなかった。玄関の鍵を開け、中に入る。玄関の前には蛾が一匹、翅を轢き潰されて痙攣していた。
私はすぐに換気扇の下に向かった。また煙草に火をつける。煙草は私の生活の根幹を成していた。依存という言葉では事足り無い、それはもはや生命活動の一部だった。ニコチンが脳に巡る。血管が収縮する。その快楽に酔う。私が酔うために必要なのは、アルコールではなかった。二度、咳をした。肺の黒さを想像した。既に肺はタールに蝕まれているに違いなかった。そこに悲観を覚えることはなかった。どのみち、ニコチンとタールがないなら、生きている価値などないのだから。
深夜は既に二時を回っていた。時計の秒針の音が響いている。ふとその違和感に気づいた。台所と居間にある、いくつかの時計のどれかが少しだけずれている。秒針の音は、重なり切らずにどこか気持ちが悪かった。思考が、ジワジワと染みるように滲み出し始めた。それは深夜が悪いのかもしれなかった。それかこの雨が、窓を打つ雨が悪いのかもしれなかった。さらには私の不健康が悪いのかもしれなかった。それとも、ただ私がそうできているから、それだけの理由なのかもしれなかった。
脳細胞が軋むように動き始めた。神経が苛烈に発火している。ニコチンで収縮した血管が、内側からの圧力で張り裂けそうになっている。腕の皮膚にむず痒さを感じ、掻き毟った。ぐらり、と軽い眩暈がした。それがニコチンによるものなのか、自律神経失調によるものなのか、判別はつかなかった。沈んでいくように重くなる体と裏腹に、思考は加速をやめなかった。
脳裏で死んだ飛蝗に蟻が群がっている。コンビニの店員が引き攣った笑いのまま、痙攣している。翅を潰された蛾が踠いている。鹿が、俺の目を射抜きながら「何故生きている?」と問うている。赤いポストが血を流して、それを雨が洗い流している。マルボロのパッケージの上で、誰とも知れぬ人間が首を吊っている。
私は吐き気を覚えた。それを押し殺した。吐くのは嫌いだった。瞬く間に自家中毒の記憶が蘇った。俺は、幼少期に散々に嘔吐した。一生分の嘔吐をした。もう、いいだろう。もう、いいだろう。眩暈は加速していた。ソファに体を投げ出し、右側を向いて横になった。これは私が眩暈と吐き気を覚えた時、毎回する対処だった。深く息を吸い、ぐらりぐらりと揺れる脳を押し留めようとした。
脳漿が揺れている。脳の表面を這う血管が、赤赤と破裂しながら、脈動している。俺の脳は、病んでいる。俺の体は、病んでいる。俺は、どうしようもなく、生きることに倦んでいる。俺の思考は沈み込み、現実を失いながら、螺旋状に加速していく。地獄に降りるかのように、階段を下って、無意識の深層へズレ込んでいく。
意識を必死に引き起こそうと、私は深呼吸を繰り返した。腫れた粘膜からする血の匂いに、鼻炎を感じた。点鼻薬を手に取ろうとして、手が空を切った。代わりに手に触れたのは本だった。それは芥川龍之介の『歯車』だった。
たちまち俺の脳は、奇妙な違和感と必然を感じて発火し始めた。それは紫色の火花に違いない。血と、神経と、入り混じった汚い、穢れた火花に違いない。俺は芥川ではない。俺は芥川になどなれない。俺に研ぎ澄まされた神経などない。俺は明瞭で聡明な脳など持たない。俺は吐血すらできない。俺の手にベロナールはない。俺は。俺は。俺は。…
私は、必死に明瞭な意識を繋ぎ止めようとした。脳は発火する。神経が痙攣する。あらゆる映像と音が、脳裏で破裂を繰り返す。呼吸は意識を向けなければ止まるほど浅くなっていた。心臓のあたりに痛みを覚えた。このまま止まって仕舞えばいい、と願いながら、左手で胸元を押さえた。鼓動は続いている。鼓動が続いている。無意識に、鼓動が続いている。
俺の、意思に関係なく、神経は発火する。血液は流れ続ける。鼓動は続いている。閉じた瞼の下で火花が散り続ける。血の匂いがする。血の匂いが、止まない。ずっと、血の匂いがする。それが止められない。どこからだ?血は、鼻炎か。いや、血の匂いが。あぁ。あぁ。
…あぁ、そうだ。
これは、女、と死んだ飛蝗と、蛾の匂いだ。
………
俺の脳は、発火した。
脳細胞が蠢く。神経の異常発火はもはや止めようもない。吐き気が加速する。眩暈が、脳の揺れが、世界の暗転が、加速する。色彩がぐちゃぐちゃに視界を埋め尽くす。世界は崩壊する。俺だけの世界が、崩壊する。血の匂いは止まない。女の香水の匂いは止まない。のみならず、香水の匂いは、女そのものの匂いにすらなっていった。
無意識が、暴れ回る。俺の中にある、俺ですらわからない世界が、奔流する。轟音と共に抑圧の堰を切られた全てが顕現する。
血みどろの女が踊っている。揺れ動く天秤に合わせて、黒いネイルで空を裂きながら。道化師が手を叩きながらそれを見ている。その眼窩に眼球はない。讃美歌が鳴り止まない。鐘の音が聞こえる。讃美歌は悲鳴と判別がつかない。脳が揺れる。脳漿の中で揺れる。髄液が沸騰する。血みどろの女が踊っている。
『あなたは私と一緒』
血みどろの女が踊っている。笑っている。語っている。手招いている。俺を知っている、俺の知っている、女が、踊っている。
秒針のズレが加速していく。ふと見ると自分の足は飛蝗の足になっていた。気持ち悪さに蹴り飛ばした。痙攣している、肩甲骨から轢き潰された蛾の翅が伸びているのがわかる。吐き気が止まらない。眩暈が、もはや正常と異常の差がわからない。
正常?…正常などどこにあった?最初から異常だった?あの違和感たちはなんだ?全部日常だった?いや、全て異常だった?どこまでが、現実だった?コンビニの店員は痙攣していた?飛蝗は生きていたか?蛾は轢き潰されていたか?鹿は目を合わせたか?黒い影は猫だったか?あれはなんだった?
「あ」
俺は。女が踊っている。匂いが強まる。飛蝗の足が部屋中を跳ねている。背中で蛾の翅が動いた。黒い影が、部屋を走り回っている。鹿の目がそこら中から俺を見ている。
違和感。違和感。違和感!!そう!違和感!違和感だ!あぁ!そうだ!正常な!異常な!!!女は踊っている!!!匂いが強まるから、あぁ!
『あなたは、私と、一緒』
俺は、君と、一緒。
鹿の目が、俺の目を、射殺す。…
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