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第一章 惨めな日々
5.元婚約者(1)
しおりを挟む七条家の長女であるサクラには、梨久という婚約者がいた。先々代がその商才を活かし、帝都随一の商店へと上り詰めた豊島財閥の次男である。
祖父同士が親友で、歳が近い孫が出来たら縁を結ぼうとサクラ達が産まれる以前から話が進められていたらしい。
サクラが3つになる頃には、梨久は婚約者としてよく七条家を訪れていた。3歳上の梨久をサクラは兄のように慕い、その優しさに次第に異性として惹かれていった。
義母や妹から酷い嫌がらせを受けるようになっても、梨久は七条家を訪れる度にサクラのいる小屋まで足を運び「大丈夫だよ」と甘い笑顔を浮かべて優しく抱きしめてくれた。
サクラは優しい梨久と結婚し、妻として彼を支え、幸せな家庭を築くという希望を抱いていた。だからこそ、義母や杏からの厳しい仕打ちも何とか耐えることが出来ていたのだ。
最後の希望まで奪われるなんて…。
自身が生活する小屋へのろのろと足を進めながらサクラは考える。父からの一方的な婚約破棄通告を受け、真っ白になっていた頭が冴えてきた。
父は豊島家から杏との再婚約の申し入れがあったと話したが、本当にそうなのだろうか。梨久とはもう10年以上の付き合いになる。なのに、こんなにあっさりと…?
また杏が我儘を言ったのだわ…。
サクラの持ち物を執拗に強請る杏の歪んだ顔が脳裏に浮かぶ。母や祖父の形見の品から、着物に至るまで…全て妹に奪われた。今のサクラには、小屋にある粗末な布団と衣類以外は何一つ残っていない。
過去の苦い記憶に加えて、今回の婚約破棄…サクラは苦しい感情を抑えきれなくなり、裏口から外へ飛び出した。
もうこれ以上は耐えられない。梨久が正式に婿入りし、七条家の跡継ぎになるまでの我慢だと思っていたけれど。
彼女達の横暴にもう耐え切れず、意を決して豊島家の屋敷へ駆け出す。
唯一優しく接してくれる梨久に、これまで義母や妹から受けてきた処遇を伝えよう。優しい梨久はきっとサクラを労り、父や豊島家当主へ掛け合ってくれるだろう。
…私にはもう何もない。だからこそ、梨久様だけは、諦める訳にいかないの。
ぽつりと呟き、前へと進める脚に力を込めると、サイズの合わない古い草履の鼻緒が食い込み痛みが走った。しかし、サクラは気に留めることなく豊島家への道のりを急いだ。
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