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三話 気になる

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 薮田は徒歩で通える範囲に高校があった。
 田んぼに囲まれ、土地だけは余っているから無駄に庭や運動場が大きいと有名な古い学校だ。
 制服にこだわりも無いし、目指したい学部があるでもなかったため、登校時間短縮という魅力一点で薮田はこの高校を選んだ。
 可もなく不可もなくだった学力を進学校として名が挙がる学校に合わせる必要があり、中学でとても勉強を頑張ったのもすでに懐かしくなっている。
 入学してからというもの、これまでの人生でお目に掛かった事がないレベルの美しい男に毎日絡まれているから目まぐるしいのだ。 


「俺ってイケメンなのにちーちゃんは全然そんな事気にしないの結構ショックでさー」
「自分でイケメンとか言うか普通」


 澤井健斗という男は自らの容姿が整っている事をわかっており、自慢するでもなく事実として口にする。
 変に謙遜するより嫌味がないのだが、一応薮田は突っ込みを入れておく。
 健斗は嬉しそうに微笑んだ。


「でもねぇ、ちーちゃんが描く男の方がイケメンだったから納得した」
「何をどう納得できたんだマジで」
「俺と違って、ちーちゃんの世界は広くて凄いってこと」
「……不思議ちゃんか?」


 会話が噛み合うか噛み合わないかは置いておいて、それなりに二人は上手くいっていた。
 自転車なら十分もかからず、徒歩で三十分程度の距離の薮田の家に今日も健斗はついて行く。

 健斗は誰にも薮田のSNSの事を言わずにいた。
 薮田はそこに誠実さを感じていたが、健斗にそんな意図はない。
 SNSの存在を知られれば、健斗よりも薮田の方が人気者になるかもしれないからだ。
 健斗の小さな小さな自己満足の世界を守るためが九割で、一割は『自分だけが知る薮田』という謎の優越感に浸っている。
 一部でブタと蔑まれている薮田がネット上では神絵師と言われて大人気だなんて、誰も想像すらしていない。
 その時、ふと気になった事を健斗は訊ねた。


「ちーちゃんってなんで絵描いてるの?」
「楽しいから」
「え、それだけ?」


 あまりにシンプルな答えが予想外で、失礼かもしれないが驚いた声をあげてしまう。
 楽しいが最も大事なのはわかるが、あそこまで打ち込むならばもっと何か大きな理由があると思っていたのだ。
 薮田は呆れたようにその太い片眉を上げた。


「楽しくないのにできるかよ、こんな辛い事」
「辛いの!?」
「そりゃ下手だから辛いに決まってんだろ」


 当たり前のように言われ、健斗は息を呑んだ。
 絵の知識はまったくないが、薮田の絵は初めて見た時からずっと凄いと健斗は思っていた。
 てっきり絵が上手い人は何でも描けるのだから楽しさしかないものだと思い込んでいた。


「あんな……プロみたいに上手いのに?」


 心からの言葉だったのに薮田は『別に上手くはねーけど』と零して続けた。


「プロってのは求められたモノを正しく提供できる存在であって、上手い下手は関係ないぞ」
「えぇ!? そうなの?」


 健斗は絵が上手い人はみんなプロになるものだと漠然と考えていたから、薮田の言葉に完全に混乱してしまう。
 薮田はそんな健斗を一瞥してから丁寧に捕捉した。


「そりゃ上手い方が応用が利くし仕事の幅は広がるけどよ。依頼でシンプルなミニキャラが求められてるのに、調子に乗って写真みたいなクオリティの人物絵を出したら仕事にならんだろ。結構そういう基本的な事が大事なんだよ」
「あぁ……確かに」
「人によっては下手に見えるかもしれない絵でも、需要があればプロになれるんだ。画力と魅力ってまた違うんじゃねーかなって。まぁ……俺の勝手な持論だけど」


 健斗には少し難しい話だったが、薮田にとって“プロみたい”というのは誉め言葉ではなかったのかもしれない。
 それだけは何となく伝わってきた。
 これまで健斗は自分が発する言葉というだけで喜ばれた経験しかなかった。
 だから言葉の奥にある意味なんて考えた事がなく、薄っぺらい自覚はある。
 ならば本人に答えを教えてもらえばいい。
 考えるよりまず行動とばかりに、健斗は薮田に対し笑みを向けた。


「じゃあさ、ちーちゃんはなんて言われたら嬉しい?」


 ただ純粋に知りたい。
 何か打算があるとかでなく、どうしたら自分の気持ちを正しく伝えられるか真剣に後で考えるため。
 上手い、以外の表現をするための取っ掛かりが欲しいのだ。
 薮田にもその気持ちが伝わったのか、しばし考えた後に答えた。


「俺は……好きとか好みだ、とかのが嬉しいかな。もちろん上手いも嬉しいけど、全然俺が満足してねーから申し訳なさのがあるっつーか」


 その『満足していない』という言葉に健斗は深く納得し、現状に満足しきっていた自分を恥じた。
 自慢の顔の良さだって人口の少ない田舎だからもてはやされているだけで、きっと都会に行けば埋もれてしまう。
 健斗はそういうもの、と決めつけて身の程をわきまえていたつもりだった。
 しかし薮田のストイックな向上心に触れ、健斗もまだまだ頑張れる気がした。
 スキンケアとか運動とか栄養とか、考えようと思えば何でも浮かんだ。
 健斗が己の怠惰を自覚すると共に、とにかく薮田に今の気持ちを伝えたかった。


「ちーちゃんの真面目で努力家な所、めっちゃ好き!」
「絵の話はどこいった」
「絵は今まで以上に真剣に見てからちゃんとまとめて言葉にします!」
「お前も十分真面目じゃねーか」


 いつしか健斗は薮田を心から尊敬していた。
 健斗は生まれから環境からほとんど全てに恵まれていて、自ら努力して勝ち取ったものがほとんどなかった。
 薮田はひたむきに技術を磨き、努力で人気を勝ち取っている。
 そんな自分とは正反対な存在が気になって仕方が無かった。
 追いかけ、追い付きたい。
 これまで感じた事のない感情が健斗を支配していた。

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