正しい悪役令嬢の育て方

犬野派閥

文字の大きさ
上 下
21 / 106

第七話 キュロット・アドバリテ①

しおりを挟む
 キュロット・アドバリテはバルコニーにひとり佇み、静かな夜空を見上げていた。
 夜風はまだ少し冷たいが、時おり感じられる春の息吹が肌に心地よい。満天の星空も全てを許容するように優美で、明日から本格的に始まる学園生活を祝ってくれているようだ。

 けれど。キュロットの口から漏れるのは、弱々しいため息。
 その原因ははっきりしている。新入生挨拶を行っている際に投げかけられた、挑むような言葉が忘れられないのだ。

“……あんた、誰?”

 その発言をした人物のことは、後から人づてに聞いた。ローリント伯爵家のシエザ嬢だ。
 知的で少し冷ややかな印象を受ける外見をしていたが、彼女の片眼鏡の奥にあった眼差しは力強く、同い年とは思えぬほどの異彩を放っていた。
 侯爵家の令嬢ということもあり、社交界で人前に立つ機会も多かった自分が、たった一人の存在に思わず気圧されて言葉を失ってしまうほどに。

「いいえ。違いますわね」

 キュロットは独白し、頭を振る。
 自分が飲まれたのはシエザの発言が正鵠を射ていたからだ。

(わたくしはいったい誰なんでしょう……)

 新入生挨拶をしながら、そんな漠然とした思いは胸にあった。
 侯爵家令嬢としての所作。新入生代表としての言葉遣い。そういったものを淡々とこなしながら、それではここにいる自分は何なのか。キュロット・アドバリテがこの学園で成したいことは。伝えたい言葉は。いったいどこにあるのかと、そんなもやもやとした思いはあった。

「シエザさんには見透かされていたのでしょうか……」

とはいえ、シエザと会ったのは今日が初めてだ。会話をしたこともないというのに、あそこまで確信を持った物言いができるものなのだろうか。
 あれではまるで、ずっと昔からキュロットのことを知っており、誰よりも理解しているかのようだ。

「不思議な方。わたくしでさえ自分自身のことは何もわかりませんのに」

 でも、それも仕方のないことだと思う。
 侯爵家に生まれたからには、それ相応の振る舞いが求められる。何より自分はヒーシス王子の婚約者という立場にある。
 ヒーシス王子に好まれるように。
 未来の王妃として望まれるように。
 キュロットという個を極力薄め、誰のものとも知れない理想像を演じるうちに、自分の元の形すらわからなくなってしまったのだから。

 キュロットは手すりに両腕を載せ、そこに顔を埋めた。堪えきれず漏れるのは、微かに震える声。

「そうですわ。仕方のないことですもの」

 人知れず少しだけ泣いたなら、いつものキュロットに戻ろう。
 誰もが羨むような、非の打ち所のない、完璧なお人形になろう。
 それが自分の務めなのだから――

 と、その時だ。

「……仕方ないなんて、んなわけあるか!」

 驚いてハッと顔を上げた。すぐさま辺りを見渡すが、今しがた聞こえた声の主は見つからない。

(気のせい……?)

 そう考えながらも、なぜか確信めいた予感を抱いたキュロットは、そっとバルコニーから身を乗り出し、下を覗き込んだ。
 
しおりを挟む

処理中です...