九龍城砦奇譚

菰野るり

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九龍城砦

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 極彩色だったはずの洗濯物たちは、既に色褪せて風に吹かれている。5月といっても香港はうだる夏の匂いだ。夕暮れの微かに塩を含んだ生暖かい風。それでも室内よりは屋上の方が過ごしやすい。複雑に絡み合った九龍城砦の中は昼でも暗く、そして換気もわるい。扇風機では追いつかないほどに夜でも蒸し暑い。だから、まるで森のようにアンテナが林立する屋上が、アンディの一番のお気に入りの場所だった。

 日よけの壊れたパラソルの下のベンチが涼しいからではない。轟音をたてて、すぐそばの空港から飛び立つ飛行機が、アンディに外の世界を感じさせたからだ。暗い巣穴からモグラのように這い出てきては、こうやって、何処かへ飛び立つ飛行機を眺めては、いつか自分もここじゃない何処かへ行くのだと胸に刻み込んでいるのだ。それは将来への希望を失わない為に必要な行為だった。

 生まれてから十年間、ずっとこのゲート内で過ごしてきた。父は知らないが、多分自分が生まれる前にいなくなったし、母は生まれてすぐにいなくなった。知らないから恋しいとも思わない。周りの子供には親がいるが、端から見ていると、ずいぶん煩わしいように思う。特に女親は口喧しいものだ。それに比べると、アンディの育ての親は随分と放任であった。無責任ともいう。

 アンディの面倒を見ているのは、母の弟にあたる青年ジョニーだった。二十代後半にしては少し老けて見えるが、アンディを育てるのに苦労したというわけではなく、煙草と酒、不摂生によるものだろう。ジョニーはアンディの母を頼りに徒歩と泳ぎで密入国して城砦に住み着いたクチだ。本名は劉郭川リュウグオツァンというが、ここでは本名など何の意味もなさない。密入国など城砦には5万といる境遇、実際にここの2.7ヘクタール程度の土地に300ものペンシルビルが絡み合うように建ち、人口は実際に5万人ほどいる。香港の中で香港ではない場所、それがこの九龍城砦だ。

 アンディはまだ十歳だが、戸籍もなく中国人でも香港人でもない自分が、あの飛行機にのって何処かへ行ける状態にないのは分かっていた。パスポートもない。ただ、城砦内で作れないものはないので、パスポートも偽造できるだろうとは思っているが、ここではない何処かへいったところで、今の力では何者にもなれない事を悟っている。良い反面教師が、ジョニーだ。ジョニーは1962年の春に広東省から香港へ死に物狂いでわたってきた挙げ句、辿り着いたのがこの場所での堕落した生活なのだ。「あっちじゃこの世の地獄をみてきたけど、お前は知らねえまま生きてけ」と昔話はあんまりしてくれない。アンディはまだ子供だが、子供というのはよく見ているもので、大人が思っているよりもずっと、色々な事を分かっている。

ジョニーは何か傷が癒えていないまま、身体だけ大人になったのかもしれないとアンディは常々思っていた。現実逃避しているジョニーよりも遥かに日々を観察しているのはアンディに違いなかった。兎に角、アンディが観察する限り、ジョニーはその日暮らしもいい所の不真面目系クズの代表格である。

 まず、ジョニーはだらしない。好きなものはギャンブルで、麻雀を日がな一日打っている癖に、ちっとも強くない。酒も好きなようだが、そちらも強くない。そして好色だ。タチが悪い事にジョニーは、その筋肉質でしなやかな出で立ちと、いたずらっぽい黒い瞳、括られたまっすぐな黒髪、人懐っこい笑顔とお気楽な身上が女性を惹き付けるのは確かだった。そして彼は何故か、女の子には平等に親切に振る舞おうとする。来るもの拒まず。結果、数多くの女性が泣きを見る事になる。私だけがジョニーにとって特別と信じて貢いできた女たちに、最終的には罵られ、泣きわめかれるのに、本人はどうも懲りずにそういう振る舞いを繰り返している。

 アンディはジョニーに育てられたというより、その時ジョニーの世話を焼いていた女たちに育てられたので、その様を一番間近で体験していた。
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