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第三章 悪夢の始まり
月下美人
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1.平穏な時間
母の容態は、あれから安定した。杖こそ手放せなくなったが、団地の公園当番を私と一緒にこなせるほどに回復した。3代目愛犬(暴れん坊)を勝手に連れ出して散歩に出かけたときには慌てたりもしたが、眼科、歯科へはタクシーや父の運転する車を使わず、バスで通院することも可能になった。
買い物に連れて行くと、食べたいものを好きなだけカートに入れるのには閉口した。父や兄の運転で買い物に出掛けるときはいい。だが私と歩いて近所のスーパーに行くときに際限なく買われ、自転車の前後カゴと手摺に引っ掛けても持ち運べない量になることも、しばしば。母をスーパーのベンチに残して、自転車のカゴに詰めるだけの量を乗せて一旦帰宅し、そして母と残りの荷物を迎えに行かねばならなかった。
この頃、母に新たな楽しみが出きた。スーパーの近くに手打ち蕎麦屋がオープンしたのだ。父に昼食を食べさせたあと、母と2人で買い物に行くと言って出掛ける。買い物前に蕎麦屋に行くのが、母の楽しみとなっていた。
蕎麦は父の好物でもあるため、たまに家族で蕎麦屋へ行くこともあった。しかし、せっかちな父と一緒だと余韻を楽しむ間もなく、急かされながら蕎麦を食べるのが母には苦痛だったらしい。母が頼むのはいつも天ざるそば。私は気分に応じてメニューを変える。お気に入りは、夏場のメニューの辛味大根蕎麦で、鼻にツーンとくる辛味大根をつけ汁に溶かして食べる。母からは、
「何でそんな辛いものを、わざわざ食べたがるかねぇ?」
と言われたが、私は唐辛子系統の辛さ以外は、自宅の焼き肉にもワサビを乗せるほど好きだ。母はお寿司のワサビ以外は、基本的に辛さには弱かった。だがカレーはほどほどの辛さが必要で、中辛のルーを2種類配合して作っていた。
兄が地方の旅行でお土産に買ってきたレトルトカレーを食べたとき、家族全員が無言になった。カレーにあるまじき甘さだったのだ。それでもお土産目的のカレーは値段が高いため、私たちはカレー粉やソースを入れて苦心して完食した。
日常の穏やかな時間が過ぎていく。このままずっと続けばいいと思った。
…このときが、家族にとって最後の穏やかな時間だった。
2.苦難の幕開け
2013年、この年から我が家の苦難は始まった。
2月末、父は風邪を引いた。正確には変な咳を始めた。天敵先生クリニックへ連れて行くと、レントゲン画像から、普通ではない肺炎の疑いがあるという。そして父が通院する大学病院の呼吸器内科へ紹介状を書いた。この大学病院の呼吸器内科は、予約が取りづらい。だがこのときは、天敵先生が手を回して、大学病院の受診を可能にしたと記憶する。
3月2日、父は地元の大学病院の呼吸器内科を受診した。検査の結果、肺に水が溜まっており、炎症が酷いとのこと。肺がんの疑いを指摘された。発熱はなかった。
3月4日、地元の大学病院胸部外科を受診する。検査結果は、肺がんでは無さそうとのことだった。改めて検査して、後日受診で検査結果を出すという。
3月12日、地元の大学病院でいつもの内分泌内科受診後、胸部外科を父が受診。やはり手術の必要性はないと、呼吸器内科へ戻される。抗生物質点滴を受けて、帰宅。
3月16日、地元の大学病院消化器内科、父が受診。東京に観測史上最速の桜開花宣言が出た日で、ウグイスの初鳴きとスケジュール帳にはメモしてあった。
3月18日、地元の大学病院、父の以前患った大腸がんの定期検査。大腸内視鏡検査用の薬を飲みながら、呼吸器内科から再度戻された胸部外科を受診。
広い病院内を右から左へ、下痢腹をかかえての移動は辛かったと思う。大腸内視鏡検査では便の色も確認しなければならず、私が確認して色が消えたら看護師に再度確認してもらって大腸カメラ開始。再発がなかったので良かったが、父の便を確認するのは複雑だ。
3月27日、地元の大学病院、父の胃カメラ検査。その後で内分泌内科受診。
帰りに私は食堂名物のカツカレー、父はお気に入りのチャーシュー麺を食べた。それまで父は蕎麦一辺倒だったが、ある日私がチャーシュー麺を食べて「美味しい」と言ったら、以来、父の定番はチャーシュー麺醤油味になった。私は気分によってカツカレーかチャーシュー麺醤油味だった。父は、「たまには味噌味もいいな」と言って変えたことがあったが、感想は「醤油味のが美味い」だった。
ちなみに送迎でたまに協力してくれた兄は、バラエティーに飛んだランチメニュー一辺倒だったが、気まぐれに私の真似をしてカツカレーを頼んで以来、カツカレーオンリーになった。
4月8日。地元の大学病院、胸部外科で、父のレントゲンと血液検査を取った結果、胸の状態はかなり良くなっていた。抗生物質服薬が効いたのだ。ホッとした。
そして帰宅。だが休むまもなく、次の試練が待ち受けいた。特大クラスの爆弾が引火された。
3.原因不明の発疹
父の肺の状態が改善兆候との診断に、やっと一息つけると思ったとき、何気なく母の首に発疹を見つけた。背中を確認すると、発疹が広がっていた。数日のうちに顔→頭→腕→肩→足と全身に広がる。特に頭皮と腕の痒みが酷い
4月8日、たまたまお向かいの気の良い小母さんが、山菜のお裾分けをくれたとき、母の発疹について話した。すると森を開発した場所に、新しい眼科が出来て、皮膚科も併設しているとのこと。
その眼科兼皮膚科の午後の診察に間に合うよう、小母さんは旦那さんに車を出してもらって、午後の外来に付き添ってくれた。医師の診断は、「花粉によるアレルギー性蕁麻疹でしょう」とのことで、塗り薬が処方された。帰りは、小母さんの先導で、私と母とで近道で徒歩帰宅したのだが、車で送ってもらったときとは違い、自宅までの距離が驚くほど近かった。道は林の中の獣道だったけど。
塗り薬を試しても、発疹は治まるどころか、ますます全身に広がった。
4月9日 市内でも人気の皮膚科クリニックを受診した。人気なだけあって混雑していたが、診察は丁寧で痒みはとりあえず治まった。
4月18日 発疹は治まらない。この皮膚科に二度通った後、私はネットで調べ上げ、父の通院する地元の大学病院の皮膚科を受診させることにした。
本来、大学病院は紹介状がないと受診できない。だが皮膚科に関してのみ、紹介状なしの外来が許されていた。早速、地元の大学病院に問い合わせたところ、初診は予約を取らないとのこと。母も病院の通いにはウンザリしていたので、「今の皮膚科で充分」と病院に行くのを嫌がったが、これで最後にするからとなだめて、地元の大学病院の皮膚科を受診した。
4月17日、地元の大学病院皮膚科を母が受診。たまたまなのか、皮膚科の中でも一番腕のたつと評判の先生の診察を受けた。名医から、必要最低限の薬以外の処方を控えるよう、天敵先生宛に診療情報提供書が書かれた。
4月18日、名医(私のつけた異名)から、天敵先生クリニックの診療情報が欲しいと言われて、翌日の定期受診がてら、名医からの診療情報提供書を提出して、こちらからも名医宛の診療情報提供書を依頼した。天敵先生からは、「お母さんを連れ回して可哀想に」と皮肉を言われたが、湿疹の状態を見て、「やはりキチンと診てもらった方が良い」と言われた。どっちなんだ?
4月24日、地元の大学病院皮膚科、母が受診。母は小さいながらも試験管5本分の採血をされた。名医に天敵先生からの、診療情報提供書を提出もした。
5月1日、地元の大学病院皮膚科、母が受診。名医は、診療情報提供書と検査結果から、まだ確定ではないが、「皮膚筋炎」の疑いがあると言った。
膠原病の一種で、膠原病の中でもメジャーな部類の病気だった。詳しく皮膚筋炎に対する兆候を教えてくれた。確かに背中も酷いが、日光に当たる頭、顔、手足の湿疹が特に酷かった。名医は日光を極力避けるよう指示した。
今後も経過を逐一追うために、通院するよう言われた。検査も色々必要だった。
名医は凄かった。母の発疹は次第に落ち着いた。本当に、この先生は的確に初期段階で膠原病を疑っていて、それが正解だったのだ。しかし、連携する他の診療科の医師の協力が鈍かった。
5月15日、午前に母を皮膚科受診。受診後に連れ帰る。
午後は父の胸部外科とCT検査付き添いだった。母は受診後、院内で食事したいと言い出した。こっちは早く帰りたいのにと顔を引き攣らせながら、最近院内にオープンした大手コーヒーチェーン店のホットドッグとアイスコーヒーを注文する。母は喜んで食べた。最初は駄々をこねていた大学病院受診も、食堂のチャーシュー麺(父に自慢されて食べて虜に)やホットケーキ、なにより最近はお目にかかることも少なくなったクリームソーダにハマって、むしろ病院に行くのを楽しみにするようになった。院内で食事しないときも、途中帰路の蕎麦屋で定食セットを食べて満喫していた。
話は前後するが、5月はじめに3代目愛犬の狂犬病予防注射を行った。初代と2代目の愛犬は注射が苦手だったが、3代目は注射されても無反応。帰路のご褒美に唐揚げを買ってやると、喜んで食べた。今までの2匹は雑種だったが、この3代目愛犬だけは血統書付きの柴犬で、獣医併設のペットショップで購入した。そのため病院慣れしているのだろうと思われた。何故今回は血統書付きをわざわざ購入したのか、それは2代目愛犬の虹の橋を渡った経緯に、家族、特に父のペットロスが酷くて、雑種を探す余裕がなかったのだ。そしてバナナ(2代目愛犬)の49日が過ぎる間もなく、子犬を迎えた。
だが気が強くても扱いやすかったこの3代目愛犬が従順だったのも、東日本大震災が起こるまでだった。それまではふてぶてしいほどに泰然としていて、雷がなっても腹を出して寝ているほどだった。
だが震災後は一転して臆病になり、狂犬病予防注射も暴れ、犬の固定に苦労するようになった。友人からも「柴犬にあるまじき大きさ」と言われるほど、小型犬にはあり得ない体格、筋肉、そして柴犬特有の頑固さを持ち合わせていた。私は前日に母の大学病院受診を付き合って疲れていたせいか、その日の狂犬病予防注射の固定が甘かったようだ。園芸用の革手袋をしていたが、右手の親指を本気でガブリと噛まれた。手袋を外すと、爪から血が手で来た。獣医は慌てて薬と絆創膏をくれた。革手袋をしていなかったら、もっと酷いことになっていただろう。
「これはもう、アレを使うしかない」
獣医は、大先生を呼んだ。大先生は、私には初代愛犬から縁の深い先生だが、最近は若先生に診療の比重を置き、自分は趣味に走っているらしかった。大先生は、竹槍を持ってきた。そして竹槍の先に注射器を設置し、匠の技で、3代目愛犬の首元に注射を突き刺した。
この光景、某有名獣医漫画に登場する教授を彷彿とさせた。
「これからは、この方法で注射するから、事前に連絡してね」
大先生はそう言うと、竹槍担いで帰っていった。若先生は会計がてら、私の指を心配して人間用の医者にかかるよう言ったが、血は止まったし、多少ジンジンするが、骨に異常はない。それでも異変があったら、すぐ病院で診察してもらうよう忠告された。私の親指は変色したが、日常生活に支障はなかった。ちなみにこの日の唐揚げご褒美は、当然ながら無しだった。
5月20日、地元の大学病院で、父の肺炎の完治が告げられた。これで父の方は一段落ついた。
5月22日、地元の大学病院皮膚科の病理検査のため、母は皮膚を採取されて二針縫った。抗生物質の処方と1日2回の消毒を指示される。そして、高熱が出たら即入院と言われた。
5月30日、地元の大学病院で、母の胸と腹部と骨盤のCT検査。時間的に食堂が閉まっていたので、院内大手コーヒーチェーン店のホットドッグとアイスコーヒーを母は食べた。
翌日5月31日、地元の大学病院皮膚科で病理検査のときの抜糸が行われた。その後は消化器内科を受診。
6月4日、地元の大学病院で、母の胃の内視鏡検査が行われる。
6月5日、地元の大学病院内分泌内科、父の定期診察。この日は兄の運転する自家用車で向かった。
ところが皇室の誰かが通るということで、病院手前で通行止め。30分後に皇室の車が駆け抜けて、通行止め解除。たまたまだが、兄に送迎してもらって、この日は本当に助かった。
後続のバスは、通院や通学のための学生を乗せた満員のバスが連なっていたからだ。
まず診察前に採血が行われるが、採血室はガラガラ。採血専任の人達は「今日は患者さんが異様に少なくて」と言ったので、「まもなく大挙していらっしゃいますよ。皇室車で通行止めになっていたので」と言うと、採血室の人々は納得した。父の採血が終わる頃、外来患者で採血室は溢れかえった。この日は、院内食堂で食事して帰宅した。
6月7日、地元の大学病院、母の皮膚科受診。朝早かったので、受診後に大手コーヒーチェーン店のホットドッグ2本を母は美味しそうに平らげた。これ、いつもの母の定番なのだが、どうも店員さんには私が2本食べて、母がランク上のパンメニュー1つを食べていると思われている気がする。アイスコーヒーも母の定番であるが、私は体質的に外出時はコーヒーは飲めないため、いつも紅茶を頼んだ。
話は脱線するが、最近知ったのだが、私はコーラを飲むと肩が凝るのだが、友人にはあり得ない気のせいだと言われてきた。しかし同じ症状が出る人がいるのをテレビで知った。理由までは憶えていないが。
その後も、母の地元の大学病院通院は続いた。その間に母の眼科付き添い、私は疲労から副鼻腔炎が悪化して耳鼻科通院をしていた。しばし、家族は小康状態となった。
だが7月に入り、母にまたしても異変が起こった。最初は出先(大抵は父の通院付き添い)から電話しても出ないことだった。そしてテレビの音量が最大になって、家族みんなが文句を言っても、母はキョトンとしている。おかしいと思って耳元で大声で話しかけると、やっと言っていることを理解した。
私は母を、自分の通院している耳鼻科へ連れて行った。「老人性難聴ですね」と、診断された。先月まで普通に会話できたのに、これが本当に老人性難聴なのか?私は違和感を憶えた。それでも先生は、「高齢者にはよくあることです」と言った。
だが皮膚科主治医もやはり違和感を抱き、地元の大学病院院内の耳鼻科へ受診依頼をした。ただ耳鼻科は常駐医師がいなくなり、外部から医師を招聘しているため、なかなか予約が取れなかった。
そして8月末、やっと受診出来たわけだが、母への扱いも乱暴で、「老人性難聴以外のなにものでもない」と投げ捨てるように言われ、とても嫌な思いをした。来る必要ないと言われたが、コッチこそお断りだと母と2人で憤慨した。
父の通院付き添いをしながら、母を心配する。母の耳はどんどん悪化している。特に左耳はほとんど聴覚が機能していない。
改めて、通院先の耳鼻科医師に相談した。ちょうど私の副鼻腔炎が再び悪化していたので、来院の際に告げたのだ。医師は苦い顔をしながらも、膠原病の疑いがあるならと、地元の別の大学病院へ紹介状をその日のうちに書いてくれた。私はクリニックの目の前で、地元の別の大学病院へ携帯電話から連絡した。
だが病院に電話口で断られた。まず別の大学病院にかかっているのなら、そちらで診てもらえということだった。確かに通院している大学病院にも膠原病内科はある。だが常駐医師がいないため、新規患者を断っている状況だ。その状況を説明しても、こちらも新規を受け入れる余裕がないと断られたのである。
私は暑さと体調不良ででフラフラになりながら、とりあえず場所を駅ビルのベンチに移動した。移動中に考えたのは、地域の核となる、以前リウマチ科の転院を希望した大病院だった。しかしこちらも、「他の病院宛の紹介状は受け付けられません。当病院宛の紹介状を得てから、改めてご連絡ください」と断られた。
私は携帯電話でのネット検索をする。そしてヒットした都内の大学病院に、連絡する。これで駄目なら、皮膚科主治医に紹介状を頼み込むしかない。まず、病状と状況を電話受付嬢が聞いて、紹介状無しでも私費で五千円払えば受診は可能とのこと。だがまずは膠原病内科より、耳が聞こえない事態を解決するため、耳鼻科受診を勧められた。私はそれを了承し、「では翌日にでもいらしてください」と電話受付嬢は言った。
その病院は、都内の膠原病治療最先端大学病院だった。
一筋の光が見えた気がした。季節は9月も半ばに差し掛かっていた。
3.膠原病治療
翌日9月13日、自宅から2時間かけて、母を都内大学病院耳鼻科を受診させた。混雑していたが、成果はあった。
「鼓膜が変色して、内側に水が溜まっています。膠原病の疑いが濃厚なので、かかりつけ皮膚科主治医に膠原病内科宛の紹介状を書いてもらって、膠原病内科を受診してください」
丁寧な診察をしてくれた耳鼻科医は、そう告げた。
この日は朝早くから家を出て、受診が終わるまで時間が昼をまたいだ。私も母もフラフラだったので、病院最上階にある、お値段は高級だが展望の素晴らしいレストランで食事した。田舎の山は見慣れているが、都心を一望できるレストランの展望は素晴らしかった。母はスカイツリーを初めて見たと大喜びで、またその方角の浅草近くビール会社モニュメントに大笑いしていた。確かに、あのモニュメントには、小学校の遠足のとき、クラスメート皆で爆笑した。しかし、この場で母に大笑いされるのは、同席の私には気恥ずかしいものがあった。
9月18日、天敵先生クリニックを母が定期受診。血液検査とレントゲン検査。肺炎の疑いなし。CRPは上昇中。膠原病疑いがあるなら、早目に都内の大学病院へ受診しなさいと言われる。いや、もうそのつもりだったけど。今更、言うか?
9月19日、私は地元大学病院(正確には某大学系列病院)皮膚科の名医に事情を説明して、その日のうちに紹介状を書いてもらった。
そして帰宅後、都内の大学病院膠原病内科の予約を入れた。翌日には、私は副鼻腔炎治療がてら、事情を説明して、都内の大学病院耳鼻科医から診察データの提供を依頼されていることを告げた。かかりつけ医は早速、母のデータをコピーして大学病院耳鼻科医宛に封をした。
9月24日、耳鼻科クリニックのデータを持参して、予約した日に耳の聞こえない母を約2時間かけ、都内大学病院の膠原病内科を受診した。検査の結果は、やはり膠原病だった。ベッド空き次第、入院となった。
私は以前の消化器専門病院のリウマチ疑いを疎かにした自分を後悔した。
9月27日、都内の大学病院でCT検査が行われる。入院してすぐ治療が始められるように、先に出来る検査をしてしまおうとのことだった。帰りは東京駅経由で、奮発して特急かいじ(当時は自由席あり)で帰宅した。前日26日に、入院受付から9月30日の10時までに入院カウンターへ来るよう電話があった。
9月30日、都内の大学病院で、母の入院手続きを行った。
それで、「はい、役目終了」とはいかない。手続きを終えて病棟に向かい、談話室で病院看護師との面談、たくさんの書類にサイン。それから病室を案内されて、母を寝巻きに着替えさせると、看護師から「それでは、これら検査を受けてきてください」とリストを渡される。
グッ…やっぱり家族はここでも下僕要員か。レントゲン、心電図、採血、尿検査。検査場所が各階に分かれているのと、不慣れな場所のために移動も大変だ。母は車椅子移動だったから、歩く負担は少なかっただろうけど、検査ストレスは溜っていただろう。病棟に戻ると、母用の昼食がそれぞれの皿にプラスチックフタをされて用意されていた。母は遅い昼食を残さず平らげた。口に合う病院食で、本当に良かった。
私はその後、病棟医師から、検査と治療方針の説明を別室で受ける。どのタイプの膠原病かまず突き止めて、それに合った対処治療を行うという。私が病院を出たのは17時過ぎ。昼食を買う余裕もなかったのでフラフラだった。夕飯を作る気力がないので、東京駅に出て、父と兄と私の分の駅弁を購入。東京駅始発の電車に乗って爆睡したので、空腹は気にならなかった。
10月2日、母の見舞い。着替えと入院で足りないものを補充。割れないコップ、箸やスプーンなどは入院での持ち物に記載されていたので入院時に持参していたが、それらは使用後、談話室か病室の水道で、使用ごとに自分で洗うことになっている。洗剤とスポンジが必要だった。いや、談話室には洗剤とスポンジは共用があったのだが、母が自分用が欲しいと言ったのだ。
病棟医師の説明により、前日に造影剤入りCT検査を行ったのだが、点滴で右腕がそれで腫れたとのことだった。
病院へは1日置きに行く予定だった。そのため翌日は、冷蔵庫の作り置き食材を買いにスーパーへ出かけた。毎回夕飯を買っていたら破産する。少しでも節約せねばならない。交通費だって馬鹿にならないのだ。
スーパーで買い物終え、ホームセンターに立ち寄る。特に買いたいものは無かったが、植物コーナーの花に癒やされたくなったのだ。秋の球根の植え付け時期がきている。だがこの調子だと、球根を植え付ける余裕はないなと思った。
そして球根を見ると、必ず2代目愛犬バナナを思い出す。私が庭仕事をしているときは、バナナを庭に放していた。すると、お気に入りのおもちゃ、通称チョロギを私が球根やバラの植え替えをしようとす鉢の中にポトリと落とす。投げろという合図だ。無視していると。わたしの腕を前足でかく。投げる、鉢の中、投げる、鉢の中。これが延々繰り返される。
3代目愛犬もボール遊びは好きだが、私が作業しているときは近くに寝そべって、作業が一段落するのを待っていた。いや、家族から名前でなく『ワル』という愛称で呼ばれる3代目愛犬は別の意味で警戒が必要だった。2台目は虫を食べる悪食だったが、3代目はチューリップや百合の球根を目を離すと食べてしまうのだ。我が家で分球した小さなものならいい、本当はよくないけど。だが市販の球根には殺菌剤が使われているので、体に悪い。だから球根を植えるときは失敬されないよう注意を払う必要があった。
チューリップの球根の5個入ぐらい買って鉢に植え付けようかと考えていたとき、携帯電話が鳴った。都内の大学病院からだった。
「急ですが、ステロイドパルスをこれから行なうことが決定しました」
病棟担当医師からの報告だった。私はすぐに帰宅すると、冷蔵庫に食品を詰め、父には手短に事情を話して、取るものもとりあえず、家を飛び出した。
ステロイドパルスとは、点滴でステロイドを3日間注入する治療法だ。膠原病の本を買って読み漁っていたので、その治療法は知っていた。
ステロイドは劇的に効果があるという。その反面、肌が弱くなり、免疫力が低下する副作用もある。駆けつけたところで、何が出来るわけでもない。ただ怖がりな母が不安を感じてないか、それだけが気がかかりだった。
10月3日、私が都内の大学病院病棟に到着したとき、ステロイドパルスがまさに行われるところだった。病棟医は駆けつけた私に驚いていた。母は取り立てて不安を感じていないようだった。
10月4日、都内の大学病院へ父と面会に出かけた。付いてきたはいいが、父は退屈をもて余す。先に返したのは良いが、新宿で珍しい物がないかデパートを巡っているうちに、駅改札が分からなく迷子になったと、帰宅後に聞いて呆れた。
母は心配ないから、明日明後日は休みなさいと言った。確かに、私の副鼻腔炎が悪化する兆候の顔面の痛みが出始めていた。
10月7日。この日は午前中に風邪を引いた父を天敵先生クリニックへ連れていき、兄も風邪気味だからと会社を休んだ。
そして後から、自分もクリニックへ行くと言い出した。飛び込みで行っても、当日事前電話予約者が優先される。クリニックに電話をかけて予約を取り、何時頃に来院すれば良いが尋ね、その時間に、兄にクリニックへ行くよう指示した。私は風邪をひいてはいないが、鼻が悪化しつつあった。
だが母の状態が心配だったので、ロキソニンで痛みを抑え、午後は都内の大学病院へ向かった。
ステロイドパルスは、私の予想超えた劇的な効果をもたらした。3日間の点滴終了後、母の耳は通常状態に戻ったのだ。院内の耳鼻科での診察でも、溜っていた水が退き、鼓膜も通常に近い色に戻ったという。
「この病院に入院できて、本当に幸運だった」
私は心から思った。
翌日、私は耳鼻科に行き、副鼻腔炎の酷いときに行われる、針金の先に薬をつけた脱脂綿を両鼻から突っ込まれ、1分間放置の治療を受けた。これ、涙が出るほど染みるのだ。
母は検査が多くて、ゆっくりできないとぼやいていた。しかし栄養管理されていても、ご飯は美味しいと平らげていた。面会時間内に夕食は配膳される。私は母が食べ終えるのを見届けてから、帰路に向かう。母はいつも病室の出入り口まで見送りに来て、私の姿が見えなくなるまで見送っていた。
今回の入院は、母もしっかりしていたので、テレビ料金が勿体ない、有料制冷蔵庫も今は必要ないと、なるべくテレビカードを使わないようにしていた。冷蔵庫も、テレビカードで作動させるシステムだった。代わりに私が持っていった漫画を読んでいた。母の好みに合いそうな絵の、ハンサムなイギリス貴族が主人公の全4巻だった。
母に厳選してテレビを見たいからテレビガイドを買ってきて、ここへ来るときには家の読み古した新聞を持ってきてと頼まれた。
我が家では当時、新聞を2種類取っていた。大手新聞社とスポーツ新聞だ。東日本大震災が起こるまでは、少しマイナーな新聞をずっと続けていた。だが地方版の充実がメジャー新聞の方が詳しかったので、新聞を変えたのだ。父はメジャー新聞の方なら持っていってもいいと言った。野球や大相撲のテレビ観戦に、スポーツ新聞は必要だったのだ。我慢していてもワイドショー好きな母なので、芸能ネタだけ見て、あとの特集番組になるとはテレビを消した。
私の貸した漫画は、やはり母のツボにドハマリした。「〇〇様、恋愛に縁がないけど、それがまた格好いいのよね~」と、オタクネタを面会時間に話す。別の漫画をリクエストされたときには、正直、困った。私が持っている漫画は歴史モノか、ファンタジーホラー系が多かったのだ。母がドハマリした漫画家は、別の出版社で代表作を持っている。だがこれは、けっこーガチなホラー要素が入っているため、母が真夜中のトイレに行けなくなる可能性がある。健全ファンタジーや恋愛ものもあったが、たぶん母の好みには合わない絵なのは分かっていた。それでも、恋愛系統の漫画を見繕って持っていったら「面白くないし、絵も好きじゃない」とやはりダメ出しされた。「もっといい漫画ないの?」と言われたが、無い。歴史モノを持っていっても文句言われる。それでも退屈しのぎに仕方なく読んでいた。
夕方の某ローカルテレビ番組は、自宅はともかく、病室であまり見ないでほしかった。音声はイヤホンから漏れることはないが、たまに医師がカーテンを開けて入ってくるときに、下ネタ全開の番組を観ていられるのは気まずかった。まだ地方局への配信のないマイナーな時期だったため、番組も放送コード大丈夫なのかと心配になるほど、内容の品性がかなり問われるものだった。
相変わらず1日置きに都内の大学病院へ面会に通っていた。だが母の末の弟が面会に行くと言い出したので、2日連続で行く日もあった。
この日は10月にも関わらず暑かった。面会前にまず、好きなものを食べろと言われたが、真夏日だったこの日は食欲がなく、チョコレートパフェを食べた。叔父はビールを飲んだため、「臭いで注意されるよ」と言ったが、「マスクするから大丈夫だ」と返された。母は叔父の見舞いを喜んでいた。叔父も「今回は大丈夫そうだな」と安心して帰っていった。
10月17日、都内の大学病院で、容体が安定し来たことにより、退院の日が決められた。
その際に病棟医師から今後の治療内容の説明と共に、母の膠原病の種類を聞かされた。
「顕微鏡的多発血管炎」、「ウェゲナー肉芽腫」、「大血管炎」の混合型とのことだった。「顕微鏡的多発血管炎」は最近、難病指定されたので、難病保険証を申請すれば治療費が助成されるとアドバイスされた。また、この珍しい型の膠原病をぜひ研究に使いたいとのことで、恩返しを込めて、書類にサインした。
10月18日、さっそく市役所で住民票をとり、保健所に難病申請を行った。
退院の日取りが決まって気になったのは、母のベッドマットレスだ。かなり草臥れてきていた。それと免疫力低下しているので、空気清浄機が出来ればあった方がいいと医師から言われた。それで兄の運転で、家具店でマットレスの購入と古いものの引き取り料を支払い、家電店で空気清浄機を購入した。
この日は兄の誕生日だったので、兄の好きなファミレスで、ランチに好きなものをご馳走した。夜は焼き肉にした。
台風の影響を心配しつつも、1日置きの面会には出向いた。同時進行で母の帰宅準備。
安心のせいか、それとも疲労とストレスが蓄積しすぎたのか、寛解していたパニック障害が現れ始めた。電車に座ってても気分が悪くなって降りてしまう。
精神科クリニックにはもう数年行っていなかったので、頓服薬がない。受診して頓服薬を処方してもらいたいところだが、とにかくいまはやることが多すぎた。薬局で酔い止め薬を購入して飲んでも、具合が悪くなる。帰路は特急自由席を使うようにした。気持ち悪くなっても、トイレに駆け込めたからだ。
10月30日、都内の大学病院を母は退院した。荷物は宅急便で送り、母の介助をしながら電車に乗って、最寄り駅からはタクシーで帰宅した。
久々の我が家に、母は感激した。
やはり病室は他人の目や、検査が多くてゆっくりできず、落ち着かなかったという。
なにより大好きなテレビ番組を消灯時間を気にせず、好きなだけ見れる自宅は、母からしたら天国のようなものだった。
唯一、母が不満だったのは、父の部屋の入口を占拠して寝ている3代目愛犬が、吠えかかりはしないが、「ふーん、帰ってきたか」という感じて、寝そべったまま愛想の1つも見せなかったことだろう。
母の診療データは、母の死去後の引っ越しの際に全て処分したと思われた。しかし闘病記を書くにあたって、後日、一番辛い経過ノートを探した。
これだけは処分できなかった。探しているときに、偶然、都内の大学病院データの一部が出てきた。全て処分したと思ったが、膠原病発症時のデータだけは一部残していたらしい。
以下の経過データ表を貰ったのが退院時か、次回の外来かは分からない。
PR3-ANCA、MPO-ANCA、いずれもリウマチ反応が強いときに現れる。基準値は、3.5以下。
2013年9月13日、PR3-ANCA 7.2、
MPO-ANCA 33.6
2013年9月30日、PR3-ANCA 4.5、
MPO-ANCA 33.5
2013年10月15日、PR3-ANCA 2.1(基準値)、
MPO-ANCA 4.8
2013年10月28日、PR3-ANCA 1.0(基準値)、
MPO-ANCA 2.8(基準値)
母の容態は、あれから安定した。杖こそ手放せなくなったが、団地の公園当番を私と一緒にこなせるほどに回復した。3代目愛犬(暴れん坊)を勝手に連れ出して散歩に出かけたときには慌てたりもしたが、眼科、歯科へはタクシーや父の運転する車を使わず、バスで通院することも可能になった。
買い物に連れて行くと、食べたいものを好きなだけカートに入れるのには閉口した。父や兄の運転で買い物に出掛けるときはいい。だが私と歩いて近所のスーパーに行くときに際限なく買われ、自転車の前後カゴと手摺に引っ掛けても持ち運べない量になることも、しばしば。母をスーパーのベンチに残して、自転車のカゴに詰めるだけの量を乗せて一旦帰宅し、そして母と残りの荷物を迎えに行かねばならなかった。
この頃、母に新たな楽しみが出きた。スーパーの近くに手打ち蕎麦屋がオープンしたのだ。父に昼食を食べさせたあと、母と2人で買い物に行くと言って出掛ける。買い物前に蕎麦屋に行くのが、母の楽しみとなっていた。
蕎麦は父の好物でもあるため、たまに家族で蕎麦屋へ行くこともあった。しかし、せっかちな父と一緒だと余韻を楽しむ間もなく、急かされながら蕎麦を食べるのが母には苦痛だったらしい。母が頼むのはいつも天ざるそば。私は気分に応じてメニューを変える。お気に入りは、夏場のメニューの辛味大根蕎麦で、鼻にツーンとくる辛味大根をつけ汁に溶かして食べる。母からは、
「何でそんな辛いものを、わざわざ食べたがるかねぇ?」
と言われたが、私は唐辛子系統の辛さ以外は、自宅の焼き肉にもワサビを乗せるほど好きだ。母はお寿司のワサビ以外は、基本的に辛さには弱かった。だがカレーはほどほどの辛さが必要で、中辛のルーを2種類配合して作っていた。
兄が地方の旅行でお土産に買ってきたレトルトカレーを食べたとき、家族全員が無言になった。カレーにあるまじき甘さだったのだ。それでもお土産目的のカレーは値段が高いため、私たちはカレー粉やソースを入れて苦心して完食した。
日常の穏やかな時間が過ぎていく。このままずっと続けばいいと思った。
…このときが、家族にとって最後の穏やかな時間だった。
2.苦難の幕開け
2013年、この年から我が家の苦難は始まった。
2月末、父は風邪を引いた。正確には変な咳を始めた。天敵先生クリニックへ連れて行くと、レントゲン画像から、普通ではない肺炎の疑いがあるという。そして父が通院する大学病院の呼吸器内科へ紹介状を書いた。この大学病院の呼吸器内科は、予約が取りづらい。だがこのときは、天敵先生が手を回して、大学病院の受診を可能にしたと記憶する。
3月2日、父は地元の大学病院の呼吸器内科を受診した。検査の結果、肺に水が溜まっており、炎症が酷いとのこと。肺がんの疑いを指摘された。発熱はなかった。
3月4日、地元の大学病院胸部外科を受診する。検査結果は、肺がんでは無さそうとのことだった。改めて検査して、後日受診で検査結果を出すという。
3月12日、地元の大学病院でいつもの内分泌内科受診後、胸部外科を父が受診。やはり手術の必要性はないと、呼吸器内科へ戻される。抗生物質点滴を受けて、帰宅。
3月16日、地元の大学病院消化器内科、父が受診。東京に観測史上最速の桜開花宣言が出た日で、ウグイスの初鳴きとスケジュール帳にはメモしてあった。
3月18日、地元の大学病院、父の以前患った大腸がんの定期検査。大腸内視鏡検査用の薬を飲みながら、呼吸器内科から再度戻された胸部外科を受診。
広い病院内を右から左へ、下痢腹をかかえての移動は辛かったと思う。大腸内視鏡検査では便の色も確認しなければならず、私が確認して色が消えたら看護師に再度確認してもらって大腸カメラ開始。再発がなかったので良かったが、父の便を確認するのは複雑だ。
3月27日、地元の大学病院、父の胃カメラ検査。その後で内分泌内科受診。
帰りに私は食堂名物のカツカレー、父はお気に入りのチャーシュー麺を食べた。それまで父は蕎麦一辺倒だったが、ある日私がチャーシュー麺を食べて「美味しい」と言ったら、以来、父の定番はチャーシュー麺醤油味になった。私は気分によってカツカレーかチャーシュー麺醤油味だった。父は、「たまには味噌味もいいな」と言って変えたことがあったが、感想は「醤油味のが美味い」だった。
ちなみに送迎でたまに協力してくれた兄は、バラエティーに飛んだランチメニュー一辺倒だったが、気まぐれに私の真似をしてカツカレーを頼んで以来、カツカレーオンリーになった。
4月8日。地元の大学病院、胸部外科で、父のレントゲンと血液検査を取った結果、胸の状態はかなり良くなっていた。抗生物質服薬が効いたのだ。ホッとした。
そして帰宅。だが休むまもなく、次の試練が待ち受けいた。特大クラスの爆弾が引火された。
3.原因不明の発疹
父の肺の状態が改善兆候との診断に、やっと一息つけると思ったとき、何気なく母の首に発疹を見つけた。背中を確認すると、発疹が広がっていた。数日のうちに顔→頭→腕→肩→足と全身に広がる。特に頭皮と腕の痒みが酷い
4月8日、たまたまお向かいの気の良い小母さんが、山菜のお裾分けをくれたとき、母の発疹について話した。すると森を開発した場所に、新しい眼科が出来て、皮膚科も併設しているとのこと。
その眼科兼皮膚科の午後の診察に間に合うよう、小母さんは旦那さんに車を出してもらって、午後の外来に付き添ってくれた。医師の診断は、「花粉によるアレルギー性蕁麻疹でしょう」とのことで、塗り薬が処方された。帰りは、小母さんの先導で、私と母とで近道で徒歩帰宅したのだが、車で送ってもらったときとは違い、自宅までの距離が驚くほど近かった。道は林の中の獣道だったけど。
塗り薬を試しても、発疹は治まるどころか、ますます全身に広がった。
4月9日 市内でも人気の皮膚科クリニックを受診した。人気なだけあって混雑していたが、診察は丁寧で痒みはとりあえず治まった。
4月18日 発疹は治まらない。この皮膚科に二度通った後、私はネットで調べ上げ、父の通院する地元の大学病院の皮膚科を受診させることにした。
本来、大学病院は紹介状がないと受診できない。だが皮膚科に関してのみ、紹介状なしの外来が許されていた。早速、地元の大学病院に問い合わせたところ、初診は予約を取らないとのこと。母も病院の通いにはウンザリしていたので、「今の皮膚科で充分」と病院に行くのを嫌がったが、これで最後にするからとなだめて、地元の大学病院の皮膚科を受診した。
4月17日、地元の大学病院皮膚科を母が受診。たまたまなのか、皮膚科の中でも一番腕のたつと評判の先生の診察を受けた。名医から、必要最低限の薬以外の処方を控えるよう、天敵先生宛に診療情報提供書が書かれた。
4月18日、名医(私のつけた異名)から、天敵先生クリニックの診療情報が欲しいと言われて、翌日の定期受診がてら、名医からの診療情報提供書を提出して、こちらからも名医宛の診療情報提供書を依頼した。天敵先生からは、「お母さんを連れ回して可哀想に」と皮肉を言われたが、湿疹の状態を見て、「やはりキチンと診てもらった方が良い」と言われた。どっちなんだ?
4月24日、地元の大学病院皮膚科、母が受診。母は小さいながらも試験管5本分の採血をされた。名医に天敵先生からの、診療情報提供書を提出もした。
5月1日、地元の大学病院皮膚科、母が受診。名医は、診療情報提供書と検査結果から、まだ確定ではないが、「皮膚筋炎」の疑いがあると言った。
膠原病の一種で、膠原病の中でもメジャーな部類の病気だった。詳しく皮膚筋炎に対する兆候を教えてくれた。確かに背中も酷いが、日光に当たる頭、顔、手足の湿疹が特に酷かった。名医は日光を極力避けるよう指示した。
今後も経過を逐一追うために、通院するよう言われた。検査も色々必要だった。
名医は凄かった。母の発疹は次第に落ち着いた。本当に、この先生は的確に初期段階で膠原病を疑っていて、それが正解だったのだ。しかし、連携する他の診療科の医師の協力が鈍かった。
5月15日、午前に母を皮膚科受診。受診後に連れ帰る。
午後は父の胸部外科とCT検査付き添いだった。母は受診後、院内で食事したいと言い出した。こっちは早く帰りたいのにと顔を引き攣らせながら、最近院内にオープンした大手コーヒーチェーン店のホットドッグとアイスコーヒーを注文する。母は喜んで食べた。最初は駄々をこねていた大学病院受診も、食堂のチャーシュー麺(父に自慢されて食べて虜に)やホットケーキ、なにより最近はお目にかかることも少なくなったクリームソーダにハマって、むしろ病院に行くのを楽しみにするようになった。院内で食事しないときも、途中帰路の蕎麦屋で定食セットを食べて満喫していた。
話は前後するが、5月はじめに3代目愛犬の狂犬病予防注射を行った。初代と2代目の愛犬は注射が苦手だったが、3代目は注射されても無反応。帰路のご褒美に唐揚げを買ってやると、喜んで食べた。今までの2匹は雑種だったが、この3代目愛犬だけは血統書付きの柴犬で、獣医併設のペットショップで購入した。そのため病院慣れしているのだろうと思われた。何故今回は血統書付きをわざわざ購入したのか、それは2代目愛犬の虹の橋を渡った経緯に、家族、特に父のペットロスが酷くて、雑種を探す余裕がなかったのだ。そしてバナナ(2代目愛犬)の49日が過ぎる間もなく、子犬を迎えた。
だが気が強くても扱いやすかったこの3代目愛犬が従順だったのも、東日本大震災が起こるまでだった。それまではふてぶてしいほどに泰然としていて、雷がなっても腹を出して寝ているほどだった。
だが震災後は一転して臆病になり、狂犬病予防注射も暴れ、犬の固定に苦労するようになった。友人からも「柴犬にあるまじき大きさ」と言われるほど、小型犬にはあり得ない体格、筋肉、そして柴犬特有の頑固さを持ち合わせていた。私は前日に母の大学病院受診を付き合って疲れていたせいか、その日の狂犬病予防注射の固定が甘かったようだ。園芸用の革手袋をしていたが、右手の親指を本気でガブリと噛まれた。手袋を外すと、爪から血が手で来た。獣医は慌てて薬と絆創膏をくれた。革手袋をしていなかったら、もっと酷いことになっていただろう。
「これはもう、アレを使うしかない」
獣医は、大先生を呼んだ。大先生は、私には初代愛犬から縁の深い先生だが、最近は若先生に診療の比重を置き、自分は趣味に走っているらしかった。大先生は、竹槍を持ってきた。そして竹槍の先に注射器を設置し、匠の技で、3代目愛犬の首元に注射を突き刺した。
この光景、某有名獣医漫画に登場する教授を彷彿とさせた。
「これからは、この方法で注射するから、事前に連絡してね」
大先生はそう言うと、竹槍担いで帰っていった。若先生は会計がてら、私の指を心配して人間用の医者にかかるよう言ったが、血は止まったし、多少ジンジンするが、骨に異常はない。それでも異変があったら、すぐ病院で診察してもらうよう忠告された。私の親指は変色したが、日常生活に支障はなかった。ちなみにこの日の唐揚げご褒美は、当然ながら無しだった。
5月20日、地元の大学病院で、父の肺炎の完治が告げられた。これで父の方は一段落ついた。
5月22日、地元の大学病院皮膚科の病理検査のため、母は皮膚を採取されて二針縫った。抗生物質の処方と1日2回の消毒を指示される。そして、高熱が出たら即入院と言われた。
5月30日、地元の大学病院で、母の胸と腹部と骨盤のCT検査。時間的に食堂が閉まっていたので、院内大手コーヒーチェーン店のホットドッグとアイスコーヒーを母は食べた。
翌日5月31日、地元の大学病院皮膚科で病理検査のときの抜糸が行われた。その後は消化器内科を受診。
6月4日、地元の大学病院で、母の胃の内視鏡検査が行われる。
6月5日、地元の大学病院内分泌内科、父の定期診察。この日は兄の運転する自家用車で向かった。
ところが皇室の誰かが通るということで、病院手前で通行止め。30分後に皇室の車が駆け抜けて、通行止め解除。たまたまだが、兄に送迎してもらって、この日は本当に助かった。
後続のバスは、通院や通学のための学生を乗せた満員のバスが連なっていたからだ。
まず診察前に採血が行われるが、採血室はガラガラ。採血専任の人達は「今日は患者さんが異様に少なくて」と言ったので、「まもなく大挙していらっしゃいますよ。皇室車で通行止めになっていたので」と言うと、採血室の人々は納得した。父の採血が終わる頃、外来患者で採血室は溢れかえった。この日は、院内食堂で食事して帰宅した。
6月7日、地元の大学病院、母の皮膚科受診。朝早かったので、受診後に大手コーヒーチェーン店のホットドッグ2本を母は美味しそうに平らげた。これ、いつもの母の定番なのだが、どうも店員さんには私が2本食べて、母がランク上のパンメニュー1つを食べていると思われている気がする。アイスコーヒーも母の定番であるが、私は体質的に外出時はコーヒーは飲めないため、いつも紅茶を頼んだ。
話は脱線するが、最近知ったのだが、私はコーラを飲むと肩が凝るのだが、友人にはあり得ない気のせいだと言われてきた。しかし同じ症状が出る人がいるのをテレビで知った。理由までは憶えていないが。
その後も、母の地元の大学病院通院は続いた。その間に母の眼科付き添い、私は疲労から副鼻腔炎が悪化して耳鼻科通院をしていた。しばし、家族は小康状態となった。
だが7月に入り、母にまたしても異変が起こった。最初は出先(大抵は父の通院付き添い)から電話しても出ないことだった。そしてテレビの音量が最大になって、家族みんなが文句を言っても、母はキョトンとしている。おかしいと思って耳元で大声で話しかけると、やっと言っていることを理解した。
私は母を、自分の通院している耳鼻科へ連れて行った。「老人性難聴ですね」と、診断された。先月まで普通に会話できたのに、これが本当に老人性難聴なのか?私は違和感を憶えた。それでも先生は、「高齢者にはよくあることです」と言った。
だが皮膚科主治医もやはり違和感を抱き、地元の大学病院院内の耳鼻科へ受診依頼をした。ただ耳鼻科は常駐医師がいなくなり、外部から医師を招聘しているため、なかなか予約が取れなかった。
そして8月末、やっと受診出来たわけだが、母への扱いも乱暴で、「老人性難聴以外のなにものでもない」と投げ捨てるように言われ、とても嫌な思いをした。来る必要ないと言われたが、コッチこそお断りだと母と2人で憤慨した。
父の通院付き添いをしながら、母を心配する。母の耳はどんどん悪化している。特に左耳はほとんど聴覚が機能していない。
改めて、通院先の耳鼻科医師に相談した。ちょうど私の副鼻腔炎が再び悪化していたので、来院の際に告げたのだ。医師は苦い顔をしながらも、膠原病の疑いがあるならと、地元の別の大学病院へ紹介状をその日のうちに書いてくれた。私はクリニックの目の前で、地元の別の大学病院へ携帯電話から連絡した。
だが病院に電話口で断られた。まず別の大学病院にかかっているのなら、そちらで診てもらえということだった。確かに通院している大学病院にも膠原病内科はある。だが常駐医師がいないため、新規患者を断っている状況だ。その状況を説明しても、こちらも新規を受け入れる余裕がないと断られたのである。
私は暑さと体調不良ででフラフラになりながら、とりあえず場所を駅ビルのベンチに移動した。移動中に考えたのは、地域の核となる、以前リウマチ科の転院を希望した大病院だった。しかしこちらも、「他の病院宛の紹介状は受け付けられません。当病院宛の紹介状を得てから、改めてご連絡ください」と断られた。
私は携帯電話でのネット検索をする。そしてヒットした都内の大学病院に、連絡する。これで駄目なら、皮膚科主治医に紹介状を頼み込むしかない。まず、病状と状況を電話受付嬢が聞いて、紹介状無しでも私費で五千円払えば受診は可能とのこと。だがまずは膠原病内科より、耳が聞こえない事態を解決するため、耳鼻科受診を勧められた。私はそれを了承し、「では翌日にでもいらしてください」と電話受付嬢は言った。
その病院は、都内の膠原病治療最先端大学病院だった。
一筋の光が見えた気がした。季節は9月も半ばに差し掛かっていた。
3.膠原病治療
翌日9月13日、自宅から2時間かけて、母を都内大学病院耳鼻科を受診させた。混雑していたが、成果はあった。
「鼓膜が変色して、内側に水が溜まっています。膠原病の疑いが濃厚なので、かかりつけ皮膚科主治医に膠原病内科宛の紹介状を書いてもらって、膠原病内科を受診してください」
丁寧な診察をしてくれた耳鼻科医は、そう告げた。
この日は朝早くから家を出て、受診が終わるまで時間が昼をまたいだ。私も母もフラフラだったので、病院最上階にある、お値段は高級だが展望の素晴らしいレストランで食事した。田舎の山は見慣れているが、都心を一望できるレストランの展望は素晴らしかった。母はスカイツリーを初めて見たと大喜びで、またその方角の浅草近くビール会社モニュメントに大笑いしていた。確かに、あのモニュメントには、小学校の遠足のとき、クラスメート皆で爆笑した。しかし、この場で母に大笑いされるのは、同席の私には気恥ずかしいものがあった。
9月18日、天敵先生クリニックを母が定期受診。血液検査とレントゲン検査。肺炎の疑いなし。CRPは上昇中。膠原病疑いがあるなら、早目に都内の大学病院へ受診しなさいと言われる。いや、もうそのつもりだったけど。今更、言うか?
9月19日、私は地元大学病院(正確には某大学系列病院)皮膚科の名医に事情を説明して、その日のうちに紹介状を書いてもらった。
そして帰宅後、都内の大学病院膠原病内科の予約を入れた。翌日には、私は副鼻腔炎治療がてら、事情を説明して、都内の大学病院耳鼻科医から診察データの提供を依頼されていることを告げた。かかりつけ医は早速、母のデータをコピーして大学病院耳鼻科医宛に封をした。
9月24日、耳鼻科クリニックのデータを持参して、予約した日に耳の聞こえない母を約2時間かけ、都内大学病院の膠原病内科を受診した。検査の結果は、やはり膠原病だった。ベッド空き次第、入院となった。
私は以前の消化器専門病院のリウマチ疑いを疎かにした自分を後悔した。
9月27日、都内の大学病院でCT検査が行われる。入院してすぐ治療が始められるように、先に出来る検査をしてしまおうとのことだった。帰りは東京駅経由で、奮発して特急かいじ(当時は自由席あり)で帰宅した。前日26日に、入院受付から9月30日の10時までに入院カウンターへ来るよう電話があった。
9月30日、都内の大学病院で、母の入院手続きを行った。
それで、「はい、役目終了」とはいかない。手続きを終えて病棟に向かい、談話室で病院看護師との面談、たくさんの書類にサイン。それから病室を案内されて、母を寝巻きに着替えさせると、看護師から「それでは、これら検査を受けてきてください」とリストを渡される。
グッ…やっぱり家族はここでも下僕要員か。レントゲン、心電図、採血、尿検査。検査場所が各階に分かれているのと、不慣れな場所のために移動も大変だ。母は車椅子移動だったから、歩く負担は少なかっただろうけど、検査ストレスは溜っていただろう。病棟に戻ると、母用の昼食がそれぞれの皿にプラスチックフタをされて用意されていた。母は遅い昼食を残さず平らげた。口に合う病院食で、本当に良かった。
私はその後、病棟医師から、検査と治療方針の説明を別室で受ける。どのタイプの膠原病かまず突き止めて、それに合った対処治療を行うという。私が病院を出たのは17時過ぎ。昼食を買う余裕もなかったのでフラフラだった。夕飯を作る気力がないので、東京駅に出て、父と兄と私の分の駅弁を購入。東京駅始発の電車に乗って爆睡したので、空腹は気にならなかった。
10月2日、母の見舞い。着替えと入院で足りないものを補充。割れないコップ、箸やスプーンなどは入院での持ち物に記載されていたので入院時に持参していたが、それらは使用後、談話室か病室の水道で、使用ごとに自分で洗うことになっている。洗剤とスポンジが必要だった。いや、談話室には洗剤とスポンジは共用があったのだが、母が自分用が欲しいと言ったのだ。
病棟医師の説明により、前日に造影剤入りCT検査を行ったのだが、点滴で右腕がそれで腫れたとのことだった。
病院へは1日置きに行く予定だった。そのため翌日は、冷蔵庫の作り置き食材を買いにスーパーへ出かけた。毎回夕飯を買っていたら破産する。少しでも節約せねばならない。交通費だって馬鹿にならないのだ。
スーパーで買い物終え、ホームセンターに立ち寄る。特に買いたいものは無かったが、植物コーナーの花に癒やされたくなったのだ。秋の球根の植え付け時期がきている。だがこの調子だと、球根を植え付ける余裕はないなと思った。
そして球根を見ると、必ず2代目愛犬バナナを思い出す。私が庭仕事をしているときは、バナナを庭に放していた。すると、お気に入りのおもちゃ、通称チョロギを私が球根やバラの植え替えをしようとす鉢の中にポトリと落とす。投げろという合図だ。無視していると。わたしの腕を前足でかく。投げる、鉢の中、投げる、鉢の中。これが延々繰り返される。
3代目愛犬もボール遊びは好きだが、私が作業しているときは近くに寝そべって、作業が一段落するのを待っていた。いや、家族から名前でなく『ワル』という愛称で呼ばれる3代目愛犬は別の意味で警戒が必要だった。2台目は虫を食べる悪食だったが、3代目はチューリップや百合の球根を目を離すと食べてしまうのだ。我が家で分球した小さなものならいい、本当はよくないけど。だが市販の球根には殺菌剤が使われているので、体に悪い。だから球根を植えるときは失敬されないよう注意を払う必要があった。
チューリップの球根の5個入ぐらい買って鉢に植え付けようかと考えていたとき、携帯電話が鳴った。都内の大学病院からだった。
「急ですが、ステロイドパルスをこれから行なうことが決定しました」
病棟担当医師からの報告だった。私はすぐに帰宅すると、冷蔵庫に食品を詰め、父には手短に事情を話して、取るものもとりあえず、家を飛び出した。
ステロイドパルスとは、点滴でステロイドを3日間注入する治療法だ。膠原病の本を買って読み漁っていたので、その治療法は知っていた。
ステロイドは劇的に効果があるという。その反面、肌が弱くなり、免疫力が低下する副作用もある。駆けつけたところで、何が出来るわけでもない。ただ怖がりな母が不安を感じてないか、それだけが気がかかりだった。
10月3日、私が都内の大学病院病棟に到着したとき、ステロイドパルスがまさに行われるところだった。病棟医は駆けつけた私に驚いていた。母は取り立てて不安を感じていないようだった。
10月4日、都内の大学病院へ父と面会に出かけた。付いてきたはいいが、父は退屈をもて余す。先に返したのは良いが、新宿で珍しい物がないかデパートを巡っているうちに、駅改札が分からなく迷子になったと、帰宅後に聞いて呆れた。
母は心配ないから、明日明後日は休みなさいと言った。確かに、私の副鼻腔炎が悪化する兆候の顔面の痛みが出始めていた。
10月7日。この日は午前中に風邪を引いた父を天敵先生クリニックへ連れていき、兄も風邪気味だからと会社を休んだ。
そして後から、自分もクリニックへ行くと言い出した。飛び込みで行っても、当日事前電話予約者が優先される。クリニックに電話をかけて予約を取り、何時頃に来院すれば良いが尋ね、その時間に、兄にクリニックへ行くよう指示した。私は風邪をひいてはいないが、鼻が悪化しつつあった。
だが母の状態が心配だったので、ロキソニンで痛みを抑え、午後は都内の大学病院へ向かった。
ステロイドパルスは、私の予想超えた劇的な効果をもたらした。3日間の点滴終了後、母の耳は通常状態に戻ったのだ。院内の耳鼻科での診察でも、溜っていた水が退き、鼓膜も通常に近い色に戻ったという。
「この病院に入院できて、本当に幸運だった」
私は心から思った。
翌日、私は耳鼻科に行き、副鼻腔炎の酷いときに行われる、針金の先に薬をつけた脱脂綿を両鼻から突っ込まれ、1分間放置の治療を受けた。これ、涙が出るほど染みるのだ。
母は検査が多くて、ゆっくりできないとぼやいていた。しかし栄養管理されていても、ご飯は美味しいと平らげていた。面会時間内に夕食は配膳される。私は母が食べ終えるのを見届けてから、帰路に向かう。母はいつも病室の出入り口まで見送りに来て、私の姿が見えなくなるまで見送っていた。
今回の入院は、母もしっかりしていたので、テレビ料金が勿体ない、有料制冷蔵庫も今は必要ないと、なるべくテレビカードを使わないようにしていた。冷蔵庫も、テレビカードで作動させるシステムだった。代わりに私が持っていった漫画を読んでいた。母の好みに合いそうな絵の、ハンサムなイギリス貴族が主人公の全4巻だった。
母に厳選してテレビを見たいからテレビガイドを買ってきて、ここへ来るときには家の読み古した新聞を持ってきてと頼まれた。
我が家では当時、新聞を2種類取っていた。大手新聞社とスポーツ新聞だ。東日本大震災が起こるまでは、少しマイナーな新聞をずっと続けていた。だが地方版の充実がメジャー新聞の方が詳しかったので、新聞を変えたのだ。父はメジャー新聞の方なら持っていってもいいと言った。野球や大相撲のテレビ観戦に、スポーツ新聞は必要だったのだ。我慢していてもワイドショー好きな母なので、芸能ネタだけ見て、あとの特集番組になるとはテレビを消した。
私の貸した漫画は、やはり母のツボにドハマリした。「〇〇様、恋愛に縁がないけど、それがまた格好いいのよね~」と、オタクネタを面会時間に話す。別の漫画をリクエストされたときには、正直、困った。私が持っている漫画は歴史モノか、ファンタジーホラー系が多かったのだ。母がドハマリした漫画家は、別の出版社で代表作を持っている。だがこれは、けっこーガチなホラー要素が入っているため、母が真夜中のトイレに行けなくなる可能性がある。健全ファンタジーや恋愛ものもあったが、たぶん母の好みには合わない絵なのは分かっていた。それでも、恋愛系統の漫画を見繕って持っていったら「面白くないし、絵も好きじゃない」とやはりダメ出しされた。「もっといい漫画ないの?」と言われたが、無い。歴史モノを持っていっても文句言われる。それでも退屈しのぎに仕方なく読んでいた。
夕方の某ローカルテレビ番組は、自宅はともかく、病室であまり見ないでほしかった。音声はイヤホンから漏れることはないが、たまに医師がカーテンを開けて入ってくるときに、下ネタ全開の番組を観ていられるのは気まずかった。まだ地方局への配信のないマイナーな時期だったため、番組も放送コード大丈夫なのかと心配になるほど、内容の品性がかなり問われるものだった。
相変わらず1日置きに都内の大学病院へ面会に通っていた。だが母の末の弟が面会に行くと言い出したので、2日連続で行く日もあった。
この日は10月にも関わらず暑かった。面会前にまず、好きなものを食べろと言われたが、真夏日だったこの日は食欲がなく、チョコレートパフェを食べた。叔父はビールを飲んだため、「臭いで注意されるよ」と言ったが、「マスクするから大丈夫だ」と返された。母は叔父の見舞いを喜んでいた。叔父も「今回は大丈夫そうだな」と安心して帰っていった。
10月17日、都内の大学病院で、容体が安定し来たことにより、退院の日が決められた。
その際に病棟医師から今後の治療内容の説明と共に、母の膠原病の種類を聞かされた。
「顕微鏡的多発血管炎」、「ウェゲナー肉芽腫」、「大血管炎」の混合型とのことだった。「顕微鏡的多発血管炎」は最近、難病指定されたので、難病保険証を申請すれば治療費が助成されるとアドバイスされた。また、この珍しい型の膠原病をぜひ研究に使いたいとのことで、恩返しを込めて、書類にサインした。
10月18日、さっそく市役所で住民票をとり、保健所に難病申請を行った。
退院の日取りが決まって気になったのは、母のベッドマットレスだ。かなり草臥れてきていた。それと免疫力低下しているので、空気清浄機が出来ればあった方がいいと医師から言われた。それで兄の運転で、家具店でマットレスの購入と古いものの引き取り料を支払い、家電店で空気清浄機を購入した。
この日は兄の誕生日だったので、兄の好きなファミレスで、ランチに好きなものをご馳走した。夜は焼き肉にした。
台風の影響を心配しつつも、1日置きの面会には出向いた。同時進行で母の帰宅準備。
安心のせいか、それとも疲労とストレスが蓄積しすぎたのか、寛解していたパニック障害が現れ始めた。電車に座ってても気分が悪くなって降りてしまう。
精神科クリニックにはもう数年行っていなかったので、頓服薬がない。受診して頓服薬を処方してもらいたいところだが、とにかくいまはやることが多すぎた。薬局で酔い止め薬を購入して飲んでも、具合が悪くなる。帰路は特急自由席を使うようにした。気持ち悪くなっても、トイレに駆け込めたからだ。
10月30日、都内の大学病院を母は退院した。荷物は宅急便で送り、母の介助をしながら電車に乗って、最寄り駅からはタクシーで帰宅した。
久々の我が家に、母は感激した。
やはり病室は他人の目や、検査が多くてゆっくりできず、落ち着かなかったという。
なにより大好きなテレビ番組を消灯時間を気にせず、好きなだけ見れる自宅は、母からしたら天国のようなものだった。
唯一、母が不満だったのは、父の部屋の入口を占拠して寝ている3代目愛犬が、吠えかかりはしないが、「ふーん、帰ってきたか」という感じて、寝そべったまま愛想の1つも見せなかったことだろう。
母の診療データは、母の死去後の引っ越しの際に全て処分したと思われた。しかし闘病記を書くにあたって、後日、一番辛い経過ノートを探した。
これだけは処分できなかった。探しているときに、偶然、都内の大学病院データの一部が出てきた。全て処分したと思ったが、膠原病発症時のデータだけは一部残していたらしい。
以下の経過データ表を貰ったのが退院時か、次回の外来かは分からない。
PR3-ANCA、MPO-ANCA、いずれもリウマチ反応が強いときに現れる。基準値は、3.5以下。
2013年9月13日、PR3-ANCA 7.2、
MPO-ANCA 33.6
2013年9月30日、PR3-ANCA 4.5、
MPO-ANCA 33.5
2013年10月15日、PR3-ANCA 2.1(基準値)、
MPO-ANCA 4.8
2013年10月28日、PR3-ANCA 1.0(基準値)、
MPO-ANCA 2.8(基準値)
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連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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