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内弁慶ならぬウチお茶目だった父
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1・たまに、傍迷惑だった父
「おまえ、そんな量で足りるのか?」
その日はたまたま、いつもは職員室で昼食を摂る担任が、生徒との交流目的で、教室にお弁当を持ってきて、食事を始めようとしたときだった。
クラスには外食に行く生徒も居たが、限られた時間内で食事するには専門学校密集地のため座席確保も難しい。そのため半数以上が教室で食べていた。
私の属するグルーブ4人組の友人は、自宅からお弁当や、通学途中で購入したパンやコンビニ弁当を持参していた。
このとき私は、おかず無しで、ラップにくるまれた小ぶりのおにぎり一つだけを食べていたのだ。
「今朝、父にお握りとオカズを食べられてしまって、この1個しか残ってなかったんです。もう家を出ないと間に合わない時間だったので、母が作り直す暇がなくて」
運良くこの日は、午後の授業があと1つだけだったので、お握りだけでも、いつも通りなら学校帰りに友達とスイーツを食べに行くから、それまで胃袋が保てば良いと思っていたのだ。
「なんだ、そりゃ?ありえねー」
と、先生は大爆笑。それが大きな声だったものだから、聞いたクラスメートも大笑い。
これは私が、専門学校に通っていた頃の話。新宿の学校まで、ド田舎の家から出るには2時間程度かかるため、毎朝、母は早起きしてお弁当を作ってくれた。
作りたてのお弁当を、熱いまま詰めるわけにはいかないので、電子レンジの上で粗熱をとっている合間、母は父と自分用の朝食を作る。作りたてでないと、父が不機嫌になるからだ。
そして出掛ける頃になって、弁当箱に入れようとしたオカズとお握りがない。いや、1個だけお握りがポツンと残っていた。
退職して間もない父が、犬の散歩から帰宅してお腹すいたのが我慢できなくて、母が朝食を作り上げるのまで我慢できず、私のお弁当の具材とお握りを食べてしまったのである。
当然、母は烈火のごとく怒ったが、私はバスの時刻があるので、慌ててお握り1個をラップに包んでカバンに入れ、家を出た。
コンビニで買い足す選択肢もあったが、近隣に学校が多かったこと、クラスが十階でエレベーター1基しかなかったので、買いに行くのは面倒だった。こんなことなら、行きにパンの1つでも買い足しておけば良かった。だが昼飯代として貰ったお小遣いは、コミック購入予定予算に組み込んでいたのである。
父が在職中の話。私は家で、白い犬のぬいぐるみスリッパを愛用していた。ところがある日、いくら探してもスリッパがない。家族に聞いても、知らないという。まさかお父さんが、という疑念が浮かぶ。
いやいや、真冬のコッチはともかく、社員旅行でハワイに行った父が、あんなモコモコのスリッパを持っていくわけないだろう。そもそも、外では無愛想なあの父が、あんなファンシーなスリッパ持っていったらドンビキされるじゃないかと。
この社員旅行、当時はバブル期だったから可能だっただろうが、父は伊豆あたりの高級旅館で、美味い海の幸を食べれる方がいいと、行く直前までボヤいていた。飛行機旅が嫌だ、行きたくないと最後まで文句を言っていた。父は飛行機恐怖症で、九州あたりの出張にも新幹線で行っていたほどだ。ハワイまでの長時間フライトは、相当なストレスだったに違いない。まあフタを開けてみれば、飛行機の中でベロベロに酔っ払って、爆睡しているうちに往復飛行機は乗り切ったらしいが。
そして父は荷物と定番ハワイ土産と共に、薄汚れた私のスリッパを持ち帰った。犯人はやはり、父だった。
「女子社員から、すごく可愛いって、大好評だったんだ」
と、機嫌よく言う父。普段仏頂面の父が、可愛い犬のぬいぐるみスリッパ履いてるなんて、陰で何を言われていたものか。
母は、無頓着な父が、どこを歩いたか分からないスリッパは捨てると宣言した。私も、父の履いたスリッパを使う気にはなれなかった。父はスリッパに愛着が湧いたのか、なら俺が使うと言ったが、速攻で母は捨てた。
私が別の犬のスリッパを、父に買わせたのは言うまでもない。父も自分用を物色していたが、気に入ったものが見つからずに諦めた。ぬいぐるみの顔には、妙にこだわりがあった。
オグリキャップのぬいぐるみが流行ったときには、てっきり私へのお土産かと思ったら、自分の車に積んでいた。当時はレンタルが主流だったビデオも、ディズニーのファンタジアだけは自ら購入して、部屋でたびたび見ていた。あの顔で、可愛いものが好きだった。部屋にもいくつかぬいぐるみが転がっていた。退職記念に貰ったのか、自分で何処かで買ってきたか定かではないが、今更だが前者であることを願う。
そもそも持ち物にスリッパが必要なら、買うなり、いっそ便所スリッパでも持っていけば良かったのに、よりによって犬のぬいぐるみスリッパを持っていくとは。
発想が飛びすぎて理解できない。
2・会社での父
会社には、後輩だが父にそっくりな顔の人が働いていたらしい。集合写真で、母が父と間違えるほどよく似ていたとかで、父から「そんなに似てない!」と言われたが、後になって私もその写真を見たとき、「生き別れの双子?」と思ったほどだった。
父のそっくりさんも、なかなかお茶目だったようで、父の馴染みの居酒屋で、父のフリして飲んでいたとか。父は「あいつ、俺のフリして飲み食いしてんだ!」と憤慨していたが、ツケを回されたわけではないのだから、別に構わないだろう。いや、自分に置き換えると嫌だな、やっぱり。
ちなみにこのお店で酔っ払った時に、父が狸の置物1つくれと言ったら、ちょっと欠けた信楽焼の狸の焼き物を店主がくれて、父は私にくれた。この居酒屋、狸の置物が沢山置いてあって、父が飲みに行った時に渡せばいいものを、わざわざ会社に店主が届けに来たらしい。帰宅まで、机の上に40センチほどの狸の信楽焼が置いてあったら、会社の人達に何と言われただろうか。まあ、会社の同僚も行きつけの店だったらしいから、店主が会社を訪ねても大丈夫だったのだろうけど。
普段は仏頂面の無口な人だったが、飲み友達は職場に居たようで、その人達と「焼き鳥同好会」なるものを立ち上げた。月に何度か開催された「焼き鳥同好会」だが、ちょっと困った人間が居たらしい。物凄く大食いで、割り勘にすると周りが損をするという理由から、その人物の入会は断ってきたらしいが、「焼き鳥同好会」が開催する日は決まって、父の周囲をニヤニヤしながら付きまとっていたとか。見かねた大食いさんの同僚が、「足が出た分を俺が負担するので」と言って、参加が許可されていたらしい。だが焼き上がると同時に、仲間との配分を考えずに食べてしまうので、「あいつの正式入会は絶対に認めない!」と、よく家で愚痴をこぼしていた。私等にいわれてもねー、と家族で呆れた。
景気が良かった頃なので、社長も社員を都心の高級寿司店へ連れて行ってくれたりしたらしい。だが大食いさんのような人も居たので、いつの頃か、寿司屋のランクが質より量に下げられたと嘆いていた。
出張先で一番多かったのが、岡山と広島。岡山土産はきび団子、広島はもみじ饅頭が定番だった。一度だけ、岡山の店で一番安いが高価なことには変わりない果物の女王、マスカット・オブ・アレキサンドリアを買ってきたことがある。まだシャインマスカットが出るずっと前で、ブランド力もあって、家族で有り難くいただいた。
父は出張先で地元名物を食べるのが楽しみだった。福岡で生きたイカは美味しかったとか、どの県だが忘れたが、天然シマアジは人生で一番美味しい刺身だったとよく自慢していた。
ときに出張先の夕飯で失敗することもあったらしい。翌日の仕事を終えたら帰宅だから、仲間と奮発して、尾道で高級魚を食べた。ところが翌日になってから、急に仕事が1日延長することが決定、延長出張を想定した予備のお金が足りなくなり、本社に泣きついてお金を振り込んでもらったとか。その夜はホテルで、虚しくカップラーメンを食べたのだと、耳にタコができるほど聞かされた。
3・スポーツ観戦が好きだった父
父は隠れ阪神ファンだった。表向きにしなかったのは、当時の関東圏は巨人ファンが大半だったこと、父の親戚が中日のファンクラブに多く加盟してたからだ。祖父もファンクラブに入会済みだった。だから父は、表向きは中日ファンのフリをしていた。
阪神が20年ぶりに優勝したときには、私は辟易としたものだ。転勤のため大阪に数年暮らして帰ってきた幼馴染は、一家ともどもバリバリの阪神ファンで、学校では阪神優勝のことばかり聞かされた。そして家では父から阪神優勝の喜びを延々と聞かされた。このときほど、巨人より阪神が嫌いになったことはない。アンチ巨人だった理由、それはテレビ番組もラジオ番組も延長される理由が巨人軍だったからだ。
あのとき父は、新宿京王百貨店の特別ブースまで、一人でグッズを買いに行っていたほどだ。バスタオル、夫婦茶碗、ビールコップなど。家族がよくぞここまでと、呆れ果てた。早速、派手な縦縞のビールコップで、美味しそうにビールを飲んでいた。
友人の影響もあって、高校生になってから、ようやく野球の面白さに私も目覚めたが、それまではテレビの主導権を握る野球が憎らしかった。今のような延長回数制限もなく、特に中日と大洋(現ベイスターズ)の試合などは日付をまたいで、お陰でいつも楽しみに聞いていたラジオ番組が潰れたことが何度あっただろうか。それでなくとも大抵は、いつも放送時間が野球中継延長のため、ラジオ番組は放送予定時間より遅れるのが普通だった。
父が心から中日ファンになったのは、落合博満選手が中日移籍してからだった。もちろん阪神ファンも継続中。
父が落合博満選手のファンになったのは、きっかけがある。当時は社会人野球全盛の時代。落合博満選手が所属していたチームは強豪で、全国都市対抗野球大会出場の常連だった。父の会社もそれなりに強かったが、落合博満選手がいたチームの壁は厚く、地区大会で優勝は難しかったようだ。
応援にいつも駆けつけていた父は、試合中に落合博満選手がバッターボックスに立つと、応援団と一緒に叫んでいたらしい。
「落合、さっさとプロに行けー!」
実際に応援シーンを見たことないが、それってヤジなのか激励なのか、判断に迷うところだ。
実際にプロに入ってから、ロッテも応援するようになった。と言っても、当時は巨人戦中継全盛時代、パ・リーグの試合がテレビ中継されるのは、せいぜい土日の昼間にたまにの程度だったが。
ロッテから中日へ、そしてあれほど嫌ってた巨人さえ、落合博満選手が在籍中、父は応援した。なにがそこまで父を動かしたのか。
「アイツは、社会人野球のときから、別格だったんだ。敵じゃなければサイン欲しかったなぁ」
そりゃ、社会人野球時代にサイン貰いに行ったら、仲間にどつかれただろうな。
会社の接待で、大相撲の座席が使われることがある。会社が東京場所の席を確保していたので、ごくたまに父のところへチケットが回ってくることがあった。
父の父、つまり祖父は大相撲が大好きで、自分でも度々出向いて、国技館の一番安い当日席を買って観戦していた。だから会社のチケットで行けるとなると、父は同じく大相撲好きな兄を連れて、都心に住む祖父の家へ迎えに行くわけだが、父としては幕下上位から観れれば良い感覚だった。しかし祖父は国技館が開く朝8時か9時から観に行きたいと、前日から電話催促が凄かった。会社の接待で使われるぐらいだから、椅子席とはいえA席の前の方だったので、祖父としては間近で見れる機会を存分に堪能したかったのだろう。だがド田舎住まいの父と兄が、都心に出るのは一苦労だ。それでも、せっつかれて仕方なく、早朝から都心の祖父宅へ迎えに行った。
兄が中学生の頃だったろうか、運動会をサボって、父と祖父と兄の3人で大相撲観戦に行ったことがある。大相撲のために、運動会を仮病で休ませた親も親もだが、個人競技も徒競走ぐらいだったので、兄が休んでも支障がないはずだった。
この日が、昭和天皇の天覧相撲でなければ。
大相撲中継が始まると、母と私はテレビに釘付けになって、テレビに父達が映ってないか確認した。帰宅後に聞いた話では、正面といっても角に近い場所で、テレビカメラの横に座っていたから、映るはずがないと言っていた。だがそんなことを知らない母は、中継が終わるまでテレビから離れなかった。仮病休みの兄が、テレビに映ったらまずかろう。
会社接待用チケットだったので、お弁当と土産付きだった。お弁当や飲み物は観戦中に片付けてきたが、あんみつセットは私と母のお土産になっていた。しかし困った付属品もあった。湯呑みセットである。
三役力士の湯呑みが6個ほど入っていて、それが2人分で1回に12個。あの頃は客用湯呑みも、それで代用していたほどで、湯呑みを購入する必要性がなかった。なにしろゴロゴロあったのだから。知り合いにも未使用のは譲っていたらしいが、配るにも限度がある。歯磨き用のコップも、この湯呑みが使われていた。
ちなみに大相撲も若貴ブームがくるまでは、テレビのチャンネル権利が奪われていたので、私は嫌いだった。それでも定刻になると終わる大相撲への敵視は、野球ほどではなかったが。
4・音楽と宗教
「これ、面白いよ」
友人が音楽をダビングしたカセットテープを2本くれた。昭和のアニメソング歌手、山本正之さんのオリジナル曲だった。
そのなかで、「戦国武将のララバイ」という曲があった。ギャクだが的を得た、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の曲だった。これをたまたま耳にした歴史好きの父が、いたく気に入って、ダビングテープをさらにダビングして、ドライブや通勤のときに、よくこのカセットを聞いていた。母は「少年の夢は生きている」の歌詞が好きで、CDを探しに行ったこともある。残念ながら取り扱ってるCDショップはなかった。
車酔いしやすい私は、助手席が定位置で、カセット交換係でもあった。
車でカセットテープが聞けるというのも楽しいが、時に聴く音楽のことで家族と口論になることがあった。私は流行りのバンドの曲、母は演歌、兄は往年のアイドルソングだった。
父はクラシックが好きだったが、眠くなるのはマズイので、家族の曲目選択権を優先させていた。だが一人の時や、たまに家族がいる前でもセットしたままのカセットテープがそのまま流れることもあった。それは音楽ではなくではなく、お経だった。
父は自家用車で通勤していたが、その際に山本正之さんのテープと交互にかけていたのが、浄土真宗のお経のカセットだった。たまに皆で買い物に行くときも流すので、極楽浄土へのドライブにならなきゃいいなとも不安になった。
父がお経カセットにハマったのは、祖父が亡くなった後だった。鎮魂のため、と言うのもおそらくあったのかもしれない。
「カセットより、お葬式のときのあのお経、保存しておきたかったわねー」
と、母が呟く。分からないでもなかった。祖父の葬式のときに聞いたお経は、聞き惚れるほど良い声だったのだ。
我が家の菩提寺から呼んだお坊さんは、見習いのお坊さんを連れてきた。そして2人が合唱したお経は、お経とは思えぬほど、きき惚れるぐらいの素晴らしさだった。それこそ、お教イコール根暗の概念が、一時的にせよ覆るほどに。
母などは聞き惚れて、うっかりお焼香の順番が回ってきても気づかぬほどだった。祖父はいい見送り方をされたと思う。蛇足だが、火葬場で「これは、美空ひばりさんも使った炉ですよ」と説明されて、美空ひばりファンだった母や親類は感激していたが、火葬炉に感激って何?っていうのが私の感覚だった。
話が脱線するが、兄は56歳で病死した。晩年は脳出血、肝硬変などで苦しんだ。その約半年前に、父が癌で亡くなった。このときは、世界を震撼させたウィルスのせいで、国中が自粛期間。ウチばかりでなく、列席者が身内だけのところは火葬式で済ませるのが増えていた。父の時は一日葬だったが、広いホールに母と兄と私の3人で、あとは葬儀関係者と派遣のお坊さん。花いっぱいの見事な祭壇と、列席者の数が不釣り合いで、余計に物悲しかった。初めから終わりまで、しめやかな葬儀だった。
火葬式は、火葬炉の前まで行われる。市営の火葬場で、何組もの火葬式が同時に行われる事もあった。兄のときの派遣僧侶は、父よりも年上の90歳に手が届くお爺ちゃん。初めは大丈夫なのか、この人でと心配になったが、年齢とパワフルは必ずしも一致しない。ウチの浄土真宗のお経が唱えられてから少し遅れて、隣が日蓮宗のお経をお坊さんが唱え始めた。我が家の供養経を凌駕する大声だった。するとお爺ちゃん僧侶も声量を上げた。負けじと隣も一段と声を上げ、お爺ちゃん僧侶も負けじと声を張り上げる。この様子に、兄との最後の別れの哀しみは吹き飛び、肩を震わせて笑わず耐えるのに苦労した。
あとから葬儀屋さんからも「いやー、凄いお経合戦でしたね。笑いを堪えるのに必死でしたよ」と言われた。たぶん、お隣の遺族も同じ感覚だったに違いない。陽気な兄らしい、いい送り方だったかもしれない。
父はもっと面白い音楽はないかと、リクエストしてきた。いくつか選んだものはお気に召さなかったが、一時期流行った、電車のアナウンスをアレンジしたアーティストのCDにはハマった。たまに音の外れた鼻歌を歌っていたこともあった。
歴史、それも日本史が好きな父だったので、日本仏教の討論をするのも好きだった。だが家族で歴史に興味があったのが私だけだったので、私と父が話をしてるのを、母と兄はついていけないと、サスペンスドラマを横で見ていた。
色んな本を読んでいただけに、父は博識だった。しかし、本好きだからと、私の持っている歴史モノの漫画を貸せというのには閉口した。少女漫画は、歴史を扱ったものが意外と豊富だったが、なら青年もののコミックのが合戦の臨場感もあっても面白いからそっちを買いなよと言っても、漫画を買うなら歴史小説文庫を買うという。確かに父のご贔屓歴史小説家は何人かいて、毎月誰かしらが新刊を出すので、漫画まで手を伸ばしたらお小遣いに収まらないだろう。たまにハードカバーの刀剣図鑑や歴史地図なども購入していたし。
5・父とのドライブと墓参り
父はドライブが好きだった。だが行き先はほぼ決まっていて、箱根、昇仙峡、本栖湖、山中湖だった。なぜこれらの場所ばかり行くか、それは父が方向音痴で、初めて行く場所は必ず迷っていたからだ。
走っていて、いつの間にか舗装が切れた土の道(周囲は平原か林)だったり、目的地が大幅変更になったり。清里へ行くはずが、着いた場所が白樺湖だったこともある。まあ、このときオルゴールとガラス工芸品を買ってもらったので、私としては満足だったが。
母は、変なところへ連れてかれるなら、定番の場所でいいと言っていた。兄は、行きたい場所には友人と行くから、途中のテイクアウトの食べ物があれば行き先に頓着はなかった。
食べるのは、いつも蕎麦かうどん。昇仙峡では、ほうとうが多かった。ある店に入ったとき、注文した人数分ではなく、鉄の大鍋1個がドンと置かれた時にはドン引きした。食べても食べてもほうとうは無くならず、しばらくほうとうは食べたくないと心底から思った。
祖父は、今でこそ関東に改葬したが、生まれ育った東海地方の先祖代々の菩提寺に当初は納骨されていた。生前に、祖父自ら墓を購入していたのだ。
自家用車は4人乗り、祖母が乗ると1人余る。留守番は、いつも私だった。車酔いが激しいのと、犬の散歩や餌やりがあったのと、どうしても泊りがけ墓参となるため、残るのは私ということになっていた。癖の強い犬の散歩が出来るのは、家族で私と父だけだった理由も付け加えておく。
あるときの私を除く墓参旅行、夕飯も食べて帰ってくるかもしれないと思いつつ、寝かせておけば翌日には更に美味しくなるだろうとカレーを作った。単に自分が食べたい気分だったから。
出来上がって、いざ食べようと思ったら、家族が帰ってきた。母と祖母の形相は酷かったが、漂うカレーの匂いに、途端に表情は緩んで早く食べさせてと鬼気迫る勢いで詰め寄ってきた。急いで皿に盛って出すと、2人ともガツガツ食べている。父と兄も食べ始めたが、この2人の食べるペースは普通だ。
聞けば、母と祖母は、昼も飲み物だけだったという。マイペースな父はトイレ休憩に立ち寄ったサービスエリアで蕎麦を描き込むと、すぐに出発するぞと急かしたらしい。女性陣のトイレ行列待ちから、ようやく開放されてすぐだった。要領の良かった兄は、アメリカンドッグやソフトクリームなどを、各サービスエリアに立ち寄る度に食べていたので、さほど空腹感はなかったらしい。母と祖母が、どこか立ち寄ってから帰ろうと訴えても、運転して疲れてるから、早く帰宅して、酒でも飲みながらゆっくりしたいと聞き入れなかった。
「あんたが入れば、父さんも言う事聞くのにねぇ」
母と祖母に言われたが、これは父が私に甘いという意味ではない。家で一番口達者な私なら、主張を通せると言う意味だ。
だが私は長時間ドライブは苦手だし、そもそも定員オーバーである。兄もこの頃には免許を取っていたが、父は兄の運転を信用せずに運転席は譲らなかった。
まあ、兄の高速道路運転には私も不安に思わないでもないが、一般道は危なげなく運転していた。ただ兄には悪癖があった。もっと運転したいからと、わざと遠回りして帰宅するのだ。父は兄の運転した後のメーターを見ては
「またアイツ、こんなにガソリン使いやがった」
と、憤慨していたが。方向音痴の父と、裏道に詳しくて遠回り好きの兄。どっちもどっちだ。
祖母が亡くなってからしばらく後、父は高速道路を二度と走らないと決めた。
四十九日の納骨した帰り、父が運転する車がスリップして、危うく事故を起こしそうになったというのだ。このときも、泊りがけの親族集まっての法要のため、私は犬と留守番していた。祖母の通夜と告別式は、都心の家近辺の葬儀場で行われ、私も都心の家に泊まり込んだ。近所の人に犬が懐いていたので、散歩はいらないから餌と水やりだけお願いしたら、外で会うのとテリトリーに入られるのは別問題だったらしい。お礼の品を持参したら、牙を剥いて威嚇する愛犬に、「怖かった」と言っていたので申し訳ないことをした。祖母が亡くなったのが6月、四十九日は晴れれば真夏となるので、犬を繋ぎっぱなしにするわけにもいかない。ペットホテルに預ける選択肢も「あいつじゃ、預けるのは無理だろう」という父の意見に、皆が賛同して私が残ることになった。祖父母の一周忌や三回忌など、親族集まっての泊まりがけの参加の際には、私が自宅に犬と残った。
だが特別な法要のない祖父の命日墓参には、父と私は新幹線で出向いた。正確には、命日前後に行われる、菩提寺の同月に亡くなった人の合同法要への参加だったが。新幹線では酔いにくかったので、帰路に名物豆腐田楽料理の支店に立ち寄って食事するのが定番化していた。母がそれを聞いて不満を言ったが、年末の法堂は凍えるように寒い。法要後に親戚の家に挨拶に行くが、そこも離れの広い部屋に通されるので寒い。温かいものを求めて、豆腐田楽料理店に駆け込むというのが真相だった。
あれは祖母の三回忌だったろうか。母が前日に抜歯した。抜歯予定だったわけではなく、神経抜いても痛くて耐えられないので、抜いてもらったとのこと。
兄も仕事が休めず、日帰り予定で、両親だけが参加することになった。
母が、またしても憤慨して帰宅した。聞けば、新幹線ホームで父とはぐれ、探しているうちに乗車予定の新幹線が出てしまい、母は駅員さんに行き方を尋ねて、後発の新幹線ひかりに乗り込んだ。そう、乗車予定していた新幹線は菩提寺のある場所の最寄り駅に停車する、1日数本のひかりだったのだ。電車に疎い母が、どうやってたどり着けばいいか困惑するのも当然だ。しかも抜歯後で、体調も万全とは言えない。救いは、法要開始まで時間に余裕があったので、遅刻せずに済んだことだろう。
たしか区切りの法要は三回忌で終わりになったと思う。叔母である父の妹たちも高齢化で、関東から出るのが負担になってきたからだ。こうした状況から、祖父母を東京へ改葬することになったのである。
法要という形でなく、祖父の節目の命日に家族で墓参に行ったことがある。その際に、豆腐田楽料理の支店に母を連れて行ったら、「こんな美味しいものを、いつも食べてたのね」と、これまたオカンムリ。兄は豆腐田楽なんて嫌だというので、味噌カツ店へ別行動だった。
父の弁護をするわけではないが、新幹線なら飲酒しても帰れる。特に寒い法要の後に、豆腐田楽で熱燗は身も心も満ち足りるだろう。
話は母のことになるが、いつも留守番の私を不憫に思って、お土産に名物菓子を買ってきてくれた。美味しいと、母に言うのは危険だ。以来、毎回同じものを大量に買ってくるので、次第に見るのも嫌になった。他にも、母方の祖父へ母が様子伺いに行った帰り、たまたま祖父宅の近くのケーキ屋のチーズケーキをお土産に買ってきたのだが、美味しいと言ったら毎回、同じケーキをお土産に買ってくる。ついに父がいい加減にしてくれと、白旗を揚げた。
6・父へのお土産
ある年の冬休み、友人と三泊四日の旅行に行った。そして帰宅して、二階の階段を上ると、父が仁王立ちしていた。
「どこ行ってんだ、心配したんだぞ!」
開口一番に怒鳴られて、目が点に。いやいや、旅行へ行くって言ったし、そもそも母に聞けば行き先までわかるじゃないか。そう言うと、
「お前が旅行へ行ったあと、母さんと喧嘩して口を利いてない」
とのことだった。食べ物に関する愚痴をこぼしたら、母が激怒して、父を無視し続けたらしい。
こんなときの最強アイテム、必殺お土産。私は旅行のたびに、旅先の名物地酒を父に買って帰る。それ用の予算を母から貰っていた。
私がすぐに荷物をほどいて酒を出すと、途端に上機嫌になった。
だが今回は、いや今回も、旅の疲れを癒す間もなく、翌日にはドライブに連れ出された。昇仙峡だったか、当時は甲府市内にあった山梨宝石博物館だったか思い出せないが、ともかく山梨県だった。あのときの旅行目的は、母への謝罪の品を見繕うことで、安物だが綺麗な紫水晶風のブローチを買って帰って、母の無視は解除になった記憶がある。
父は、私が旅行に行くと、1週間以内に家族をドライブに連れ出した。どうも、自分だけ何処にも行けない疎外感があるらしいが、なら両親でどっか行けばいいじゃないかと言うと、会話が保てないと互いに言う。犬のことなら延々と2人で話すネタあるじゃないかとも思うが、出不精な母もドライブを楽しめるのだから良い気分転換にはなる。ちなみに1人でで何処かへ遊びに行くのは、両親とも寂しくて嫌だったようだ。子供である私たちは、友達とも旅行へ行っていたが、むしろ自由に予定を組める一人旅を楽しんでいるぐらいだったが。
幼い頃には思いつかなかったが、父が行きたいというドライブ先が事前に分かったときは、ガイドブックを購入して、目星の店にチェックを入れていた。そうしてドライブ中に延々と言い聞かせておけば、店に立ち寄らない、あるいはサービスエリアで済ませるなんて事態は防げるからだ。この手を使うようになってから、マトモな店で食事できるので、特に外食を滅多にしなかった母には好評だった。
高校の修学旅行が沖縄と決まった時には、父は某グルメ漫画の影響で泡盛の古酒を買ってきてくれと、お金を渡してきた。古酒は年代物になるほど高いので、父も助成金を出してきたのだろう。
だが沖縄到着時に学校から、お酒を買わないようにと注意されたので、これは困ったと思った。だが酒禁止は分からないでもない。男子の割合が多かった学校だったので、男子高校生が友達同士で休日に、飲み会をした話をよく耳にしていたからだ。
酒購入禁止令は、最終日の空港土産処で解除された。なんとかミッションクリア出来てホッとした。ちなみに学校からはお小遣い上限は決められていたが、それを守っていた生徒は、私が知る限りは居なかった。もちろん、私もだ。人数が多いので、先生もいちいちチェックはしてられなかったという事情もある。
買ってきた泡盛の古酒を、早速父は試飲して「美味い!」と喜んでくれたので、700ml入り瓶を持ち帰った甲斐があった。1週間経たないうちに飲みきってしまい、「また、飲みたい」と言われても、ネット販売がまだまだ少数派だった時代。物産展にでも赴かねば、近隣で入手は難しかった。そもそも田舎に物産展が開かれるようなデパートはなかった。
飛騨高山へ一人旅に行った時には、父の酒リクエストが多すぎて、さすがにこのときは宅急便を使った。最初に計画を立てたとき、父も付いてくる気だったようだが、犬の散歩をどうする問題になったとき、父は愛犬を選んだ。母も散歩できないわけではなかったが、15分ほどで切り上げてしまうので、犬が可哀想だというのが父の持論だった。父は荒天でない限り、毎日朝晩1時間は散歩させていた。
台風や大雪の時は、私が散歩担当だった。そうでないと父が出かけて、以前に堤防で滑って足を骨折したことが有るからだ。
昔、飛騨高山へ家族旅行に行った時は、私はほとんど何も食べられず、観光もできなかった。
大人になってからも、同じ病を再発したが、良い薬が処方されるようになってからは体調に変動はあっても、調子が良ければ旅行に行けるぐらいには改善していた。
当時より観光食べ歩きが随分と進んだようで、私が帰宅後に食べ歩きと、父に頼まれた酒を購入するために酒蔵巡りで、何種類もの酒の試飲を勧められて酔っ払った話をすると、「やっぱり俺も行きたかった!」と父は悔しげに言った。それでも買ってきた朴葉みそで、クール宅急便で送った酒を飲んで満足げだった。
飛騨高山の昔ながらの名物、甘くないみたらし団子。母はあれがお気に入りで、最初の飛騨高山旅行中に何本も食べ歩きしていたようだ。「なんで買ってこなかったの?」と言われても、半日かかっての帰宅の間に、団子は固くなってしまう。だから別のお菓子をお土産に買ってきたのだが、「そんなのレンジで温めればいいだけでしょ!」と言われた。「それなら団子の粉で団子丸めて、醤油つけて焼けば良いだけの話になるじゃん」と言い返すと、「焼き鳥と同じで、継ぎ足した醤油の風味が違うのよ」とのこと。まあ、一理ある。
私が旅行後に、兄も飛騨高山熱が出たのか、友人と旅行に出かけた。兄のお土産は、食べ物ではなく高山の合掌造りの置物だった。母は気に入っていたようだ。父には木製のぐい呑みを買ってきた。父は兄に酒の土産は頼まない。辛口の好きな父、甘口の好きな兄、酒の好みが正反対だったので、たまに兄が買ってくる酒は「甘すぎる」と言って途中で飲まずにほったらかしになり、それを兄が飲んでいた。
私は量こそあまり飲めないが、しいて飲むならさっぱりした風味の辛口が好きだったので、父に地酒係を指定されていたのである。母は下戸だった。
7・父の日
いつも6月の第二日曜日になると、「今日は父の日か」と催促するような口ぶりで言う。いやいや、母の日が5月の第2日曜日で、父の日は6月の第3日曜日。毎年訂正するのにウンザリだった。
母も父の日のプレゼントには悩んだ。確実に喜ぶのは酒だが、酒ばかり飲ませては体に悪い。いつも頭を悩ませて、結局は衣類やループタイになるのだが、父が手にとって最初から喜ぶことははなかった。
事前リサーチは私の役目で、それとなく父の欲しそうな物を調べる。面倒だから、いっそ図書券にでもすれば実用的じゃないかと言ったが、値段が分かるものは嫌だという母。どっちも面倒くさい。
父が本に感化されてか、銀のスプーンが欲しいと言い出した。だが都心のデパートにでも行かなければ、銀のスプーンなど売っていない。ならばと、田舎唯一のデパートで、父の日特集コーナーにあった銀製のライターを母に勧めた。狙いがあたって、いつになく父は酒以外の品を喜んだが、ガスをわざわざ入れるライターより、百円ライターのがよっぽど効率がいいと思う。だが、そこは拘りというもので、父は銀のライターをずっと愛用した。
前出のループタイは、「最初は」喜ばなかったと書いた。だが同窓会などに参加して、友人に褒められたりすると、途端に上機嫌になった。以来、何処かへ出掛ける時にはループタイを身につけるようになっていた。
服も茶色や青系統の地味な色合いばかりだったので、ある時の誕生日に、ワインレッドのチェックのシャツをプレゼントした。
「こんな派手なのは恥ずかしくて無理だ」
そう言う父に、「騙されたと思って、今度の退職者食事会に着ていってみな」と押し付けた。渋々、言われたとおりに、気が乗らなくとも、私がギャーギャー言うので仕方なく着て出かけていった。
帰宅後に、仲間から褒められたと喜んだのはいい。だが以来、それがお気に入りとなって、散歩でも着ていくようになった。母がろくな外出着がないのだからと隠しても、タンスを漁って着ている。だからすぐにヨレヨレになった。母が似たようなシャツを買ってきて、外出用にと隠していたものも、いつの間にか見つけて散歩に着ている。いつしかタンスは似たようなチェックのワインレッドのシャツが大半を占めるようになった。さすがに夏場は青系統の半袖ポロシャツを着ていたが。
ちなみに父の誕生日や父の日、家族の誕生日などの行事は、出前寿司に決まっていた。たまに兄や私が、寿司をとるお金をくれた方が嬉しいのだけどと言うと、
「俺がうまい酒を飲めないじゃないか!」
と父が反論した。そう、年中行事の食事は酒を中心に考えられていた。まあ、昼間から飲むような人ではなかったので、そこはケジメのラインを引いていて偉かった。
8・父の食への拘り
父は、肉も好きだが刺し身が一番好きだった。特に白身魚の珍しいもの。そんなのはいくつか先の駅の、隣の隣の市にある、近隣で一番発展した駅のデパートに行かないと手に入らなかった。焼き魚は鮎、それもちゃんと蓼酢がついてないと怒る。鱧の湯引きも好きで、電車に乗って買いに行ってたりしていた。
父は単身赴任こそ退職前の半年間、静岡でこなしたが、基本は本社の研究室で製品開発に携わっていた。単身赴任中は、週末になると高速道路を使って帰宅、日曜の午後になると赴任先に戻る感じだった。電話で毎日、今日は何を食べているのか聞くと、カツオの刺身と焼いたシシトウを肴に酒を飲んでいると言う。いつも刺し身がカツオで、他に無いのかと聞くと、寮へ帰る最寄りスーパーは品数がなくて、カツオの刺し身が一番美味しかったのだとか。その分、帰宅時は美味しいものが食べたいというので、帰宅当日は家族の誰かがバスに揺られて新鮮な白身の刺し身を買いに行った。母は日曜日の夜と月曜日の朝の分の、レンジですぐ温められるオカズを作って持たせた。それと調理せずとも食べられる野菜。タッパーに作り置きを沢山しなかったのは、父がタッパーを持ち帰ってくることがなく(無頓着な父なので洗いもしないから、食べたらゴミに出せと指示)、また、寮の冷蔵庫が小さかったらしいのと、父が帰宅して出しっぱなしにする懸念があったからだ。だが整理整頓は苦手だが、食中毒への警戒心は人一倍強かったので、仮に出しっぱなしにしてた翌日用のタッパーのオカズには、手を付けずに捨てていたという。
そういえば在職中に、国だか都道府県だかの査察が入ったことがあるらしい。父の机は物が山積みで、査察官から「もっと整理してください」と注意されながら、全てを段ボールに詰められて持っていかれたという。たぶん、そのときは机から物がなくなって、さぞスッキリしていたことだろう。父は、所持品全て持っていかれたより、査察官に片付けろと言われたことに憤慨していた。
母が歯科の通院で、当時話題になっていた某グルメ漫画を待ち時間の暇つぶしに買って読んでハマった。ウチの母は週刊誌は買っても、本は巷で話題になっているもの以外は買わなかった。そうえば、母の買っていた雑誌の懸賞に、余った年賀はがき消化のために応募したところ、ひとめぼれのお米が当たったことがあった。
このお米が、家族の誰もが驚くほど美味しいお米だったので、皆がいつも以上におかわりして、すぐに無くなった。母は一時期、いつもの銘柄ではなく、色んな産地の「ひとめぼれ」ばかりを購入していた。だが懸賞のお米レベルの味には手が届かず、「なにが懸賞のものと違うのか」と考え込んだ。まあ、私に言わせりゃド田舎の米屋の米と、産地直送の米を比較するのがそもそも論点違うのではと思ったが。年賀はがきの消化が完了してからも、懸賞に応募するために、母はわざわざ葉書を買ってきて、私に書かせた。母の方が達筆だったから目に留まるだろうと言っても、字が恥ずかしいから嫌だと言って書かない。
いやいや、歴代の担任から、連絡帳やプリント提出物に描かれた母の文字に「お前の母さん、字がうまいなぁ」と褒められていた。それを告げても「お世辞に決まってるでしょ!」と本気にしなかったが、本当に字がきれいだった。悪筆というのは、父の方だ。まだ読める分だけマシだが、医者の字はどうしてあんな暗号みたいな癖字になのだと、今でも知人と話すことがある。頭が良いほど頭脳に力が偏り、字が汚いのだろうか。
ともかくこのグルメ漫画が、父の食への拘りに拍車をかけた。母が「これ面白かったよ」と父に貸したら、最初は馬鹿にしていた父が、読み終えるなり本屋へ出向いて既刊全てを購入してきた。そしてウンチクに更に拍車がかかった。
前出の泡盛古酒もだが、鮒寿しが食べたいと言い出した。そんなの、近隣で一番のデパートさえ売っていない。都心のデパートでも扱っている店があるかさえ分からない。なにしろ当時はスマホもない時代、調べるのは自分の足でが主流だった。
話がまた横にそれるが、中学生の頃にアニメで流行った「タッチ」。これを父が買ってくれたが(両親も愛読)、7巻だけは見つからない。主人公の出来の良い双子の弟が事故死する巻だ。
幼馴染もこの漫画を集めていて、なら探しに行こうとある日、駅3つ分の本屋を16軒巡った。だが7巻だけは置いてない。それでも執念で歩き訪ねて、やっと最後の駅の普段行かない本屋で見つけたときには、購入後にジュースで乾杯した。前日に入荷したばかりだと、店員さんが言っていた。
あの当時は電子書籍がなく、まだバブルも始まる前で、本屋が多くあった。今ではあの当時巡った本屋で残っているのは、僅か2軒。売り場もかなり縮小された。
鮒寿しの話に戻る。あれは、本当に偶然だった。友達と上野動物園帰りに立ち寄ったデパートの特設会場で、滋賀県の物産展が開催されていたのだ。まさかと思って探すと、やはりあった。しかしこの量でこの値段、高っ!
だが手持ちの金で買えない範囲ではなく、帰ったら父に請求すればいいと思って購入。
帰宅して父に渡すと、踊りださんばかりに喜んでいた。鮒寿し代金は、手間賃と合わせて貰えたので、あのとき買って本当に良かった。
母も鮒寿しには興味があった。母には耐えられる臭いだったので、食べた感想は「しょっぱい」だった。私は封を開けた瞬間から、これ駄目な奴だと、試食どころか、すぐさま自室へ撤退した。
父の口には合ったようだ。珍味好きにはたまらない味だったようで、勿体ないからと日数かけてチビチビ食べていた。これが冷蔵にある間中、私は食欲が失せた。鮒寿しが消えるまで、父と食卓を囲むこともなく、時間をずらして食べた。窓は全開にして。
祖父の地元でよく食べられていたという、車海老の踊り食い。父も好物で、祖父宅へ行った時には振る舞ってもらっていた。祖父が父が来る時は、アメ横までわざわざ買いに行っていた。祖父は父にしか活き車海老を出さなかったが、頼まれても生きてるエビなど食べたくない。
母がたまたま駅のデパートで見つけて、生きた車海老を買ってきた。買ってきたのはいい。だが生きている海老の殻を剥くのは嫌だという。父も食べるのは好きだが、剥くのは嫌だと。
「おまえが一番、生き物に慣れているから」
そう言われて、私にお鉢が回ってきた。生き物は好きだ。だが海老の殻を剥くのとは関係ない。むしろ、よくこんな残酷な役目を押し付けてきたなと思ったが、勿体ないので恐る恐る殻をむく。活きが良すぎて、ボウルに入れた車海老がシンクから飛び出すものもいた。それでもなんとか、父の分を剥き終えた。残りは冷蔵庫に入れておいて、天ぷらにでもすればいいと。その頃には息絶えて、母でも殻剥きが出来るだろう。
父は、喜んで食べた。私たちは殻を剥いても動いている海老を、食べる気にはなれなかった。
冷蔵庫に入れても、エビの生命は翌日も絶えていなかった。だが動きはだいぶ鈍くなっていた。母が天ぷらの準備をする傍らで、またしても殻剥きは私の役目となった。車海老の天ぷら、直前まで生きていただけに、家族で「美味しい」の連発だった。天ぷらにも目がない父は、
「今度あったら、もっと買ってこい。金は出すから」
と言った。それよりも自分で殻をむいてくれ。私は大量の生きた海老を剥きたくない。
ちなみに天ぷらとなった海老は、動きが完全に止まるまで油に投入できなかった。跳ねたら危ないからだった。
揚げ物は週に一度は作っていたのではなかろうか。年季の入った中華鍋に油を注いで、母は
「結婚当初から揚げさせられたのよ。実家で揚げ物なんて、年に数回だったのに」
とボヤいていたが、母の天ぷらや唐揚げは、家族ばかりでなく、客人に振る舞うと大好評だった。病気でしばらくキッチンに立てなくなったが、調理に復帰した後も揚げ物は危険だからと、私が交代した。
もっとも中華鍋なんて怖くて扱えないので、温度計の付いた専用天ぷら鍋を購入した。母のように勘で揚げ物する技量はなかったので、温度計と料理本に従って食材ごとの温度と揚げ時間が必要だった。
母は油の片付けの後で、冷めた揚げ物しか食べたことがなかったので、揚げたてに感動していた。私は母ほどストイックではないので、揚げたてをつまみながら揚げ物をしていたが。
父の好物の中で、我が家最大の敵だった珍味がある。クサヤだ。
これを焼かれると、家中が臭くなる。窓を全開、換気扇フル活用。私が成長して口が達者になると、父は瓶入りのクサヤで我慢することになったが、それでも臭くてアロマキャンドルが役立った。
あるとき、母と兄と私で、親類の家に出掛けた。父は犬もいるからと、留守番に回った。他県に住む親類の家に遊びに行くのは、バスと電車の時間がかかる。電車の乗り換え時間待ちもあるが、兄がいると効率よく電車移動ができた。兄はオタク一歩手前の鉄道好きだった。厳密に言うと鉄道模型蒐集マニアだったが、時刻表を読み込むのも好きだった。
まだ兄が中学生だった頃、母方の祖父宅へ正月の挨拶に行ったときのこと。つい時間が過ぎるのを忘れて、帰りのバスに間に合いそうになかった。当時の終バスは平日で21:30、正月ダイヤの終了は更に早い。だが兄は、いつもと違うルートで、終バスに間に合わせたのだ。「このルートだと座って帰れないのが難点だけどな」と言っていたが、自宅までのタクシー料金を考えると、電車で座れなくても母には有り難かっただろう。父は、午前中に家族で父方の祖父宅で飲み明かしていたので、母方の祖父宅へは同行しなかった。父方と母方の祖父宅は、電車で数駅の距離だったので、元旦の年始挨拶回りを同日で回るのも可能だった。
話を戻すと、兄のお陰であの日も夕食に間に合う時間には帰宅できた。父は何か買って食べるから、夕飯の心配はしなくていいからゆっくりしてこいと言っていた。だがこれこそ、父の狙いだった。
私は幼い頃からアレルギーのせいで鼻が悪かったが、嗅覚は犬並みと言われていた。特に臭いもの探知は鋭くて、これさえなければ人生がもっと楽だっただろう。幼い頃は公衆トイレにさえ入れなかったほど臭いに敏感で、家族にはよく迷惑をかけた。
ウチは田舎の新興住宅団地にあった。団地の入口に入ったとき、クサヤの臭いが鼻をついた。
「まさかお父さん…」
母が呟く。自宅前に立つと、母と兄にも分かった。
家に入ると、父がクサヤをムシって、犬に与えながら飲んでいた。予想外に早い私たちの帰宅に、父は慌てた。
「なんでこんな早く帰ってきた!」
父は叫んだが、母が父に夕飯を作りたいから早く帰ろうと言ったから、居心地の良かった親類宅から渋々引き上げてきた兄と私だった。こんなことなら父のためにも、もっとゆっくり帰宅したほうが賢明だったようだ。
それにしても犬がクサヤ食うとは、本当にこの愛犬は父激ラブなんだなと改めて思った。オスだったが。
即刻窓を全開、換気扇フル回転となった。私は父が食べ終えるまで、自室に籠もった。
クサヤが近所のスーパーに常時売っているということは、父の他にもクサヤ愛好家が少なからず居るということだ。自宅で焼くなら、まあ良い。私としては良くないが。
母が近所のスーパーに、数年だが働いていたことがある。お惣菜売場の裏方で調理していたのだが、このときの惣菜担当チーフが、仲間からの依頼でクサヤをスーパーの調理場で焼いたらしい。スーパー営業中に、である。店中にクサヤの悪臭が充満して、店内は騒ぎになったとか。
チーフと仲間は、店長からこっぴどく叱られたらしいが、あんな悪臭が店内に立ち込めたら大騒ぎになるのも当たり前。よく降格やクビにならなかったものだ。
確かあのときは夏の陽気だったから、お盆か祖母の命日辺りだったと思う。家族4人で墓参に行き、昼ご飯と言うことになった頃。私はガイドブックで、目星の寿司屋をピックアップしていた。
だが父は、うまいきしめん屋に行こうと言い出した。結局、両親はきしめん屋へ、私と兄は駅の反対側にあるガイドブックの寿司屋へ行った。兄は「うまい、うまい」と食べていた。その前に大将の許可を得て、寿司定食の写真も撮っていた。茶碗蒸しやサラダ、ミニデザートもついたリーズナブルなお寿司は、海が近い事もあってネタも新鮮で美味しかった。両親と合流する前に通りがかった魚屋で、家族の好物である大アサリを、いつもこちらに来た帰りの駅ビルで買うよりも、安く購入することができた。発泡スチロールに保冷剤も入れてもらって、兄と共に合流地点である駅に到着すると、険悪な両親が待っていた。
聞けば、目当てのきしめん屋が休み。他のきしめん屋も休みで、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだだけというのだ。なら喫茶店でサンドウィッチでも食べれば良かったのに、父がきしめんに拘って、新幹線駅のきしめん屋で食べると、言う事聞かなかったらしい。母も自分だけ食べるわけにはいかないので、我慢したのだとか。
在来線で新幹線駅まで戻り、両親がきしめん屋で食事している間、私と兄は夕食用の駅弁を選んでいた。大アサリは帰ったら焼くが、ここから帰宅するまでに4時間以上かかるので、他のオカズを作るのは面倒だし。両親を待って意見を聞こうにも、この駅に停車する新幹線ひかりの時間が迫っていたので、先回りして買っておこうかと。選べるように種類は、全てバラした。
ちなみにここから乗り継ぎを繰り返して帰宅するのに片道4時間以上かかるが、一番乗車時間が短いのが、一番長距離移動の新幹線。自宅行きのバスに乗っている時間が最も長いのだから、皮肉なものだ。
「あー。だから寿司屋に一緒に行けば良かったのに。あの寿司、美味かったよなぁ。またコッチ来ることがあったら、食べに行こう」
兄は言った。
妙に頑固なところのある家族なので(自分含めて)、一度こうだと決めると修正するのが難しいのだ。母は優しさから、父にくっついて行ったのだろうが、あのときコッチに来ていたら、存外寂しがり屋な父も憤慨しながら付いてきたと思う。
思い出の味というのが、誰にでもある。大学生になった父が、兄妹の中で一番仲の良かった末の妹と2人、愛知県の親戚宅へ遊びに行ったときのこと。親戚が、トンカツを振る舞ってくれた。このときが人生初のトンカツとの遭遇で、2人は落涙せんばかりに美味しさを満喫したという。だがその話をしても、祖父が家でトンカツを作ることはなく、他の妹達から、たいそう羨ましがられたらしい。
二度目のトンカツは、築地に住んでいた大学時代の友人の奢り。この友人の家は裕福だったので、友人宅に遊びに行ったとき、築地の店に出向いてトンカツを食べさせてくれたのだとか。家庭とは違う味に、これまた感動と感激の嵐が父の心に吹き荒れる。
「大阪で牛カツを食べたが、やはりカツは豚に限る」
トンカツを食べるたびに、父は話した。その友人との交流は年賀状だけになったが、父とトンカツを食べた末の妹は、15年以上前、兄妹の中で一番早く病死した。本当の意味で、トンカツは父にとって亡き妹との思い出の味になったのだ。
9・新しいものが好きな父
私の3歳の七五三はやらなかったのか、尋ねたことがある。
「やったわよ。でもねー、お父さんがカメラにフィルム入れるのを忘れていたのよ」
母は答えた。デジカメが登場するまでは、写真は現像に出すまで出来が分からなかった。真っ黒で現像ということも珍しくなかったという。初代愛犬の子犬時代の写真も、失敗して残っていない。
カメラ好きは遺伝かもしれない。父方の祖父は、花の写真を撮るのが好きだった。だが撮った写真からマトモな写真が現像されるのは珍しかった。大抵は抽象画のようなピンボケ写真だったからである。それでも祖父は満足だったようだ。カメラで撮った花は、自宅の屋上ベランダで育てたのや、区内の植物園のもの。父が見かねて最新型のカメラを買ってプレゼントしたらしく、多少は祖父のカメラの腕もマシになったようだが、それでも披露された写真に「これは何?」と尋ねると、「ベゴニアに決まってるだろうが、おまえは目が悪いのか」と逆に怒られた。同情を寄せる祖母や母だったが、火の粉を浴びたくないため擁護はなかった。
デジカメ登場がもっと早かったら、祖父もマトモな写真が撮れただろうに。
父は写真失敗が多いのに、懲りずにカメラを新調した。新調しても似たような初歩的な失敗が多かったが、出始めのポラロイドカメラを購入してから失敗は減った。だが写真印紙が分厚いかったので、アルバムに収めるには向かなかった。
そしてついにデジタルカメラの登場。いまのスマホと比べると、あり得ない画素数の小ささだったが、町会主催のどんと焼きの模様を撮影して、まだ行事が終わらないうちに自宅プリンタで現像して持っていったら、皆に驚かれたと自慢していた。
結婚して1、2年後、兄が生まれて間もなく大阪転勤となった。それを機に薄給にも関わらず、カラーテレビを奮発して購入した。当時の借家でカラーテレビのある家は周辺になく、近所の宝塚ファンの子供や母の同世代の主婦が毎日のように見に来ていたというから、慣れない土地でのコミュニケーション手段にはなったと思う。
父としては、野球や大相撲中継を見たかったというのが本音だろうが。
そういえば大阪に居たなら、観光に何処へ行ったか尋ねたら、母が言うには奈良公園に一度連れて行ってもらえただけ、大阪城も通天閣も連れていってもらえなかったと愚痴が出る出る。大阪といっても都市部から離れた場所だったらしい。つくづく田舎に縁があったようだ。母は生まれこそ満州だったが、帰国後の疎開を除けば東京都区内暮らしだった。父も疎開以外は、東京都区内生まれの区内育ちだった。それが、結婚してからは区内とは縁のない家となったというから、因果なものだ。転勤前と転勤後も東京郊外暮らしだったようだが、両方とも駅に近い場所だったので、便利だったらしい。もっとも徒歩で駅に出れるのも考えもののようで、その件に関しては後述する。
一度、会社近くのが便利なのだから、持ち家を買うなら、会社に近い場所のが良かったのではと父に聞いたことがある。本当に、会社の近くだったら、交通や買い物にも便利だった。父の答えは、
「会社の近くになんて家を買ったら、すぐに呼び出し食らったり、仲間が家に入り浸るだろうが。なにより土地が高い」
父の言い分も一理ある。だがこんな大きな買い物を、母にも相談せず契約したというのだから呆れる。祖父からも「田舎はともかく、なんでこんな立地の悪い場所を買ったんだ!」と怒られたとか。
そう、本当に不便なだけでなく、土地自体が悪かった。水はけが悪くて大雨の時には家の周囲は水たまりどころか池に、庭は掘れば掘るだけ石がゴロゴロ。竹林を開発した団地らしいが、祖父が言うには、竹林の前は川原だったのではないかとのことだった。確かに、団地の近くに川が流れていた。祖父の庭改造計画に、母も駆り出され、まず石を取り除き、それから黒土を入れたのだという。水はけの悪さ、私にはこの黒土が更に悪化させたのではと思っている。土いじりするようになって、この土、水を吸い込みすぎて、そのまま草花を植えると根腐れ起こすことに気づいたからだ。自分の花壇には腐葉土と赤玉土で調整した。そしてその、フカフカな土を愛犬が気に入って、昼寝場所に決め込んだのだった。
別の場所も花壇改良してバラを植えたのだが、祖父がその土を気に入って花壇の半分近くを祖父用に占拠された。祖父が好きなサクラソウや菊などを勝手に植えるので、バラに追肥するときや草取りには、祖父の草花を踏みつけたり宿根のサクラソウを引っこ抜かないよう、細心の注意を払う必要があった。
持ち家購入を機に、車を初めて買ったらしい。その前はどうしてたのかと聞けば、自家用車はないが、父は免許を持っていたので、会社の派手なロゴが入った車を使っていたとか。母は生まれて間もない兄を連れて行くのに楽だったが、派手な車に乗って移動するのは恥ずかしかったと言っていた。運転している父は、運転するのが楽しければ車体などどうでもいい無頓着な人だったので、むしろ大型スーパーの駐車場に止めても、すぐに車の場所がわかって良いと気に入っていたとのこと。
そうは言っても、いざ自らが自家用車を所有することになると拘りが出てくる。
父の義弟がハイクラスの車を運転してると、
「あの車、○○社の高級車だぞ。くっ、生意気な」
と悔しがっていた。だが家のローンも残っているとなると、高い車は手が出ない。
外車には興味がなく、燃費の良い日本車こそが一番だとよく言っていた。そういえば、父の本家筋は愛知県で疎開先も愛知県だったにも関わらず、愛知の有名な会社の車は購入しなかった。そこの創業者のことは尊敬してると言っていたにも関わらず。疑問をいだいて尋ねると、
「会社の奴らがあの会社の車ばかり買っているから、駐車場で間違えそうだ。それにいま乗ってるのは、会社の隣に販売店と修理場があるから、便利なんだぞ」
効率的と言えば効率的だが、同僚が同じ自動車会社のランク上の車を買うと、悔しがって愚痴をいうの繰り返しだった。
四輪駆動車が登場するまでは、降雪日にはバスを乗り継いで出社していた。そして四駆が出ると真っ先に購入した。まあ、当時は今より降雪量も多かったから、四駆の方が出勤には効率的だったのだろう。冬の長野方面に同僚と仕事で出掛けたとき、たいそう同僚から羨ましがられたと、自慢げに話していた。だがその同僚が間もなく、違う会社だが値段の高い四輪駆動車を買った時には、やはり悔しがっていた。
その人と同一人物か定かではないが、四駆を買って喜びはしゃいで、雪の田んぼに入り込んで動けなくなり、レッカー車を呼んだ話は、雪が降る度、出てくる話題だった。
雪といえば、昭和の春間近な大雪のとき、団地内の駐車場の屋根が幾つも潰れた事があった。ウチはなんとか無事だったが、洒落た駐車場の屋根ほど被害に遭ってたように思う。
平成の大豪雪の際には、団地の半分以上の駐車場の屋根が潰れた。その頃、ウチは駐車場の屋根を撤去していたので潰れることはなかったが、雪の中から車が出せるようになるまでかなりの日数を要した。あの大雪をきっかけに、駐車場の屋根を撤去する家も相次いだ。
そもそもバスさえ、あのときは1週間運休だった。近くのスーパーへ、近所の人と雪を掛け分けながら行くと、入荷がないから品物も店の在庫のみ。残り少ないそれを買い漁る客と、レジの長蛇の列。停電がなかっただけ幸運だったとしか言えない。
そういえば、普段は雪好きで雪に半ば埋もれながらでも散歩する愛犬が、玄関を開けた途端に家の中へ引き返したのは、あの時が初めてだった。団地内の道路を近所の人総出で雪掻きしたが、雪を捨てる場所がない。何処の家も車を出せる状況ではなかったので、駐車場の前にうず高く集められた雪の山が方々で見られた。また、エアコン室外機の周囲の雪を取り除く作業もあった。室外機までたどり着く道を確保しなければならない。せっせと雪を庭の方に投げ捨てながら進んでいくと、愛犬が後ろをついてきた。トイレが我慢できなくて、掻き分けた雪道の雪壁にジャージャーかけていた。たまに屋根から雪が落ちてくると驚いて鳴いたが、とりあえず室外機までの道ができると、狭い道を往復しながら愛犬は走っていた。降雪中は家に閉じこもりきりだったので、ストレスも溜まっていたのだろう。だが室外機だけでなく、ガス給湯器周辺も雪を除かないと危ない。そこまで辿り着こうと雪掻きをしているときに、勢いづいて止まれずに激突してくる愛犬が、いささか迷惑でもあった。
夏場の気温上昇が子供の頃と比べて深刻になった頃、父は祖父母を心配してエアコンを購入して取り付けてもらった。ところが祖父母、倹約家で滅多にエアコンを使わない。当時は従姉妹が通学に便利だからと祖父母宅に居候していたらしいが、エアコンを頻繁に使うので、祖母がリモコンを隠してしまったらしい。こんな暑くては遠くても自宅から通った方が快適だということで、従姉妹は祖父母宅から撤退したとか。
10・父と犬
父を語る上で欠かせないのが犬。
我が家で犬を飼うまで知らなかったが、子供の頃から父は、否、父の実家は犬好きだった。祖母が高度経済成長期の工場から輩出される煙で喘息を発症するまでは、犬をずっと飼っていたというのだから。
そして、普段は酒が入らないと妹たちの前でも無口な父が、犬のことになるとスイッチが入る。父には妹が4人いて、目の前で話を聞いたわけではないので定かではないが、妹たちも犬を飼っていたそうだ。血統書付き柴犬を。まあ本家でも柴犬飼っていたというから、犬好きの家系だったのかもしれない。
我が家は3代目に初めて血統書付き柴犬を飼ったが、初代と2代目は雑種だった。ただ父にとって犬は雑種でも血統書付きでも、自分の家の犬が一番。愛犬の素晴らしさについて、妹たちと喧々諤々、いかに自分が愛犬から愛されているか、自慢し合っていたそうだ。
父の子供の頃の話で、聞いた時に父が何歳頃ということまでは聞かなかったから、どの話が最初かは分からない。ただ、戦時中は飼い犬も毛皮を取るために徴収されたと学校で学んでいたから、疎開先で犬を飼っていた話にはアレ?と思ったことがある。ただこの犬も、厳密には父一家の犬ではなく、親戚の犬だったようだが、哀れな末路を辿ったようだ。
祖父は疎開先で、カボチャを作っていたそうだ。そういえば軍に徴収されなかったのかと聞けば、父いわく、年齢で対象から外れたとのこと。代わりに軍の工場で働かされていたらしい。この辺りのこと、夏休みの歴史の宿題を提出する際、題材にして聞いておけば良かったな。いや、あの祖父から聞き出すのは困難だっただろう。祖父が溺愛していた兄になら、何でも言うことを聞いていただろうが。
祖父は家族を外食には連れて行かなかった。単に家族が多かったことも理由に挙げられるが。だから子供だった兄が、祖父が中華街に連れてってくれてご馳走してくれたと聞いたときの父は、「俺には一度だって、そんなことしてくれなかったのに」と悔しがった。
だがそれも、兄だからこそ祖父も特別扱いしたのだろう。当時、兄が4歳か5歳の頃、このときは大阪転勤終了して東京郊外に戻っていたが、少し母が目を離した隙に行方がわからなくなった。母が必死になって兄を探していたとき、祖父から電話がかかってきて「玄関を開けたら、○○がいたから、仰天した」と。兄は大好きな祖父に会いにたいからと、一人で駅に行き、記憶をたどって電車を乗り換え、客の後ろについて平然と祖父宅の最寄り駅を下車、迷わず祖父宅にたどり着いたのだとか。この件があって、祖父の兄への溺愛は加速した。孫だが養子にして、少ないながらも財産分与の権利を与えたいと、両親に頼み込んだほど。当然、両親は却下した。
軍の工場仕事の合間に、祖父はカボチャを作っていた。どのくらいの規模の畑か知らないが、1トンものカボチャを作って、その重さを量るのを祖父は楽しんでいたそうだ。
家族も親戚も、カボチャ尽くしで辟易としたという。小料理屋をやっていた祖父が、カボチャのうどん、カボチャのパン、カボチャの雑穀雑炊など様々なものを調理したらしいが、メインはカボチャなのでどれも味は一緒。カボチャに飽き飽きした皆は、残したカボチャを犬に与えた。老衰か、それともカボチャの食べ過ぎか定かではないが、犬はこの世から旅立った。まあ戦時中に食べるだけ食べたのだから、犬としても餓死よりマシだったかもしれない。
戦後、東京に戻った父一家は、生活が落ち着いた頃に犬を飼いはじめたようだ。愛玩目的ではなく、祖父としては番犬の役割を期待したのだろう。ところが犬好きの父の妹たちは、競って寝る時に犬を自分の布団に入れていたという。それが祖父に見つかって「コラッ!」と叫ぶと、犬は脱兎のごとく逃げ出したのだとか。それでも懲りずに妹たちは、祖父が去ると、また犬を布団に入れていた。
祖父は愛知県生まれだが、結婚を期に上京した。どこ訛なのか知らないが、祖父は「サ行」の発音が苦手だった。だからアジサイも、アジャハイになっていた。言葉を聞き取るのに苦労した。ともかくフィーリングで受け止めるしか無かった。聞き返せば短気な祖父に怒られるからだ。
こんな祖父だが、小料理屋をやっていたせいか、人付き合いがいい。私には口うるさい祖父のイメージしかないが、近所でよく麻雀を楽しんでいたと言うから、他人との付き合い方は上手だったのだろう。父とは正反対だ。
そんな祖父が、父が貰ってきたばかりの子犬を、仕事場である店に連れて行っていたという。客ウケを狙って、今で言うところの看板犬としたのだろう。ある客が、熱心に子犬を欲しがったので、祖父が根負けしてあげてしまった。それを知った父は、祖父には逆らわなかった父が、猛烈に祖父を責めて直ちに子犬を連れ戻せと言ったとか。だがこの客は近隣の人でも、常連でもなかっただけに、結局子犬は戻ってこなかった。
「本当に可愛い子犬だったんだ。真っ白でフワフワして。それを親父の奴、俺が学校行っている間に、勝手に店に連れ出していたなんて」
父は思い出す度に腹を立てていた。まあ、父の愛犬に対する猛愛ぶりを見ていれば、父が家にいる時に、祖父が店に連れ出せるわけもなかっただろう。
我が家初代愛犬が、ブチ入りだが白くて毛も長かったので、父は離れ離れになったその子犬の面影を、初代愛犬に見ていたのかもしれない。これだけの愛犬家である、持ち家を買ったときに、犬を飼う発想はなかったのかと尋ねた。
「母さんに反対されたんだ。俺に犬の世話など出来るはずがないから、自分(母)が結局、世話する羽目になるから嫌だと」
以来、犬を飼うのを諦めたという。それが、犬恐怖症から一転して犬が欲しいと執念深く私が粘ったことで、念願の犬を飼うことが出来て、心のなかで喜びが爆発したのだとか。その行き過ぎた愛情で愛犬と相思相愛になり、犬も私が選んで我が家に来た恩を忘れて、私よりも父に忠誠を捧げたわけだ。
実は母にも犬を飼うことに壁があった。子供の頃、愛犬を野犬狩りに連れて行かれて殺処分されたトラウマをかかえていたことが、後に明かされた。もう犬の亡骸を前に泣くのは嫌だったと。
本当に犬が欲しくなかったなら、母も毎日、嫌がらずに犬のために料理をしなかっただろう。この初代愛犬、父がグルメ犬にしてしまったため、人間とは別に犬用の牛肉たっぷりご飯を用意していたのだ。
3代目愛犬からドッグフードで育てたが、父は犬の誕生日には、安いながらもステーキ肉を買って食べさせていた。ご飯に混ぜず、少しずつ千切りながら、自らの手で犬に食べさせる。犬がペロペロと父の手を舐めながら、猛烈に尻尾を振って喜ぶので父も嬉しかっただろう。
2代目や3代目は誕生日ステーキの後で餌もちゃんと食べたが、初代はステーキに満足してご飯を残した。こっちのご飯もステーキを炒めたバター風味の肉汁で牛肉細切れを炒め、白米に汁ごとかけてまんべんなくご飯と肉汁を混ぜていたのに、初代は肉だけを器用に食べて、ご飯はほとんど残した。
母の晩年は別れが立て続けに起こった。まず父が亡くなり、半年後には兄が病死。翌年には3代目愛犬も父を追って虹の橋を渡った。母の心は細い糸で何とか保たれていたが、愛犬の死で壊れた。いつも3代目愛犬が何処にいるのか尋ね、家中を探す。徘徊も酷くなって、多くの人に迷惑もかけた。
ケアマネから、また犬を飼ってはと勧められたが、父の死で経済的に余裕はなくなり、母と2人で生きていくのに精一杯だった。犬との別れは私も悲しかった。だが同時に、愛犬を遺して家族全員が旅立つ不幸や、生き別れになるのを回避できたことに安堵もしている。生きとし生けるもの、寿命通りにこの世を旅立つとは限らないのだから。
11・旅行
犬を飼うまでは、夏場は伊豆へ海水浴に行くのが恒例だった。大抵は西伊豆方面。そして父は、必ず宿までの道を迷った。
父は寺社仏閣を巡るのも好きだった。目的地へは、高速道路を下りると大抵は迷っていたが。
長野県の善光寺参りに行きたいというので、家族で行くことになった。晩秋か初冬あたりだったろうか、道を走る車の中から見える、赤く実ったリンゴの木が印象的だった。参道は魅力的な店が多かったが、食べたり買ったりするのは参拝の後だと父は先を急ごうとする。だが長年ひとつ屋根の下で暮らしていれば、父の動向など見通せるというもの。私と兄は父の言うことを無視して、食べたいものを買い食いした。このとき私が買ったのは、長野名物のお焼きだった。具は野沢菜だった。焼き立てはホカホカして美味しかった。母も子供に便乗して、同じものを買って食べた。
参拝してから、胎内巡りを初めてした。本当に目の前さえ見えないほど真っ暗で、暗所恐怖症気味の母に痛いほど肩をガッツリ掴まれていたのが記憶に残る。だから母以外の家族は、壁伝いに歩きながら、胎内巡りの途中にある取っ手に気づいて掴むことが出来たが、母はそれどころではなく、メインを逃した。私が中学生の頃のことなので、なんのご利益があるのか忘れたのと、胎内巡りはここを含めてその後3回巡っているので記憶が混ざっているが、途中の仏様がほの明るい中で鎮座されていたのは、ここだっただろうか。思い出せない。
だが覚えているのは、やはり帰りの参道立ち寄りは省略されたことだった。もう帰るという父に、やっぱりねと母たちと顔を見合わせる。昼食は恒例のサービスエリアだった。今ほどサービスエリアは各々の個性を出すほど充実していなかったので、あるものは蕎麦、定食類。あとはホットスナックか。兄は昼食を食べただけでは足りずに、いつの間にかホットスナックを買い込んで、車内で食べていた。
甲斐善光寺にも行ったことがある。あのときは兄はおらず、3人で出かけたが、夏の暑さで食欲がわかずに、両親は境内か境内近くのそば店でそばを食べていたが、私は併設していた店で、巨峰のソフトクリームを食べて済ませた。
その年だったか、翌年だったか、恒例の昇仙峡ドライブ。ほうとうを食べた帰りに立ち寄ったサービスエリアで、私等がお土産を購入して戻ると、父が巨峰のソフトクリームを食べていた。母が、
「あんたが以前、食べていたから食べたかったんでしょね」
と言った。そういう母も、初めての食材には躊躇があって手を出さないが、私が「美味い」というと、じゃあ自分もと食べて好物になったりしていた。代表的なのはアボカドか。父には不評だったが。他にも新製品のお菓子や食材は、まず私が食べて「美味い」というと、両親は手を出した。兄は珍しいものより、昔ながらのホットスナックやお菓子を好み、新製品は好きな芸能人が宣伝するもの以外は、あまり興味を示さなかった。
久能山へ、いちご狩りへ行ったことがある。有名な石垣イチゴを楽しみにしていたが、まず父が車を停めたのが久能山東照宮だった。いや、あれは途中の駐車場で一旦停めて、バスかロープウェイで目的地まで行ったのだっけか?
これも昔の思い出なので、記憶が曖昧だ。
そしてやっと、目的の石垣イチゴ。此処で学んだ教訓は、美味しいものは真っ先に行けということだ。美味しいイチゴは最初の2個程度。他は熟しきってないいちごばかりだった。先に来た客に、あらかた食べ尽くされた後だった。
父は博物館も好きだったので、途中で生物博物館にも立ち寄った。だがせっかちなので、素通りすれば満足する。私がマイペースで興味深いものを見学して出ると、仏頂面の家族が待っていた。
せっかく入場料払ったのに、勿体無い。
父にとっては「行った」事実が重要らしい。自分が行きたいと言い出して、いざ目的地につくと早く帰りたがる。母と兄は博物館には興味がなかった。
そうそう、父が昇仙峡にこだわるのは、理由があった。学生時代のお泊り遠足で、班ごとに昇仙峡を目指したところ、道に迷って全く方向が分からなくなったらしい。それでも班で団結して道を探し、やっとタバコの吸い殻を見つけた時には、皆で泣き出しそうになるほど喜んだという。そう言いながら、ロープウェイから眼下の林を眺めていた。青春の思い出の地なのだろう。
この学校の同窓会には、病気で遠出が出来なくなるまで、毎年必ず参加していた。
父は仏頂面で、酒が入らないと他人には口下手だったが、人とのコミュニケーションは好きだった。だから退職者交流会にも欠かさず参加していた。
ただ間の悪い運でもついているのか、泊りがけでの退職者交流会の最中に、祖母が前触れもなく危篤となり、途中で帰るのを余儀なくされた。祖母は喘息が辛いので来院したところ、入院を勧められてそのまま入院となった。その後での急変だった。親族が集まり、最期を看取ろうとしたが、祖母は粘った。そのうち根負けした親族や父、兄が帰宅した。最期を看取ったのは、祖母の娘である叔母が1人、そして母と私だった。死亡診断書には心不全と記載された。
祖母は6月に亡くなったが、母方の祖父母の命日も6月だった。6月は同時に初代愛犬と3代目愛犬の誕生月でもある。
父は出張のたびに、時間があれば有名な寺社仏閣へ赴いた。出雲大社にも行けたが、伊勢には全く縁がなかった。行きたいと思っても、出張で三重県まで行ったときも、何らかの障害が発生して行けなかった。出張のたびに主要な神社仏閣へは概ね行ったようだが、伊勢だけは本当に縁がなかった。
そしていま、皆が帰ることのない旅行に出かけた。いずれ私も、皆が待つ場所へ旅立つだろう。この世での土産話を沢山集めて、いつの日か家族と再会出来たら、大いに語ろう。
世界中の沢山の家族の中から、父をはじめとする家族と縁が結ばれたことを、心から感謝します。
12・追記
母の末弟の言うことだから、鵜呑みにするには難がある。なにしろこの叔父、ユーモアセンスで他人を笑わせるのが好きだが、その反動なのか、事実を脚色したり大げさに誇張する癖があるからだ。話半分に聞いておかないと、後で痛い目に遭いかねない。
「お前の両親、駆け落ちだって知ってたか?」
あれは何年前の夏の日だったろうか、都心の大学病院に入院した母を見舞うため、他県からわざわざやってきた叔父は、「暑くてかなわんから、まず面会前に、ビール飲みながら昼飯を食おう」と言うことになった。
遠慮せずに何でも食えと言われたが、こちらも暑さにはめっぽう弱い。チョコレート・パフェを注文した。
その昼食の席で、叔父が言い出したのである。私は目が点になった。
(あの両親が駆け落ち?ありえねー)
夫婦仲は険悪とまではいかないが、犬がかすがいの両親の話題は、犬以外だとスポーツ観戦やニュースネタ。肝心なことは、私を仲介に通す。
「そんな冗談、信じるわけ無いでしょう」
私が鼻で笑うと、叔父は首を振る。
「本当だって。あのときは俺も驚いて腰を抜かしそうになったんだから」
叔父の言うことを頭から信じるつもりはないが、恋愛結婚だったことだけは、母からポロッと聞いて衝撃を受けた覚えはある。だがそれ以後は頑なに口を閉ざしたので、なりそめなどは聞けなかった。あの時代だし、両親を見ていて、見合いに間違いないと信じて疑わながわなかったのに、恋愛結婚?人は見かけによらないものだ。
遺品整理で古いアルバムを開くと、新婚旅行の写真が出てきた。旅行行程が古ぼけたメモで書かれていて、熱海、愛知の親類訪問、京都奈良と随分強行軍だったのが伺える。それらの写真は白黒たが、父にしては上出来な仕上がりだった。そして通すがりの人に頼んで、他人に撮ってもらっただろう二人で写る写真は、見てるこっちが恥ずかしくなるほど「新婚さんバカップル」だった。
本当に駆け落ち…まさかね。真実は両親があの世に持っていってしまったので、知る術は無い。二人きりの大事な宝物なら、子供であっても探るのは無粋というものだろう。
生憎だが、馬に蹴られたくはないのでね。
初代愛犬が、我が家に来た記念日投稿
完
「おまえ、そんな量で足りるのか?」
その日はたまたま、いつもは職員室で昼食を摂る担任が、生徒との交流目的で、教室にお弁当を持ってきて、食事を始めようとしたときだった。
クラスには外食に行く生徒も居たが、限られた時間内で食事するには専門学校密集地のため座席確保も難しい。そのため半数以上が教室で食べていた。
私の属するグルーブ4人組の友人は、自宅からお弁当や、通学途中で購入したパンやコンビニ弁当を持参していた。
このとき私は、おかず無しで、ラップにくるまれた小ぶりのおにぎり一つだけを食べていたのだ。
「今朝、父にお握りとオカズを食べられてしまって、この1個しか残ってなかったんです。もう家を出ないと間に合わない時間だったので、母が作り直す暇がなくて」
運良くこの日は、午後の授業があと1つだけだったので、お握りだけでも、いつも通りなら学校帰りに友達とスイーツを食べに行くから、それまで胃袋が保てば良いと思っていたのだ。
「なんだ、そりゃ?ありえねー」
と、先生は大爆笑。それが大きな声だったものだから、聞いたクラスメートも大笑い。
これは私が、専門学校に通っていた頃の話。新宿の学校まで、ド田舎の家から出るには2時間程度かかるため、毎朝、母は早起きしてお弁当を作ってくれた。
作りたてのお弁当を、熱いまま詰めるわけにはいかないので、電子レンジの上で粗熱をとっている合間、母は父と自分用の朝食を作る。作りたてでないと、父が不機嫌になるからだ。
そして出掛ける頃になって、弁当箱に入れようとしたオカズとお握りがない。いや、1個だけお握りがポツンと残っていた。
退職して間もない父が、犬の散歩から帰宅してお腹すいたのが我慢できなくて、母が朝食を作り上げるのまで我慢できず、私のお弁当の具材とお握りを食べてしまったのである。
当然、母は烈火のごとく怒ったが、私はバスの時刻があるので、慌ててお握り1個をラップに包んでカバンに入れ、家を出た。
コンビニで買い足す選択肢もあったが、近隣に学校が多かったこと、クラスが十階でエレベーター1基しかなかったので、買いに行くのは面倒だった。こんなことなら、行きにパンの1つでも買い足しておけば良かった。だが昼飯代として貰ったお小遣いは、コミック購入予定予算に組み込んでいたのである。
父が在職中の話。私は家で、白い犬のぬいぐるみスリッパを愛用していた。ところがある日、いくら探してもスリッパがない。家族に聞いても、知らないという。まさかお父さんが、という疑念が浮かぶ。
いやいや、真冬のコッチはともかく、社員旅行でハワイに行った父が、あんなモコモコのスリッパを持っていくわけないだろう。そもそも、外では無愛想なあの父が、あんなファンシーなスリッパ持っていったらドンビキされるじゃないかと。
この社員旅行、当時はバブル期だったから可能だっただろうが、父は伊豆あたりの高級旅館で、美味い海の幸を食べれる方がいいと、行く直前までボヤいていた。飛行機旅が嫌だ、行きたくないと最後まで文句を言っていた。父は飛行機恐怖症で、九州あたりの出張にも新幹線で行っていたほどだ。ハワイまでの長時間フライトは、相当なストレスだったに違いない。まあフタを開けてみれば、飛行機の中でベロベロに酔っ払って、爆睡しているうちに往復飛行機は乗り切ったらしいが。
そして父は荷物と定番ハワイ土産と共に、薄汚れた私のスリッパを持ち帰った。犯人はやはり、父だった。
「女子社員から、すごく可愛いって、大好評だったんだ」
と、機嫌よく言う父。普段仏頂面の父が、可愛い犬のぬいぐるみスリッパ履いてるなんて、陰で何を言われていたものか。
母は、無頓着な父が、どこを歩いたか分からないスリッパは捨てると宣言した。私も、父の履いたスリッパを使う気にはなれなかった。父はスリッパに愛着が湧いたのか、なら俺が使うと言ったが、速攻で母は捨てた。
私が別の犬のスリッパを、父に買わせたのは言うまでもない。父も自分用を物色していたが、気に入ったものが見つからずに諦めた。ぬいぐるみの顔には、妙にこだわりがあった。
オグリキャップのぬいぐるみが流行ったときには、てっきり私へのお土産かと思ったら、自分の車に積んでいた。当時はレンタルが主流だったビデオも、ディズニーのファンタジアだけは自ら購入して、部屋でたびたび見ていた。あの顔で、可愛いものが好きだった。部屋にもいくつかぬいぐるみが転がっていた。退職記念に貰ったのか、自分で何処かで買ってきたか定かではないが、今更だが前者であることを願う。
そもそも持ち物にスリッパが必要なら、買うなり、いっそ便所スリッパでも持っていけば良かったのに、よりによって犬のぬいぐるみスリッパを持っていくとは。
発想が飛びすぎて理解できない。
2・会社での父
会社には、後輩だが父にそっくりな顔の人が働いていたらしい。集合写真で、母が父と間違えるほどよく似ていたとかで、父から「そんなに似てない!」と言われたが、後になって私もその写真を見たとき、「生き別れの双子?」と思ったほどだった。
父のそっくりさんも、なかなかお茶目だったようで、父の馴染みの居酒屋で、父のフリして飲んでいたとか。父は「あいつ、俺のフリして飲み食いしてんだ!」と憤慨していたが、ツケを回されたわけではないのだから、別に構わないだろう。いや、自分に置き換えると嫌だな、やっぱり。
ちなみにこのお店で酔っ払った時に、父が狸の置物1つくれと言ったら、ちょっと欠けた信楽焼の狸の焼き物を店主がくれて、父は私にくれた。この居酒屋、狸の置物が沢山置いてあって、父が飲みに行った時に渡せばいいものを、わざわざ会社に店主が届けに来たらしい。帰宅まで、机の上に40センチほどの狸の信楽焼が置いてあったら、会社の人達に何と言われただろうか。まあ、会社の同僚も行きつけの店だったらしいから、店主が会社を訪ねても大丈夫だったのだろうけど。
普段は仏頂面の無口な人だったが、飲み友達は職場に居たようで、その人達と「焼き鳥同好会」なるものを立ち上げた。月に何度か開催された「焼き鳥同好会」だが、ちょっと困った人間が居たらしい。物凄く大食いで、割り勘にすると周りが損をするという理由から、その人物の入会は断ってきたらしいが、「焼き鳥同好会」が開催する日は決まって、父の周囲をニヤニヤしながら付きまとっていたとか。見かねた大食いさんの同僚が、「足が出た分を俺が負担するので」と言って、参加が許可されていたらしい。だが焼き上がると同時に、仲間との配分を考えずに食べてしまうので、「あいつの正式入会は絶対に認めない!」と、よく家で愚痴をこぼしていた。私等にいわれてもねー、と家族で呆れた。
景気が良かった頃なので、社長も社員を都心の高級寿司店へ連れて行ってくれたりしたらしい。だが大食いさんのような人も居たので、いつの頃か、寿司屋のランクが質より量に下げられたと嘆いていた。
出張先で一番多かったのが、岡山と広島。岡山土産はきび団子、広島はもみじ饅頭が定番だった。一度だけ、岡山の店で一番安いが高価なことには変わりない果物の女王、マスカット・オブ・アレキサンドリアを買ってきたことがある。まだシャインマスカットが出るずっと前で、ブランド力もあって、家族で有り難くいただいた。
父は出張先で地元名物を食べるのが楽しみだった。福岡で生きたイカは美味しかったとか、どの県だが忘れたが、天然シマアジは人生で一番美味しい刺身だったとよく自慢していた。
ときに出張先の夕飯で失敗することもあったらしい。翌日の仕事を終えたら帰宅だから、仲間と奮発して、尾道で高級魚を食べた。ところが翌日になってから、急に仕事が1日延長することが決定、延長出張を想定した予備のお金が足りなくなり、本社に泣きついてお金を振り込んでもらったとか。その夜はホテルで、虚しくカップラーメンを食べたのだと、耳にタコができるほど聞かされた。
3・スポーツ観戦が好きだった父
父は隠れ阪神ファンだった。表向きにしなかったのは、当時の関東圏は巨人ファンが大半だったこと、父の親戚が中日のファンクラブに多く加盟してたからだ。祖父もファンクラブに入会済みだった。だから父は、表向きは中日ファンのフリをしていた。
阪神が20年ぶりに優勝したときには、私は辟易としたものだ。転勤のため大阪に数年暮らして帰ってきた幼馴染は、一家ともどもバリバリの阪神ファンで、学校では阪神優勝のことばかり聞かされた。そして家では父から阪神優勝の喜びを延々と聞かされた。このときほど、巨人より阪神が嫌いになったことはない。アンチ巨人だった理由、それはテレビ番組もラジオ番組も延長される理由が巨人軍だったからだ。
あのとき父は、新宿京王百貨店の特別ブースまで、一人でグッズを買いに行っていたほどだ。バスタオル、夫婦茶碗、ビールコップなど。家族がよくぞここまでと、呆れ果てた。早速、派手な縦縞のビールコップで、美味しそうにビールを飲んでいた。
友人の影響もあって、高校生になってから、ようやく野球の面白さに私も目覚めたが、それまではテレビの主導権を握る野球が憎らしかった。今のような延長回数制限もなく、特に中日と大洋(現ベイスターズ)の試合などは日付をまたいで、お陰でいつも楽しみに聞いていたラジオ番組が潰れたことが何度あっただろうか。それでなくとも大抵は、いつも放送時間が野球中継延長のため、ラジオ番組は放送予定時間より遅れるのが普通だった。
父が心から中日ファンになったのは、落合博満選手が中日移籍してからだった。もちろん阪神ファンも継続中。
父が落合博満選手のファンになったのは、きっかけがある。当時は社会人野球全盛の時代。落合博満選手が所属していたチームは強豪で、全国都市対抗野球大会出場の常連だった。父の会社もそれなりに強かったが、落合博満選手がいたチームの壁は厚く、地区大会で優勝は難しかったようだ。
応援にいつも駆けつけていた父は、試合中に落合博満選手がバッターボックスに立つと、応援団と一緒に叫んでいたらしい。
「落合、さっさとプロに行けー!」
実際に応援シーンを見たことないが、それってヤジなのか激励なのか、判断に迷うところだ。
実際にプロに入ってから、ロッテも応援するようになった。と言っても、当時は巨人戦中継全盛時代、パ・リーグの試合がテレビ中継されるのは、せいぜい土日の昼間にたまにの程度だったが。
ロッテから中日へ、そしてあれほど嫌ってた巨人さえ、落合博満選手が在籍中、父は応援した。なにがそこまで父を動かしたのか。
「アイツは、社会人野球のときから、別格だったんだ。敵じゃなければサイン欲しかったなぁ」
そりゃ、社会人野球時代にサイン貰いに行ったら、仲間にどつかれただろうな。
会社の接待で、大相撲の座席が使われることがある。会社が東京場所の席を確保していたので、ごくたまに父のところへチケットが回ってくることがあった。
父の父、つまり祖父は大相撲が大好きで、自分でも度々出向いて、国技館の一番安い当日席を買って観戦していた。だから会社のチケットで行けるとなると、父は同じく大相撲好きな兄を連れて、都心に住む祖父の家へ迎えに行くわけだが、父としては幕下上位から観れれば良い感覚だった。しかし祖父は国技館が開く朝8時か9時から観に行きたいと、前日から電話催促が凄かった。会社の接待で使われるぐらいだから、椅子席とはいえA席の前の方だったので、祖父としては間近で見れる機会を存分に堪能したかったのだろう。だがド田舎住まいの父と兄が、都心に出るのは一苦労だ。それでも、せっつかれて仕方なく、早朝から都心の祖父宅へ迎えに行った。
兄が中学生の頃だったろうか、運動会をサボって、父と祖父と兄の3人で大相撲観戦に行ったことがある。大相撲のために、運動会を仮病で休ませた親も親もだが、個人競技も徒競走ぐらいだったので、兄が休んでも支障がないはずだった。
この日が、昭和天皇の天覧相撲でなければ。
大相撲中継が始まると、母と私はテレビに釘付けになって、テレビに父達が映ってないか確認した。帰宅後に聞いた話では、正面といっても角に近い場所で、テレビカメラの横に座っていたから、映るはずがないと言っていた。だがそんなことを知らない母は、中継が終わるまでテレビから離れなかった。仮病休みの兄が、テレビに映ったらまずかろう。
会社接待用チケットだったので、お弁当と土産付きだった。お弁当や飲み物は観戦中に片付けてきたが、あんみつセットは私と母のお土産になっていた。しかし困った付属品もあった。湯呑みセットである。
三役力士の湯呑みが6個ほど入っていて、それが2人分で1回に12個。あの頃は客用湯呑みも、それで代用していたほどで、湯呑みを購入する必要性がなかった。なにしろゴロゴロあったのだから。知り合いにも未使用のは譲っていたらしいが、配るにも限度がある。歯磨き用のコップも、この湯呑みが使われていた。
ちなみに大相撲も若貴ブームがくるまでは、テレビのチャンネル権利が奪われていたので、私は嫌いだった。それでも定刻になると終わる大相撲への敵視は、野球ほどではなかったが。
4・音楽と宗教
「これ、面白いよ」
友人が音楽をダビングしたカセットテープを2本くれた。昭和のアニメソング歌手、山本正之さんのオリジナル曲だった。
そのなかで、「戦国武将のララバイ」という曲があった。ギャクだが的を得た、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の曲だった。これをたまたま耳にした歴史好きの父が、いたく気に入って、ダビングテープをさらにダビングして、ドライブや通勤のときに、よくこのカセットを聞いていた。母は「少年の夢は生きている」の歌詞が好きで、CDを探しに行ったこともある。残念ながら取り扱ってるCDショップはなかった。
車酔いしやすい私は、助手席が定位置で、カセット交換係でもあった。
車でカセットテープが聞けるというのも楽しいが、時に聴く音楽のことで家族と口論になることがあった。私は流行りのバンドの曲、母は演歌、兄は往年のアイドルソングだった。
父はクラシックが好きだったが、眠くなるのはマズイので、家族の曲目選択権を優先させていた。だが一人の時や、たまに家族がいる前でもセットしたままのカセットテープがそのまま流れることもあった。それは音楽ではなくではなく、お経だった。
父は自家用車で通勤していたが、その際に山本正之さんのテープと交互にかけていたのが、浄土真宗のお経のカセットだった。たまに皆で買い物に行くときも流すので、極楽浄土へのドライブにならなきゃいいなとも不安になった。
父がお経カセットにハマったのは、祖父が亡くなった後だった。鎮魂のため、と言うのもおそらくあったのかもしれない。
「カセットより、お葬式のときのあのお経、保存しておきたかったわねー」
と、母が呟く。分からないでもなかった。祖父の葬式のときに聞いたお経は、聞き惚れるほど良い声だったのだ。
我が家の菩提寺から呼んだお坊さんは、見習いのお坊さんを連れてきた。そして2人が合唱したお経は、お経とは思えぬほど、きき惚れるぐらいの素晴らしさだった。それこそ、お教イコール根暗の概念が、一時的にせよ覆るほどに。
母などは聞き惚れて、うっかりお焼香の順番が回ってきても気づかぬほどだった。祖父はいい見送り方をされたと思う。蛇足だが、火葬場で「これは、美空ひばりさんも使った炉ですよ」と説明されて、美空ひばりファンだった母や親類は感激していたが、火葬炉に感激って何?っていうのが私の感覚だった。
話が脱線するが、兄は56歳で病死した。晩年は脳出血、肝硬変などで苦しんだ。その約半年前に、父が癌で亡くなった。このときは、世界を震撼させたウィルスのせいで、国中が自粛期間。ウチばかりでなく、列席者が身内だけのところは火葬式で済ませるのが増えていた。父の時は一日葬だったが、広いホールに母と兄と私の3人で、あとは葬儀関係者と派遣のお坊さん。花いっぱいの見事な祭壇と、列席者の数が不釣り合いで、余計に物悲しかった。初めから終わりまで、しめやかな葬儀だった。
火葬式は、火葬炉の前まで行われる。市営の火葬場で、何組もの火葬式が同時に行われる事もあった。兄のときの派遣僧侶は、父よりも年上の90歳に手が届くお爺ちゃん。初めは大丈夫なのか、この人でと心配になったが、年齢とパワフルは必ずしも一致しない。ウチの浄土真宗のお経が唱えられてから少し遅れて、隣が日蓮宗のお経をお坊さんが唱え始めた。我が家の供養経を凌駕する大声だった。するとお爺ちゃん僧侶も声量を上げた。負けじと隣も一段と声を上げ、お爺ちゃん僧侶も負けじと声を張り上げる。この様子に、兄との最後の別れの哀しみは吹き飛び、肩を震わせて笑わず耐えるのに苦労した。
あとから葬儀屋さんからも「いやー、凄いお経合戦でしたね。笑いを堪えるのに必死でしたよ」と言われた。たぶん、お隣の遺族も同じ感覚だったに違いない。陽気な兄らしい、いい送り方だったかもしれない。
父はもっと面白い音楽はないかと、リクエストしてきた。いくつか選んだものはお気に召さなかったが、一時期流行った、電車のアナウンスをアレンジしたアーティストのCDにはハマった。たまに音の外れた鼻歌を歌っていたこともあった。
歴史、それも日本史が好きな父だったので、日本仏教の討論をするのも好きだった。だが家族で歴史に興味があったのが私だけだったので、私と父が話をしてるのを、母と兄はついていけないと、サスペンスドラマを横で見ていた。
色んな本を読んでいただけに、父は博識だった。しかし、本好きだからと、私の持っている歴史モノの漫画を貸せというのには閉口した。少女漫画は、歴史を扱ったものが意外と豊富だったが、なら青年もののコミックのが合戦の臨場感もあっても面白いからそっちを買いなよと言っても、漫画を買うなら歴史小説文庫を買うという。確かに父のご贔屓歴史小説家は何人かいて、毎月誰かしらが新刊を出すので、漫画まで手を伸ばしたらお小遣いに収まらないだろう。たまにハードカバーの刀剣図鑑や歴史地図なども購入していたし。
5・父とのドライブと墓参り
父はドライブが好きだった。だが行き先はほぼ決まっていて、箱根、昇仙峡、本栖湖、山中湖だった。なぜこれらの場所ばかり行くか、それは父が方向音痴で、初めて行く場所は必ず迷っていたからだ。
走っていて、いつの間にか舗装が切れた土の道(周囲は平原か林)だったり、目的地が大幅変更になったり。清里へ行くはずが、着いた場所が白樺湖だったこともある。まあ、このときオルゴールとガラス工芸品を買ってもらったので、私としては満足だったが。
母は、変なところへ連れてかれるなら、定番の場所でいいと言っていた。兄は、行きたい場所には友人と行くから、途中のテイクアウトの食べ物があれば行き先に頓着はなかった。
食べるのは、いつも蕎麦かうどん。昇仙峡では、ほうとうが多かった。ある店に入ったとき、注文した人数分ではなく、鉄の大鍋1個がドンと置かれた時にはドン引きした。食べても食べてもほうとうは無くならず、しばらくほうとうは食べたくないと心底から思った。
祖父は、今でこそ関東に改葬したが、生まれ育った東海地方の先祖代々の菩提寺に当初は納骨されていた。生前に、祖父自ら墓を購入していたのだ。
自家用車は4人乗り、祖母が乗ると1人余る。留守番は、いつも私だった。車酔いが激しいのと、犬の散歩や餌やりがあったのと、どうしても泊りがけ墓参となるため、残るのは私ということになっていた。癖の強い犬の散歩が出来るのは、家族で私と父だけだった理由も付け加えておく。
あるときの私を除く墓参旅行、夕飯も食べて帰ってくるかもしれないと思いつつ、寝かせておけば翌日には更に美味しくなるだろうとカレーを作った。単に自分が食べたい気分だったから。
出来上がって、いざ食べようと思ったら、家族が帰ってきた。母と祖母の形相は酷かったが、漂うカレーの匂いに、途端に表情は緩んで早く食べさせてと鬼気迫る勢いで詰め寄ってきた。急いで皿に盛って出すと、2人ともガツガツ食べている。父と兄も食べ始めたが、この2人の食べるペースは普通だ。
聞けば、母と祖母は、昼も飲み物だけだったという。マイペースな父はトイレ休憩に立ち寄ったサービスエリアで蕎麦を描き込むと、すぐに出発するぞと急かしたらしい。女性陣のトイレ行列待ちから、ようやく開放されてすぐだった。要領の良かった兄は、アメリカンドッグやソフトクリームなどを、各サービスエリアに立ち寄る度に食べていたので、さほど空腹感はなかったらしい。母と祖母が、どこか立ち寄ってから帰ろうと訴えても、運転して疲れてるから、早く帰宅して、酒でも飲みながらゆっくりしたいと聞き入れなかった。
「あんたが入れば、父さんも言う事聞くのにねぇ」
母と祖母に言われたが、これは父が私に甘いという意味ではない。家で一番口達者な私なら、主張を通せると言う意味だ。
だが私は長時間ドライブは苦手だし、そもそも定員オーバーである。兄もこの頃には免許を取っていたが、父は兄の運転を信用せずに運転席は譲らなかった。
まあ、兄の高速道路運転には私も不安に思わないでもないが、一般道は危なげなく運転していた。ただ兄には悪癖があった。もっと運転したいからと、わざと遠回りして帰宅するのだ。父は兄の運転した後のメーターを見ては
「またアイツ、こんなにガソリン使いやがった」
と、憤慨していたが。方向音痴の父と、裏道に詳しくて遠回り好きの兄。どっちもどっちだ。
祖母が亡くなってからしばらく後、父は高速道路を二度と走らないと決めた。
四十九日の納骨した帰り、父が運転する車がスリップして、危うく事故を起こしそうになったというのだ。このときも、泊りがけの親族集まっての法要のため、私は犬と留守番していた。祖母の通夜と告別式は、都心の家近辺の葬儀場で行われ、私も都心の家に泊まり込んだ。近所の人に犬が懐いていたので、散歩はいらないから餌と水やりだけお願いしたら、外で会うのとテリトリーに入られるのは別問題だったらしい。お礼の品を持参したら、牙を剥いて威嚇する愛犬に、「怖かった」と言っていたので申し訳ないことをした。祖母が亡くなったのが6月、四十九日は晴れれば真夏となるので、犬を繋ぎっぱなしにするわけにもいかない。ペットホテルに預ける選択肢も「あいつじゃ、預けるのは無理だろう」という父の意見に、皆が賛同して私が残ることになった。祖父母の一周忌や三回忌など、親族集まっての泊まりがけの参加の際には、私が自宅に犬と残った。
だが特別な法要のない祖父の命日墓参には、父と私は新幹線で出向いた。正確には、命日前後に行われる、菩提寺の同月に亡くなった人の合同法要への参加だったが。新幹線では酔いにくかったので、帰路に名物豆腐田楽料理の支店に立ち寄って食事するのが定番化していた。母がそれを聞いて不満を言ったが、年末の法堂は凍えるように寒い。法要後に親戚の家に挨拶に行くが、そこも離れの広い部屋に通されるので寒い。温かいものを求めて、豆腐田楽料理店に駆け込むというのが真相だった。
あれは祖母の三回忌だったろうか。母が前日に抜歯した。抜歯予定だったわけではなく、神経抜いても痛くて耐えられないので、抜いてもらったとのこと。
兄も仕事が休めず、日帰り予定で、両親だけが参加することになった。
母が、またしても憤慨して帰宅した。聞けば、新幹線ホームで父とはぐれ、探しているうちに乗車予定の新幹線が出てしまい、母は駅員さんに行き方を尋ねて、後発の新幹線ひかりに乗り込んだ。そう、乗車予定していた新幹線は菩提寺のある場所の最寄り駅に停車する、1日数本のひかりだったのだ。電車に疎い母が、どうやってたどり着けばいいか困惑するのも当然だ。しかも抜歯後で、体調も万全とは言えない。救いは、法要開始まで時間に余裕があったので、遅刻せずに済んだことだろう。
たしか区切りの法要は三回忌で終わりになったと思う。叔母である父の妹たちも高齢化で、関東から出るのが負担になってきたからだ。こうした状況から、祖父母を東京へ改葬することになったのである。
法要という形でなく、祖父の節目の命日に家族で墓参に行ったことがある。その際に、豆腐田楽料理の支店に母を連れて行ったら、「こんな美味しいものを、いつも食べてたのね」と、これまたオカンムリ。兄は豆腐田楽なんて嫌だというので、味噌カツ店へ別行動だった。
父の弁護をするわけではないが、新幹線なら飲酒しても帰れる。特に寒い法要の後に、豆腐田楽で熱燗は身も心も満ち足りるだろう。
話は母のことになるが、いつも留守番の私を不憫に思って、お土産に名物菓子を買ってきてくれた。美味しいと、母に言うのは危険だ。以来、毎回同じものを大量に買ってくるので、次第に見るのも嫌になった。他にも、母方の祖父へ母が様子伺いに行った帰り、たまたま祖父宅の近くのケーキ屋のチーズケーキをお土産に買ってきたのだが、美味しいと言ったら毎回、同じケーキをお土産に買ってくる。ついに父がいい加減にしてくれと、白旗を揚げた。
6・父へのお土産
ある年の冬休み、友人と三泊四日の旅行に行った。そして帰宅して、二階の階段を上ると、父が仁王立ちしていた。
「どこ行ってんだ、心配したんだぞ!」
開口一番に怒鳴られて、目が点に。いやいや、旅行へ行くって言ったし、そもそも母に聞けば行き先までわかるじゃないか。そう言うと、
「お前が旅行へ行ったあと、母さんと喧嘩して口を利いてない」
とのことだった。食べ物に関する愚痴をこぼしたら、母が激怒して、父を無視し続けたらしい。
こんなときの最強アイテム、必殺お土産。私は旅行のたびに、旅先の名物地酒を父に買って帰る。それ用の予算を母から貰っていた。
私がすぐに荷物をほどいて酒を出すと、途端に上機嫌になった。
だが今回は、いや今回も、旅の疲れを癒す間もなく、翌日にはドライブに連れ出された。昇仙峡だったか、当時は甲府市内にあった山梨宝石博物館だったか思い出せないが、ともかく山梨県だった。あのときの旅行目的は、母への謝罪の品を見繕うことで、安物だが綺麗な紫水晶風のブローチを買って帰って、母の無視は解除になった記憶がある。
父は、私が旅行に行くと、1週間以内に家族をドライブに連れ出した。どうも、自分だけ何処にも行けない疎外感があるらしいが、なら両親でどっか行けばいいじゃないかと言うと、会話が保てないと互いに言う。犬のことなら延々と2人で話すネタあるじゃないかとも思うが、出不精な母もドライブを楽しめるのだから良い気分転換にはなる。ちなみに1人でで何処かへ遊びに行くのは、両親とも寂しくて嫌だったようだ。子供である私たちは、友達とも旅行へ行っていたが、むしろ自由に予定を組める一人旅を楽しんでいるぐらいだったが。
幼い頃には思いつかなかったが、父が行きたいというドライブ先が事前に分かったときは、ガイドブックを購入して、目星の店にチェックを入れていた。そうしてドライブ中に延々と言い聞かせておけば、店に立ち寄らない、あるいはサービスエリアで済ませるなんて事態は防げるからだ。この手を使うようになってから、マトモな店で食事できるので、特に外食を滅多にしなかった母には好評だった。
高校の修学旅行が沖縄と決まった時には、父は某グルメ漫画の影響で泡盛の古酒を買ってきてくれと、お金を渡してきた。古酒は年代物になるほど高いので、父も助成金を出してきたのだろう。
だが沖縄到着時に学校から、お酒を買わないようにと注意されたので、これは困ったと思った。だが酒禁止は分からないでもない。男子の割合が多かった学校だったので、男子高校生が友達同士で休日に、飲み会をした話をよく耳にしていたからだ。
酒購入禁止令は、最終日の空港土産処で解除された。なんとかミッションクリア出来てホッとした。ちなみに学校からはお小遣い上限は決められていたが、それを守っていた生徒は、私が知る限りは居なかった。もちろん、私もだ。人数が多いので、先生もいちいちチェックはしてられなかったという事情もある。
買ってきた泡盛の古酒を、早速父は試飲して「美味い!」と喜んでくれたので、700ml入り瓶を持ち帰った甲斐があった。1週間経たないうちに飲みきってしまい、「また、飲みたい」と言われても、ネット販売がまだまだ少数派だった時代。物産展にでも赴かねば、近隣で入手は難しかった。そもそも田舎に物産展が開かれるようなデパートはなかった。
飛騨高山へ一人旅に行った時には、父の酒リクエストが多すぎて、さすがにこのときは宅急便を使った。最初に計画を立てたとき、父も付いてくる気だったようだが、犬の散歩をどうする問題になったとき、父は愛犬を選んだ。母も散歩できないわけではなかったが、15分ほどで切り上げてしまうので、犬が可哀想だというのが父の持論だった。父は荒天でない限り、毎日朝晩1時間は散歩させていた。
台風や大雪の時は、私が散歩担当だった。そうでないと父が出かけて、以前に堤防で滑って足を骨折したことが有るからだ。
昔、飛騨高山へ家族旅行に行った時は、私はほとんど何も食べられず、観光もできなかった。
大人になってからも、同じ病を再発したが、良い薬が処方されるようになってからは体調に変動はあっても、調子が良ければ旅行に行けるぐらいには改善していた。
当時より観光食べ歩きが随分と進んだようで、私が帰宅後に食べ歩きと、父に頼まれた酒を購入するために酒蔵巡りで、何種類もの酒の試飲を勧められて酔っ払った話をすると、「やっぱり俺も行きたかった!」と父は悔しげに言った。それでも買ってきた朴葉みそで、クール宅急便で送った酒を飲んで満足げだった。
飛騨高山の昔ながらの名物、甘くないみたらし団子。母はあれがお気に入りで、最初の飛騨高山旅行中に何本も食べ歩きしていたようだ。「なんで買ってこなかったの?」と言われても、半日かかっての帰宅の間に、団子は固くなってしまう。だから別のお菓子をお土産に買ってきたのだが、「そんなのレンジで温めればいいだけでしょ!」と言われた。「それなら団子の粉で団子丸めて、醤油つけて焼けば良いだけの話になるじゃん」と言い返すと、「焼き鳥と同じで、継ぎ足した醤油の風味が違うのよ」とのこと。まあ、一理ある。
私が旅行後に、兄も飛騨高山熱が出たのか、友人と旅行に出かけた。兄のお土産は、食べ物ではなく高山の合掌造りの置物だった。母は気に入っていたようだ。父には木製のぐい呑みを買ってきた。父は兄に酒の土産は頼まない。辛口の好きな父、甘口の好きな兄、酒の好みが正反対だったので、たまに兄が買ってくる酒は「甘すぎる」と言って途中で飲まずにほったらかしになり、それを兄が飲んでいた。
私は量こそあまり飲めないが、しいて飲むならさっぱりした風味の辛口が好きだったので、父に地酒係を指定されていたのである。母は下戸だった。
7・父の日
いつも6月の第二日曜日になると、「今日は父の日か」と催促するような口ぶりで言う。いやいや、母の日が5月の第2日曜日で、父の日は6月の第3日曜日。毎年訂正するのにウンザリだった。
母も父の日のプレゼントには悩んだ。確実に喜ぶのは酒だが、酒ばかり飲ませては体に悪い。いつも頭を悩ませて、結局は衣類やループタイになるのだが、父が手にとって最初から喜ぶことははなかった。
事前リサーチは私の役目で、それとなく父の欲しそうな物を調べる。面倒だから、いっそ図書券にでもすれば実用的じゃないかと言ったが、値段が分かるものは嫌だという母。どっちも面倒くさい。
父が本に感化されてか、銀のスプーンが欲しいと言い出した。だが都心のデパートにでも行かなければ、銀のスプーンなど売っていない。ならばと、田舎唯一のデパートで、父の日特集コーナーにあった銀製のライターを母に勧めた。狙いがあたって、いつになく父は酒以外の品を喜んだが、ガスをわざわざ入れるライターより、百円ライターのがよっぽど効率がいいと思う。だが、そこは拘りというもので、父は銀のライターをずっと愛用した。
前出のループタイは、「最初は」喜ばなかったと書いた。だが同窓会などに参加して、友人に褒められたりすると、途端に上機嫌になった。以来、何処かへ出掛ける時にはループタイを身につけるようになっていた。
服も茶色や青系統の地味な色合いばかりだったので、ある時の誕生日に、ワインレッドのチェックのシャツをプレゼントした。
「こんな派手なのは恥ずかしくて無理だ」
そう言う父に、「騙されたと思って、今度の退職者食事会に着ていってみな」と押し付けた。渋々、言われたとおりに、気が乗らなくとも、私がギャーギャー言うので仕方なく着て出かけていった。
帰宅後に、仲間から褒められたと喜んだのはいい。だが以来、それがお気に入りとなって、散歩でも着ていくようになった。母がろくな外出着がないのだからと隠しても、タンスを漁って着ている。だからすぐにヨレヨレになった。母が似たようなシャツを買ってきて、外出用にと隠していたものも、いつの間にか見つけて散歩に着ている。いつしかタンスは似たようなチェックのワインレッドのシャツが大半を占めるようになった。さすがに夏場は青系統の半袖ポロシャツを着ていたが。
ちなみに父の誕生日や父の日、家族の誕生日などの行事は、出前寿司に決まっていた。たまに兄や私が、寿司をとるお金をくれた方が嬉しいのだけどと言うと、
「俺がうまい酒を飲めないじゃないか!」
と父が反論した。そう、年中行事の食事は酒を中心に考えられていた。まあ、昼間から飲むような人ではなかったので、そこはケジメのラインを引いていて偉かった。
8・父の食への拘り
父は、肉も好きだが刺し身が一番好きだった。特に白身魚の珍しいもの。そんなのはいくつか先の駅の、隣の隣の市にある、近隣で一番発展した駅のデパートに行かないと手に入らなかった。焼き魚は鮎、それもちゃんと蓼酢がついてないと怒る。鱧の湯引きも好きで、電車に乗って買いに行ってたりしていた。
父は単身赴任こそ退職前の半年間、静岡でこなしたが、基本は本社の研究室で製品開発に携わっていた。単身赴任中は、週末になると高速道路を使って帰宅、日曜の午後になると赴任先に戻る感じだった。電話で毎日、今日は何を食べているのか聞くと、カツオの刺身と焼いたシシトウを肴に酒を飲んでいると言う。いつも刺し身がカツオで、他に無いのかと聞くと、寮へ帰る最寄りスーパーは品数がなくて、カツオの刺し身が一番美味しかったのだとか。その分、帰宅時は美味しいものが食べたいというので、帰宅当日は家族の誰かがバスに揺られて新鮮な白身の刺し身を買いに行った。母は日曜日の夜と月曜日の朝の分の、レンジですぐ温められるオカズを作って持たせた。それと調理せずとも食べられる野菜。タッパーに作り置きを沢山しなかったのは、父がタッパーを持ち帰ってくることがなく(無頓着な父なので洗いもしないから、食べたらゴミに出せと指示)、また、寮の冷蔵庫が小さかったらしいのと、父が帰宅して出しっぱなしにする懸念があったからだ。だが整理整頓は苦手だが、食中毒への警戒心は人一倍強かったので、仮に出しっぱなしにしてた翌日用のタッパーのオカズには、手を付けずに捨てていたという。
そういえば在職中に、国だか都道府県だかの査察が入ったことがあるらしい。父の机は物が山積みで、査察官から「もっと整理してください」と注意されながら、全てを段ボールに詰められて持っていかれたという。たぶん、そのときは机から物がなくなって、さぞスッキリしていたことだろう。父は、所持品全て持っていかれたより、査察官に片付けろと言われたことに憤慨していた。
母が歯科の通院で、当時話題になっていた某グルメ漫画を待ち時間の暇つぶしに買って読んでハマった。ウチの母は週刊誌は買っても、本は巷で話題になっているもの以外は買わなかった。そうえば、母の買っていた雑誌の懸賞に、余った年賀はがき消化のために応募したところ、ひとめぼれのお米が当たったことがあった。
このお米が、家族の誰もが驚くほど美味しいお米だったので、皆がいつも以上におかわりして、すぐに無くなった。母は一時期、いつもの銘柄ではなく、色んな産地の「ひとめぼれ」ばかりを購入していた。だが懸賞のお米レベルの味には手が届かず、「なにが懸賞のものと違うのか」と考え込んだ。まあ、私に言わせりゃド田舎の米屋の米と、産地直送の米を比較するのがそもそも論点違うのではと思ったが。年賀はがきの消化が完了してからも、懸賞に応募するために、母はわざわざ葉書を買ってきて、私に書かせた。母の方が達筆だったから目に留まるだろうと言っても、字が恥ずかしいから嫌だと言って書かない。
いやいや、歴代の担任から、連絡帳やプリント提出物に描かれた母の文字に「お前の母さん、字がうまいなぁ」と褒められていた。それを告げても「お世辞に決まってるでしょ!」と本気にしなかったが、本当に字がきれいだった。悪筆というのは、父の方だ。まだ読める分だけマシだが、医者の字はどうしてあんな暗号みたいな癖字になのだと、今でも知人と話すことがある。頭が良いほど頭脳に力が偏り、字が汚いのだろうか。
ともかくこのグルメ漫画が、父の食への拘りに拍車をかけた。母が「これ面白かったよ」と父に貸したら、最初は馬鹿にしていた父が、読み終えるなり本屋へ出向いて既刊全てを購入してきた。そしてウンチクに更に拍車がかかった。
前出の泡盛古酒もだが、鮒寿しが食べたいと言い出した。そんなの、近隣で一番のデパートさえ売っていない。都心のデパートでも扱っている店があるかさえ分からない。なにしろ当時はスマホもない時代、調べるのは自分の足でが主流だった。
話がまた横にそれるが、中学生の頃にアニメで流行った「タッチ」。これを父が買ってくれたが(両親も愛読)、7巻だけは見つからない。主人公の出来の良い双子の弟が事故死する巻だ。
幼馴染もこの漫画を集めていて、なら探しに行こうとある日、駅3つ分の本屋を16軒巡った。だが7巻だけは置いてない。それでも執念で歩き訪ねて、やっと最後の駅の普段行かない本屋で見つけたときには、購入後にジュースで乾杯した。前日に入荷したばかりだと、店員さんが言っていた。
あの当時は電子書籍がなく、まだバブルも始まる前で、本屋が多くあった。今ではあの当時巡った本屋で残っているのは、僅か2軒。売り場もかなり縮小された。
鮒寿しの話に戻る。あれは、本当に偶然だった。友達と上野動物園帰りに立ち寄ったデパートの特設会場で、滋賀県の物産展が開催されていたのだ。まさかと思って探すと、やはりあった。しかしこの量でこの値段、高っ!
だが手持ちの金で買えない範囲ではなく、帰ったら父に請求すればいいと思って購入。
帰宅して父に渡すと、踊りださんばかりに喜んでいた。鮒寿し代金は、手間賃と合わせて貰えたので、あのとき買って本当に良かった。
母も鮒寿しには興味があった。母には耐えられる臭いだったので、食べた感想は「しょっぱい」だった。私は封を開けた瞬間から、これ駄目な奴だと、試食どころか、すぐさま自室へ撤退した。
父の口には合ったようだ。珍味好きにはたまらない味だったようで、勿体ないからと日数かけてチビチビ食べていた。これが冷蔵にある間中、私は食欲が失せた。鮒寿しが消えるまで、父と食卓を囲むこともなく、時間をずらして食べた。窓は全開にして。
祖父の地元でよく食べられていたという、車海老の踊り食い。父も好物で、祖父宅へ行った時には振る舞ってもらっていた。祖父が父が来る時は、アメ横までわざわざ買いに行っていた。祖父は父にしか活き車海老を出さなかったが、頼まれても生きてるエビなど食べたくない。
母がたまたま駅のデパートで見つけて、生きた車海老を買ってきた。買ってきたのはいい。だが生きている海老の殻を剥くのは嫌だという。父も食べるのは好きだが、剥くのは嫌だと。
「おまえが一番、生き物に慣れているから」
そう言われて、私にお鉢が回ってきた。生き物は好きだ。だが海老の殻を剥くのとは関係ない。むしろ、よくこんな残酷な役目を押し付けてきたなと思ったが、勿体ないので恐る恐る殻をむく。活きが良すぎて、ボウルに入れた車海老がシンクから飛び出すものもいた。それでもなんとか、父の分を剥き終えた。残りは冷蔵庫に入れておいて、天ぷらにでもすればいいと。その頃には息絶えて、母でも殻剥きが出来るだろう。
父は、喜んで食べた。私たちは殻を剥いても動いている海老を、食べる気にはなれなかった。
冷蔵庫に入れても、エビの生命は翌日も絶えていなかった。だが動きはだいぶ鈍くなっていた。母が天ぷらの準備をする傍らで、またしても殻剥きは私の役目となった。車海老の天ぷら、直前まで生きていただけに、家族で「美味しい」の連発だった。天ぷらにも目がない父は、
「今度あったら、もっと買ってこい。金は出すから」
と言った。それよりも自分で殻をむいてくれ。私は大量の生きた海老を剥きたくない。
ちなみに天ぷらとなった海老は、動きが完全に止まるまで油に投入できなかった。跳ねたら危ないからだった。
揚げ物は週に一度は作っていたのではなかろうか。年季の入った中華鍋に油を注いで、母は
「結婚当初から揚げさせられたのよ。実家で揚げ物なんて、年に数回だったのに」
とボヤいていたが、母の天ぷらや唐揚げは、家族ばかりでなく、客人に振る舞うと大好評だった。病気でしばらくキッチンに立てなくなったが、調理に復帰した後も揚げ物は危険だからと、私が交代した。
もっとも中華鍋なんて怖くて扱えないので、温度計の付いた専用天ぷら鍋を購入した。母のように勘で揚げ物する技量はなかったので、温度計と料理本に従って食材ごとの温度と揚げ時間が必要だった。
母は油の片付けの後で、冷めた揚げ物しか食べたことがなかったので、揚げたてに感動していた。私は母ほどストイックではないので、揚げたてをつまみながら揚げ物をしていたが。
父の好物の中で、我が家最大の敵だった珍味がある。クサヤだ。
これを焼かれると、家中が臭くなる。窓を全開、換気扇フル活用。私が成長して口が達者になると、父は瓶入りのクサヤで我慢することになったが、それでも臭くてアロマキャンドルが役立った。
あるとき、母と兄と私で、親類の家に出掛けた。父は犬もいるからと、留守番に回った。他県に住む親類の家に遊びに行くのは、バスと電車の時間がかかる。電車の乗り換え時間待ちもあるが、兄がいると効率よく電車移動ができた。兄はオタク一歩手前の鉄道好きだった。厳密に言うと鉄道模型蒐集マニアだったが、時刻表を読み込むのも好きだった。
まだ兄が中学生だった頃、母方の祖父宅へ正月の挨拶に行ったときのこと。つい時間が過ぎるのを忘れて、帰りのバスに間に合いそうになかった。当時の終バスは平日で21:30、正月ダイヤの終了は更に早い。だが兄は、いつもと違うルートで、終バスに間に合わせたのだ。「このルートだと座って帰れないのが難点だけどな」と言っていたが、自宅までのタクシー料金を考えると、電車で座れなくても母には有り難かっただろう。父は、午前中に家族で父方の祖父宅で飲み明かしていたので、母方の祖父宅へは同行しなかった。父方と母方の祖父宅は、電車で数駅の距離だったので、元旦の年始挨拶回りを同日で回るのも可能だった。
話を戻すと、兄のお陰であの日も夕食に間に合う時間には帰宅できた。父は何か買って食べるから、夕飯の心配はしなくていいからゆっくりしてこいと言っていた。だがこれこそ、父の狙いだった。
私は幼い頃からアレルギーのせいで鼻が悪かったが、嗅覚は犬並みと言われていた。特に臭いもの探知は鋭くて、これさえなければ人生がもっと楽だっただろう。幼い頃は公衆トイレにさえ入れなかったほど臭いに敏感で、家族にはよく迷惑をかけた。
ウチは田舎の新興住宅団地にあった。団地の入口に入ったとき、クサヤの臭いが鼻をついた。
「まさかお父さん…」
母が呟く。自宅前に立つと、母と兄にも分かった。
家に入ると、父がクサヤをムシって、犬に与えながら飲んでいた。予想外に早い私たちの帰宅に、父は慌てた。
「なんでこんな早く帰ってきた!」
父は叫んだが、母が父に夕飯を作りたいから早く帰ろうと言ったから、居心地の良かった親類宅から渋々引き上げてきた兄と私だった。こんなことなら父のためにも、もっとゆっくり帰宅したほうが賢明だったようだ。
それにしても犬がクサヤ食うとは、本当にこの愛犬は父激ラブなんだなと改めて思った。オスだったが。
即刻窓を全開、換気扇フル回転となった。私は父が食べ終えるまで、自室に籠もった。
クサヤが近所のスーパーに常時売っているということは、父の他にもクサヤ愛好家が少なからず居るということだ。自宅で焼くなら、まあ良い。私としては良くないが。
母が近所のスーパーに、数年だが働いていたことがある。お惣菜売場の裏方で調理していたのだが、このときの惣菜担当チーフが、仲間からの依頼でクサヤをスーパーの調理場で焼いたらしい。スーパー営業中に、である。店中にクサヤの悪臭が充満して、店内は騒ぎになったとか。
チーフと仲間は、店長からこっぴどく叱られたらしいが、あんな悪臭が店内に立ち込めたら大騒ぎになるのも当たり前。よく降格やクビにならなかったものだ。
確かあのときは夏の陽気だったから、お盆か祖母の命日辺りだったと思う。家族4人で墓参に行き、昼ご飯と言うことになった頃。私はガイドブックで、目星の寿司屋をピックアップしていた。
だが父は、うまいきしめん屋に行こうと言い出した。結局、両親はきしめん屋へ、私と兄は駅の反対側にあるガイドブックの寿司屋へ行った。兄は「うまい、うまい」と食べていた。その前に大将の許可を得て、寿司定食の写真も撮っていた。茶碗蒸しやサラダ、ミニデザートもついたリーズナブルなお寿司は、海が近い事もあってネタも新鮮で美味しかった。両親と合流する前に通りがかった魚屋で、家族の好物である大アサリを、いつもこちらに来た帰りの駅ビルで買うよりも、安く購入することができた。発泡スチロールに保冷剤も入れてもらって、兄と共に合流地点である駅に到着すると、険悪な両親が待っていた。
聞けば、目当てのきしめん屋が休み。他のきしめん屋も休みで、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだだけというのだ。なら喫茶店でサンドウィッチでも食べれば良かったのに、父がきしめんに拘って、新幹線駅のきしめん屋で食べると、言う事聞かなかったらしい。母も自分だけ食べるわけにはいかないので、我慢したのだとか。
在来線で新幹線駅まで戻り、両親がきしめん屋で食事している間、私と兄は夕食用の駅弁を選んでいた。大アサリは帰ったら焼くが、ここから帰宅するまでに4時間以上かかるので、他のオカズを作るのは面倒だし。両親を待って意見を聞こうにも、この駅に停車する新幹線ひかりの時間が迫っていたので、先回りして買っておこうかと。選べるように種類は、全てバラした。
ちなみにここから乗り継ぎを繰り返して帰宅するのに片道4時間以上かかるが、一番乗車時間が短いのが、一番長距離移動の新幹線。自宅行きのバスに乗っている時間が最も長いのだから、皮肉なものだ。
「あー。だから寿司屋に一緒に行けば良かったのに。あの寿司、美味かったよなぁ。またコッチ来ることがあったら、食べに行こう」
兄は言った。
妙に頑固なところのある家族なので(自分含めて)、一度こうだと決めると修正するのが難しいのだ。母は優しさから、父にくっついて行ったのだろうが、あのときコッチに来ていたら、存外寂しがり屋な父も憤慨しながら付いてきたと思う。
思い出の味というのが、誰にでもある。大学生になった父が、兄妹の中で一番仲の良かった末の妹と2人、愛知県の親戚宅へ遊びに行ったときのこと。親戚が、トンカツを振る舞ってくれた。このときが人生初のトンカツとの遭遇で、2人は落涙せんばかりに美味しさを満喫したという。だがその話をしても、祖父が家でトンカツを作ることはなく、他の妹達から、たいそう羨ましがられたらしい。
二度目のトンカツは、築地に住んでいた大学時代の友人の奢り。この友人の家は裕福だったので、友人宅に遊びに行ったとき、築地の店に出向いてトンカツを食べさせてくれたのだとか。家庭とは違う味に、これまた感動と感激の嵐が父の心に吹き荒れる。
「大阪で牛カツを食べたが、やはりカツは豚に限る」
トンカツを食べるたびに、父は話した。その友人との交流は年賀状だけになったが、父とトンカツを食べた末の妹は、15年以上前、兄妹の中で一番早く病死した。本当の意味で、トンカツは父にとって亡き妹との思い出の味になったのだ。
9・新しいものが好きな父
私の3歳の七五三はやらなかったのか、尋ねたことがある。
「やったわよ。でもねー、お父さんがカメラにフィルム入れるのを忘れていたのよ」
母は答えた。デジカメが登場するまでは、写真は現像に出すまで出来が分からなかった。真っ黒で現像ということも珍しくなかったという。初代愛犬の子犬時代の写真も、失敗して残っていない。
カメラ好きは遺伝かもしれない。父方の祖父は、花の写真を撮るのが好きだった。だが撮った写真からマトモな写真が現像されるのは珍しかった。大抵は抽象画のようなピンボケ写真だったからである。それでも祖父は満足だったようだ。カメラで撮った花は、自宅の屋上ベランダで育てたのや、区内の植物園のもの。父が見かねて最新型のカメラを買ってプレゼントしたらしく、多少は祖父のカメラの腕もマシになったようだが、それでも披露された写真に「これは何?」と尋ねると、「ベゴニアに決まってるだろうが、おまえは目が悪いのか」と逆に怒られた。同情を寄せる祖母や母だったが、火の粉を浴びたくないため擁護はなかった。
デジカメ登場がもっと早かったら、祖父もマトモな写真が撮れただろうに。
父は写真失敗が多いのに、懲りずにカメラを新調した。新調しても似たような初歩的な失敗が多かったが、出始めのポラロイドカメラを購入してから失敗は減った。だが写真印紙が分厚いかったので、アルバムに収めるには向かなかった。
そしてついにデジタルカメラの登場。いまのスマホと比べると、あり得ない画素数の小ささだったが、町会主催のどんと焼きの模様を撮影して、まだ行事が終わらないうちに自宅プリンタで現像して持っていったら、皆に驚かれたと自慢していた。
結婚して1、2年後、兄が生まれて間もなく大阪転勤となった。それを機に薄給にも関わらず、カラーテレビを奮発して購入した。当時の借家でカラーテレビのある家は周辺になく、近所の宝塚ファンの子供や母の同世代の主婦が毎日のように見に来ていたというから、慣れない土地でのコミュニケーション手段にはなったと思う。
父としては、野球や大相撲中継を見たかったというのが本音だろうが。
そういえば大阪に居たなら、観光に何処へ行ったか尋ねたら、母が言うには奈良公園に一度連れて行ってもらえただけ、大阪城も通天閣も連れていってもらえなかったと愚痴が出る出る。大阪といっても都市部から離れた場所だったらしい。つくづく田舎に縁があったようだ。母は生まれこそ満州だったが、帰国後の疎開を除けば東京都区内暮らしだった。父も疎開以外は、東京都区内生まれの区内育ちだった。それが、結婚してからは区内とは縁のない家となったというから、因果なものだ。転勤前と転勤後も東京郊外暮らしだったようだが、両方とも駅に近い場所だったので、便利だったらしい。もっとも徒歩で駅に出れるのも考えもののようで、その件に関しては後述する。
一度、会社近くのが便利なのだから、持ち家を買うなら、会社に近い場所のが良かったのではと父に聞いたことがある。本当に、会社の近くだったら、交通や買い物にも便利だった。父の答えは、
「会社の近くになんて家を買ったら、すぐに呼び出し食らったり、仲間が家に入り浸るだろうが。なにより土地が高い」
父の言い分も一理ある。だがこんな大きな買い物を、母にも相談せず契約したというのだから呆れる。祖父からも「田舎はともかく、なんでこんな立地の悪い場所を買ったんだ!」と怒られたとか。
そう、本当に不便なだけでなく、土地自体が悪かった。水はけが悪くて大雨の時には家の周囲は水たまりどころか池に、庭は掘れば掘るだけ石がゴロゴロ。竹林を開発した団地らしいが、祖父が言うには、竹林の前は川原だったのではないかとのことだった。確かに、団地の近くに川が流れていた。祖父の庭改造計画に、母も駆り出され、まず石を取り除き、それから黒土を入れたのだという。水はけの悪さ、私にはこの黒土が更に悪化させたのではと思っている。土いじりするようになって、この土、水を吸い込みすぎて、そのまま草花を植えると根腐れ起こすことに気づいたからだ。自分の花壇には腐葉土と赤玉土で調整した。そしてその、フカフカな土を愛犬が気に入って、昼寝場所に決め込んだのだった。
別の場所も花壇改良してバラを植えたのだが、祖父がその土を気に入って花壇の半分近くを祖父用に占拠された。祖父が好きなサクラソウや菊などを勝手に植えるので、バラに追肥するときや草取りには、祖父の草花を踏みつけたり宿根のサクラソウを引っこ抜かないよう、細心の注意を払う必要があった。
持ち家購入を機に、車を初めて買ったらしい。その前はどうしてたのかと聞けば、自家用車はないが、父は免許を持っていたので、会社の派手なロゴが入った車を使っていたとか。母は生まれて間もない兄を連れて行くのに楽だったが、派手な車に乗って移動するのは恥ずかしかったと言っていた。運転している父は、運転するのが楽しければ車体などどうでもいい無頓着な人だったので、むしろ大型スーパーの駐車場に止めても、すぐに車の場所がわかって良いと気に入っていたとのこと。
そうは言っても、いざ自らが自家用車を所有することになると拘りが出てくる。
父の義弟がハイクラスの車を運転してると、
「あの車、○○社の高級車だぞ。くっ、生意気な」
と悔しがっていた。だが家のローンも残っているとなると、高い車は手が出ない。
外車には興味がなく、燃費の良い日本車こそが一番だとよく言っていた。そういえば、父の本家筋は愛知県で疎開先も愛知県だったにも関わらず、愛知の有名な会社の車は購入しなかった。そこの創業者のことは尊敬してると言っていたにも関わらず。疑問をいだいて尋ねると、
「会社の奴らがあの会社の車ばかり買っているから、駐車場で間違えそうだ。それにいま乗ってるのは、会社の隣に販売店と修理場があるから、便利なんだぞ」
効率的と言えば効率的だが、同僚が同じ自動車会社のランク上の車を買うと、悔しがって愚痴をいうの繰り返しだった。
四輪駆動車が登場するまでは、降雪日にはバスを乗り継いで出社していた。そして四駆が出ると真っ先に購入した。まあ、当時は今より降雪量も多かったから、四駆の方が出勤には効率的だったのだろう。冬の長野方面に同僚と仕事で出掛けたとき、たいそう同僚から羨ましがられたと、自慢げに話していた。だがその同僚が間もなく、違う会社だが値段の高い四輪駆動車を買った時には、やはり悔しがっていた。
その人と同一人物か定かではないが、四駆を買って喜びはしゃいで、雪の田んぼに入り込んで動けなくなり、レッカー車を呼んだ話は、雪が降る度、出てくる話題だった。
雪といえば、昭和の春間近な大雪のとき、団地内の駐車場の屋根が幾つも潰れた事があった。ウチはなんとか無事だったが、洒落た駐車場の屋根ほど被害に遭ってたように思う。
平成の大豪雪の際には、団地の半分以上の駐車場の屋根が潰れた。その頃、ウチは駐車場の屋根を撤去していたので潰れることはなかったが、雪の中から車が出せるようになるまでかなりの日数を要した。あの大雪をきっかけに、駐車場の屋根を撤去する家も相次いだ。
そもそもバスさえ、あのときは1週間運休だった。近くのスーパーへ、近所の人と雪を掛け分けながら行くと、入荷がないから品物も店の在庫のみ。残り少ないそれを買い漁る客と、レジの長蛇の列。停電がなかっただけ幸運だったとしか言えない。
そういえば、普段は雪好きで雪に半ば埋もれながらでも散歩する愛犬が、玄関を開けた途端に家の中へ引き返したのは、あの時が初めてだった。団地内の道路を近所の人総出で雪掻きしたが、雪を捨てる場所がない。何処の家も車を出せる状況ではなかったので、駐車場の前にうず高く集められた雪の山が方々で見られた。また、エアコン室外機の周囲の雪を取り除く作業もあった。室外機までたどり着く道を確保しなければならない。せっせと雪を庭の方に投げ捨てながら進んでいくと、愛犬が後ろをついてきた。トイレが我慢できなくて、掻き分けた雪道の雪壁にジャージャーかけていた。たまに屋根から雪が落ちてくると驚いて鳴いたが、とりあえず室外機までの道ができると、狭い道を往復しながら愛犬は走っていた。降雪中は家に閉じこもりきりだったので、ストレスも溜まっていたのだろう。だが室外機だけでなく、ガス給湯器周辺も雪を除かないと危ない。そこまで辿り着こうと雪掻きをしているときに、勢いづいて止まれずに激突してくる愛犬が、いささか迷惑でもあった。
夏場の気温上昇が子供の頃と比べて深刻になった頃、父は祖父母を心配してエアコンを購入して取り付けてもらった。ところが祖父母、倹約家で滅多にエアコンを使わない。当時は従姉妹が通学に便利だからと祖父母宅に居候していたらしいが、エアコンを頻繁に使うので、祖母がリモコンを隠してしまったらしい。こんな暑くては遠くても自宅から通った方が快適だということで、従姉妹は祖父母宅から撤退したとか。
10・父と犬
父を語る上で欠かせないのが犬。
我が家で犬を飼うまで知らなかったが、子供の頃から父は、否、父の実家は犬好きだった。祖母が高度経済成長期の工場から輩出される煙で喘息を発症するまでは、犬をずっと飼っていたというのだから。
そして、普段は酒が入らないと妹たちの前でも無口な父が、犬のことになるとスイッチが入る。父には妹が4人いて、目の前で話を聞いたわけではないので定かではないが、妹たちも犬を飼っていたそうだ。血統書付き柴犬を。まあ本家でも柴犬飼っていたというから、犬好きの家系だったのかもしれない。
我が家は3代目に初めて血統書付き柴犬を飼ったが、初代と2代目は雑種だった。ただ父にとって犬は雑種でも血統書付きでも、自分の家の犬が一番。愛犬の素晴らしさについて、妹たちと喧々諤々、いかに自分が愛犬から愛されているか、自慢し合っていたそうだ。
父の子供の頃の話で、聞いた時に父が何歳頃ということまでは聞かなかったから、どの話が最初かは分からない。ただ、戦時中は飼い犬も毛皮を取るために徴収されたと学校で学んでいたから、疎開先で犬を飼っていた話にはアレ?と思ったことがある。ただこの犬も、厳密には父一家の犬ではなく、親戚の犬だったようだが、哀れな末路を辿ったようだ。
祖父は疎開先で、カボチャを作っていたそうだ。そういえば軍に徴収されなかったのかと聞けば、父いわく、年齢で対象から外れたとのこと。代わりに軍の工場で働かされていたらしい。この辺りのこと、夏休みの歴史の宿題を提出する際、題材にして聞いておけば良かったな。いや、あの祖父から聞き出すのは困難だっただろう。祖父が溺愛していた兄になら、何でも言うことを聞いていただろうが。
祖父は家族を外食には連れて行かなかった。単に家族が多かったことも理由に挙げられるが。だから子供だった兄が、祖父が中華街に連れてってくれてご馳走してくれたと聞いたときの父は、「俺には一度だって、そんなことしてくれなかったのに」と悔しがった。
だがそれも、兄だからこそ祖父も特別扱いしたのだろう。当時、兄が4歳か5歳の頃、このときは大阪転勤終了して東京郊外に戻っていたが、少し母が目を離した隙に行方がわからなくなった。母が必死になって兄を探していたとき、祖父から電話がかかってきて「玄関を開けたら、○○がいたから、仰天した」と。兄は大好きな祖父に会いにたいからと、一人で駅に行き、記憶をたどって電車を乗り換え、客の後ろについて平然と祖父宅の最寄り駅を下車、迷わず祖父宅にたどり着いたのだとか。この件があって、祖父の兄への溺愛は加速した。孫だが養子にして、少ないながらも財産分与の権利を与えたいと、両親に頼み込んだほど。当然、両親は却下した。
軍の工場仕事の合間に、祖父はカボチャを作っていた。どのくらいの規模の畑か知らないが、1トンものカボチャを作って、その重さを量るのを祖父は楽しんでいたそうだ。
家族も親戚も、カボチャ尽くしで辟易としたという。小料理屋をやっていた祖父が、カボチャのうどん、カボチャのパン、カボチャの雑穀雑炊など様々なものを調理したらしいが、メインはカボチャなのでどれも味は一緒。カボチャに飽き飽きした皆は、残したカボチャを犬に与えた。老衰か、それともカボチャの食べ過ぎか定かではないが、犬はこの世から旅立った。まあ戦時中に食べるだけ食べたのだから、犬としても餓死よりマシだったかもしれない。
戦後、東京に戻った父一家は、生活が落ち着いた頃に犬を飼いはじめたようだ。愛玩目的ではなく、祖父としては番犬の役割を期待したのだろう。ところが犬好きの父の妹たちは、競って寝る時に犬を自分の布団に入れていたという。それが祖父に見つかって「コラッ!」と叫ぶと、犬は脱兎のごとく逃げ出したのだとか。それでも懲りずに妹たちは、祖父が去ると、また犬を布団に入れていた。
祖父は愛知県生まれだが、結婚を期に上京した。どこ訛なのか知らないが、祖父は「サ行」の発音が苦手だった。だからアジサイも、アジャハイになっていた。言葉を聞き取るのに苦労した。ともかくフィーリングで受け止めるしか無かった。聞き返せば短気な祖父に怒られるからだ。
こんな祖父だが、小料理屋をやっていたせいか、人付き合いがいい。私には口うるさい祖父のイメージしかないが、近所でよく麻雀を楽しんでいたと言うから、他人との付き合い方は上手だったのだろう。父とは正反対だ。
そんな祖父が、父が貰ってきたばかりの子犬を、仕事場である店に連れて行っていたという。客ウケを狙って、今で言うところの看板犬としたのだろう。ある客が、熱心に子犬を欲しがったので、祖父が根負けしてあげてしまった。それを知った父は、祖父には逆らわなかった父が、猛烈に祖父を責めて直ちに子犬を連れ戻せと言ったとか。だがこの客は近隣の人でも、常連でもなかっただけに、結局子犬は戻ってこなかった。
「本当に可愛い子犬だったんだ。真っ白でフワフワして。それを親父の奴、俺が学校行っている間に、勝手に店に連れ出していたなんて」
父は思い出す度に腹を立てていた。まあ、父の愛犬に対する猛愛ぶりを見ていれば、父が家にいる時に、祖父が店に連れ出せるわけもなかっただろう。
我が家初代愛犬が、ブチ入りだが白くて毛も長かったので、父は離れ離れになったその子犬の面影を、初代愛犬に見ていたのかもしれない。これだけの愛犬家である、持ち家を買ったときに、犬を飼う発想はなかったのかと尋ねた。
「母さんに反対されたんだ。俺に犬の世話など出来るはずがないから、自分(母)が結局、世話する羽目になるから嫌だと」
以来、犬を飼うのを諦めたという。それが、犬恐怖症から一転して犬が欲しいと執念深く私が粘ったことで、念願の犬を飼うことが出来て、心のなかで喜びが爆発したのだとか。その行き過ぎた愛情で愛犬と相思相愛になり、犬も私が選んで我が家に来た恩を忘れて、私よりも父に忠誠を捧げたわけだ。
実は母にも犬を飼うことに壁があった。子供の頃、愛犬を野犬狩りに連れて行かれて殺処分されたトラウマをかかえていたことが、後に明かされた。もう犬の亡骸を前に泣くのは嫌だったと。
本当に犬が欲しくなかったなら、母も毎日、嫌がらずに犬のために料理をしなかっただろう。この初代愛犬、父がグルメ犬にしてしまったため、人間とは別に犬用の牛肉たっぷりご飯を用意していたのだ。
3代目愛犬からドッグフードで育てたが、父は犬の誕生日には、安いながらもステーキ肉を買って食べさせていた。ご飯に混ぜず、少しずつ千切りながら、自らの手で犬に食べさせる。犬がペロペロと父の手を舐めながら、猛烈に尻尾を振って喜ぶので父も嬉しかっただろう。
2代目や3代目は誕生日ステーキの後で餌もちゃんと食べたが、初代はステーキに満足してご飯を残した。こっちのご飯もステーキを炒めたバター風味の肉汁で牛肉細切れを炒め、白米に汁ごとかけてまんべんなくご飯と肉汁を混ぜていたのに、初代は肉だけを器用に食べて、ご飯はほとんど残した。
母の晩年は別れが立て続けに起こった。まず父が亡くなり、半年後には兄が病死。翌年には3代目愛犬も父を追って虹の橋を渡った。母の心は細い糸で何とか保たれていたが、愛犬の死で壊れた。いつも3代目愛犬が何処にいるのか尋ね、家中を探す。徘徊も酷くなって、多くの人に迷惑もかけた。
ケアマネから、また犬を飼ってはと勧められたが、父の死で経済的に余裕はなくなり、母と2人で生きていくのに精一杯だった。犬との別れは私も悲しかった。だが同時に、愛犬を遺して家族全員が旅立つ不幸や、生き別れになるのを回避できたことに安堵もしている。生きとし生けるもの、寿命通りにこの世を旅立つとは限らないのだから。
11・旅行
犬を飼うまでは、夏場は伊豆へ海水浴に行くのが恒例だった。大抵は西伊豆方面。そして父は、必ず宿までの道を迷った。
父は寺社仏閣を巡るのも好きだった。目的地へは、高速道路を下りると大抵は迷っていたが。
長野県の善光寺参りに行きたいというので、家族で行くことになった。晩秋か初冬あたりだったろうか、道を走る車の中から見える、赤く実ったリンゴの木が印象的だった。参道は魅力的な店が多かったが、食べたり買ったりするのは参拝の後だと父は先を急ごうとする。だが長年ひとつ屋根の下で暮らしていれば、父の動向など見通せるというもの。私と兄は父の言うことを無視して、食べたいものを買い食いした。このとき私が買ったのは、長野名物のお焼きだった。具は野沢菜だった。焼き立てはホカホカして美味しかった。母も子供に便乗して、同じものを買って食べた。
参拝してから、胎内巡りを初めてした。本当に目の前さえ見えないほど真っ暗で、暗所恐怖症気味の母に痛いほど肩をガッツリ掴まれていたのが記憶に残る。だから母以外の家族は、壁伝いに歩きながら、胎内巡りの途中にある取っ手に気づいて掴むことが出来たが、母はそれどころではなく、メインを逃した。私が中学生の頃のことなので、なんのご利益があるのか忘れたのと、胎内巡りはここを含めてその後3回巡っているので記憶が混ざっているが、途中の仏様がほの明るい中で鎮座されていたのは、ここだっただろうか。思い出せない。
だが覚えているのは、やはり帰りの参道立ち寄りは省略されたことだった。もう帰るという父に、やっぱりねと母たちと顔を見合わせる。昼食は恒例のサービスエリアだった。今ほどサービスエリアは各々の個性を出すほど充実していなかったので、あるものは蕎麦、定食類。あとはホットスナックか。兄は昼食を食べただけでは足りずに、いつの間にかホットスナックを買い込んで、車内で食べていた。
甲斐善光寺にも行ったことがある。あのときは兄はおらず、3人で出かけたが、夏の暑さで食欲がわかずに、両親は境内か境内近くのそば店でそばを食べていたが、私は併設していた店で、巨峰のソフトクリームを食べて済ませた。
その年だったか、翌年だったか、恒例の昇仙峡ドライブ。ほうとうを食べた帰りに立ち寄ったサービスエリアで、私等がお土産を購入して戻ると、父が巨峰のソフトクリームを食べていた。母が、
「あんたが以前、食べていたから食べたかったんでしょね」
と言った。そういう母も、初めての食材には躊躇があって手を出さないが、私が「美味い」というと、じゃあ自分もと食べて好物になったりしていた。代表的なのはアボカドか。父には不評だったが。他にも新製品のお菓子や食材は、まず私が食べて「美味い」というと、両親は手を出した。兄は珍しいものより、昔ながらのホットスナックやお菓子を好み、新製品は好きな芸能人が宣伝するもの以外は、あまり興味を示さなかった。
久能山へ、いちご狩りへ行ったことがある。有名な石垣イチゴを楽しみにしていたが、まず父が車を停めたのが久能山東照宮だった。いや、あれは途中の駐車場で一旦停めて、バスかロープウェイで目的地まで行ったのだっけか?
これも昔の思い出なので、記憶が曖昧だ。
そしてやっと、目的の石垣イチゴ。此処で学んだ教訓は、美味しいものは真っ先に行けということだ。美味しいイチゴは最初の2個程度。他は熟しきってないいちごばかりだった。先に来た客に、あらかた食べ尽くされた後だった。
父は博物館も好きだったので、途中で生物博物館にも立ち寄った。だがせっかちなので、素通りすれば満足する。私がマイペースで興味深いものを見学して出ると、仏頂面の家族が待っていた。
せっかく入場料払ったのに、勿体無い。
父にとっては「行った」事実が重要らしい。自分が行きたいと言い出して、いざ目的地につくと早く帰りたがる。母と兄は博物館には興味がなかった。
そうそう、父が昇仙峡にこだわるのは、理由があった。学生時代のお泊り遠足で、班ごとに昇仙峡を目指したところ、道に迷って全く方向が分からなくなったらしい。それでも班で団結して道を探し、やっとタバコの吸い殻を見つけた時には、皆で泣き出しそうになるほど喜んだという。そう言いながら、ロープウェイから眼下の林を眺めていた。青春の思い出の地なのだろう。
この学校の同窓会には、病気で遠出が出来なくなるまで、毎年必ず参加していた。
父は仏頂面で、酒が入らないと他人には口下手だったが、人とのコミュニケーションは好きだった。だから退職者交流会にも欠かさず参加していた。
ただ間の悪い運でもついているのか、泊りがけでの退職者交流会の最中に、祖母が前触れもなく危篤となり、途中で帰るのを余儀なくされた。祖母は喘息が辛いので来院したところ、入院を勧められてそのまま入院となった。その後での急変だった。親族が集まり、最期を看取ろうとしたが、祖母は粘った。そのうち根負けした親族や父、兄が帰宅した。最期を看取ったのは、祖母の娘である叔母が1人、そして母と私だった。死亡診断書には心不全と記載された。
祖母は6月に亡くなったが、母方の祖父母の命日も6月だった。6月は同時に初代愛犬と3代目愛犬の誕生月でもある。
父は出張のたびに、時間があれば有名な寺社仏閣へ赴いた。出雲大社にも行けたが、伊勢には全く縁がなかった。行きたいと思っても、出張で三重県まで行ったときも、何らかの障害が発生して行けなかった。出張のたびに主要な神社仏閣へは概ね行ったようだが、伊勢だけは本当に縁がなかった。
そしていま、皆が帰ることのない旅行に出かけた。いずれ私も、皆が待つ場所へ旅立つだろう。この世での土産話を沢山集めて、いつの日か家族と再会出来たら、大いに語ろう。
世界中の沢山の家族の中から、父をはじめとする家族と縁が結ばれたことを、心から感謝します。
12・追記
母の末弟の言うことだから、鵜呑みにするには難がある。なにしろこの叔父、ユーモアセンスで他人を笑わせるのが好きだが、その反動なのか、事実を脚色したり大げさに誇張する癖があるからだ。話半分に聞いておかないと、後で痛い目に遭いかねない。
「お前の両親、駆け落ちだって知ってたか?」
あれは何年前の夏の日だったろうか、都心の大学病院に入院した母を見舞うため、他県からわざわざやってきた叔父は、「暑くてかなわんから、まず面会前に、ビール飲みながら昼飯を食おう」と言うことになった。
遠慮せずに何でも食えと言われたが、こちらも暑さにはめっぽう弱い。チョコレート・パフェを注文した。
その昼食の席で、叔父が言い出したのである。私は目が点になった。
(あの両親が駆け落ち?ありえねー)
夫婦仲は険悪とまではいかないが、犬がかすがいの両親の話題は、犬以外だとスポーツ観戦やニュースネタ。肝心なことは、私を仲介に通す。
「そんな冗談、信じるわけ無いでしょう」
私が鼻で笑うと、叔父は首を振る。
「本当だって。あのときは俺も驚いて腰を抜かしそうになったんだから」
叔父の言うことを頭から信じるつもりはないが、恋愛結婚だったことだけは、母からポロッと聞いて衝撃を受けた覚えはある。だがそれ以後は頑なに口を閉ざしたので、なりそめなどは聞けなかった。あの時代だし、両親を見ていて、見合いに間違いないと信じて疑わながわなかったのに、恋愛結婚?人は見かけによらないものだ。
遺品整理で古いアルバムを開くと、新婚旅行の写真が出てきた。旅行行程が古ぼけたメモで書かれていて、熱海、愛知の親類訪問、京都奈良と随分強行軍だったのが伺える。それらの写真は白黒たが、父にしては上出来な仕上がりだった。そして通すがりの人に頼んで、他人に撮ってもらっただろう二人で写る写真は、見てるこっちが恥ずかしくなるほど「新婚さんバカップル」だった。
本当に駆け落ち…まさかね。真実は両親があの世に持っていってしまったので、知る術は無い。二人きりの大事な宝物なら、子供であっても探るのは無粋というものだろう。
生憎だが、馬に蹴られたくはないのでね。
初代愛犬が、我が家に来た記念日投稿
完
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