灯狸 -とうだぬ-

琴音町観光協会

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第1話

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 濃淡を
 我がカンバスに
 落としてよぎ
 白鶺鴒はくせきれい
 声を聞きしか

 ――渡来わたらい総一郎


 この国には、約千年前から琴詩(きんし/ことうた)と呼ばれる文化がある。
 原則、五と七のリズムで五行。
 五行であれば、五・七・七・七・五など任意の文字数で詠むことができる。
 俳句のような季語の概念はない。

 琴詩を扱うカルチャースクールや専門誌はあるが、若者には古典文学のイメージが強く、今や古風な言葉遊び止まりだった。


【琴詩発祥の島】

 フェリーを降りると、そうプリントされた旗が何本も連なり海風にたなびいていた。
 出迎えてくれる人がいるわけでもない。
 今日からここが“私の居場所”。

 記念すべき社会人1年目が今、踏み出された――


     ☆ミ


 琴音町ことねちょう役場。
 島に着いたその足でまず訪れたのは、この先、生活の中心になるであろう職場である。

 水瀬みなせ 椿つばき、22歳。
 都内の大学を卒業し、この春、千キロ以上も離れた鹿児島は奄美地方のとある離島に流れ着いた。
 生まれてこの方、都会でしか暮らしたことのない私が、熾烈しれつな就職活動の末にこの琴音島ことねじまを選んだのには理由がある。

 4年間付き合っていた彼との別れ。

 高校卒業から大学までいつも隣にいてくれたパートナー。
 就職活動をやっていく中で、互いの将来を見据えた上での前向きな解消。
 彼は大学院に進み、引き続き再生医療研究の道を歩むと言った。

 高校時代から彼は優秀すぎた。
 彼に見合うような女性であろうと、必死に努力した末に同じ大学へ進学できたはいいものの、研究に没頭する彼を振り向かせることのできないまま、あっという間に時は過ぎて大学3年の秋。

 “彼の夢を邪魔する存在でいたくない”。
 その代わり、絶対に彼の目を引くような女になってやる!

 しかし、その意気込みやむなしく、書類選考で落とされること十数社、面接まで行けたとしても本番で言葉が上手く続かず敗退を重ねた。
 苦戦する私を見る彼の目が、とてもじゃないが耐えられなかった。
 結局、私の方から別れを切り出し、未練を断つために慣れ親しんだ東京を離れることにした。

 ……何もこんなに離れなくても。
 勢いで決めたのはいいが、ここまでの道のり(飛行機→タクシー→フェリー)で沸き立ってきたのは後悔の念。


「こんにちわ。えっと……今月から琴音町役場に採用された水瀬と申します。総務課人事担当の方はいらっしゃいますでしょうか?」

 2階建てのこじんまりとした建物に入り、案内窓口の小柄な中年女性に話しかける。
 町役場といっても、都心にあるような大きな郵便局や銀行よりも小さい。

 館内放送か内線電話で呼び出すのかと思いきや、窓口の女性は“お待ちくださいね”と言って、直接呼びに行くというアナログな方法をとった。

 誰一人もいない、がらんとした窓口。
 この町の施政を司る本部。その防犯意識は薄そうである。建物の中にも外にも警備員の姿はない。
 昼下がりの午後2時。1階フロアを見回しても住民が訪れている様子はなく、各種手続き用の窓口は閑散としていた。

 3分ほど待っていると、1階廊下の突き当たりの部屋から、案内窓口の女性が1人の男性を連れて戻ってきた。

「水瀬さんだよね? ようこそ琴音町へ。憶えているかい? 一度会ってるはずだけど」

 二十代後半~三十代前半とおぼしき男性が、近寄ってくるや否や私の肩をポンポンと叩いた。
 ……ああ、面接官の一人にこんな人がいたような。

「はい、もちろん憶えてます。少し早いですけど、ご挨拶に伺いました」

 就業前のミーティングは明日なのだが、こっそりと抜け駆け。
 あらかじめ職場を見ておけば緊張もほぐれるだろうし、なにより同期に対してアドバンテージになるに違いない。
 ん? 同期…? そういえば気になることが。
 採用されたのはいいが、今年は何人採用されたのか? どこの課に配属されるのか? 私には全く知らされていなかった。

 お腹が少し出ていて恵比寿顔。
 いかにも人の良さそうな人だ。
 首から提げているネームプレートには、総務課・美濃部和雄とある。

「殊勝だねぇ。別に明日でもよかったのに。水瀬さんみたいな若い子が琴音に来てくれるなんて、最近はなかなかないことだから助かるよ」
「えと……美濃部さんもお若いじゃないですか」

 名前を間違えないよう、ネームプレートに視線を落としながら世辞を言ってみる。

「ところがどっこい。僕がこの役場で一番若いんだよ? やっと後輩が出来てよかったよ、ほんと」
「え? そんなに新規採用がなかったんですか!?」

 美濃部さんはニカッと笑って、私を手招きして人事課へ連れて行く。
 過疎化の進む離島で人材難とは聞いていたが、まさかここまでだったとは。

 1階の廊下を暫し進み、「総務課」と「保健福祉課」の2つの表札がついた部屋に到着。
 学校の教室の半分ぐらいの広さだろうか、2つの課が相席してる割にはなかなかの狭さだった。

「キャリーケースは入り口の横に置いておくといい」

 ガラガラとキャスター音を廊下に響かせる2つのキャリーケース。
 部屋の中へ引いて入るには少し邪魔になる。

「はい……」
「大丈夫。誰も盗みはしないよ」

 所狭しと並べられたデスク。
 若手だからなのだろうか。入り口に一番近いデスクが美濃部さんの席だった。
 小さな丸椅子を持ってきた美濃部さんは、私を隣に座るように促した。

「明日渡そうと思ってた資料なんだけどさ、ほらこれ。琴音町と役場の案内みたいなもの。時間があったら目を通しておいて」

 美濃部さんはそう言って、100ページはありそうなファイルを渡してきた。
 ファイルは辞書のようにずっしりと重い。
 目次を見ると、琴音町の歴史・地理・祭事・避難場所から動植物の図鑑まで。役場で働く者にとってのありとあらゆる基礎的なデータが、ここには詰まっているようだった。

「すごい量ですね。1日で読みきれるかなぁ……」
「大変だと思うけど、頭に入れといた方がいい情報ばかりだからね。面倒でも頑張って読むこと。僕もその中の10ページぐらいを担当したんだけど、前任者から受け継がれる度にページが増えてって、今じゃこんな厚ささ」

 パラパラと何ページかめくってみる。
 いくつも付箋やアンダーラインが入れてあり、美濃部さんの几帳面さが伝わってきた。

「大事なところはチェック入れてあるし、くだんの市町村合併で変更されたところは修正入れてあるから。なにせ量が量だから大変だったよ」
「すごく見やすいです! 助かります!」

 裏表紙に貼ってあった、役場の見取り図や各課の案内に目を通してみる。
 町役場の1、2階には、さまざまな課が混在していた。
 そこで私は思い切って聞いてみることにした。

「あの……。それで私はどの部署に配属されるんですか?」

 美濃部さんの動きが止まる。
 う~ん、とうなった顔から推測するに、話したいが話せない、そんな風に見えた。

「明日になれば分かるよ。こういうのはルールに則って公平にやらないとね。……ああ、そうそう。引越し先だけど、前にも言ったように使われなくなった古民家をリフォームした物件だから。ちょうど昨日、役場の人間数人で綺麗にしたところなんだ」

 業者じゃなくて役人がそこまでやらないといけないのかと、一抹の不安を覚える。
 でも、面接の時に聞いた話によると、その古民家は町役場にかなり近く、家賃もタダとのこと。払うのは電気、水道といった光熱費のみ。
 家具や家電も一通り揃っているらしく、おかげで衣服の入ったキャリーケース2つだけで島にやってくることができた。
 IターンやUターンがここまで厚遇される時代。
 そもそも、こんな離島への引越し料金なんて考えただけでも、ぞっとする。

「ありがとうございます。でも、一軒家なんていいんですか? 私なんかにもったいないような……」
「ああ、その事だけどね。何て言うか、その……大変申し訳ないんだけど」

 今度はポリポリと後ろ頭を掻き始める美濃部さん。

「まあ、これから一緒に来てくれれば分かるよ! ハッハッハ~!!」
「あ、あはは……」

 釣られて苦笑いを浮かべる私だったが、一抹どころではない不安が押し寄せてくる。

 あまりにボロボロで風通しの良すぎる古民家なのだろうか?
 それとも、前の持ち主の幽霊が出るとか~!?
 ……それだけは絶対に嫌。

 キャリーケース1つを引き受けてくれた美濃部さん。その後ろをついて歩く。
 町役場を出て、信号も何もない道を5分ほど歩いたところにその古民家はあった。

「ほら、ここだよ。遅刻のしようのない、最高の立地だろ?」
「ですね! それに立派な屋敷……こんな大きなお家をタダで借りられるなんて♪」

 古民家という響きから、もっとボロい造りを想像していたのだが、目の前に現れたのは木造2階建てでしっかりとした一軒家。
 大きな木が植わっている池つきの庭あり、それを観賞する縁側あり。さらには小さな畑のようなものも見える。
 さすがに築数十年の物件だと思われるが、都内でずっとマンション暮らしだった私には憧れていた光景でもあった。

「さあ、鍵は開いてるはずだから入って入って」
「え? 鍵、開いてるんですか?」
「ドンウォーリ~だよ。水瀬くん♪」

 これが離島の常識なのだろうか?
 確かに田舎の方では顔見知りばかりで治安が良いので、玄関に鍵をかけないこともあるとは聞いていたけど。

 ガラガラガラ……。
 美濃部さんが玄関の引き戸を開けた。
 さすがに靴などは置いてはなく、中には誰もいないようだった。
 やはり、ちょっとぐらい無用心な方が離島暮らしには丁度いいのかもしれない。

「ありゃ。まいっか、上がって上がって~」

 美濃部さんはそう言って、キャリーケースを持ち上げて居間に持ってゆく。
 玄関を入って左手に居間、右手に2階への階段、奥に台所やお風呂。
 10畳の居間の隣にはもう1つの和室(8畳)と縁側があり、仕切られているふすまを開ければ、立ち昇るかぐわしい畳の香りとその開放感に驚かされる。

「うわぁ~。広~い!」
「今日からここで暮らしてもらうからね~。好きに使っていいよ」
「ありがとうございます! こんなに素敵な家だと思ってませんでした」
「そっかそっか~。気に入ってくれて良かったよ。ここは何もない島だけど、せめて住む家だけは立派にして歓迎しようと思ってたから」
「――これを掃除するのって大変だったんじゃ?」
「そうそう。ここだけじゃなく大きな庭もあるし、2階もあるからね。6人で1日がかりだったよ」

 布団の入った押し入れを開けたり、テレビをつけてみたりする私を、美濃部さんが嬉しそうな顔で見ていた。

 Prrrr……。
 途端、美濃部さんのスマホが鳴った。
 表示された画面を見るや否や、美濃部さんの顔がすぐに曇った。

「はい、美濃部です。……すいません、今すぐ戻りますので」

 美濃部さんは短く返事をして切ると、スマホをポケットに入れて呟いた。

「しまったぁ。今日はもう1件あったんだった」
「こちらはお構いなくです。美濃部さんのお仕事中に押しかけた私が悪いので……」
「そうかい? それじゃ、ちょっと用事があるから行ってくるね。明日は朝8時半までに役場に来てくれたらいいから~」
「はい! ご丁寧にありがとうございます♪」

 ガラガラガラ……ガタン。
 颯爽と美濃部さんが町役場に向かって走っていった。
 この時期だし、役場の人間は皆忙しいのだろう。

「ふう。このお家に住めるだけでも儲け物♪」

 私は畳に寝転ぶと、庭から聞こえてくる鳥のさえずりを聴きながら目を閉じた。

 なんだ、全然いいところじゃん。
 綺麗な海、それに山もあるんだっけ。自然がいっぱいで空気もおいしい。何よりスギやヒノキが自生していないので、花粉症の心配がない。
 無料の社宅はついてるし、職場には人の良さそうな上司もいる。
 琴音島。今のところ何の不満もない。

 ――あれ? 私の人生、ここから順風満帆ってやつじゃない?

 この数年感じて来れなかった幸せを噛み締め、少しニヤけつつも睡魔に襲われた私。
 今日は移動に次ぐ移動だったから、さすがに疲れたかも。
 夕食どうしよう? このまま寝ちゃって大丈夫かなぁ? 田舎だからコンビニとかないかもしれない。
 まぁ、何かしらお店はあるだろうし。何とかなるでしょ……。

「ふぁ~ぁ」

 あらがうことを諦めた私は、深い眠りに誘われてウトウト……。


     ☆ミ


「つばき。今夜も遅くなるから、夕食は食べてていいよ」
「え~。ちょっとぐらいなら待ってる。久遠くおんと一緒じゃなきゃ嫌」

 同棲しているワンルームマンションと、大学の研究室とを行ったり来たりを続ける久遠。
 最近は研究室にこもりっきりで、昨夜も帰ってきたのが午前1時過ぎ。
 寝るときと朝食を食べるときぐらいしか一緒にいる時間はなかった。

「ごめんな。日が替わってからじゃないと帰れないから。俺も向こうで食べるし」
「そう……」

 無理なお願いだと分かっていた。分かってはいたけど……。

「なぁ、つばき。高校ん時みたいに一緒に帰ったり、週末にデート連れて行ったりはなかなか出来ないんだ。つばきももう、俺なんかに構わずに――」
「ダメッ!!」

 その先を聞くのが怖かった。久遠に抱きついて顔をうずめる。
 震える手を彼の背中へ回す。その温もりを繋ぎ止めたかった。

「つばき……んっ」
「んんっ……」

 久遠が眼鏡を外し、私の肩を抱いて唇を交わした。
 もう、何十いや何百も重ねてきた唇。その度に久遠への想いを塗り重ねてきた。

「――は、まっ……くしゅん!!」
「なぁ~! こんな時にくしゃみするやつがいるかよ……」
「ご、ごめん」

 一緒に住みだしてから3年目の春。
 花粉症持ちには厳しい季節の到来だった。

「泣いてる?」
「ぐすっ……泣きもするよ~!」
「……それも花粉症?」
「知らないっ!!」

 至近距離から見つめられ、恥ずかしさから顔をそらす私。
 そんな私を見て笑みを浮かべた久遠は、眼鏡をかけるとテレビ台のところまで行き、ティッシュを箱ごと渡してきた。

「……ありがと」
「しょうがないなぁ。今日は早く帰ってくるから。美味しいご飯作っててくれよ?」

 鍵置き場から2種類の鍵のついたキーホルダーを掴むと、久遠は振り返ってそう言った。

「え……いいの?」
「俺とつばきの仲、だろ? 研究も大事だけど、つばきはもっと大事だから」
「久遠……」

 もう1度、久遠に抱きつきたい衝動に駆られたが、花粉症でグシュグシュの顔だったのでやめておいた。
 その代わり――

「飛びっきりのチーズインハンバーグと杏仁豆腐を作っとくから!」
「うん。楽しみにしてる。つばきの作るお菓子は外れがないもんな」
「えー。お菓子だけ?」
「何でそこだけ切り取るかなぁ。ハンバーグも美味しいって」
「よしよし~♪ あ、久遠。バイク気をつけてね」
「分かってるよ。早くつばきも大型二輪の免許取りな~?」
「夏までには取るって言ったでしょ。ほら、私もシャワー浴びないとだから。早く行った行った」
「さっきまで泣いてたのに、す~ぐ元気になるんだから。……それじゃ行ってくるよ」
「行ってらっしゃい~♪」

 久遠とはずっとこんな感じで過ごしてゆくものだと思ってた。
 高校の時から何度か喧嘩もしたけど、久遠は優しいから最後には必ず手を差し伸べてくれる。

 だけど半年後。
 そんな優しさにこらえ切れなくなった私は――


 ぺちぺち。
 ――んっ?

「お~い。どこのどいつかわからんけど、起きろ~」
「ん、んん……」

 ぺちぺち、ぺちぺち。

「……ん。久遠、もう帰ってきたの?」
「くおん? ……何言ってるんだ、こいつ」
「ん、んぎゅ~~!!」

 誰かが私の両頬を片手で、むぎゅ~っとしている。

「いだい、いだい、いだい~っ!! な、何よ!?」
「お、やっと起きた」

 次第にはっきりとしてくる意識。目を覚ましてみると、そこは例の古民家だった。
 日はすでに陰っていて、夕陽が縁側から斜めに差し込んできていた。

「きゃあぁぁ~~!!」

 私は思わず悲鳴を上げた。
 ――何せ目の前には、ボクサーパンツしか身にまとっていない裸の男がいたからだ。
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