上 下
2 / 3

晩年の嫌な性格な豊臣秀吉

しおりを挟む
晩年の豊臣秀吉のイヤな性格がよくわかる…朝鮮出兵の前線基地「肥前名護屋城」に作らせた意外な施設
豊臣秀吉が朝鮮出兵のために建てた肥前名護屋城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「大坂城に次ぐ大きさで、中心には5重7階の天守が建っていた。わずか6カ月でできたとは思えない大城郭だった」という――。

なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ったのか

豊臣秀吉は朝鮮半島に侵攻し、ひいては明を征服するという計画、すなわち「唐入り」。NHK大河ドラマ『どうする家康』第38回のタイトルでもある派兵を、突然思いついたわけではない。

天正20年(1585、年末に文禄と改元)関白に叙任された直後、子飼いの一柳直末への書状に「日本国の事は申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か(日本はもちろん、明国まで手にいれる)」と書いており、早くから心に思い描いていたようだ。

実際の出兵は文禄元年(1592)の春からだが、むろん準備は事前に進められた。なかでも特筆すべきが肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の築城である。この城について知れば、秀吉が握った権力の大きさも、それが途轍もない暴挙につながったことも、老若男女貴賤を問わず、あらゆる人から可能なかぎりを収奪したこともわかる。

イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、秀吉が「軍勢を朝鮮へ比較的容易に渡航させるのにいかなる港があるか」と尋ね、家臣たちが「名護屋というきわめて良い港がある。そこは平戸から十三里距たっており、一千余艘の船が安全に出入りでき、同所から朝鮮に渡ることは容易であろう」と答えたという(引用は松田毅一・川崎桃太訳、以下同)。
九州の大名たちの持ち出しで完成

そこは九州北部に突き出た東松浦半島の北端で、壱岐や対馬経由で釜山に渡るためには、たしかに好適な場所だった。それを聞いた秀吉の指示について、フロイスはこう記す。

「関白はただちに都地方、ならびにさらに遠方に住む日本の諸侯や主だった武将たちに、その辺鄙な名護屋に合流し集結することを命じた。そして各人の負担をもって関白のために、先に都に造営された聚楽亭に比しほとんど遜色がないほどの、大きい濠や多数の居間を具備した豪壮な宮殿と城を建築するように言い渡した」

さらに具体的なことは、天正19年(1591)8月23日付で石田正澄が相良頼房に宛てた書状に、次のように書かれている。

「来年三月朔日ニ、唐ヘ可被作入旨候、各も御出陣御用意尤候、なこや御座所御普請、黒田甲斐守、小西摂津守、加藤主計被仰出候(来年3月1日に明国に渡り、秀吉自身も出陣するので、名護屋城の御座所の普請が黒田孝高、小西行長、加藤清正に命じられた)」

こうして、九州の大名たちによる割普請、すなわち自己負担による分担工事で10月上旬から作業が開始され、3月26日に京都を発った秀吉が4月25日に到着したころには、おおむね完成していた。
大坂城に匹敵する規模の城

名護屋城は秀吉が朝鮮半島に出兵し、明を征服するための陣城、つまり臨時の本営だったから、短期間で完成されて当然だが、それにしてはスケールが大きすぎる。秀吉が聚楽第に遜色がないように指示したというのは誇張ではない。

フロイスは名護屋について、「その地は僻地であって、人が住むのに適しておらず、単に食糧のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒れ地であったことである」と書いている。そんな場所に当時の大大名の居城をはるかに凌駕し、秀吉の大坂城や聚楽第にも匹敵する規模と豪華さの大城郭が築かれたのである。

城跡に立つと、石垣が随所でV字型に崩されているのに気づく。これは寛永15年(1638)の島原の乱後、城が一揆などに使われることを恐れた幕府の命による破壊の跡だが、石垣が多少崩されたくらいでは、この城のスケール感は損なわれない。城域は17万平方メートルにおよび、すべて石垣で固められている。

金箔瓦の5重7階の天守

本丸の西北隅には天守台があって、金箔瓦が葺かれた5重7階の天守がそびえ、本丸だけでほかに大きな二重櫓が5基も構えられ、櫓や塀に囲まれた本丸中央には絢爛豪華な御殿が建っていた。また、三の丸から本丸に入る本丸大手には二重の櫓門が建ち、のちに伊達政宗が仙台城の大手門として移築したと伝えられる。昭和20年(1945)の空襲で焼失したこの門が、城門として日本最大級だったことからも、名護屋城のスケールが伝わる。

二重櫓は城全体では10を数え、各所に残る櫓台の石垣が巨大であることからも、そのスケールがわかるだろう。たとえば三の丸から馬場に入る門の左(南)側にある櫓台は城内最大級で、その西側には城内最大の鏡石(大きさが周囲とけた違いの石)が積まれている。そのサイズは高さ2.9メートル、幅1.7メートルで、重量は11トンにもなる。

また、三の丸の外面に連なるこの櫓台南側の石垣は高さが15メートルにおよぶ。本丸の西側に広がる二の丸の西面も、15メートルの高石垣で守られていた。

付言すれば、城の周囲には広大な城下町が整備され、名護屋の人口は最盛期には20万にもおよび、京をもしのぐ賑わいだったという。事実、一時的にここは日本の政治、経済の中心になったのである。

昭和43年(1968)に発見された「肥前名護屋城図屏風」には、対岸の加部島の山頂、すなわち北側から俯瞰した名護屋城と城下、その周囲に築かれた諸大名の陣が写実的に描かれている。精密な描写とまではいえないが、発掘調査の結果とも一致する点が多い。

そこに見える名護屋城は、全体を石垣で固められ、白亜の五重天守がそびえ、10の二重櫓が建ち、櫓や塀に囲まれて御殿などがぎっしりと建ち並んでいる。あらためて陣城には到底見えないし、半年ほどで築かれたとは信じられない。だが、毎日4万、5万という人が動員されて工事が進められたと聞けば、納得できる話である。

また以前は、名護屋城がいったん築かれたのちに改修されたとは考えられていなかった。ところが、本丸や三の丸では発掘調査の結果、外面の石垣より内側の土中から石垣が見つかっている。本丸の場合、いったん石垣を築いた後、南側と西側はその石垣を埋め、あらたに土を盛って面積を拡張し、外側に石垣を築き直していたのだ。

事情はわからないが、本丸や三の丸をさらに拡張する必要が生じ、工事が行われたということだろう。もちろん、指示した人間は秀吉以外に考えられない。

ちなみに、天正19年(1591)8月に工事を命じられた黒田孝高、小西行長、加藤清正らは、秀吉が名護屋城に到着する前には渡海し、朝鮮半島で戦っていた。無茶な工事を強いられたのちに異国で戦わされた彼らには同情するほかない。

それはともかく、拡張工事は別の大名に命じられたはずで、秀吉は大名たちに際限のない負担を強いていたことになる。
なぜ前線基地に能舞台があるのか

前述の「肥前名護屋城図屏風」を見ると、手前すなわち北側の山裾に、本丸などの御殿よりも簡素な居宅や、茶室風の建物、能舞台風の建物が見える。ここは秀吉自身の居館があった山里丸で、事実、ここには泉水に囲まれた複数の茶室のほか、能舞台もあった。諸大名が巨費をつぎ込み、さらには無数の庶民を動員して築いた城に、秀吉は自身の遊興施設を設けないではいられなかった。

みずからの富と権力を諸大名のほか、海外にも見せつけるのが目的の城だから、当然なのかもしれないが、違和感を禁じえない。

同じ屏風絵には、山里丸の前に水堀がある。城と城下を仕切っていた鯱鉾池だが、この堀には出島や船着き場もあり、防御施設というよりは秀吉が船を浮かべるなどして遊びに興じる場としての色彩が濃かったようだ。

だが、肥前名護屋城は、ここまで見てきた秀吉の本城だけで語りきることができない。全国から参陣した大名たちは、名護屋城の周囲に自己負担でみずからの陣を築いた。それは先の屏風絵にも描かれていたが、その数は130を超えたという。

しかも、前田利家や豊臣秀保(秀吉の姉の子で、弟で死んだ秀長の養子になっていた)の陣などは面積が10万平方メートルを超え、石垣で築かれた事実上の本格的な城郭だった。徳川家康も広大な陣を2カ所に築いている。

逆らえる者は誰もいない

じつは、これらの諸大名の陣の多くにも、茶室や能舞台が築かれていた。だが、それは彼らがこの地で余暇を楽しみたかったからではない。朝鮮半島に渡った将や兵は20万にもなるが、彼らには生きて帰国できる保証がないどころか、多くが帰国できないことを覚悟して海を渡った。むろん、陣を築いた大名自身も多くの場合、兵を率いて渡海しており、彼らに茶や能を楽しむ余裕があったとは考えられない。

しかし、秀吉がみずからの城にそれを設けている以上、大名たちもマネしないわけにはいかなかった。そうしないと、どんな処分が下るかわからなかったからである。フロイスはこう書く。

「この名護屋の建築事業に従事した身分の高い武将たちは、おのおのが他の武将に劣るまいと努力した。というのは、彼らはたとえ些細な怠慢や手落ちでも、そこで工事の進行を司る者から公然と叱責を被るのみならず、そのことで関白に訴えられ、同様の理由をもって追放処分に付され、関白への奉仕には役立たぬ者、無能な者として封禄を没収されることを特に恐れていたからである」

部下の命よりも大事な秀頼

どんな負担にでも耐えて秀吉のご機嫌をとらないかぎり、自身のクビが危うかった。そのために過酷な労働や供出を強いられた庶民も、たまったものではなかった。

この名護屋城は以後、豊臣秀吉が死んで朝鮮出兵が中止されるまでの7年間、その拠点となった。

しかし、秀吉は到着して3カ月後に、母の大政所危篤の報を受けて帰京。そのときは戻ってきたが、翌文禄3(1594)年8月、淀殿が拾(のちの秀頼)を出産すると狂喜して大坂城に駆けつけ、その後、二度と名護屋に戻ることはなかった。この事実こそが、秀吉という人間とその権力を象徴している。
         一条瑠樹より
しおりを挟む

処理中です...