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段ボールの中の男
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この男自身の記憶を辿った時、段ボールの中に入れられていた幼い頃を思い出した。
この男の家族は、材木屋を営んでいた。まだ世には、ガスは通っておらず、こんな商売であっても生計が成り立っていたからである。それを家族で営んでいた為、この男は、赤ちゃんのころより、この段ボールの中に入れられて、育てられていたという事になるのだ。
親としては、この段ボールの中は安全であり、子守りをするには適していると感じたのであろう。これは、あくまでも親目線であり、当の子どもにとっては、きっと母親の温かい背中の方が良かったのではなかろうか。しかしその半年前、ほんの僅かな間であったが、母親の背中にいた記憶があるのだが、下に妹が生まれたことで、この男の居場所を完全に奪われてしまったのだ。
この男は、段ボールの狭い中から母親の藤代に背負われている妹の姿を確認していた。この男の身体が大きくなっても、その段ボールから出される事はなかった。いつも藤代は「この中で大人しくしておいて」と言ってくるのだった。そんな藤代の気持ちに逆らう事も無く、狭い段ボールの中で、その男なりに遊んでいたのだ。この時の記憶は、大人になった今でも、昨日のように思い出すのであった。
『もっと、子どもの時にしか出来ない遊びをしたかった』と大人になったこの男は言っている。実際、この藤代は、子育てを苦手としていたのだ。だから、それを見兼ねたこの男の祖母である初が、家事全般をしていた。この藤代というのは、突然お嬢様のような暮らしをする事になった。なぜならこの藤代の両親が若くして他界した為、藤代は祖父母に育てられる事になったからである。この藤代の育った実家は、産婦人科の医院を営んでおり、お手伝いさんもいた生活だった。その中で育ったこともあり、当たり前だが、料理といった家事もすることもなく、暮らしてきた藤代は、家事という苦手な分野を作ってしまっていたのだ。
藤代はそんな中でも、悲しい幼少期を過ごしてきた。確かに豊かな生活であったが、藤代の祖父母には、同い年の実子がいた為、藤代は、実の弟と二人して誰にも甘える事無く、過ごしてきた。この為、本来甘えていいはずの我が子であっても、幼少期の藤代と同様になるが、甘えさせようとはしなかったのだ。いや、甘えた事の無い藤代にとって、甘えられても、どうしたらいいのかわからなかったからなのだ。こんな藤代の悩みを、全くわからないでいる初は、目の前に起こっている子育てや家事が出来ない藤代に対して、ひどい仕打ちをしたのだった。
この当時、最低でも女は、家事や育児ができて当たり前の時代であったのだ。この最低要件ですら満たさない藤代の事が、後継ぎとなる子を産み終えたこともあり、初としてはただの邪魔者としか思えなくなっていたのだ。この邪魔者でしかない藤代に代わり、可愛い孫たちには、三食のご飯だけでなく、三時のおやつまでも作っていた。この家において、藤代の存在は常に蚊帳の外であった。藤代は嫁いできて、何度も逃げ出したくなったが、子どもたちを置いていく事も出来ず、ひたすら我慢をしていたのだった。
そんな生活も一変したのは、この世がだんだん便利になり、一般家庭にガスが普及しだした頃であった。どこの家庭にもガスが使われるようになった。このガスの誕生は、世にとっては有り難いことであったが、材木屋の我が家にとっては、逆に有り難いとは言い切れなかった。全く売れない商売をしていても仕方がなかったが、まだ薪風呂の家があるので、店じまいはせずに、生き残りを図る事になった。しかし、以前のような収入を得る事は難しく、お金を持っている藤代の実家でお金を借りる事にした。
その度に、藤代を実家に行かせて、頭を下げさせていたのだ。
正直、借りるということであったが、返済の見込みなどなかった。返せないとわかった上で、お金をいただいていたのだった。とても一月分では足りないので、毎月のように、藤代は実家へ行き、お金をいただきに顔を出していた。今の生活が出来るのは、藤代のおかげであったが、初は一切お礼もいうことなく、藤代への仕打ちは続くのだった。女が家に二人居ても仕方がないと想った藤代は、仕事に出る事にした。日中、初と顔を合わせなくてもよい事が、最大の利点であった。
その時間は少なくとも、小言は聞かなくて済むはずなのである。藤代が働きに行っても、その夫である久雄は、売れもしない家業を営んでいるままであった。案の定、藤代の働きだけでは一家は支えられず、足らない分は当たり前のように藤代の実家を頼るのだった。
あれから数年たち、この男も大きくなっていた。ここにきて、やっと教育費がかかる事に気付いた久雄は、仕方なくタクシー運転手をする事にした。この頃になると、初の小言の勢いも無くなりつつあった。
定職に就いてもらえた藤代は、実家を頼らずに済む事になった。何も出来なかった藤代であったが、家事も少しずつ出来るようになり、料理も作れるようになっていた。この男は、これまで初に育てられていた事もあり、初めて食べる藤代の料理に慣れないでいた。これまで通り、年老いた今となっても、朝食とお弁当は初が担当していた。
朝が弱い藤代にとって、早起きをして動くのがしんどかったのだ。何だかんだ言いながら、藤代の稼ぎをあてにしていた初は、藤代を大事に想うようになってきたのだ。勿論、のちに介護をお願いする相手でもある事が、この頃より頭の片隅に入っていたからでもある。藤代は、嫁いでから度々初の嫌がらせにあっていたが、一切反抗した事がなかった。かなり理不尽なことであってもひたすら耐えていたのだ。
藤代の娘の沙希が、社会人となり藤代の肩の荷が下りた時、その兄でもあるこの男も社会人となった。しかし、藤代のホッとしたのも束の間であった。折角入社できた会社を辞めると沙希が言ったのだ。最近、沙希の様子がおかしかった。仕事へは行ってはいたが、帰りにどこかに寄って帰ってきていたのだ。
年頃ということもあり、気にしないようにしていた藤代であったが、土日もどこかにいっているのだ。沙希に彼氏が出来たのならばいいのだが、そういう訳でもなさそうであったのだ。はっきりとわかる沙希の怪しい行動に、藤代は問い詰める事にした。すると沙希から「一緒にきてほしいところがある」とだけ言われた。何をするのかどこに行くのかさえもわからなかったが、心配なので一緒について行く事にしたのだ。
沙希の車に乗せられた藤代は、ある建物の中の駐車場に着いた。何の建物かもわからないまま沙希の後を歩いた藤代は、そのまま何も聞かず建物の中に入っていった。いきなり沙希は、藤代に袈裟らしきものをつけた。そして一言「これは大変有り難い教えだから」と言って、靴を脱ぎ部屋まで連れて行った。藤代はここで宗教なのだと気付いた。初めは、沙希に騙されたと想っていた藤代だったが、その程良い居心地に逆に安堵してしまったのだ。ここの教えは『高額な壺を買わされたりしない』と声を大にして、沙希は言った。
しかし親である藤代は、とても心配になった。いくらなんでも、この建物が冷暖房完備であるということは、何かしらの収入源があるはずなのである。藤代は、今までコツコツ貯めたお金が無くなる事も嫌だったので、家に帰ったら沙希に「もう行くな」と言おうとしていた。すると法要らしきものが始まった。再び沙希は、藤代にお念珠をつけた。それから「私の真似をして」と言い、何やら動作を始めた。藤代はいい加減に真似をして、ただ法要が終わるのを待っていた。この不思議な空間にたくさんの人が集まっていた。法要が終わり沙希から、いろいろ説明を受けた。 沙希が「この教えは有り難い教えだから、お金はかからない」と言うのであった。
小さな子どもで無い藤代は、タダでは済まない事はわかったが、この日は藤代の財布から一円も支払うことなく終わったので、沙希の言う事を信じてみる事にした。とにかく、沙希がこの教えに熱中している事は確かであったので、何かあってからでは大変なので、次もついていく事にしてみた。沙希は常に「徳積みが大事だから」と言っている。この教えをすると徳が積める。だから有り難い教えなのだと言い切った。あの日以降、お金を本当に使わないのかが心配であったが、何回行ってもお金を出す事はなかった。
それからしばらくしてのことであった。沙希が「今日から霊能者修行をいただけるようになったから」と藤代に伝えてきた。霊能者修行とやらがどんなものかわからなかったが、一度試しにしてみる事にした。するとここで初めてお金がかかる事になった。沙希は「霊能者修行一回千円だから」と言った。
藤代は財布から千円を取りだし、受付らしきところに支払った。お金はいらなかったはずではないかという疑念をもったが「いただくのだから支払って当然でしょ」と沙希は何も言わない藤代に向かって言ってきた。沙希はこの霊能者修行とやらが、千円以上の価値があるものだと言わんばかりにもみえたのだ。確かに宗教は、子どもでもない沙希にとって自由であるに違いないかもしれないが、喜んでお金を使っている姿に、親としては気になった。沙希は、霊能者修行を受ける部屋に藤代を連れていった。
そして、順番に並ばせられた藤代は、自分の順番が来るまで正座をして待った。その藤代の後ろに沙希は座っていた。何が始まるのかわからないままの藤代は不安であった。とうとう藤代の順番がきた。藤代は沙希の指示に従った。藤代の前に座った霊能者は、ボツボツと話しだした。藤代の亡き両親のことであった。その供養としてお施餓鬼をしたらよいとその霊能者修行で言われた。勿論藤代は両親のお墓参りをしており、その度供養もしていた。
それなのに、言われたのである。更に「ここのお施餓鬼は因縁も切れる為、どうせするのならばこちらの方が良い」と付け加えられたのだ。藤代は納得できなかったが、後ろで沙希も聞いていた事もあり、断りきれずする事にした。ここのお施餓鬼は、お墓参りに行って供養するよりも、何十倍も効果と価値があると沙希は話していた。結局、お施餓鬼だけでは済まず、お護摩の他寄付金をするよう沙希に言われた。
この日だけで、一万二千円を使用したのだ。勿論するのも自分の判断となるが「折角、徳積みが出来るのだから出来る時にした方が良い」と沙希に言われすることにした。一日でこんな額を使ったことのなかった藤代は、自宅に帰っても久雄にこの事を話せずにいたのだった。沙希はほとんど貯蓄をしないでこの教えにお金を使っていることがわかった藤代は「この教えがあなたを経済的に助けてくれることはないから」と沙希に少しでも蓄えるように言った。 すると「この教えに投資した以上に、いい男性と巡り合い結婚できるはずだから」と言い放った。この教えをして、沙希自身稼げる能力が高まるのではなく、結婚相手に期待をしてじっくり品定めをし、冷静に判断したいという考えのようであった。それ以降沙希に、教えの集まりにも参加させられた藤代は、初めてこの教えが繋がっている事に気が付いた。
この教えでいう藤代の立場は、沙希の子という関係がわかった。更に沙希には、この教えの親が存在していたのだ。勿論その親の上にも更にその親が存在していた。今すぐにも沙希が、この教えを辞めなさそうなので、当面一緒に付き合う事にした藤代は、毎週霊能者修行とやらもいただいていた。そこで、ご先祖様のことを言われ、たくさんの因縁があるから、まだお施餓鬼が足らないというのだった。あっという間に、お施餓鬼の代金は増えていった。このままでは、お金が足らなくなる藤代は、再び仕事をやりだした。
何の為にしているのか、わからない藤代であったが、沙希のいうとおり、中身のない趣味にお金をかけるよりも、この教えの方が徳積みになるから有り難いと想うようになっていった。ある時の霊能者修行でお誘いはできていますか?」と霊能者から聞かれた藤代は「できていません」と答えた。
このお誘いとは、この教えの信者を増やす事であった。藤代は、毎月かなりのお金を使うこの教えがいいとは思えなかったので、人に話す事を拒んでいた。お金のかからない喫茶店のようなスペースなら、紹介できても沙希のいうようにこの教えが、趣味として捉えた時、趣味に三万円はないだろうと想ったのだ。まだ冷静に判断のできた藤代は、沙希に「辞めたい」と言った。そうしたら「ここで辞めたらもったいない」と返ってきた。「もう少しで因縁も切れるのに」・・・・・・と。
それから沙希は「今何事もなく、幸せに暮らせているのはこの教えのおかげだから」と続けた。この教えを辞めたら、今よりも悪くなると想わせるような言い方をしてきたのだ。お金が続くまでしようかと思い直した藤代は、久しぶりにこの男が帰ってくる事を知った。この男は、社会人になってから一人暮らしをしていた。だから、沙希がこの教えに明け暮れている事を知らなかった。藤代は、この男に相談したくなっていた。この教えをしてから、藤代は不安で毎日寝られないでいたのだ。藤代にとっては、けして幸せにはなってはいない。むしろこの教えのことを考えると、不安が増し寝ようとしても逆に寝られなくなっていた事を想うと、この教えをしていなかった時の方が幸せだったのだ。
こんな不安で寝られなかった藤代の元に、この男が帰ってきたのだ。ここのところ数カ月あまり寝られていない藤代の目の下にはクマが出来ており、一気に老けこんだ様子がわかったのだった。そんな藤代を心配して、この男の方から聞いてきたのだ。「何かあったのか?」・・・・・・と。
この男は、入社してからかなり順調に仕事をしていた。それを想うとこの結果は、教えの力ではない事がわかったのだ。それでも沙希は「私がこの教えに繋がったからだ」と言い張っていた。「この家族が幸せでいられるのは、この教えがあるから」とこの男にも諭すように沙希は言っていた。『確かに、悪い行いをしなければ、人生上手くいく方向に向かうはず』とは想ったが、この男も沙希をこの教えから辞めさせたいと想い騙されたフリをして始める事にした。しかし最近この男は、職場環境に不穏な空気を感じていた。
だから、実家に戻ってきたのだ。そんな気持ちで騙されたフリをしていたこの男は、沙希を辞めさせるどころではなく、自ら関心を寄せてしまった。すでに全国に広まっていたこの教えは、この男の住んでいるエリアにもあった。沙希に言われたとおりに、この教えの集まりに参加する事にした。
そこで、この信者といわれる人たちが必死になって、お誘いだの寄付などするのかが少しわかったような気がしたのだ。この教えには、上下関係があるのだ。少しでも上にあがる事が出来れば、よりよく因縁が切れていき、そして徳もたくさん積むことができると教えられているからであった。常に、身体も守られ一石二鳥といいたいのであろう。この男は、この真相を深く知りたくなった。しかし、この男にも欲というものがあったので、ここの信者のように自分にも見返りを求めたいと想ったこの男は、お誘いと呼ばれる信者集めに焦点を置き取り組む事にしたのだ。なぜなら、この教えの中で、一番徳が積める方法であるということであったからだ。こうしてこの男が信者を集めると、その上の親である沙希の立場も上がっていった。更にその上の親も向上していったのだ。
そんな時、沙希は結婚する事にした。結婚相手は、安定した企業に勤めていた。更に沙希が何をやっていても文句一つ言わない人であった。沙希は、今までしていたバイトすらも辞め、専業主婦になり、今まで以上に、教えに没頭する事にしたのだ。沙希は「よき旦那を手に入れられた」と言っている。「これも、この教えのおかげなのだ」と続けた。
それからしばらくして、この男も結婚する事になった。勿論、今でも教えは続けていた。どうしても向上したいと想うようになっていたこの男は、結婚しても教え中心の生活をしており、僅かながら家計にお金を入れる以外は、この教えにお金を使っていたのだった。この男にしても、結局教えをすることで、誰よりも尊い存在になれると信じていたのだ。この男の妻である弥生も、教えに入信する事になった。
そんな時、親と呼ばれていた人の態度が変わりだしたのだ。この親は、今まで霊能者修行でいただいた内容を報告するように言っていた。その内容を聞けば、入信した人の徳の多い人、少ない人を判別できるのであった。それを利用してか、その親は、折角徳積みをしだした弥生に「あれはするな、これはするな」と指示までするようになっていた。この男よりも元々多くの徳を持っていた弥生は、少しお誘いをしたらかなり向上できる状況にあったのだ。そうなると、抜かれてしまうかも知れないと想ったその親は、あれやこれやと、指示をしてきたのだ。
弥生にとっては、たくさん徳積みが出来るのかもしれないと喜んでいたのに、結果としてこの親に阻まれることになってしまったのだ。親と言っても人間。自分よりも徳の多い人が、自分よりも早く向上をされては、親としての面子も保たれなく嫌だったのであろう。親としてのプライドがそうさせてしまったのかわからないが、それ以来、弥生は信頼を失い、この教えの事も正しいとは思えなくなっていたのだ。そんな時、この男は、自分の幼少期の事を話しだした。いつも段ボールの中に入れられていた話であった。その中では、自由を奪われ親に絶対服従しないといけない環境であったことが話された。この服従である主は、勿論久雄であった。だから久雄のことは、好きではなかった。あまり話をした事のない久雄に対して、思春期であっても反抗まではしなかったが、親としての自覚のなさに無視をしていたというのだ。そんな同じ家族であっても、薄い関係であったが、この教えをしだして、この男は、相手を許すという気持ちが芽生えたというのであった。
一つ屋根の下で寝ていた頃は、とにかく嫌な存在であった久雄のことが「今となってはあの時、あんなに嫌いだったのだろうと思えるように自然に変わっていった」というのだ。「ここまでの関係にしてくれたのも、この教えがあったからなのだ」とはっきりとこの男は、言い切った。もしあのまま何もしなかったら、おそらく何も変わってはいないはず・・・・・・と。実は、久雄もこの男に勧められて、この教えの信者となっていたのだ。本当は、違った。今までは、全てが健康であった久雄も、今は耳も遠くなった老人であるのだ。側で何を言われているのか聞こえなくなった今、答える言葉も考えられないだけではなかろうかと、弥生は想ったのであった。
いいように想うのは勝手であるが、すでにこの男に子どももいる為に、育てあげる為の貯蓄をしたい弥生は、生活費がもう少し必要である事を言った。この男は、交通費などすべてを含めて、ひと月の教えに十万円ものお金を使っていたのだ。独身の頃と同じように使い続ける額の多さに、弥生は怒りと変わっていった。はっきり言って、この教えをしたくないという感情であった弥生は、何を言っても無理なこの男には頼れず、自分が働きに出る事にした。
この男がいうには、沙希の家計においては同額教えに使っているらしかった。しかし、沙希の旦那は、この男より収入が多かった。その事に気が付かず、同じ収入のないお金を使い続けたらどうなるのかも考えられないでいた。そんな事になろうとも、自分を曲げられないこの男は、嫌がる妻を週末教えに連れていくのであった。
ここまでこの男がするには、理由があったのだ。弥生を導いたこの男は、自分が向上するのに、熱心な信者が必要なのであった。弥生がこの教えの集まりに行かなくなると、他の人を探さないといけなくなるからなのだ。しかも、同じだけ熱心且つ教えに従順でないといけない。ここまでの気持ちを果たして他人が持ってくれるかわからないと思ったこの男は、弥生を従わせるのだった。この男は、沙希の旦那と違い不安定な収入であった為、蓄えておかないといけない事が、結婚当初よりわかっていた弥生は、僅かしかもらっていない家計費の中から、ほんの僅かであるが貯蓄をしていた。
しかし、これだけでは教育費に充てる事もできない額だったのだ。だから、弥生は、働きに出た。もうこれ以上教えに使いたくない弥生は、教えの集まりに行きたくないのだ。なぜなら、そこはお金を使わないといけないところであるからであった。ほんの僅かしかもらっていない家計費であったが、この男は、ボーナスですら一円の貯蓄もしていなかったことがわかったのだ。年を取り始めたこの男の収入は、減っていくばかりであった。そんな中でも、教えにかける予算を一番に考えているのだった。弥生は「この教えに、あなたの預金口座があって、そこに収めてあるのならばいいが、収められる事無く使用されているの」そして「こんな水もの教えよりも、逆に高額な壺を買わされる方がましではないか」と続けた。弥生曰く、本当に高額な壺を売られても、その壺にその価値があるならば、売る事もできる。しかし、この教えは、水のようにお金が消えていくだけであって、その収入というのは、経済的に困った信者に使われるわけではなく『この教えの教団のものになるだけでしょ』・・・・・・と。
弥生の言う事はけして間違いではなかったが、今以上に仕事にしろ、何にしろ、悪くなる事を考えると辞める事が怖くなっていたのだ。こんな日々お金の心配をしていた弥生に、藤代から初が亡くなったと知らされた。この連絡を受けたちょうど一年前にこの男の祖父も亡くなっていた。すぐさまこの男の実家に家族で向かった弥生は、藤代に愚痴をこぼしてしまった。この男を含むこの教えをしている人が『特別に永遠の命を与えられている訳でもないのに』と弥生は今まで想っていた事を藤代に話した。この世に、永遠の命は存在しない。
そして同じ人間、この教えをしていないからといって不幸になる事はけしてない。なぜなら、人間は、平等に幸せがくるようになっている。教えをしている人、していない人ではなく、その本人の生き方で決まっているのである。いくらこの教えをしているからといって、けして守られている訳ではない。当の本人は守られているからと勝手に思い込み、何をしてもいいという考えがありがちである。このありがちな考え方こそ、その中に知らず知らずに人を傷つけているのである。弥生は、子どもを連れてこの男からいつか去ろうと決めた。
確かにこの教えは悪い教えではないのかもしれない。しかし、あの霊能者修行と言いつつも、霊能者が信者を増やせと指示をしてくる。勿論、この世から一瞬にして信者がいなくなったら、経営が成り立たない。これが、果たして真の教えであるのか「今一度考えてほしい」と弥生は、この男に猶予を与える事にした。そうしたら、この男から「来月より、家計費を渡さない」と言われた。この男は「現在、貯蓄から僅かな家計費を捻出している」と言った。自分の生活費そして子どもの生活費は自分でしてくれというのだった。今までどれだけでも自由に、お金を使ってきたこの男の言葉に、開いた口が塞がらない弥生は「猶予ではなく、離婚をする」とはっきり言ったのだ。
この時弥生は、この男に首を絞められたのだ。弥生は、この男に首を絞められた過去があったのだ。結婚をして間もなくのことであった。自由なお金が減ったこの男は、そこにストレスをかかえるようになったのだった。そのストレスのはけ口を、弥生にぶつけたかったが、それが出来ず、この教えで言われたのかストレスノートをつけていたのだ。そのノートを発見した弥生は、そこに書かれていた内容を読んでいたのだ。それから数週間後にいきなり「おまえを見ていると殺したくなる」と言い、この男は弥生の首を絞めてきたのだ。弥生は、この男に力いっぱい首を絞められ危うく死ぬところであったが「殺したいのなら、殺せばいい」と言い返し、我に返ったのかこの男の手が弥生の首から離れていった。弥生は、この頃から、この教えに洗脳されているのがわかった。
裕福な人が、この教えにいくら投資しても、いいのかもしれないが、いい教えだからといって、果てしなく投資をしたくなるような、教えであってはならないのだ。この男はもうすでに、教えという病魔に侵されていたのである。この男本人は、自分は正しいそしてこの教えは正しい教えである。よって、弥生が悪いという結論をだしてきた。この弥生さえいなければ、教えにもっとお金をかける事が出来るのに・・・・・・と。
さぞかし不満が溜まっていたのであろう。この男は、何でもこの教えを頼っていた。数年前、家を購入する際も、この土地の鑑定を依頼していたのだ。この教えをしているからといって、良心の呵責があるような心の持ち主ですらなく、ただ自分だけが向上したく、その為にはお金もすべてつぎ込みたいという心が先に湧きだし、その心が抑えられず、更にそれらを阻害する者は、許せないという心まで持ってしまっていた。ここまできたら、この男は病気である。しかしこの男は、自分の非を一切認めず人のせいにするだけであった。
自分は正しい人間であり、人にとっても優しい人間だと偽善者であるからこそ人にそう想われたいのだ。本当に良心しかない人は、自分のストレスであってもストレスとは感じなく、うまく対処できるはずなのである。本当の良心の心を持たない偽善者という人間は、良心を装う事でストレスとなるのではないかと、弥生は想っていた。この男は外面がよく、演技力もあった。こんないい加減な人間の為に、逆に人生を無駄にしてしまう事の方がもったいないと思った弥生は、何も持たずさっさと家から出ていく事にした。
この男の妻であった弥生は、子どもを連れて離婚をした。弥生は、この男との婚姻中、子どもを儲けていた。子どもが生まれるまでは、弥生は当たり前だが妊娠していた。その妊娠期間中であっても、この男は、子どもにお金を使われるのが嫌だったのか「おろせ」と弥生に言っていた。いくら言われても中絶しなかった弥生に、スーパーで買ったものすべて重たかろうがこの男は持たせていた。それだけではなかった。
寒くなりだし、我が家では灯油が必要になっていた。その時この男は、灯油を入れた二十リットルのポリタンクを、マンションの駐車場から三階の部屋まで運ぶよう、弥生に命じたのだった。マンションにはエレベーターはついていたが、それでもそれを持ち運ぶには二十メートルの距離を妊婦が持って歩かないといけなかったのだ。妊婦の妻にこんな事ができたこの男は、本当に子どもがいらないという意思表示であったのであろう。その直後の弥生は、出血が続き安静にしていたのだった。この時弥生の心は、出産する前に例え離婚をしたとしても、自分が子どもを育てる覚悟を決め、妊娠を継続していたのだ。
それからしばらくしてこの教えで、子どもを育てることで、たくさんの徳がもらえると聞いたこの男は、出産を心待ちにするようになった。しかし子どもの事が好きではないこの男は、全く子育てを手伝う事はしない。勿論弥生も初めからあてにはしていなかったが、それでも子育てにもお金がかかるのである。そのお金を充分に渡さず、教えに没頭するこの男の後ろ姿にどれほど弥生は、腹を立てたことであるかわからないくらいであった。
この男は、弥生との離婚後、会社でリストラにあっていた。まだ家のローンを抱えていたが、貯蓄をせずに教えにかけていたことで、余裕なお金も手元になかった。即日、ハローワークへ行き、雇用保険の手続きをした。次の仕事のあてもないまま月日は流れていたが、それでも仕事が無いことで、自由な時間を手にできたことで、教えの集まりに頻繁に通っていたのだった。何をするにしてもこの男は教え中心であったが、次の仕事も教えで鑑定をいただきたいと想っていたのだった。しかしかなりの月日が経っても、この男に選べるような仕事はないのであった。それにも関わらず、この一つの仕事についての鑑定をすることにしたのだ。
いただいてもいただかなくても、どちらでもいいような回答を得ただけであった。ここでもお金を無駄に使ってしまっていることにも気が付かず、自分なりに納得してやっと仕事にこの男は臨む事にしたのだ。勿論今までよりも、収入は下がる事となった。この男は、弥生との子どもに養育費を支払ってはいなかった。弥生としては、二度と顔を見たくない相手であった事もあり、きっぱりとこの教えからもそしてこの男からも縁を切りたかったのだ。この収入では、今までのように教えにかけるお金が少なくなっていた。
このことに不満があったこの男は、家を売る事にした。中古で買った家であったが、この辺りの地価が高騰していた為、ほぼ損をせずに手放すことができた。これから毎月家賃が必要になることが、勿体ないと感じたこの男は、実家でお世話になることにした。かなり高齢になっていたが、藤代と久雄は元気にしていた。
この家も、毎月教えにかけ続けていた為、蓄えがほとんどなかった。本当ならば、家も直さないといけないところがたくさんあったが、そんなお金までも使い、教えに費やしてきたのだ。藤代は元気であったが、食べることだけでも大変になり、教えには行かなくなっていた。行かなくなったことで、人間らしい生活ができるようになったと言っていた。今まで着の身着のままに近い生活をしており、生活が困窮していたのだった。最近は、バス旅行に出掛けたりして、少し心に余裕もでき、やっと物事を冷静に判断できるようになってきたのだ。「あんなに極限まで自分を追い込み、教えをしていた事が、やはり自分でもおかしかった」と藤代は言っていた。藤代は、この男に教えを辞めるように言ったが、離婚までした男という事もあり、親の言う事を聞かず、家賃代を浮かせた分、教えにかけるのだった。
そんな時、沙希が家族で実家に帰ってきた。藤代はまだ教えをしている沙希とは、顔を合わせたくはなかったが、教えの話をしないという条件付きで帰らせていた。沙希には子どもが二人いていたが、この二人の子どもも教えをしていたのであった。子どもという素直なうちに、この教えこそが正しい教えであるという事を洗脳してしまえば、子どもがやがて大人になったとしても、この教えを受け継ぎしてくれるという考えがあるのであろう。その結果、信者の数が減らない分、子育てしている人には特別に優遇し、向上しやすくなっているのではないかと考えていた藤代がいた。
どこの新興宗教であっても病気を治してくれたり、この先を確実に見通したりは、できやしない。ただ各々が自分の人生を捉えた時、どう生きていくのか、そしてどう生き抜いていくのかにかかっているのである。子どもの時でもそう言えるのである。いつも子どもに親が付きっきりとはいかない。子ども一人であっても、自分の判断を即座にしないといけない時があるからなのだ。目の前に起こりそうな事故を、教えの力があったとしても教えてはくれない。 そんな時であっても、出来るだけ回避できる能力を自分で身につけておかないといけない。
しかし、いつでも親の側にいる子どもならば、その急場をしのぐこともできないと藤代は想っていた。藤代には、幼い頃から親がいなかったことで、家事までは確かにしてこなかったが、どう生きていけばいいかは自分なりに学んでいた。藤代の子どもたちは、ほとんど初が育てたこともあり、中途半端な子育てになってしまっていた。この男に対しては、段ボール箱に入れてそこから出ないように縛りつけて育てるような、束縛した子ども時代を大事な成長期にしてしまい、人生を奪ってしまった過去があった。その過去の記憶のあるこの男には、今はもう、藤代が縛りつける権利がなく、自分自身が正しいと思う生き方をさせるしかなかったのだ。こんな中では、この男にも沙希にも何も言えなくなっていた藤代は、高齢になっている立場でもあり、何も出来なかった。この藤代の想いに気付かない久雄は、この男や沙希がいることをただ喜んでいたのだった。
この男は、沙希の家族が幸せになっている事実に、教えという力があるからなのだと更に思いこむ事になった。もともと高給取りである沙希の旦那であるから、月額十万円使おうともいいのであった。この男に、藤代は居候代として、お金を取る事にした。沙希同様に教えにお金をかけるこの男は、全く貯蓄をする頭を持たない為、そのお金を藤代は、蓄える事にした。この男は、我が子にも養育費を渡さずに、教えに没頭していることに、藤代は許せなくなっていた。そんな時、弥生が子連れで再婚したと、風の便りで知る事となった藤代は、今まで何も出来なくて申し訳なかったという罪悪感が少し消えて、幸せになったのだと想う気持ちから、心のどこかでホッとしていたのだ。
藤代は、弥生の教えに対する気持ちを知っていただけに、この男に付き合わされていたことで、人生を無駄にしてしまった事をこの日まで悔いていたのだった。弥生は、勿論今、教えは一切していなかった。していないからと言って、不幸になることもなく、逆にいい人に巡り合い、幸せになったのだ。
この事実を、藤代はすぐにはこの男に知らせなかった。弥生は、教えをしていない藤代に電話をした。藤代は教えを長年し続けすっかり蓄えがなくなっていたのだ。弥生は婚姻中、藤代の孫にあたる子どもをたまに預かってもらっていた。この時は、親族であった為、お礼などほとんどしてこなかった。この時の感謝の気持ちを未だに持ち続けていた弥生は、後日現金を持参する事にした。久しぶりに藤代に会った弥生は、成長した子どもたちの写真を見せた。すっかり大きくなった写真を見た藤代は、安堵していた。「こちらの勝手な事で申し訳なかった」と藤代は謝罪した。弥生は「今、幸せと感じられるのは、感じられなかった過去があったから」と言い、更に言葉を続け「過去を変える事ができないから、未来を変えただけ」と幸せである事を伝えた。それから多額ではないが、心ばかりの感謝として、寂しくなった藤代の懐を少しでも温めたくなった弥生は、現金を置いて帰った。
人間の欲は、お金だけではない。地位や名誉を手に入れたいという気持ちは、正しく人間の欲であるのだ。こういった欲を手にするには、人を踏み台にしなければならない。この踏み台のないこの男は、一向に教えの立場でも向上できないでいた。この男は、かけるお金が少ないからだと思っていた。
本当の教えであるならば、お金をかけなくても向上出来るはずなのである。しかし、この教えは、全くお金をかけていない人は、最初の一歩である一番下のステップであっても向上できないようになっているのだ。これは真の教えではない。この事に気が付いている藤代は、この男の熱が少しでも冷めたらいいと想い、弥生が再婚して幸せにしていることを伝える事にした。今や、教えをしていない弥生であっても幸せになっている。
だから、人間の幸せには教えは関係ない。教えよりも自分の老後の事をもうそろそろ考えてほしいといった。「貯蓄もなく年を取ってどうやって暮らしていくのか?」という事を、真剣に考えるように藤代はこの男に言った。沙希からの言葉も伝える事にした。「沙希は、あなたの面倒をみてはくれない」とこの男に話した。この男は「そんなことはないはずだ」と激しく怒ったが、これは沙希からの言葉である事を伝えた。『この教えをしている者は、お互いを助け合わないといけないはずだ』とこの男は言ったが、「お互いということは、あなたは沙希を助けられるのか?」とこの男に藤代は聞いてみた。すると「助けられる訳ないだろう」と返ってきた。
その直後に『沙希を助けることはない』と言い切った言葉の後に、この男は、沙希への気持ちが憎しみに変わっていくのであった。
ここまできてやっと気が付いたこの男は、何もかもなくしてしまったことに悔いるようになった。折角購入した家もなく、弥生も無くし、我が子だってなくしていた。我が子に何をしたのかと聞かれても、一切何もしていないのが事実である以上、何も言えはしない。沙希への気持ちが、こうして憎しみから憎悪へと変わっていたこの男は、再び幼い頃段ボールに入れられていた事を思い出した。この男が段ボールに入れられる事になったのは、妹である沙希が生まれたからであった。沙希がいなければ、この男は藤代の背中でおんぶされていたはずであるのだ。この男は、母である藤代まで奪われたことに、今更のように気付いてしまった。
つい最近まで、この教えを沙希が導いてくれたおかげで、この男の教えに対する向上心が芽生えていたのだった。だからこの男は、沙希に感謝をしていたのだ。しかし、今となっては、この男にとってこの教えを知らなかった方が、失くすものは逆になかったはずであるのだ。この男は、沙希の為に、沙希の踏み台となっていただけであったのだ。沙希は、この教えにおいても、この男のおかげで向上していたのだった。このことを冷静になった今、初めて気付くことになった。それだけではない。この男から、今まさに現れてきたのは、沙希への怒りだけであり、それが爆発的に起こっている状態であったのだ。
怒りの矛先を沙希に向けたこの男は、沙希が住む大阪の自宅に向けて車を走らせた。何も言わず、突然実家からいなくなったこの男を、急に心配になった藤代が、沙希に電話をいれた。「お兄ちゃんが来たら連絡して」・・・・・と。
沙希は、確かにこの教えをしていても、幸せにはなっていた。沙希は、この教えをしているからだと勿論信じて疑わなかった。だから沙希は、この男がこの教えにはまってしまい何もかも失くしてしまった事については、自業自得であると思っていたのだ。この教えが悪いわけでもないし、勿論沙希が悪いわけでもないと思っていたのだ。
しかし本当にそうであるのか?この教えの霊能者修行で、信者を増やせと言われたり、もっと寄付をしろと言われたり、それができていないといつも同じ言葉が返ってきて、このままでは、因縁が切れませんと言われる始末であった。因縁が切れないと、幸せにもなれないということに繋がっていくのだった。この流れが、この教えの定番の文句であったのだ。この言葉をいつも聞いていたこの男は、仕事もできない、教えもできない、そして夫としてもできない、父親としてもできないと、本来人間だから出来る事をこれらすべてできないと、自分の事を全否定されているようであったのだ。人を落とすだけ落としながら、最後には、できないあなたではない、できるあなたになりましょうと決まり文句。それから人間誰だって、一つくらいはいいところがあるのだという言葉を締めに使っていたのだ。この男は、この教えの霊能者のいうとおりにしていた。その結果見事に、何もなくなってしまったのだ。
この怒りが収まらないこの男は、車内で沙希に向かって怒りの言葉をぶちまけていたのだった。走っていた車の中で、思い出したくない記憶が甦ってきたのだ。いつも要領よく親に甘え、おいしいところをすべて食べつくしていた沙希のことを・・・・・・。思い出してはいけない記憶まで、沙希の自宅までの道のりで思い出していた。自分さえ幸せになれればいいという沙希のことが、疎ましく思うようになっていった。
確かにこの男の妹である沙希だが、今となってはかわいい妹でもなくなっていたのだ。この教えをすればするだけ不幸になっていくのだという結論にしてみせると願っていたのだ。この男は、実家を出発して二時間が経過していた。食事をする事も忘れて走っていたこの男は、ここでやっと休憩する事にした。簡単な食事を取り、缶コーヒーも自販機で購入し、再び大阪に向けて走り出した。それからの記憶がほとんどなかったこの男は、沙希の自宅になんとか辿り着いたのだ。いきなり車を降りたこの男は、トランクから灯油缶を取りだした。それを手にして、沙希の自宅のインターフォンを押したのだ。
沙希はインターフォン越しで話をしたかったが、この男の大きな声にドアを開ける事にした。見ると手には、灯油缶があったのだ。この男は、玄関先に灯油を撒きだした。そして火をつけたのだ。それから、この男は、車に戻り走り出したのだった。
沙希は、藤代からの一回目の電話があった後、もう一度電話を受けていた。この二回目の電話で実家の灯油缶がなくなっていることを藤代から知らされていた。万が一に備えて、火をつけられてもすぐに鎮火できるように、予め玄関周りから、玄関先まで水をかけておいたのだった。そして、消火器を準備してこの男の到着を待っていたのだった。この男が持って出た灯油缶は、満タンの灯油が入っていなかったこともあり、火が回る事無くすぐに消火出来たのだった。この男は、最後までこの火の行方を見届ける事無く走り去っていったので、この火がほとんどつく事無く消火されたことも知らなかった。沙希は、藤代にこの男が来た事を連絡した。
藤代は、この男がしたことを、警察に通報するよういったが、沙希は「身内の犯行を世にさらす事が嫌だ」と言い、しなかった。この男は、来た道を走っていた。途中疲れたこともあり、車を停め仮眠を取る事にした。少し休憩をとったこの男は、ニュースが気になりテレビをつけたが、特に何の情報を得られる事はなかった。再び実家へ向かって走り出した。藤代はこの男が無事に帰ってくるのか心配になった。
この一件で、沙希自身もこの教えのあり方について疑問を持つようになっていた。確かに沙希は、豊かな暮らしが保障されていた。それだけでなく、仲のいい家族そして幸せを手に入れる事ができた。しかしその変わり、すべての不幸を兄であるこの男が背負ってしまうことになっていた。沙希の幸せの踏み台を、長年なってくれていたことに今、改めて感謝したのだった。沙希としては、妹である私よりも苦労を背負うのは上の立場の兄と決めつけて、当たり前のようにこの幸せの踏み台を思っていたのだった。この男の怒りを買った事に対して、ただただ申し訳ない気持ちになった沙希であった。
そんな時、藤代から電話が入った。この男が帰ってきたという知らせであった。あんなことまでしたけれど、比較的冷静に語りだしたとのことだった。藤代としては、このまま教えにも沙希にも関わらなくていいからとだけこの男に告げた。この男にとって教えで得たものより、失くしたものの方が大きかった。この失敗を糧にして、再度生きていこうと決めたこの男は、今やるべき仕事に打ち込んだ。打ち込んでいる間は確かに何も考えなくても良いが、それが一気に終わるとただ虚しさが残るだけであった。今まで、教えに対する怒りがあったから、このような虚しさを感じずに済んだのだ。居場所を変えても、出会う人を変えてもこの虚しさが消える事はなかった。この男は、仕事以外にも熱中できる何かを見つけたくなった。そんな時に見つけたのが、カブトムシであった。寝付かれずにいたこの男は、夜道を車で走っていた。ふと見るとガソリンスタンドの灯りに集まってきたカブトムシを発見し、車を止めた。 飛んでいるカブトムシを咄嗟に捕まえてしまったのだ。この男が住む実家に、子どももいなくなった今、飼育できるケースも特になかったが、育てる事に決めた。夜中、実家に戻ったこの男は、段ボール箱を見つけた。その箱に空気の穴をあけ、カブトムシをおもむろに取りだし入れた。
餌といってもなにもなく、冷蔵庫にあった蜂蜜を水で薄めてあげてみた。バタバタと動いたこの男は、急に眠くなり熟睡する事が出来た。朝になり、居間にある段ボールに気付いた藤代は、怪しい穴を確認していた。それから慌てて二階から起きてきたこの男に声をかけた藤代は、その中にいるのがカブトムシであることを知った。
朝食を簡単に食べたこの男は「飼育するから捨てないで」とだけ言い、仕事に向かった。久しぶりに身が入った仕事ができたこの男は、これはもしかしてカブトムシのおかげなのかもしれないと思った。ひと夏の命しかないカブトムシを精一杯育てることにした。いつもより充実した仕事帰りに、カブトムシの為のやや大きめの水槽を購入した。あわせておがくずや木片そして昆虫ゼリーなども買った。かわいい子どもが待っているような気持ちで、急いで家に帰った。この男の帰りを待っていたカブトムシは、されるがまま新しい住処に移っていった。この男は、このオスのカブトムシが寂しかろうと思い、メスのカブトムシも購入していたのだった。
初めて対面するカブトムシであったが、お互いに顔を確認する事無く、おがくずの中に潜っていった。この男は、このオスのカブトムシに太郎と名付け、メスには花子と名付けた。更に夜が深まり再び姿を現した太郎と花子は、仲良くゼリーを食べていた。お互い相性がいいのか、近づいたり離れたりと様子をうかがっていた。昆虫ごときに、ここまで癒されるとは思っていなかったこの男は、太郎と花子の行く末を見守る事にした。
この男は、再びボランティア活動だけする事にした。藤代もそれだけ継続していたからであった。何も求めないボランティア活動は、ただこの男の良心しかなく、今までのような偽善者ではない本来の姿を見られた藤代は心で安堵していた。見栄を張る必要も無くなったこの男にとって、この活動だけで人間の徳が得られるわけではないが、無心に何かに向かおうとする気持ちが、ここ数日で現れている事に満足していたのだった。こうして仕事もプライベートも充実しているこの男は、日を追うごとに喪失感が薄らいでいくのがわかった。
それから数週間後の週末、ボランティア活動ですっかり疲れきってしまったこの男は、いつもより早く休む事にした。そんな事で、深夜トイレに起きたこの男は、カブトムシがいる居間の方から『ギシギシ』という音が聞こえ近づいた。太郎と花子がじゃれあっているように見えた。仲良くしている様子に、ホッとしたこの男は、無くなりそうなゼリーを確認して、新しいゼリーと取り換えた。まだ真夜中である為、再び寝床へ入った。その翌朝、昨夜早く寝たこともあり、この男は早く目覚めた。久しぶりに両親の為に、朝食を作る事にした。
早朝から台所でなる包丁の音で、藤代が目覚めた。藤代は挨拶ではなく「ありがとう」とこの男に言った。朝食が出来てもまだ起きてこない久雄を呼びに行ったこの男は、藤代を呼んだ。久雄が息をしているのか、してないのかも、わからなかったこの男は、ひとまず救急車を呼ぶ事にした。
久雄は、病院に到着後すぐに息を引き取った。その後、沙希に連絡した藤代は、苦楽を共に過ごしてきた久雄が亡くなった現実に寂しさを覚えていた。今度は藤代が喪失感に襲われる事になったが、藤代もひと夏を必死に生きている太郎や花子に慰められる事になった。それからしばらくして落ち着きを取り戻した藤代は、夕食を作りこの男の帰りを待っていた。あれ以来、仕事から帰ってくるこの男と一緒に夕食を取る事にしていた藤代は、いつもより早い太郎と花子のお出ましにびっくりしていた。
まるで結婚式で愛を誓い合っているように見えた藤代は、少し顔を赤らめながら太郎と花子の姿を見届けた。そこに帰ってきたこの男は、太郎と花子の姿に目が留まった。じっとこのまま見続けるのも失礼かと思ったこの男は「ご飯にする」と藤代に言った。藤代が、ご飯をよそっている間も『ガタガタ』と音が鳴っていた。おかげで久しぶりに、藤代と笑いながら食事を取ったこの男は、太郎と花子が完全に夫婦となった瞬間を見てしまった。その後も、お互いストレスも無く過ごしているように思えたこの男は、この事を日記にしたためようと考えたのだ。
そんな事で、太郎と花子にとっては邪魔者でしかないが、しばし見学させてもらうことにした。さっきから太郎と目が合う事が気になる。いや太郎からしてみたら『見るな』と言っているのかもしれない。ここ数年、書く事も無かった為に、白紙の状態であった日記には、たくさんの幸せエピソードを書くことが出来た。それからしばらくの間、夕食後太郎と花子の様子を見学する事にした。相変わらず仲良く過ごしていたが、太郎が先におがくずの中へ消えていった後、花子だけ残り木片のてっぺん目指して登っていた。辿り着くと、そこから羽を広げて飛んでいた。
花子のイメージとしては、空高く飛んでいるのかもしれないと思っていたが、残念な事にこの狭いケースの中であったので、すぐにケースの蓋にぶち当たり、花子は墜落していくのであった。こんな痛い目にあっている花子は、同じ事を何度も繰り返し飛んでいたのだ。きっと、木の高いところから飛んで、安全な森林を目指しているつもりであったのだろう。そう考えるとこの環境は、可哀そうであるが太郎と花子の子どもを見たかったこの男は、花子が安全という気持ちになるまで、見学し続けていた。
やっと花子はおがくずの中に潜りだし、更に下の土まで辿りつき、産卵をしているようであった。太郎と花子を見ていると、この男が段ボールの中にいた事を思い出したのだ。産卵後花子は、まだ元気にしていた。時々顔を合わせる太郎と花子であったが、以前より距離をとっているように感じた。それからしばらくして、先に花子が亡くなった。一人ぼっちになった太郎は、寂しそうに見えた。それでもまだゼリーを食べる元気はありそうだった。だんだん夏の終わりに近づいた頃、太郎を見ると息絶えていた。悲しみに包まれていた我が家に、更に追い打ちをかけるように、藤代の食が急に細くなり、食べられなくなっていた。病院に藤代を連れていったが、点滴をしていただき帰る事になった。それから数日後、昼寝をしていたような姿のまま、亡くなっていたのだった。とうとう、この男の肉親は沙希一人になってしまった。
この家に一人ぼっちになったこの男は、早速断捨離をする事にした。あの教えをしていた時の生活のままであったのだ。食事や衣類などすべてお金をかけられなかったこの男は、何も買わなくなっていた。しかし、それまでの使用しないものが、たくさんあったのだ。それだけでなく、藤代や久雄のものもまだ残っていたのだ。それらをすべて断捨離できたこの男は、この世に想いがなくなっていた。我が子でさえも、今どうしているのかもわからない。何もできなかったことだけが、後悔の念として残っていた。
この男は、あの教えをしたことを、後悔していた。弥生にあれだけ反対されていたのに、あの時は聞く耳すら持たなかったのだった。こうして、日が落ちてくると同時に寂しさが募るくらい、毎日のように後悔をし続けていた。
どこをみても何をみても寂しさしかないこの家に、一人でいる事が怖くなっていた。一人が嫌だといっても誰も側には来てくれない。そんな事もわかりながらも、明日になったら誰か訪ねて来てくれると信じたくなっていた。今月に入り、仕事にも身が入らなくなってきたこの男は、これからの事を脳裏に焼きつけていた。
この男は、突然頭に過った。忘れられない過去を再び許せなくなっていた。この男は、再びあの教えの集まりに行く事にした。その前に、仕事を辞めてしまった。それから、あの教えの教祖が集まりに来ると知り、出掛ける事にしたこの男は、今までのようにすべての準備を持参していた。建物の中に入ったこの男は、教祖の通り道にいた。教祖が入ってきた時、信者は拍手をして迎えていた。その中でこの男は、カバンの中で包丁を手にしていた。そしてタイミングを見計らい、目の前を通過するのを待っていた。次の瞬間、包丁を手にしたこの男は、教祖に向かって包丁を突き刺した。その後の記憶が全くなかったこの男は、気が付けば段ボールではなく警察署の取調室にいた。この狭い空間の居心地が良かったのかやっと我に返ったこの男がいた。
この男の家族は、材木屋を営んでいた。まだ世には、ガスは通っておらず、こんな商売であっても生計が成り立っていたからである。それを家族で営んでいた為、この男は、赤ちゃんのころより、この段ボールの中に入れられて、育てられていたという事になるのだ。
親としては、この段ボールの中は安全であり、子守りをするには適していると感じたのであろう。これは、あくまでも親目線であり、当の子どもにとっては、きっと母親の温かい背中の方が良かったのではなかろうか。しかしその半年前、ほんの僅かな間であったが、母親の背中にいた記憶があるのだが、下に妹が生まれたことで、この男の居場所を完全に奪われてしまったのだ。
この男は、段ボールの狭い中から母親の藤代に背負われている妹の姿を確認していた。この男の身体が大きくなっても、その段ボールから出される事はなかった。いつも藤代は「この中で大人しくしておいて」と言ってくるのだった。そんな藤代の気持ちに逆らう事も無く、狭い段ボールの中で、その男なりに遊んでいたのだ。この時の記憶は、大人になった今でも、昨日のように思い出すのであった。
『もっと、子どもの時にしか出来ない遊びをしたかった』と大人になったこの男は言っている。実際、この藤代は、子育てを苦手としていたのだ。だから、それを見兼ねたこの男の祖母である初が、家事全般をしていた。この藤代というのは、突然お嬢様のような暮らしをする事になった。なぜならこの藤代の両親が若くして他界した為、藤代は祖父母に育てられる事になったからである。この藤代の育った実家は、産婦人科の医院を営んでおり、お手伝いさんもいた生活だった。その中で育ったこともあり、当たり前だが、料理といった家事もすることもなく、暮らしてきた藤代は、家事という苦手な分野を作ってしまっていたのだ。
藤代はそんな中でも、悲しい幼少期を過ごしてきた。確かに豊かな生活であったが、藤代の祖父母には、同い年の実子がいた為、藤代は、実の弟と二人して誰にも甘える事無く、過ごしてきた。この為、本来甘えていいはずの我が子であっても、幼少期の藤代と同様になるが、甘えさせようとはしなかったのだ。いや、甘えた事の無い藤代にとって、甘えられても、どうしたらいいのかわからなかったからなのだ。こんな藤代の悩みを、全くわからないでいる初は、目の前に起こっている子育てや家事が出来ない藤代に対して、ひどい仕打ちをしたのだった。
この当時、最低でも女は、家事や育児ができて当たり前の時代であったのだ。この最低要件ですら満たさない藤代の事が、後継ぎとなる子を産み終えたこともあり、初としてはただの邪魔者としか思えなくなっていたのだ。この邪魔者でしかない藤代に代わり、可愛い孫たちには、三食のご飯だけでなく、三時のおやつまでも作っていた。この家において、藤代の存在は常に蚊帳の外であった。藤代は嫁いできて、何度も逃げ出したくなったが、子どもたちを置いていく事も出来ず、ひたすら我慢をしていたのだった。
そんな生活も一変したのは、この世がだんだん便利になり、一般家庭にガスが普及しだした頃であった。どこの家庭にもガスが使われるようになった。このガスの誕生は、世にとっては有り難いことであったが、材木屋の我が家にとっては、逆に有り難いとは言い切れなかった。全く売れない商売をしていても仕方がなかったが、まだ薪風呂の家があるので、店じまいはせずに、生き残りを図る事になった。しかし、以前のような収入を得る事は難しく、お金を持っている藤代の実家でお金を借りる事にした。
その度に、藤代を実家に行かせて、頭を下げさせていたのだ。
正直、借りるということであったが、返済の見込みなどなかった。返せないとわかった上で、お金をいただいていたのだった。とても一月分では足りないので、毎月のように、藤代は実家へ行き、お金をいただきに顔を出していた。今の生活が出来るのは、藤代のおかげであったが、初は一切お礼もいうことなく、藤代への仕打ちは続くのだった。女が家に二人居ても仕方がないと想った藤代は、仕事に出る事にした。日中、初と顔を合わせなくてもよい事が、最大の利点であった。
その時間は少なくとも、小言は聞かなくて済むはずなのである。藤代が働きに行っても、その夫である久雄は、売れもしない家業を営んでいるままであった。案の定、藤代の働きだけでは一家は支えられず、足らない分は当たり前のように藤代の実家を頼るのだった。
あれから数年たち、この男も大きくなっていた。ここにきて、やっと教育費がかかる事に気付いた久雄は、仕方なくタクシー運転手をする事にした。この頃になると、初の小言の勢いも無くなりつつあった。
定職に就いてもらえた藤代は、実家を頼らずに済む事になった。何も出来なかった藤代であったが、家事も少しずつ出来るようになり、料理も作れるようになっていた。この男は、これまで初に育てられていた事もあり、初めて食べる藤代の料理に慣れないでいた。これまで通り、年老いた今となっても、朝食とお弁当は初が担当していた。
朝が弱い藤代にとって、早起きをして動くのがしんどかったのだ。何だかんだ言いながら、藤代の稼ぎをあてにしていた初は、藤代を大事に想うようになってきたのだ。勿論、のちに介護をお願いする相手でもある事が、この頃より頭の片隅に入っていたからでもある。藤代は、嫁いでから度々初の嫌がらせにあっていたが、一切反抗した事がなかった。かなり理不尽なことであってもひたすら耐えていたのだ。
藤代の娘の沙希が、社会人となり藤代の肩の荷が下りた時、その兄でもあるこの男も社会人となった。しかし、藤代のホッとしたのも束の間であった。折角入社できた会社を辞めると沙希が言ったのだ。最近、沙希の様子がおかしかった。仕事へは行ってはいたが、帰りにどこかに寄って帰ってきていたのだ。
年頃ということもあり、気にしないようにしていた藤代であったが、土日もどこかにいっているのだ。沙希に彼氏が出来たのならばいいのだが、そういう訳でもなさそうであったのだ。はっきりとわかる沙希の怪しい行動に、藤代は問い詰める事にした。すると沙希から「一緒にきてほしいところがある」とだけ言われた。何をするのかどこに行くのかさえもわからなかったが、心配なので一緒について行く事にしたのだ。
沙希の車に乗せられた藤代は、ある建物の中の駐車場に着いた。何の建物かもわからないまま沙希の後を歩いた藤代は、そのまま何も聞かず建物の中に入っていった。いきなり沙希は、藤代に袈裟らしきものをつけた。そして一言「これは大変有り難い教えだから」と言って、靴を脱ぎ部屋まで連れて行った。藤代はここで宗教なのだと気付いた。初めは、沙希に騙されたと想っていた藤代だったが、その程良い居心地に逆に安堵してしまったのだ。ここの教えは『高額な壺を買わされたりしない』と声を大にして、沙希は言った。
しかし親である藤代は、とても心配になった。いくらなんでも、この建物が冷暖房完備であるということは、何かしらの収入源があるはずなのである。藤代は、今までコツコツ貯めたお金が無くなる事も嫌だったので、家に帰ったら沙希に「もう行くな」と言おうとしていた。すると法要らしきものが始まった。再び沙希は、藤代にお念珠をつけた。それから「私の真似をして」と言い、何やら動作を始めた。藤代はいい加減に真似をして、ただ法要が終わるのを待っていた。この不思議な空間にたくさんの人が集まっていた。法要が終わり沙希から、いろいろ説明を受けた。 沙希が「この教えは有り難い教えだから、お金はかからない」と言うのであった。
小さな子どもで無い藤代は、タダでは済まない事はわかったが、この日は藤代の財布から一円も支払うことなく終わったので、沙希の言う事を信じてみる事にした。とにかく、沙希がこの教えに熱中している事は確かであったので、何かあってからでは大変なので、次もついていく事にしてみた。沙希は常に「徳積みが大事だから」と言っている。この教えをすると徳が積める。だから有り難い教えなのだと言い切った。あの日以降、お金を本当に使わないのかが心配であったが、何回行ってもお金を出す事はなかった。
それからしばらくしてのことであった。沙希が「今日から霊能者修行をいただけるようになったから」と藤代に伝えてきた。霊能者修行とやらがどんなものかわからなかったが、一度試しにしてみる事にした。するとここで初めてお金がかかる事になった。沙希は「霊能者修行一回千円だから」と言った。
藤代は財布から千円を取りだし、受付らしきところに支払った。お金はいらなかったはずではないかという疑念をもったが「いただくのだから支払って当然でしょ」と沙希は何も言わない藤代に向かって言ってきた。沙希はこの霊能者修行とやらが、千円以上の価値があるものだと言わんばかりにもみえたのだ。確かに宗教は、子どもでもない沙希にとって自由であるに違いないかもしれないが、喜んでお金を使っている姿に、親としては気になった。沙希は、霊能者修行を受ける部屋に藤代を連れていった。
そして、順番に並ばせられた藤代は、自分の順番が来るまで正座をして待った。その藤代の後ろに沙希は座っていた。何が始まるのかわからないままの藤代は不安であった。とうとう藤代の順番がきた。藤代は沙希の指示に従った。藤代の前に座った霊能者は、ボツボツと話しだした。藤代の亡き両親のことであった。その供養としてお施餓鬼をしたらよいとその霊能者修行で言われた。勿論藤代は両親のお墓参りをしており、その度供養もしていた。
それなのに、言われたのである。更に「ここのお施餓鬼は因縁も切れる為、どうせするのならばこちらの方が良い」と付け加えられたのだ。藤代は納得できなかったが、後ろで沙希も聞いていた事もあり、断りきれずする事にした。ここのお施餓鬼は、お墓参りに行って供養するよりも、何十倍も効果と価値があると沙希は話していた。結局、お施餓鬼だけでは済まず、お護摩の他寄付金をするよう沙希に言われた。
この日だけで、一万二千円を使用したのだ。勿論するのも自分の判断となるが「折角、徳積みが出来るのだから出来る時にした方が良い」と沙希に言われすることにした。一日でこんな額を使ったことのなかった藤代は、自宅に帰っても久雄にこの事を話せずにいたのだった。沙希はほとんど貯蓄をしないでこの教えにお金を使っていることがわかった藤代は「この教えがあなたを経済的に助けてくれることはないから」と沙希に少しでも蓄えるように言った。 すると「この教えに投資した以上に、いい男性と巡り合い結婚できるはずだから」と言い放った。この教えをして、沙希自身稼げる能力が高まるのではなく、結婚相手に期待をしてじっくり品定めをし、冷静に判断したいという考えのようであった。それ以降沙希に、教えの集まりにも参加させられた藤代は、初めてこの教えが繋がっている事に気が付いた。
この教えでいう藤代の立場は、沙希の子という関係がわかった。更に沙希には、この教えの親が存在していたのだ。勿論その親の上にも更にその親が存在していた。今すぐにも沙希が、この教えを辞めなさそうなので、当面一緒に付き合う事にした藤代は、毎週霊能者修行とやらもいただいていた。そこで、ご先祖様のことを言われ、たくさんの因縁があるから、まだお施餓鬼が足らないというのだった。あっという間に、お施餓鬼の代金は増えていった。このままでは、お金が足らなくなる藤代は、再び仕事をやりだした。
何の為にしているのか、わからない藤代であったが、沙希のいうとおり、中身のない趣味にお金をかけるよりも、この教えの方が徳積みになるから有り難いと想うようになっていった。ある時の霊能者修行でお誘いはできていますか?」と霊能者から聞かれた藤代は「できていません」と答えた。
このお誘いとは、この教えの信者を増やす事であった。藤代は、毎月かなりのお金を使うこの教えがいいとは思えなかったので、人に話す事を拒んでいた。お金のかからない喫茶店のようなスペースなら、紹介できても沙希のいうようにこの教えが、趣味として捉えた時、趣味に三万円はないだろうと想ったのだ。まだ冷静に判断のできた藤代は、沙希に「辞めたい」と言った。そうしたら「ここで辞めたらもったいない」と返ってきた。「もう少しで因縁も切れるのに」・・・・・・と。
それから沙希は「今何事もなく、幸せに暮らせているのはこの教えのおかげだから」と続けた。この教えを辞めたら、今よりも悪くなると想わせるような言い方をしてきたのだ。お金が続くまでしようかと思い直した藤代は、久しぶりにこの男が帰ってくる事を知った。この男は、社会人になってから一人暮らしをしていた。だから、沙希がこの教えに明け暮れている事を知らなかった。藤代は、この男に相談したくなっていた。この教えをしてから、藤代は不安で毎日寝られないでいたのだ。藤代にとっては、けして幸せにはなってはいない。むしろこの教えのことを考えると、不安が増し寝ようとしても逆に寝られなくなっていた事を想うと、この教えをしていなかった時の方が幸せだったのだ。
こんな不安で寝られなかった藤代の元に、この男が帰ってきたのだ。ここのところ数カ月あまり寝られていない藤代の目の下にはクマが出来ており、一気に老けこんだ様子がわかったのだった。そんな藤代を心配して、この男の方から聞いてきたのだ。「何かあったのか?」・・・・・・と。
この男は、入社してからかなり順調に仕事をしていた。それを想うとこの結果は、教えの力ではない事がわかったのだ。それでも沙希は「私がこの教えに繋がったからだ」と言い張っていた。「この家族が幸せでいられるのは、この教えがあるから」とこの男にも諭すように沙希は言っていた。『確かに、悪い行いをしなければ、人生上手くいく方向に向かうはず』とは想ったが、この男も沙希をこの教えから辞めさせたいと想い騙されたフリをして始める事にした。しかし最近この男は、職場環境に不穏な空気を感じていた。
だから、実家に戻ってきたのだ。そんな気持ちで騙されたフリをしていたこの男は、沙希を辞めさせるどころではなく、自ら関心を寄せてしまった。すでに全国に広まっていたこの教えは、この男の住んでいるエリアにもあった。沙希に言われたとおりに、この教えの集まりに参加する事にした。
そこで、この信者といわれる人たちが必死になって、お誘いだの寄付などするのかが少しわかったような気がしたのだ。この教えには、上下関係があるのだ。少しでも上にあがる事が出来れば、よりよく因縁が切れていき、そして徳もたくさん積むことができると教えられているからであった。常に、身体も守られ一石二鳥といいたいのであろう。この男は、この真相を深く知りたくなった。しかし、この男にも欲というものがあったので、ここの信者のように自分にも見返りを求めたいと想ったこの男は、お誘いと呼ばれる信者集めに焦点を置き取り組む事にしたのだ。なぜなら、この教えの中で、一番徳が積める方法であるということであったからだ。こうしてこの男が信者を集めると、その上の親である沙希の立場も上がっていった。更にその上の親も向上していったのだ。
そんな時、沙希は結婚する事にした。結婚相手は、安定した企業に勤めていた。更に沙希が何をやっていても文句一つ言わない人であった。沙希は、今までしていたバイトすらも辞め、専業主婦になり、今まで以上に、教えに没頭する事にしたのだ。沙希は「よき旦那を手に入れられた」と言っている。「これも、この教えのおかげなのだ」と続けた。
それからしばらくして、この男も結婚する事になった。勿論、今でも教えは続けていた。どうしても向上したいと想うようになっていたこの男は、結婚しても教え中心の生活をしており、僅かながら家計にお金を入れる以外は、この教えにお金を使っていたのだった。この男にしても、結局教えをすることで、誰よりも尊い存在になれると信じていたのだ。この男の妻である弥生も、教えに入信する事になった。
そんな時、親と呼ばれていた人の態度が変わりだしたのだ。この親は、今まで霊能者修行でいただいた内容を報告するように言っていた。その内容を聞けば、入信した人の徳の多い人、少ない人を判別できるのであった。それを利用してか、その親は、折角徳積みをしだした弥生に「あれはするな、これはするな」と指示までするようになっていた。この男よりも元々多くの徳を持っていた弥生は、少しお誘いをしたらかなり向上できる状況にあったのだ。そうなると、抜かれてしまうかも知れないと想ったその親は、あれやこれやと、指示をしてきたのだ。
弥生にとっては、たくさん徳積みが出来るのかもしれないと喜んでいたのに、結果としてこの親に阻まれることになってしまったのだ。親と言っても人間。自分よりも徳の多い人が、自分よりも早く向上をされては、親としての面子も保たれなく嫌だったのであろう。親としてのプライドがそうさせてしまったのかわからないが、それ以来、弥生は信頼を失い、この教えの事も正しいとは思えなくなっていたのだ。そんな時、この男は、自分の幼少期の事を話しだした。いつも段ボールの中に入れられていた話であった。その中では、自由を奪われ親に絶対服従しないといけない環境であったことが話された。この服従である主は、勿論久雄であった。だから久雄のことは、好きではなかった。あまり話をした事のない久雄に対して、思春期であっても反抗まではしなかったが、親としての自覚のなさに無視をしていたというのだ。そんな同じ家族であっても、薄い関係であったが、この教えをしだして、この男は、相手を許すという気持ちが芽生えたというのであった。
一つ屋根の下で寝ていた頃は、とにかく嫌な存在であった久雄のことが「今となってはあの時、あんなに嫌いだったのだろうと思えるように自然に変わっていった」というのだ。「ここまでの関係にしてくれたのも、この教えがあったからなのだ」とはっきりとこの男は、言い切った。もしあのまま何もしなかったら、おそらく何も変わってはいないはず・・・・・・と。実は、久雄もこの男に勧められて、この教えの信者となっていたのだ。本当は、違った。今までは、全てが健康であった久雄も、今は耳も遠くなった老人であるのだ。側で何を言われているのか聞こえなくなった今、答える言葉も考えられないだけではなかろうかと、弥生は想ったのであった。
いいように想うのは勝手であるが、すでにこの男に子どももいる為に、育てあげる為の貯蓄をしたい弥生は、生活費がもう少し必要である事を言った。この男は、交通費などすべてを含めて、ひと月の教えに十万円ものお金を使っていたのだ。独身の頃と同じように使い続ける額の多さに、弥生は怒りと変わっていった。はっきり言って、この教えをしたくないという感情であった弥生は、何を言っても無理なこの男には頼れず、自分が働きに出る事にした。
この男がいうには、沙希の家計においては同額教えに使っているらしかった。しかし、沙希の旦那は、この男より収入が多かった。その事に気が付かず、同じ収入のないお金を使い続けたらどうなるのかも考えられないでいた。そんな事になろうとも、自分を曲げられないこの男は、嫌がる妻を週末教えに連れていくのであった。
ここまでこの男がするには、理由があったのだ。弥生を導いたこの男は、自分が向上するのに、熱心な信者が必要なのであった。弥生がこの教えの集まりに行かなくなると、他の人を探さないといけなくなるからなのだ。しかも、同じだけ熱心且つ教えに従順でないといけない。ここまでの気持ちを果たして他人が持ってくれるかわからないと思ったこの男は、弥生を従わせるのだった。この男は、沙希の旦那と違い不安定な収入であった為、蓄えておかないといけない事が、結婚当初よりわかっていた弥生は、僅かしかもらっていない家計費の中から、ほんの僅かであるが貯蓄をしていた。
しかし、これだけでは教育費に充てる事もできない額だったのだ。だから、弥生は、働きに出た。もうこれ以上教えに使いたくない弥生は、教えの集まりに行きたくないのだ。なぜなら、そこはお金を使わないといけないところであるからであった。ほんの僅かしかもらっていない家計費であったが、この男は、ボーナスですら一円の貯蓄もしていなかったことがわかったのだ。年を取り始めたこの男の収入は、減っていくばかりであった。そんな中でも、教えにかける予算を一番に考えているのだった。弥生は「この教えに、あなたの預金口座があって、そこに収めてあるのならばいいが、収められる事無く使用されているの」そして「こんな水もの教えよりも、逆に高額な壺を買わされる方がましではないか」と続けた。弥生曰く、本当に高額な壺を売られても、その壺にその価値があるならば、売る事もできる。しかし、この教えは、水のようにお金が消えていくだけであって、その収入というのは、経済的に困った信者に使われるわけではなく『この教えの教団のものになるだけでしょ』・・・・・・と。
弥生の言う事はけして間違いではなかったが、今以上に仕事にしろ、何にしろ、悪くなる事を考えると辞める事が怖くなっていたのだ。こんな日々お金の心配をしていた弥生に、藤代から初が亡くなったと知らされた。この連絡を受けたちょうど一年前にこの男の祖父も亡くなっていた。すぐさまこの男の実家に家族で向かった弥生は、藤代に愚痴をこぼしてしまった。この男を含むこの教えをしている人が『特別に永遠の命を与えられている訳でもないのに』と弥生は今まで想っていた事を藤代に話した。この世に、永遠の命は存在しない。
そして同じ人間、この教えをしていないからといって不幸になる事はけしてない。なぜなら、人間は、平等に幸せがくるようになっている。教えをしている人、していない人ではなく、その本人の生き方で決まっているのである。いくらこの教えをしているからといって、けして守られている訳ではない。当の本人は守られているからと勝手に思い込み、何をしてもいいという考えがありがちである。このありがちな考え方こそ、その中に知らず知らずに人を傷つけているのである。弥生は、子どもを連れてこの男からいつか去ろうと決めた。
確かにこの教えは悪い教えではないのかもしれない。しかし、あの霊能者修行と言いつつも、霊能者が信者を増やせと指示をしてくる。勿論、この世から一瞬にして信者がいなくなったら、経営が成り立たない。これが、果たして真の教えであるのか「今一度考えてほしい」と弥生は、この男に猶予を与える事にした。そうしたら、この男から「来月より、家計費を渡さない」と言われた。この男は「現在、貯蓄から僅かな家計費を捻出している」と言った。自分の生活費そして子どもの生活費は自分でしてくれというのだった。今までどれだけでも自由に、お金を使ってきたこの男の言葉に、開いた口が塞がらない弥生は「猶予ではなく、離婚をする」とはっきり言ったのだ。
この時弥生は、この男に首を絞められたのだ。弥生は、この男に首を絞められた過去があったのだ。結婚をして間もなくのことであった。自由なお金が減ったこの男は、そこにストレスをかかえるようになったのだった。そのストレスのはけ口を、弥生にぶつけたかったが、それが出来ず、この教えで言われたのかストレスノートをつけていたのだ。そのノートを発見した弥生は、そこに書かれていた内容を読んでいたのだ。それから数週間後にいきなり「おまえを見ていると殺したくなる」と言い、この男は弥生の首を絞めてきたのだ。弥生は、この男に力いっぱい首を絞められ危うく死ぬところであったが「殺したいのなら、殺せばいい」と言い返し、我に返ったのかこの男の手が弥生の首から離れていった。弥生は、この頃から、この教えに洗脳されているのがわかった。
裕福な人が、この教えにいくら投資しても、いいのかもしれないが、いい教えだからといって、果てしなく投資をしたくなるような、教えであってはならないのだ。この男はもうすでに、教えという病魔に侵されていたのである。この男本人は、自分は正しいそしてこの教えは正しい教えである。よって、弥生が悪いという結論をだしてきた。この弥生さえいなければ、教えにもっとお金をかける事が出来るのに・・・・・・と。
さぞかし不満が溜まっていたのであろう。この男は、何でもこの教えを頼っていた。数年前、家を購入する際も、この土地の鑑定を依頼していたのだ。この教えをしているからといって、良心の呵責があるような心の持ち主ですらなく、ただ自分だけが向上したく、その為にはお金もすべてつぎ込みたいという心が先に湧きだし、その心が抑えられず、更にそれらを阻害する者は、許せないという心まで持ってしまっていた。ここまできたら、この男は病気である。しかしこの男は、自分の非を一切認めず人のせいにするだけであった。
自分は正しい人間であり、人にとっても優しい人間だと偽善者であるからこそ人にそう想われたいのだ。本当に良心しかない人は、自分のストレスであってもストレスとは感じなく、うまく対処できるはずなのである。本当の良心の心を持たない偽善者という人間は、良心を装う事でストレスとなるのではないかと、弥生は想っていた。この男は外面がよく、演技力もあった。こんないい加減な人間の為に、逆に人生を無駄にしてしまう事の方がもったいないと思った弥生は、何も持たずさっさと家から出ていく事にした。
この男の妻であった弥生は、子どもを連れて離婚をした。弥生は、この男との婚姻中、子どもを儲けていた。子どもが生まれるまでは、弥生は当たり前だが妊娠していた。その妊娠期間中であっても、この男は、子どもにお金を使われるのが嫌だったのか「おろせ」と弥生に言っていた。いくら言われても中絶しなかった弥生に、スーパーで買ったものすべて重たかろうがこの男は持たせていた。それだけではなかった。
寒くなりだし、我が家では灯油が必要になっていた。その時この男は、灯油を入れた二十リットルのポリタンクを、マンションの駐車場から三階の部屋まで運ぶよう、弥生に命じたのだった。マンションにはエレベーターはついていたが、それでもそれを持ち運ぶには二十メートルの距離を妊婦が持って歩かないといけなかったのだ。妊婦の妻にこんな事ができたこの男は、本当に子どもがいらないという意思表示であったのであろう。その直後の弥生は、出血が続き安静にしていたのだった。この時弥生の心は、出産する前に例え離婚をしたとしても、自分が子どもを育てる覚悟を決め、妊娠を継続していたのだ。
それからしばらくしてこの教えで、子どもを育てることで、たくさんの徳がもらえると聞いたこの男は、出産を心待ちにするようになった。しかし子どもの事が好きではないこの男は、全く子育てを手伝う事はしない。勿論弥生も初めからあてにはしていなかったが、それでも子育てにもお金がかかるのである。そのお金を充分に渡さず、教えに没頭するこの男の後ろ姿にどれほど弥生は、腹を立てたことであるかわからないくらいであった。
この男は、弥生との離婚後、会社でリストラにあっていた。まだ家のローンを抱えていたが、貯蓄をせずに教えにかけていたことで、余裕なお金も手元になかった。即日、ハローワークへ行き、雇用保険の手続きをした。次の仕事のあてもないまま月日は流れていたが、それでも仕事が無いことで、自由な時間を手にできたことで、教えの集まりに頻繁に通っていたのだった。何をするにしてもこの男は教え中心であったが、次の仕事も教えで鑑定をいただきたいと想っていたのだった。しかしかなりの月日が経っても、この男に選べるような仕事はないのであった。それにも関わらず、この一つの仕事についての鑑定をすることにしたのだ。
いただいてもいただかなくても、どちらでもいいような回答を得ただけであった。ここでもお金を無駄に使ってしまっていることにも気が付かず、自分なりに納得してやっと仕事にこの男は臨む事にしたのだ。勿論今までよりも、収入は下がる事となった。この男は、弥生との子どもに養育費を支払ってはいなかった。弥生としては、二度と顔を見たくない相手であった事もあり、きっぱりとこの教えからもそしてこの男からも縁を切りたかったのだ。この収入では、今までのように教えにかけるお金が少なくなっていた。
このことに不満があったこの男は、家を売る事にした。中古で買った家であったが、この辺りの地価が高騰していた為、ほぼ損をせずに手放すことができた。これから毎月家賃が必要になることが、勿体ないと感じたこの男は、実家でお世話になることにした。かなり高齢になっていたが、藤代と久雄は元気にしていた。
この家も、毎月教えにかけ続けていた為、蓄えがほとんどなかった。本当ならば、家も直さないといけないところがたくさんあったが、そんなお金までも使い、教えに費やしてきたのだ。藤代は元気であったが、食べることだけでも大変になり、教えには行かなくなっていた。行かなくなったことで、人間らしい生活ができるようになったと言っていた。今まで着の身着のままに近い生活をしており、生活が困窮していたのだった。最近は、バス旅行に出掛けたりして、少し心に余裕もでき、やっと物事を冷静に判断できるようになってきたのだ。「あんなに極限まで自分を追い込み、教えをしていた事が、やはり自分でもおかしかった」と藤代は言っていた。藤代は、この男に教えを辞めるように言ったが、離婚までした男という事もあり、親の言う事を聞かず、家賃代を浮かせた分、教えにかけるのだった。
そんな時、沙希が家族で実家に帰ってきた。藤代はまだ教えをしている沙希とは、顔を合わせたくはなかったが、教えの話をしないという条件付きで帰らせていた。沙希には子どもが二人いていたが、この二人の子どもも教えをしていたのであった。子どもという素直なうちに、この教えこそが正しい教えであるという事を洗脳してしまえば、子どもがやがて大人になったとしても、この教えを受け継ぎしてくれるという考えがあるのであろう。その結果、信者の数が減らない分、子育てしている人には特別に優遇し、向上しやすくなっているのではないかと考えていた藤代がいた。
どこの新興宗教であっても病気を治してくれたり、この先を確実に見通したりは、できやしない。ただ各々が自分の人生を捉えた時、どう生きていくのか、そしてどう生き抜いていくのかにかかっているのである。子どもの時でもそう言えるのである。いつも子どもに親が付きっきりとはいかない。子ども一人であっても、自分の判断を即座にしないといけない時があるからなのだ。目の前に起こりそうな事故を、教えの力があったとしても教えてはくれない。 そんな時であっても、出来るだけ回避できる能力を自分で身につけておかないといけない。
しかし、いつでも親の側にいる子どもならば、その急場をしのぐこともできないと藤代は想っていた。藤代には、幼い頃から親がいなかったことで、家事までは確かにしてこなかったが、どう生きていけばいいかは自分なりに学んでいた。藤代の子どもたちは、ほとんど初が育てたこともあり、中途半端な子育てになってしまっていた。この男に対しては、段ボール箱に入れてそこから出ないように縛りつけて育てるような、束縛した子ども時代を大事な成長期にしてしまい、人生を奪ってしまった過去があった。その過去の記憶のあるこの男には、今はもう、藤代が縛りつける権利がなく、自分自身が正しいと思う生き方をさせるしかなかったのだ。こんな中では、この男にも沙希にも何も言えなくなっていた藤代は、高齢になっている立場でもあり、何も出来なかった。この藤代の想いに気付かない久雄は、この男や沙希がいることをただ喜んでいたのだった。
この男は、沙希の家族が幸せになっている事実に、教えという力があるからなのだと更に思いこむ事になった。もともと高給取りである沙希の旦那であるから、月額十万円使おうともいいのであった。この男に、藤代は居候代として、お金を取る事にした。沙希同様に教えにお金をかけるこの男は、全く貯蓄をする頭を持たない為、そのお金を藤代は、蓄える事にした。この男は、我が子にも養育費を渡さずに、教えに没頭していることに、藤代は許せなくなっていた。そんな時、弥生が子連れで再婚したと、風の便りで知る事となった藤代は、今まで何も出来なくて申し訳なかったという罪悪感が少し消えて、幸せになったのだと想う気持ちから、心のどこかでホッとしていたのだ。
藤代は、弥生の教えに対する気持ちを知っていただけに、この男に付き合わされていたことで、人生を無駄にしてしまった事をこの日まで悔いていたのだった。弥生は、勿論今、教えは一切していなかった。していないからと言って、不幸になることもなく、逆にいい人に巡り合い、幸せになったのだ。
この事実を、藤代はすぐにはこの男に知らせなかった。弥生は、教えをしていない藤代に電話をした。藤代は教えを長年し続けすっかり蓄えがなくなっていたのだ。弥生は婚姻中、藤代の孫にあたる子どもをたまに預かってもらっていた。この時は、親族であった為、お礼などほとんどしてこなかった。この時の感謝の気持ちを未だに持ち続けていた弥生は、後日現金を持参する事にした。久しぶりに藤代に会った弥生は、成長した子どもたちの写真を見せた。すっかり大きくなった写真を見た藤代は、安堵していた。「こちらの勝手な事で申し訳なかった」と藤代は謝罪した。弥生は「今、幸せと感じられるのは、感じられなかった過去があったから」と言い、更に言葉を続け「過去を変える事ができないから、未来を変えただけ」と幸せである事を伝えた。それから多額ではないが、心ばかりの感謝として、寂しくなった藤代の懐を少しでも温めたくなった弥生は、現金を置いて帰った。
人間の欲は、お金だけではない。地位や名誉を手に入れたいという気持ちは、正しく人間の欲であるのだ。こういった欲を手にするには、人を踏み台にしなければならない。この踏み台のないこの男は、一向に教えの立場でも向上できないでいた。この男は、かけるお金が少ないからだと思っていた。
本当の教えであるならば、お金をかけなくても向上出来るはずなのである。しかし、この教えは、全くお金をかけていない人は、最初の一歩である一番下のステップであっても向上できないようになっているのだ。これは真の教えではない。この事に気が付いている藤代は、この男の熱が少しでも冷めたらいいと想い、弥生が再婚して幸せにしていることを伝える事にした。今や、教えをしていない弥生であっても幸せになっている。
だから、人間の幸せには教えは関係ない。教えよりも自分の老後の事をもうそろそろ考えてほしいといった。「貯蓄もなく年を取ってどうやって暮らしていくのか?」という事を、真剣に考えるように藤代はこの男に言った。沙希からの言葉も伝える事にした。「沙希は、あなたの面倒をみてはくれない」とこの男に話した。この男は「そんなことはないはずだ」と激しく怒ったが、これは沙希からの言葉である事を伝えた。『この教えをしている者は、お互いを助け合わないといけないはずだ』とこの男は言ったが、「お互いということは、あなたは沙希を助けられるのか?」とこの男に藤代は聞いてみた。すると「助けられる訳ないだろう」と返ってきた。
その直後に『沙希を助けることはない』と言い切った言葉の後に、この男は、沙希への気持ちが憎しみに変わっていくのであった。
ここまできてやっと気が付いたこの男は、何もかもなくしてしまったことに悔いるようになった。折角購入した家もなく、弥生も無くし、我が子だってなくしていた。我が子に何をしたのかと聞かれても、一切何もしていないのが事実である以上、何も言えはしない。沙希への気持ちが、こうして憎しみから憎悪へと変わっていたこの男は、再び幼い頃段ボールに入れられていた事を思い出した。この男が段ボールに入れられる事になったのは、妹である沙希が生まれたからであった。沙希がいなければ、この男は藤代の背中でおんぶされていたはずであるのだ。この男は、母である藤代まで奪われたことに、今更のように気付いてしまった。
つい最近まで、この教えを沙希が導いてくれたおかげで、この男の教えに対する向上心が芽生えていたのだった。だからこの男は、沙希に感謝をしていたのだ。しかし、今となっては、この男にとってこの教えを知らなかった方が、失くすものは逆になかったはずであるのだ。この男は、沙希の為に、沙希の踏み台となっていただけであったのだ。沙希は、この教えにおいても、この男のおかげで向上していたのだった。このことを冷静になった今、初めて気付くことになった。それだけではない。この男から、今まさに現れてきたのは、沙希への怒りだけであり、それが爆発的に起こっている状態であったのだ。
怒りの矛先を沙希に向けたこの男は、沙希が住む大阪の自宅に向けて車を走らせた。何も言わず、突然実家からいなくなったこの男を、急に心配になった藤代が、沙希に電話をいれた。「お兄ちゃんが来たら連絡して」・・・・・と。
沙希は、確かにこの教えをしていても、幸せにはなっていた。沙希は、この教えをしているからだと勿論信じて疑わなかった。だから沙希は、この男がこの教えにはまってしまい何もかも失くしてしまった事については、自業自得であると思っていたのだ。この教えが悪いわけでもないし、勿論沙希が悪いわけでもないと思っていたのだ。
しかし本当にそうであるのか?この教えの霊能者修行で、信者を増やせと言われたり、もっと寄付をしろと言われたり、それができていないといつも同じ言葉が返ってきて、このままでは、因縁が切れませんと言われる始末であった。因縁が切れないと、幸せにもなれないということに繋がっていくのだった。この流れが、この教えの定番の文句であったのだ。この言葉をいつも聞いていたこの男は、仕事もできない、教えもできない、そして夫としてもできない、父親としてもできないと、本来人間だから出来る事をこれらすべてできないと、自分の事を全否定されているようであったのだ。人を落とすだけ落としながら、最後には、できないあなたではない、できるあなたになりましょうと決まり文句。それから人間誰だって、一つくらいはいいところがあるのだという言葉を締めに使っていたのだ。この男は、この教えの霊能者のいうとおりにしていた。その結果見事に、何もなくなってしまったのだ。
この怒りが収まらないこの男は、車内で沙希に向かって怒りの言葉をぶちまけていたのだった。走っていた車の中で、思い出したくない記憶が甦ってきたのだ。いつも要領よく親に甘え、おいしいところをすべて食べつくしていた沙希のことを・・・・・・。思い出してはいけない記憶まで、沙希の自宅までの道のりで思い出していた。自分さえ幸せになれればいいという沙希のことが、疎ましく思うようになっていった。
確かにこの男の妹である沙希だが、今となってはかわいい妹でもなくなっていたのだ。この教えをすればするだけ不幸になっていくのだという結論にしてみせると願っていたのだ。この男は、実家を出発して二時間が経過していた。食事をする事も忘れて走っていたこの男は、ここでやっと休憩する事にした。簡単な食事を取り、缶コーヒーも自販機で購入し、再び大阪に向けて走り出した。それからの記憶がほとんどなかったこの男は、沙希の自宅になんとか辿り着いたのだ。いきなり車を降りたこの男は、トランクから灯油缶を取りだした。それを手にして、沙希の自宅のインターフォンを押したのだ。
沙希はインターフォン越しで話をしたかったが、この男の大きな声にドアを開ける事にした。見ると手には、灯油缶があったのだ。この男は、玄関先に灯油を撒きだした。そして火をつけたのだ。それから、この男は、車に戻り走り出したのだった。
沙希は、藤代からの一回目の電話があった後、もう一度電話を受けていた。この二回目の電話で実家の灯油缶がなくなっていることを藤代から知らされていた。万が一に備えて、火をつけられてもすぐに鎮火できるように、予め玄関周りから、玄関先まで水をかけておいたのだった。そして、消火器を準備してこの男の到着を待っていたのだった。この男が持って出た灯油缶は、満タンの灯油が入っていなかったこともあり、火が回る事無くすぐに消火出来たのだった。この男は、最後までこの火の行方を見届ける事無く走り去っていったので、この火がほとんどつく事無く消火されたことも知らなかった。沙希は、藤代にこの男が来た事を連絡した。
藤代は、この男がしたことを、警察に通報するよういったが、沙希は「身内の犯行を世にさらす事が嫌だ」と言い、しなかった。この男は、来た道を走っていた。途中疲れたこともあり、車を停め仮眠を取る事にした。少し休憩をとったこの男は、ニュースが気になりテレビをつけたが、特に何の情報を得られる事はなかった。再び実家へ向かって走り出した。藤代はこの男が無事に帰ってくるのか心配になった。
この一件で、沙希自身もこの教えのあり方について疑問を持つようになっていた。確かに沙希は、豊かな暮らしが保障されていた。それだけでなく、仲のいい家族そして幸せを手に入れる事ができた。しかしその変わり、すべての不幸を兄であるこの男が背負ってしまうことになっていた。沙希の幸せの踏み台を、長年なってくれていたことに今、改めて感謝したのだった。沙希としては、妹である私よりも苦労を背負うのは上の立場の兄と決めつけて、当たり前のようにこの幸せの踏み台を思っていたのだった。この男の怒りを買った事に対して、ただただ申し訳ない気持ちになった沙希であった。
そんな時、藤代から電話が入った。この男が帰ってきたという知らせであった。あんなことまでしたけれど、比較的冷静に語りだしたとのことだった。藤代としては、このまま教えにも沙希にも関わらなくていいからとだけこの男に告げた。この男にとって教えで得たものより、失くしたものの方が大きかった。この失敗を糧にして、再度生きていこうと決めたこの男は、今やるべき仕事に打ち込んだ。打ち込んでいる間は確かに何も考えなくても良いが、それが一気に終わるとただ虚しさが残るだけであった。今まで、教えに対する怒りがあったから、このような虚しさを感じずに済んだのだ。居場所を変えても、出会う人を変えてもこの虚しさが消える事はなかった。この男は、仕事以外にも熱中できる何かを見つけたくなった。そんな時に見つけたのが、カブトムシであった。寝付かれずにいたこの男は、夜道を車で走っていた。ふと見るとガソリンスタンドの灯りに集まってきたカブトムシを発見し、車を止めた。 飛んでいるカブトムシを咄嗟に捕まえてしまったのだ。この男が住む実家に、子どももいなくなった今、飼育できるケースも特になかったが、育てる事に決めた。夜中、実家に戻ったこの男は、段ボール箱を見つけた。その箱に空気の穴をあけ、カブトムシをおもむろに取りだし入れた。
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初めて対面するカブトムシであったが、お互いに顔を確認する事無く、おがくずの中に潜っていった。この男は、このオスのカブトムシに太郎と名付け、メスには花子と名付けた。更に夜が深まり再び姿を現した太郎と花子は、仲良くゼリーを食べていた。お互い相性がいいのか、近づいたり離れたりと様子をうかがっていた。昆虫ごときに、ここまで癒されるとは思っていなかったこの男は、太郎と花子の行く末を見守る事にした。
この男は、再びボランティア活動だけする事にした。藤代もそれだけ継続していたからであった。何も求めないボランティア活動は、ただこの男の良心しかなく、今までのような偽善者ではない本来の姿を見られた藤代は心で安堵していた。見栄を張る必要も無くなったこの男にとって、この活動だけで人間の徳が得られるわけではないが、無心に何かに向かおうとする気持ちが、ここ数日で現れている事に満足していたのだった。こうして仕事もプライベートも充実しているこの男は、日を追うごとに喪失感が薄らいでいくのがわかった。
それから数週間後の週末、ボランティア活動ですっかり疲れきってしまったこの男は、いつもより早く休む事にした。そんな事で、深夜トイレに起きたこの男は、カブトムシがいる居間の方から『ギシギシ』という音が聞こえ近づいた。太郎と花子がじゃれあっているように見えた。仲良くしている様子に、ホッとしたこの男は、無くなりそうなゼリーを確認して、新しいゼリーと取り換えた。まだ真夜中である為、再び寝床へ入った。その翌朝、昨夜早く寝たこともあり、この男は早く目覚めた。久しぶりに両親の為に、朝食を作る事にした。
早朝から台所でなる包丁の音で、藤代が目覚めた。藤代は挨拶ではなく「ありがとう」とこの男に言った。朝食が出来てもまだ起きてこない久雄を呼びに行ったこの男は、藤代を呼んだ。久雄が息をしているのか、してないのかも、わからなかったこの男は、ひとまず救急車を呼ぶ事にした。
久雄は、病院に到着後すぐに息を引き取った。その後、沙希に連絡した藤代は、苦楽を共に過ごしてきた久雄が亡くなった現実に寂しさを覚えていた。今度は藤代が喪失感に襲われる事になったが、藤代もひと夏を必死に生きている太郎や花子に慰められる事になった。それからしばらくして落ち着きを取り戻した藤代は、夕食を作りこの男の帰りを待っていた。あれ以来、仕事から帰ってくるこの男と一緒に夕食を取る事にしていた藤代は、いつもより早い太郎と花子のお出ましにびっくりしていた。
まるで結婚式で愛を誓い合っているように見えた藤代は、少し顔を赤らめながら太郎と花子の姿を見届けた。そこに帰ってきたこの男は、太郎と花子の姿に目が留まった。じっとこのまま見続けるのも失礼かと思ったこの男は「ご飯にする」と藤代に言った。藤代が、ご飯をよそっている間も『ガタガタ』と音が鳴っていた。おかげで久しぶりに、藤代と笑いながら食事を取ったこの男は、太郎と花子が完全に夫婦となった瞬間を見てしまった。その後も、お互いストレスも無く過ごしているように思えたこの男は、この事を日記にしたためようと考えたのだ。
そんな事で、太郎と花子にとっては邪魔者でしかないが、しばし見学させてもらうことにした。さっきから太郎と目が合う事が気になる。いや太郎からしてみたら『見るな』と言っているのかもしれない。ここ数年、書く事も無かった為に、白紙の状態であった日記には、たくさんの幸せエピソードを書くことが出来た。それからしばらくの間、夕食後太郎と花子の様子を見学する事にした。相変わらず仲良く過ごしていたが、太郎が先におがくずの中へ消えていった後、花子だけ残り木片のてっぺん目指して登っていた。辿り着くと、そこから羽を広げて飛んでいた。
花子のイメージとしては、空高く飛んでいるのかもしれないと思っていたが、残念な事にこの狭いケースの中であったので、すぐにケースの蓋にぶち当たり、花子は墜落していくのであった。こんな痛い目にあっている花子は、同じ事を何度も繰り返し飛んでいたのだ。きっと、木の高いところから飛んで、安全な森林を目指しているつもりであったのだろう。そう考えるとこの環境は、可哀そうであるが太郎と花子の子どもを見たかったこの男は、花子が安全という気持ちになるまで、見学し続けていた。
やっと花子はおがくずの中に潜りだし、更に下の土まで辿りつき、産卵をしているようであった。太郎と花子を見ていると、この男が段ボールの中にいた事を思い出したのだ。産卵後花子は、まだ元気にしていた。時々顔を合わせる太郎と花子であったが、以前より距離をとっているように感じた。それからしばらくして、先に花子が亡くなった。一人ぼっちになった太郎は、寂しそうに見えた。それでもまだゼリーを食べる元気はありそうだった。だんだん夏の終わりに近づいた頃、太郎を見ると息絶えていた。悲しみに包まれていた我が家に、更に追い打ちをかけるように、藤代の食が急に細くなり、食べられなくなっていた。病院に藤代を連れていったが、点滴をしていただき帰る事になった。それから数日後、昼寝をしていたような姿のまま、亡くなっていたのだった。とうとう、この男の肉親は沙希一人になってしまった。
この家に一人ぼっちになったこの男は、早速断捨離をする事にした。あの教えをしていた時の生活のままであったのだ。食事や衣類などすべてお金をかけられなかったこの男は、何も買わなくなっていた。しかし、それまでの使用しないものが、たくさんあったのだ。それだけでなく、藤代や久雄のものもまだ残っていたのだ。それらをすべて断捨離できたこの男は、この世に想いがなくなっていた。我が子でさえも、今どうしているのかもわからない。何もできなかったことだけが、後悔の念として残っていた。
この男は、あの教えをしたことを、後悔していた。弥生にあれだけ反対されていたのに、あの時は聞く耳すら持たなかったのだった。こうして、日が落ちてくると同時に寂しさが募るくらい、毎日のように後悔をし続けていた。
どこをみても何をみても寂しさしかないこの家に、一人でいる事が怖くなっていた。一人が嫌だといっても誰も側には来てくれない。そんな事もわかりながらも、明日になったら誰か訪ねて来てくれると信じたくなっていた。今月に入り、仕事にも身が入らなくなってきたこの男は、これからの事を脳裏に焼きつけていた。
この男は、突然頭に過った。忘れられない過去を再び許せなくなっていた。この男は、再びあの教えの集まりに行く事にした。その前に、仕事を辞めてしまった。それから、あの教えの教祖が集まりに来ると知り、出掛ける事にしたこの男は、今までのようにすべての準備を持参していた。建物の中に入ったこの男は、教祖の通り道にいた。教祖が入ってきた時、信者は拍手をして迎えていた。その中でこの男は、カバンの中で包丁を手にしていた。そしてタイミングを見計らい、目の前を通過するのを待っていた。次の瞬間、包丁を手にしたこの男は、教祖に向かって包丁を突き刺した。その後の記憶が全くなかったこの男は、気が付けば段ボールではなく警察署の取調室にいた。この狭い空間の居心地が良かったのかやっと我に返ったこの男がいた。
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