雪の下

にゃあちゃん

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雪の下

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 いつもより寒い朝を迎えた都子は、機織りの音で目が覚めた。昨日祖母宅に遊びに来た事を思い出した。いつもと違う寒さと朝の音に多少びっくりしたが、この「ガッシャン」なのか「カッシャン」なのかわからない音であったが、都子は祖母のシヅ子が奏でるこの機織りの音が大好きだった。
 シヅ子は、この地で有名な丹後ちりめんを折っていたのだ。この日も早朝から、簡単に家族全員の朝食を作り、みんなが起きるまでの間、機織りをしていたのだった。シヅ子は朝食を作る前に、畑に足を運び朝食に使う野菜を採ってきていた。
 昨夜都子は「明日一緒に畑に行きたい」とシヅ子に話していたのだ。てっきりシヅ子が起こしてくれるものだと思っていた都子は、大好きなシヅ子に不満げであったのだ。その膨れっ面な表情には『なんで起こしてくれなかったの?』と書いてあったのだ。たった今、起きた母親の真紀子が「何言ってるのん」とすべて知っている事のように割って入ってきたのだ。その態度に、気に入らない都子は「知ったかぶりはやめて」と言ったのだ。真紀子は、その言葉に怒りがこみ上がってきたが、ひと呼吸置いて「おばあちゃん起こしてくれてはったえー」と返したのだ。
幼稚園の五歳の女児である都子は、ただ今生意気盛りであった。覚えた言葉を器用に操り使いこなせるようになっていたのだ。真紀子は幼い頃の自分を見ているようで、余計に鼻に就くその言い回しすべてが嫌になっていたのだ。冬休みは二週間ほどであるが、たった二週間が真紀子には持たなかった。だから、子どもが大好きなシヅ子を頼る事にしたのだった。
 その言葉をうけた都子は「そやけど起きるまで起こしてほしかったわ」と駄々っ子のように言ってきた。その時真紀子は「分かったから、早く食べなさい」と言った後、シヅ子が食後に連れて行ってくれる事、そして楽しみにしていたシヅ子流ちりめん山椒をこの朝食に食べてもいいと伝えた。このちりめん山椒は都子のお気に入りで、子どもでも美味しくいただけるようにアレンジしてくれてあった。これはいつもなら、夕食に食べていたが、特別に都子の為に作ってくれたのだ。その事に気を良くした都子は、今まで聞いた事もないような素直な声で「はい」と返事した。
 早速シヅ子と二人で出掛けようとしていた都子だったが、弟の芳樹が「一緒に行きたい」と言ってきたのだ。ここは、真紀子の実家であるが、後片付けなどしないといけない事があった為に、その夫である正樹にお願いする事にした。この芳樹は、公園のお砂場が大好きで、いつも手だけではなく、服まで泥だらけにして遊ばないと気が済まないくらいであったのだ。そんな事を想定していた真紀子は、芳樹が起きるまでに行っておいて欲しかったのだ。その事を都子に口酸っぱく言っていた為に、朝のご立腹となったのだ。
 仕方なくこの四人で畑に行く事になったが、芳樹の足取りは軽かった。なぜなら、外に行けるからであった。この芳樹は、家の中で遊ばしていても、綺麗に片づけたしりから部屋を散らかしにかかる、散らかしの天才であったが、芳樹は家の中よりも外の方が断然好きだったのだ。その為、家の中では、ストレスが溜まるのか、それを発散させるかのように散らかしにかかるのだ。
 笑顔いっぱいの芳樹の周りには、朝から疲れた顔の正樹がいた。普段の子育てを真紀子に任せっきりの為、芳樹の相手をするのだったら、仕事の方が数倍楽なのであった。しかし、畑に着いてみると、芳樹は不思議と物静かになっていた。この畑には、シヅ子が手塩にかけたたくさんの野菜があったのだ。綺麗に整備されたかのように、野菜たちが整列していた。そんな畑では、砂場のように荒らせなくなったのであろう。シヅ子の心も分かってくれたようで、その成長した芳樹を見るととても嬉しくなった。逆に、都子の方が、畑に興奮して落ち着かない様子であった。シヅ子が毎月のように、段ボールに入れて送ってくれる野菜を、都子は楽しみにしていたのだ。その段ボールには、シヅ子の優しさまで入っていたのだ。それらの野菜たちを、シヅ子の温かい気持ちと一緒に、感謝しながらいただいていたのだ。都子はこの感謝の気持ちが伝えたく、どうしても、この畑仕事のお手伝いをしたかったのだ。そんな初めてみる畑に芳樹は、いつも見慣れた野菜たちがここにあったので、都子の見様見真似で、邪魔をしないように、手伝っていたのだ。勿論、都子もシヅ子の見様見真似であった。てっきり、芳樹がこの畑を荒らしにかかるのかと思い込んでいた正樹は、少し安堵した。あまりお手伝いにはなっていなかったが、少なくとも邪魔になる事だけはしなかったので、畑からの帰り道で「お利口さん」とみんなで声をかけながら歩いて帰宅した。これらの野菜は、近所に住んでいる親族に配る分も含まれていた。実は、今日収穫したのは、正月分の野菜であった。その野菜たちを、真紀子の伯母に届けに行くのだ。その為、昼前という中途半端な時間であったが、みんなで自宅をあとにした。
 伯母のヨシ子の家に着いたが、そこで待っていたのは、力仕事であった。ヨシ子宅の庭先には、大人用の杵と子ども用の杵と石臼が置いてあった。ちょうどその時、蒸されたもち米が石臼に入れられた。何も言われはしなかったが、この中で一番若い正樹が、すでに杵を持って待っていた。いきなり、餅つきが始まった。昨年もしていたが、芳樹はその頃、お昼寝をしていた為、起きた時には、お餅は大好きなきな粉でまぶされていた。その仕上がったタイミングで起きてしまい、餅つき道具はすべて跡形もなくなくなっていた。芳樹は初めてみる餅つきに興奮していた。その二番手になりたい芳樹は、正樹同様杵を手にしていた。数回であったが、餅をつけた事が嬉しくニンマリとしていた。勿論、都子も参戦した。都子は、杵が重たい事も知っていた為、すぐに餅つきを止めてしまった。しかし今年は、餅を丸める作業の手伝いの方がしたかったようで、その作業台で待つシヅ子たちのところへ向かった。つきたての餅が作業台に乗せられて、手際良くシヅ子が大まかに分け、丸めだした。都子は「この匂いがたまらない」と言い、作業そっちのけで、しばしこの香りを楽しんでいたが、真紀子に怒られてしまった。その手伝いは、粘土遊びの延長くらいのようにも見えていたが、都子本人は真剣にやっていた。早く終わらせたいこの作業であったが、芳樹も「手伝いたい」とやってきてしまった。仕方なしに、少しその分を与えて、様子を見てはいたが、完全に粘土遊びをしていたのだった。すかさず都子が「食べ物で遊ばないで」と芳樹に注意をした。その後暫くは、大人しく見様見真似でただ丸める作業をしていたが、途中で飽きてしまった芳樹は、どこかに行ってしまった。どうやら芳樹は、台所にその後いったようで、置いてあったきな粉を舐めていた。それに気付いたシヅ子は、芳樹の食べられる分の餅をきな粉でまぶして先に食べさせた。みんなより一足先に食べられた味に満足した芳樹は、椅子に座りながら眠ってしまった。土間の食卓で寝ていた芳樹を、囲炉裏のある居間に移して寝かせた。
 最後まで手伝っていた都子は、あんこが大好きだった。その都子の為に、囲炉裏にはぜんざいが火にかけられていたのだ。それを見た都子は、すぐに食べたくなり、自分でお椀によそった。その時、かなりの熱気を感じた都子はよそったお椀をひっくり返してしまったのだ。少しぜんざいが入っていた事もあり、都子は火傷をしてしまった。それを見たシヅ子は、患部を氷水で冷やした。その間に、庭に植えてあった雪の下をシヅ子がとってきたのだ。都子の患部はヒリヒリとした痛みがあったが、シヅ子がとってきてくれた雪の下の葉をみて、少し表情が和らいだ。大好きなシヅ子が咲かせていた雪の下だったからなのだ。シヅ子は、その雪の下の葉を都子の患部に貼り付けてくれた。その騒動中にやっと芳樹が起き出した。真紀子は、芳樹も火傷をすると大変なのでこのまま実家に戻る事にした。正樹は、どうしたらいいのかわからなかったのか、ただその状況におどおどしていた。都子は、お姉ちゃんだから何でも出来ると想いやってしまった事であった。その事には、誰も怒りはしないが、こんな痛い目にあってしまうとは思わずにしたことであったので、都子はこの自業自得の痛みに耐えしのんでいた。
 シヅ子は、この実家にいる間、新しい雪の下の葉を何度となく取り替えてくれていたのだ。その雪の下に込められていたシヅ子の想いが嬉しくて、都子は毎回「ありがとう」と言っていた。その様子を毎回見ていた芳樹は、あの時寝ていて何も知らなかったが、痛い想いをしたのだけはわかったのだった。その度に「お姉ちゃん痛い?」と聞いてきたのだ。そんな可愛い芳樹には、火傷に関しての注意事項のような事を都子の体験談として話していたのだ。そのせいなのか、すっかり芳樹は、火が苦手になってしまったのだ。それから、三が日の最終日に、シヅ子が魚屋さんに行き、海産物を買ってくれていた。毎回のようにこのお土産を楽しみにしていた都子は、このエリアの日本海で捕れるズワイガニをすべて残さずいただけるお味噌汁が大好きであった。予め身などはいただいておくが、その甲殻類からでるお出汁そのものが美味で、最後までたった一人になってもいただいているのだ。幼い頃から、贅沢な口になってしまっている都子であったが、この他にも伊根のイカがコリコリとして好きなのだった。これらは、都子にとって、玉手箱以上の価値のあるものばかりであった。それを車に乗せて、都子たちは有り難く自宅に持って帰ったのだ。
 この年より、都子の自宅の花壇にも雪の下の花が見られる事になるのだ。勿論、夏と冬の時期にしかシヅ子のところに遊びに行っていなかった都子は、その咲いた花を見たことがなかった。その花は、とても小さく可愛いものであった。この雪の下は、シヅ子が育てたものであり、それらを見ているだけで、身近にシヅ子がいるように思えてならなかった。都子は、この雪の下が何でも効く魔法の薬だと想い、少し熱が出た時には、乾燥させた雪の下を煎じて飲んでいたのだった。これまで、シヅ子からの愛情いっぱいの玉手箱を受け取っていた。しかしシヅ子の愛情は計りしれぬ想いで、次々とやってきたのだ。シヅ子は野菜だけでなく、解毒効果があるとやらで、いきなりどくだみの葉を送ってきたのだ。そのどくだみの葉は、番茶に混ぜられ飲まされる事になったのだ。けして美味しいとは言えないどくだみの味は、美味しいはずの番茶までもその味を失うものであった。こうして効能のある薬草まで玉手箱に入れてくれていたシヅ子は、都子に対する嫌がらせではなく、明らかに良心であるから、有り難く感謝をしないといけなかったのだ。その玉手箱は、本当に大切な想いから、開けずにとっておこうかと思ったくらいであった。そんな少し不満の出てきていた都子だったが、春が待ち遠しくいた。なぜなら、この年にして一人旅をする事になっており、春休みの間にシヅ子の家に行く事になっていたからであった。そこでは、夏と冬には出来ない事をさせてくれる事になっていた。都子の新たな挑戦の旅が始まったのだ。
 その旅の前日に、真紀子は衣類などをシヅ子が待つ実家に送っていた。ほとんど荷物もない状態で出発することになっており心配事は無いはずであったが、一人旅に少し不安になってしまったのか、眠れない都子は、寝室にくる真紀子を起きて待っていた。正樹の夕食の準備を済ませた真紀子が、子どもたちの眠る寝室の様子をみに来た時に、まだ起きている都子を発見したのだ。しっかり者の都子であったが「今日は一緒に寝てもいい?」と真紀子に聞いてきたのだ。真紀子は先に休む事を正樹に伝え、都子が起きて待っている寝室へ向かった。その横では、すでにぐっすりと眠る芳樹がいたが、真紀子は明日一人旅に出る都子のために、小声で絵本を読む事にした。かなり遅くまで真紀子がくるのを待っていた都子は、絵本を五分ほど読んだところで眠ってしまった。この絵本は、都子のお気に入りだったので『最後まで読まないといけない』という覚悟を決めて読み始めた真紀子であったが、意気込みに負けたのか案外あっさりと都子が眠ってくれて助かったのだった。
 翌朝、まだ眠たい目を擦りながら都子が起きてきた。すでに真紀子が、朝食を作って待っていた。それだけではなく、いつも早く仕事に向かう正樹も今朝はいたのだ。勿論、都子を見送る為であった。いつもと違う朝に、都子は一人で行く決心がやっと固まった。万が一、都子一人で行けそうにない時は、途中まで真紀子が送る事になっていたのだ。それを、朝からきっぱりと断った都子であった。こうして都子は、一人で電車に乗る事になったが、目的地であるシヅ子が住む最寄りの駅には、到着時間にシヅ子が待っていてくれる事になっていた。その為、たった一人旅は、電車の中だけであったのだ。とにもかくにも、親である真紀子は心配であったが、しっかり者のお姉ちゃんを信じる事にしたのだ。正樹はこの日の為に、午前中だけ有給を取る事にした。これから家族でお見送りとなるが、ここにきて芳樹も「シヅ子のところに一緒に行きたい」と駄々をこね出したのだ。
 芳樹は親でも大変な子育てであったので、とてもシヅ子には見てもらう訳にはいかなかったのだ。こんな中で、都子の一人旅デビューを実行するには、京都駅まで芳樹を連れて行かない選択をするしかなかったのだ。駅に行けると楽しみにしていた芳樹であったが、突然駅にすら行けなくなってしょんぼりとしていた。電車が大好きな芳樹にとって、本当の気持ちは乗りたかったが、せめて見るだけでもしたかったのだ。この気持ちがわかった真紀子は、納得した芳樹も一緒に連れて行く事にしたのだった。見送りをこの自宅までとされかけた芳樹であったが、今週末に電車に乗れる事で納得ができたのだ。この後、家族で家をでた都子は、シヅ子と間もなく会えることが嬉しくなり、ドキドキ気分のまま電車に乗る事になった。
 電車に乗り込んだ都子は、予約してあった座席に一人着いた。窓をみると、芳樹が一生懸命可愛い手を振ってくれていた。都子も負けずに振り返した。たった一週間の別れであったが、芳樹は『永遠のお別れ』のようにいつまでも振ってきたのだ。芳樹の大げさな仕草に気恥しくなった都子は、周りの目をしきりに感じ取っていた。少し大人になっていた都子は、手を下して芳樹をただ見つめていた。その様子に気付いた真紀子は「大人になったね」と、今にも消されてしまいそうであったが、都子に届いてほしいという想いでホームから必死に叫んでいた。その後電車の扉が閉まり、一旦下ろしていた手を、都子は振り始めた。見えなくなるまで、振り続けてくれた芳樹の手が、とても温かく感じたのだった。都子は心の中で「ありがとう」と、芳樹に向かって呟いていた。同じ車内には、子どもは都子しかいなかった。そんな子どもらしい様子を見ていた中年の男性が、通路を隔てた同列に座っていた。その中年の男性はスーツ姿であった為、都子はこれから仕事に行くのかと思っていた。知らない人には、話しかけないようにと注意されていた為、ただ前を見て座ることにした。
 前列をよく見ると、年老いた小柄な女性が座っているのがわかった。初め都子の座席からは、全く人が座っているとは気付かない程、一切その存在が露わになることはなかったのだ。しかし、この女性の方から話しかけてきてくれたおかげで、都子は言葉を発する事ができたのだ。なぜなら、都子自身から話す事を止められていた為であった。お話し好きの都子は、黙っていると寿命が縮んでしまうのではと考えている子どもであったのだ。話しかけられたら、その方とはご縁があったととり、話しかけられなかったら、その方とはご縁がなかったと思っていた。この先のご縁と言うよりも、今のご縁を大事にしたいと考える都子は、逆に話しかけていただいて『ありがとう』と思っていたのだ。この見知らぬ女性のおかげで、電車の旅を短く感じていたのだ。実はこの電車に、二時間程乗る事になっていた為、手持ち無沙汰の都子にとっては、打ってつけの話し相手となっていただけたのだ。この有り難い女性は、乗り始めて一時間のところで、降りていかれたのだ。
 特にゲーム機器を持っていない都子にとって、ここから地獄のような時間となっていったのだ。普通の人からすれば、ただ、後一時間到着の駅まで乗っているだけでいいのだが、この都子はただただ黙っている時間を苦痛と感じてしまう為、どうしても誰かと話したくなったのだ。そこで、目があったのが同列の男性であった。この男性は、都子が前列の女性と話しているのを、聞いていたみたいでその話が面白かったらしく、逆にその男性から話してきたのだった。再び、訪れたこのチャンスを有り難く想った都子は、このご縁を大事にしたいと、勢いよく話し始めたのだった。この男性曰く「仕事でこのエリアにきた」と話しだした。勿論、この男性はさっき話していたことを聞いていた為、都子がこの電車に乗っている理由を知っていたのだ。この都子の一人旅を、楽しませようとしてくれたのがこの男だったのだ。この男は、営業マンらしく話し上手であった。
 大阪からきたとの事であったが、都子が話す京都弁とは一味違う大阪弁を使い話してきたのだ。この男からの会話は、川の流れに従うかのように穏やかに話し、且つ、その流れに逆行することなく最後まで穏やかに話してくれたのだ。その語り口調が好きになった都子は、その男の口調を頭に焼き付けていたのだった。この男は、幼い都子にも分かるような言葉を使い丁寧且つ面白く話してくれたのだ。そんな言葉巧みである話術を習得したくなった都子は、必死にこの男の口調を真似しだしたのだ。都子の父親である正樹は、精密機器を相手に仕事をしている為、口下手であった。正樹とはかなり異なる男性を知ってしまった都子は、時が経つのを忘れるくらいこの男との会話に没頭していた。あっという間に、残りの一時間が過ぎてしまいシヅ子の最寄りの駅に近づいているのがわかった。なぜなら、都子が下車する駅の一つ手前でこの男が降りたからであった。この男が、この一つ手前の駅で降りなければ、きっと都子は降りる事を忘れていたであろう。そのくらいこの男との会話を楽しんでいたのだった。
 おかげさまで都子は、無事に最寄り駅で降りる事が出来た。そのホームに降り立った時、シヅ子の姿を発見した。シヅ子は、駅のホームまで迎えに来てくれていたのだ。シヅ子は長時間の一人旅で、さぞかし都子が不安になっていると思っていたが、全くそんな様子がない事に、逆に驚いていたのだ。都子は、シヅ子の家に向かう車の中で、車内で出会った人たちの話を楽しそうにしていたのだ。こんなに余裕があるとは思っていなかったシヅ子は、今後の都子の成長が楽しみになった。今年六歳になる都子であったが、期待を込めた約束をしたのだ。それは「都子、運転免許取ったら、車を買ってやる」と話しだしたのだ。まだまだ先のことであったが、シヅ子もいつまで運転出来るか分からない為に、いろいろな期待を込めた言葉を言ってみたのだ。勿論、都子の事が可愛いからでもあった。
 シヅ子には他にも孫はいたが、誰にでも人懐っこく話せる都子がより愛おしく思えたのだ。この言葉をシヅ子が口にしたのは、この都子だけであった。都子は車を買ってもらえるから嬉しいのではなく、心からシヅ子に愛されているという想いを感じ取れた事が嬉しかったのだった。家に着いたが、この後出掛ける様子のないシヅ子からは「夕方お風呂をいただきにいく」とだけ伝えられた。シヅ子の家には、お風呂がなかった。正確にはお風呂はあるが、以前冬場に、シヅ子がお風呂に入っていたら、突然水しか出なくなり、えらい目にあった事で、二度と使いたくなくなったようであった。この田舎暮らしではプロパンガスしかなく、なぜだか一戸建てであったが、この付近の住人用に大きな集合住宅用のプロパンガスが置かれていたのだ。そこには予め、各家庭に分配されるガス供給量の上限が定められており、家族が増えた時に何も伝えていなかったシヅ子は、自分が入るタイミングでガスの供給がなくなる事態となった。その為、水浴びを冬場にする事になってしまったのだ。これに懲りて以来、お風呂はいつ壊れてしまうかもわからない為に、毎日ヨシ子の家で入らせていただいていたのだった。今、シヅ子は、一人で暮らしていた。
 五年前に、シヅ子の夫である五郎が亡くなったからである。一人だけのお風呂という事もあり、今後もお風呂をリフォームするつもりがなかったシヅ子は、有り難くヨシ子の家のお風呂を借りていたのだ。ヨシ子宅は、二世帯住宅である為、お風呂は二つ作っていた。ヨシ子宅のお風呂を借りているのだ。ヨシ子はシヅ子の姉である為、二人はとても仲がよく、こんなお風呂のことでは、揉め事も起らなかった。そんな話をシヅ子から聞きながら、翌朝の事を伝えられたのだ。シヅ子の口癖が『早起きは三文の徳』であったことから、翌朝早朝に竹林に出掛けると告げられたのだ。その為、夕方お風呂に入って温まってから、しっかりと睡眠をとってほしいと言われたのだ。竹林に入るのが初めての都子は、少し興奮して寝られなかった。
 翌朝、カーテンを開けて外を見たが、まだ薄暗かった為に、都子は二度寝してしまった。「今から出掛けるよ」というシヅ子の声で慌てて飛び起きた都子は、急いで準備をして二人で家を出た。車に乗り込みと、シヅ子からおにぎりを渡された。それをいただきながら、まだきちんと羽織れていなかった上着をきた。こんな早朝に、向かっていたのは、竹林であった。勿論お目当ては、タケノコである。一度もタケノコ掘りをしたことがない都子は、楽しみでしかたがなかった。嬉しい気持ちでいっぱいであったが、車が竹林の側で止まると、スコップを持ちその中へと入っていった。本格的なそのスコップに、これからお仕事が始まるのだと感じた都子は、真剣な顔つきでタケノコを探し始めた。そんな時「都子の足下にあるよ」とシヅ子が教えてくれた。よく見ると、ほんの僅かであったが、タケノコが頭を覗かしていた。シヅ子は、まずそのタケノコの周りを軽く手で掘り、スコップを入れる位置を教えてくれた。シヅ子に言われた通り掘り進めた都子は「出来た」とシヅ子に伝えた。シヅ子が、最後の確認をしてくれ、一緒に掘り出した。出てきたのは、立派なタケノコだった。自分で出来た事が嬉しくなった都子は、次のタケノコを探し出し、掘っていったのだ。しかし今度は、すべてを自分だけでしたくなった都子は、掘り進め何となく自分がいいと思ったタイミングで掘り出す事にしたのだ。
 すると、タケノコは途中で折れてしまい、慌ててシヅ子を呼んだ。シヅ子は、残っていたタケノコを土の中から出してくれ、事なきを得たのだった。これに懲りた都子だったが「もう一回掘ってもいい?」とシヅ子に聞いた。シヅ子は「これで最後にするか」と言った。都子が四苦八苦して掘っていた間に、シヅ子のタケノコがたくさん掘られていた。都子は気合を入れ直し、掘り進めていた。最後の確認をシヅ子にお願いをし、今度こそ一人でも立派なタケノコが掘れたのだった。車までたくさんのタケノコを持って戻り、昼食の用意をしてくれているヨシ子宅に車を走らせた。都子の顔に泥がついたままであったが、そのままの状態で行く事にした。ヨシ子宅に着くと、すでにお裾分けしていたタケノコで、炊き込みご飯を作ってくれていた。そんな匂いを嗅いでいると「都子、お風呂先にいただいたら」とシヅ子が言ってくれ、先に一人で入る事にした。
 都子はその時に、洗面台の鏡で自分の顔を見た。「顔、泥だらけやん」と思わず叫んでしまったら、その声がシヅ子に聞かれてしまったようで「だから先に入りって言うたんやで」と返してきた。こんな顔で車に乗っていた事が恥ずかしくなった都子は、一人鏡に向かって赤面していた。すぐさま、お風呂に入り、念入りに顔を洗っていたら、余計に顔が赤くなってしまった。お風呂からでた都子は、ヨシ子が用意してくれた炊き込みご飯と、汁物やタケノコの天ぷらをいただいた。今朝採ったタケノコも勿論、ヨシ子宅用としてお裾分けする。いつもお風呂を借りているシヅ子は、自分が作った野菜も届けているのだ。このヨシ子宅でシヅ子は、こうした物を届けながら、毎日のようにお茶の時間を楽しんでいるようであった。
 それから、帰宅前にはお風呂をいただくという生活スタイルであった。先にお風呂をいただいた都子は、このヨシ子とゆっくりお茶の時間を過ごしていた。今度は、シヅ子がお風呂に入るからであった。誰からも愛される都子は、会話でヨシ子を楽しませていた。そんな時、ヨシ子の配偶者である三男が帰ってきた。同居している孫たちが喜んでくれるお菓子を買ってきていた。そのお菓子を都子は、お裾分けとしていただいた。ここにきて、都子は昨日からお菓子を食べていなかったことを思い出したのだ。
 シヅ子の家に遊びに来たけれど、特にどこにも買い物に行っていなかったからである。シヅ子は、自分の家にはお菓子を置かなくしていた。もともとお菓子が大好きなシヅ子であったが、この一人暮らしになってから、お菓子を食べるのを止めさせてくれる人がいなくなり、寂しさ故に大好きなものを果てしなく食べていたい気持ちになり兼ねなく、更に過食してしまう傾向にあるからであった。それならば、このヨシ子宅に来た時だけ、美味しくいただくことにすると決めたのだった。だから、この毎日のお茶の時間を、誰よりもシヅ子は楽しみにしていたのだ。このようなシヅ子の気持ちがわかった都子は、このヨシ子の家でお菓子を美味しくいただくことにしたのだ。都子が、このお菓子を食べている顔が幸せそうに見えた三男は、孫たちの分として置いておいたお菓子も「こちらもどうぞ」と言い、勧めてきたのだ。さずがに都子もこんなに食べきれなく、少し残す事にしたのだ。この時のヨシ子夫婦の会話が、幸
せを絵に描いた様に感じて、都子も幸せをお裾分けしていただいたのだった。
 やっと、シヅ子がお風呂から上がってきた。都子は選り取り見取りのお菓子を、更にシヅ子に勧めだしていた。誘惑される心でいっぱいになったシヅ子であったが、自分への戒めとして、ここで帰る事を決めた。身支度を始めたシヅ子に、夕食のおかずにと、ヨシ子がタケノコの煮ものを持たせてくれた。この後、車で帰った車内で、どんなお菓子が好きなのか、都子がシヅ子に聞いていた。正しくこの車内では、女子トークが繰り広げられていた。
 夕方前に戻り、二人で畑仕事をしに行った。そんな時、真紀子が心配して電話をかけてきた。何事もなく、過ごしていたので、敢えて真紀子には連絡しなかっただけであったが、連絡がないことが不安になりしてきたようであった。真紀子は不安げに「何かあったの?」と聞いてきた。「何もなく、無事に過ごしているよ」と答えた。「なんだ」とあまりにも落胆したかのような声を真紀子は発した。まるで何かあった方がよかったかのようであった。「心配して損した」と言葉の最後に吐き捨てたのだ。シヅ子はその言葉に「心配出来る相手がいるだけ幸せだよ」と真紀子に言った。真紀子は「そうだね、ありがとう」と穏やかな口調で返してきた。都子は、今日あった出来事すべてを真紀子に話していた。そして、電話を切る直前に「心配してくれてありがとうって真紀子に伝えて」とシヅ子が都子の耳元で囁いたのだ。都子は「心配してくれてありがとう」と素直な心で真紀子に伝えたのだった。その後暫く畑にいた都子たちは、キャベツや玉葱やジャガイモを採って家に帰った。
 戻った都子は、シヅ子と一緒に夕食の準備をした。したといっても、お味噌汁を作るだけであった。タケノコご飯と煮物をヨシ子が持たせてくれたからなのだ。一人暮らしをしているシヅ子にとって、毎食の料理作りは面倒極まりないだけであった。だから、快くシヅ子の分も作ってくれるヨシ子が、何でも叶えてくれる神様のような存在であった。シヅ子は、料理よりも畑仕事を地道にする方が、性にもあっており、ヨシ子のコメ農家の仕事をシヅ子は積極的に、手伝っていたのだ。勿論、長年してきた丹後ちりめんの機織りも続けていた。しかしこちらは、もっぱら着物用ではなく、ワンピースや小物を作ったりしていた。
 主婦業は好きではないが、基本的には働き者のシヅ子であった。シヅ子の夫であった五郎は生前、シヅ子の反物を仕立てていたのだった。その空いた時間に畑仕事をしていた。五郎が亡くなって、丹精込めた畑も覇気をなくしてしまった。そんな死んだか同然の畑を見兼ね、シヅ子は手入れをする事にしたのだ。シヅ子が丹精を込めた畑は、五郎が育てていた時と変わらないくらい賑やかになっていた。それからのシヅ子は、丹後ちりめんと同様に可愛くなった畑の野菜たちを我が子同然のように優しく育てたのだった。そのシヅ子の愛情が伝わった野菜たちは、どの野菜たちもシヅ子に『元気にしているよ』という言葉をかけてきてくれるような、肌つやのいい野菜になっていたのだ。その採れた野菜をシヅ子のちりめん風呂敷を袋にして、持って帰っていたのだ。
 このように野菜作りに目覚めたシヅ子から、丹後ちりめんなどの話しを聞きながら、都子は夕食を食べていた。朝から機織りの音を、全く聞いていない都子は、どうしても聞きたいとわがままを言った。するとシヅ子は、快く機織りを始めてくれたのだ。それから暫くして、早朝から動きっぱなしの都子は、この機織りの音を子守唄としながら、眠ってしまったのだ。
 翌朝、昨夜早めに眠ってしまった都子は、まだ薄暗かったが、目が覚めてしまった。今日の予定は、山菜採りであった。これも、初めてのことだったので、楽しみになり、なお、目が冴えてしまったのだ。まだ辺りも寝静まっていたが、ガサガサと起きている音を出してしまった。その音で目覚めたシヅ子は、昨晩作ったお味噌汁を温めてくれた。その時、予約をしていたご飯がちょうど炊けたので、ちりめん山椒入りのおにぎりをシヅ子が作ってくれた。
 少し早い朝食となったが、都子は美味しくいただいた。それでも食べきれなかったおにぎりを一つ、山に持っていく事にした。今日は山に向けて出発する事になった都子は、シヅ子が運転して間もなく、早起きしすぎたせいなのか、気が付いたら寝ていた。車のエンジンが止まり、そこで都子の目が覚めた。都子は「寝ていたみたい」と言い、シヅ子の車からゆっくりと降りた。山に向けてシヅ子と一緒に歩き出した。都子は、どれが山菜であるかさえもわからなかったが、所狭しと生えている草を見つけては「この山菜食べられるの?」とただの雑草であっても、山菜と言い、シヅ子に聞いていたのだ。シヅ子は、ヤマブキやワラビやゼンマイをたくさん採ってくれた。
 まだ子どもである都子にとって、山菜の味はお世辞でも美味とは言えないが、大好きなシヅ子が採ってくれたものであったので、昨夜いただいた山菜を、思わず「美味しい」と言ってしまったのだ。この気持ちによくしたシヅ子は、今日、都子の為にたくさん山菜を採ってくれたのだ。都子の正直な気持ちは、あまり山菜は美味しいと感じなく、できれば食べずに残したいと思っていたくらいであったが、大好きなシヅ子を悲しませたくはなく、本当の気持ちをいう勇気がなかった都子は、嘘をついてしまったのだ。今日もこの後、ヨシ子の家に山菜を持っていく事になっていた。そこで、料理好きのヨシ子は、山菜を使って、昼食を準備してくれているのだ。
 その想いを受け入れると、都子は残さずに食べないといけない。しかし本当は、山菜が嫌いであった。結局、本当の気持ちを言えないまま、ヨシ子の家に辿り着いたのだ。いつもと違うオドオドする都子の表情に気付いてくれたヨシ子は「どうしたの?みやちゃん」と聞いてくれた。明らかに目が泳いでいて誰が見ても可笑しいと思えたが、都子は「何でもないよ」と返した。ヨシ子は、そんな可笑しな都子の様子に気を遣いながら、昼食を準備してくれた。
 勿論そこには、たくさんの山菜料理がテーブルに並べられていたが、メインは山菜うどんであったのだ。何とかこのうどんに入っている量の山菜なら食べられると思った都子は、強張っていた表情が少しずつ和らいでいったのだ。その都子の顔を見たヨシ子は「お口に合わなかったら、残してもいいよ」と付け加えた。都子は、ヨシ子に気を遣わせてしまったのがわかり「美味しそう、いただきます」と言って食べ出した。
 ヨシ子はシヅ子と違い料理が上手だったので、子どもでも比較的食べやすい味つけや料理にもひと手間かけられていて工夫されていたのだ。このヨシ子の家には、たくさんの孫がいるからであった。それにしても、この山菜うどんのお出汁が美味しく、山菜のえぐみがほとんど感じられなく、都子はホッとしたのだった。シヅ子の山菜料理は、簡単にあく抜きをしていたのか、していないのかさえもわからないくらいの不快なえぐみを感じていたのだ。子どもの都子では、とても食べられるような代物ではなかったのだ。この気持ちをわかってくれていないシヅ子は、あまり箸が進まない都子のことを気にしていたのだ。しかしこのヨシ子の作る山菜料理には、迷い箸をするくらいの魅力を感じ、都子は口にいっぱい頬張り食べていたのだ。シヅ子もこのヨシ子の作る山菜料理が美味しいらしく、帰りに分けてもらう事にしていた。
 美味しい山菜料理の後に、お風呂をいただき、シヅ子の家に帰っていった。都子は、シヅ子がお風呂に入っている時に、山菜のえぐみのことをヨシ子に聞いていた。あのえぐみが好きでないことを、ヨシ子に都子が話していた。そして、あのえぐみがアクであることを知ったのだ。だから、このあく抜きをしっかりとしないと、どうしてもあのえぐみが取れないことがわかったのだった。都子は、あのえぐみの正体がわかったので、シヅ子が作った山菜料理のあのえぐみにも納得したのだった。
 シヅ子が家に戻り、ヨシ子との幼少期のことを話しだした。シヅ子の母親は、シヅ子が十五歳の時に病気で亡くなったということであった。それまでに、姉であるヨシ子には、その母親から料理を教わっていた為、その頃には何でも料理が出来るようになっていたが、シヅ子にはほとんど教えてもらえなかった為に、未だに料理が得意ではないらしいのだ。しかし、幼い頃病弱だったシヅ子には、その母親がつきっきりで看病をしてくれていた為、ヨシ子より母親を独占していた。その母親は、いつもシヅ子が熱を出すと、雪の下を煎じて飲ませてくれ、姉のヨシ子にはない母親との想い出は、シヅ子が大切にしている雪の下にあったのだ。その母親との想い出の雪の下を、結婚してからも大切にしていたのだ。姉のヨシ子は、母親から教わった料理が想い出であり、シヅ子は雪の下になったのだ。けれどもシヅ子は、そのまま母親が作ってくれていた料理を、ヨシ子が今なお食べさせてくれるので、シヅ子自身は逆に倍の想い出になっているので、姉のヨシ子には本当に感謝しているのだ。
 このような姉妹の温かい会話を聞いた都子は、真紀子の子どもで良かったとつくづく思ったのだった。その晩は、都子から真紀子に電話をしてみたのだ。すると「何かあったの?」と心配してきたが「何もないけれど声が聞きたくなった」と都子は素直に気持ちを伝えた。その時に真紀子から「この週末土地を見に行く事になった」と告げられた。子どもの都子にとって、土地を見に行くことが転居に繋がるとは思いもよらず「ああ、そう」とだけ呟いた。シヅ子はその間、機織りをし始めていた為、その会話が一切聴こえなかった。シヅ子は、今、母親もしていた機織りに没頭していたのだ。そんな音に完全にかき消された真紀子の声が「行ってくるからね」と言われたような気がした都子が「なんて言ったの?」と聞き返した時に、電話が切れた。本来ならば、電話の声さえも聴こえないくらいの雑音となる機織りの音であるが、やはり、シヅ子の奏でる機織りの調べは、シヅ子本人は勿論、都子の心までも和ませてくれるものであった為、突然のように切れてしまった電話であったが、折り返しすることなく、そのままこの機織りの音の響きを堪能する事にした都子であった。
 翌朝、都子は早起きした。なぜなら、待ちに待った機織りが出来るからであった。いつもは、弟の芳樹を伴っていた為、都子のやりたい事を我慢していたのだ。その念願叶ってようやくこの日を迎えられたのだ。都子は、基本的な織り方である平織りを教わる事になった。シヅ子のあの音色が奏でられると思っていた都子であったが、不慣れな都子では、規則正しく織れるはずもなく、あの調べとはいかなかったのだ。それでも、時間はかかったが、それなりの布には仕上がり、都子なりに満足していたのだった。その間シヅ子は、大事な機織りを占領されてしまった為に、ちりめんの生地を使い依頼主のサイズで、ワンピースを作っていたのだ。それを横目にした都子は、自分にもいずれそんな依頼があると嬉しいなと思いながら、シヅ子に言われた通りに織っていた。昼食前になり、いつものようにヨシ子の家に向かった。
 シヅ子は、そのワンピース作りを、その後ヨシ子のところでも出来るように持っていった。ヨシ子も母親から教わった機織りが好きであったが、この当時だんだん洋装が好まれるようになっていた風潮から、稼ぎ頭として集団就職を余儀なくされたのであった。その母親との想い出の機織りであったが、ヨシ子はこの就職で故郷を離れて以来、二度としてはいなかったのだ。ヨシ子が就職した地で知り合ったのが、三男であった。三男は、当時大学生であった。三男の語り口調からして、奇才な人だと思ったヨシ子は、だんだんと惹かれていったのだ。こうして仲睦まじい夫婦の土台が自然と出来ていったのだった。
 明日、京都市内の自宅に帰る事になっていた都子は週末を迎え、真紀子たちが土地を見に行くと言っていたことを思い出した。そのことを都子は、シヅ子に話しだした。あの時シヅ子は機織りをしており、何も聞いていなかったのでびっくりしていた。今、住んでいる都子の家は賃貸住宅であったのだ。
 その為に、土地を探して家を建てようと考えたに違いないとシヅ子が言った。都子は、新しい家に住めることが嬉しくなり「それなら、昨日帰ったらよかった」と言った。今更遅い都子だったが、どこの土地というよりも、どんな家になるのかの方が楽しみになっていたのだ。それから都子は、自分の部屋はこういう部屋にしたいなど、シヅ子にまだ先の話である理想部屋の夢物語を話していたのだった。夕方になり、どうしても家の事が聞きたくなった都子は、真紀子に電話をしたのだ。真紀子は「家のことはまだ全く考えていない」とだけ都子に伝えた。今、真紀子は、土地のことで頭がいっぱいだと言っていたのだ。都子は自分の部屋が気になるだけであり、話が全くかみ合わなかったのだ。こんな事になりそうであった為、都子は居なくてもいいと思い、このタイミングであったが、芳樹を連れ三人で見に行ったのだった。
 この都子の一人旅は、今日が最後の晩餐となった。その為に、いつもは昼食であったが、今日は夕食をご馳走になりにヨシ子の家に出向いたのだ。到着してまず都子は、ヨシ子の孫と一緒にお風呂に入った。お風呂で遊びながら入った為に、すっかり湯冷めしていた。上がってからのくしゃみの音が、部屋中に響いていた。今晩は少し冷え込んだ為に、囲炉裏を囲んで食べる事になった。
 都子は、この囲炉裏での火傷を思い出したが、ヨシ子の家の孫たちは、この囲炉裏で火傷をしたことがなかった。最後の晩餐の料理であるが、三男の知人が仕留めたイノシシ肉で、ぼたん鍋をすることになった。初めてイノシシ肉を食べる都子は、亥年生まれであり何だか共食いのように思えて、食べるまでは恐怖でしかなかったが、共食いといいながらも、食べ始めたらあまりにも美味しくてそんな細かな事を今まで気にしていた事が恥ずかしくなった。この豪華な鍋を堪能した都子は「もし、新しい家が出来たら遊びにきてね」とヨシ子とシヅ子に言ったのだ。それから真っ暗な夜道を、シヅ子と一緒に車で帰った。シヅ子がこの後、一人ぼっちになり寂しくなるのではないかと心配した都子であったが「一人は気楽だよ」という言葉があっさりと返ってきた。この返事に都子の方が逆に寂しくなったが、シヅ子の強さが垣間見れた都子は「おばあちゃん、まだまだ元気でいてね」と伝えたのだ。
 翌朝、京都市内に向けて帰る事になった都子は、シヅ子の作ってくれたちりめん山椒のおにぎりを持って電車に乗った。このちりめん山椒は、シヅ子が母親から唯一教えてもらった料理らしかった。だからこのちりめん山椒だけは、料理の腕に自信のないシヅ子であったが、これだけはシヅ子の自慢の味だったのだ。そんな話を聞いた都子は「もう少し大きくなったら教えてね」とシヅ子に伝えて、最寄りの駅に向かった。
 シヅ子との別れ際に「また夏に来るね」と言い、電車に乗り込んだ。座席に着いた都子は、見えなくなるまでシヅ子に手を振り続けた。シヅ子は、真紀子に無事に電車に乗った事を電話で伝えた。シヅ子は都子のリュックに、都子が採ったタケノコや山菜を持たせた。都子は帰りの電車内を見渡していた。お話し好きの都子は、その相手を物色していた。すると、次の駅から乗ってきた女子中学生らしき人が都子の隣に座った。その女学生の人が話しかけてくれた。「一人で乗っているの?」と聞かれたので「はい、そうです」と答えた。「どこまで帰るの?」と聞かれ、「京都まで」と答えた。その女学生は、この春から中学生になると言っていた。中学生になると、部活も始まりあまり祖母宅へも行けなくなる為、この春休みを利用してきたらしかった。この女学生も京都まで乗るとの事であった為、都子の一人旅が、最後まで一人旅ではなくなったのだ。
 女学生は、毎年のように夏になると、天橋立の海水浴場で泳いでいると話してきた。「都子も夏になると来ているよ」と言った。そして、今度の夏も遊びに来るとシヅ子に言った事を話した。この話を聞いた都子は、女学生のことを身近に感じたのだった。しかしその女学生は、悲しい顔をしていた。「何かあったの?」と都子は尋ねてみた。すると、この世に起こっている差別や偏見について話しだしたのだ。女学生には、今、好きな人がいて、その男性のことを現代社会から守りたいということであった。
 この女学生は、日本人であったがこの男性は、在日朝鮮人ということだった。その為、その住んでいる地域の人からは、少し距離を置くような扱いをされてしまうようであったのだ。しかしこの男性は、まだ中学生の子どもであるのだ。子どもは、親の住処にお世話になって当たり前である。この中学生が大人になるまで、社会はその場所が不当に住み着いた所であろうが、その子どもの成長を温かく見守らなければならない。これこそ、大人としての義務ではないだろうか。どこの血筋の者がどこで生まれようが、子どもはその場所を憩いの場と思えるような環境にしてあげる義務が大人にはあるはずなのだ。先祖のことを子孫である子どもたちが、その重荷を担うのは可笑しい話しであるのだ。生きているのは、その個人個人である。その一つの生まれた命は、大人の都合で、偏見や差別を受けて当然という考え方では、その個人の命の成長は、真っすぐ伸びず折れ曲がってしまうはずなのだ。言い換えれば、そもそもそちらが不当行為をしたから当然の報いであるとでも言いたいのであろうか。
 不当には、集団で理由なき冷遇や差別で闘っても人間としての落ち度もなく寧ろ当然といいたいのであろうか?都子は、この女学生が目前で悩んでいる話は難しくあったが、子どもとして「私がそんなことされたら嫌やわ」と言った。女学生は「私は自分がされて嬉しい事を他人にもしてあげたいと思っているの」それだけでなく「自分がされて嫌な事は絶対に他人にはしないと決めているの」と付け加えた。都子は、同年代の子どもであっても、どこの国の子であるかで差別されている世の中であることを知らなかったのだ。その事に、ショックを覚えた。
 都子の周りには、今、そんなことをする人はいない。「だから、都子ちゃんは幸せなんやで」と女学生が言った。『何もなくて幸せ』という言葉が、小さな都子の胸に響いた言葉であった。女学生は、この問題をどうにかしたくて今回祖父母に会いにいったが、この時代の人たちこそが、差別や偏見の持ち主である為、なお話しがこじれてしまっただけだったと都子に話した。この女学生は、京都駅に近づく間際に、最後の言葉を残した。それは「元々日本人が、他国の領土が欲しいという欲を出して、朝鮮半島を占領したことが大きな要因ではないのか」と女学生は考えていると言っていた。
 その言葉を残して席を立とうとした女学生に「きっとわかってくれる人がいるはずだから」と都子は答えた。その言葉に女学生は少し顔を明るくして「ありがとう」と微笑んだ。都子も慌てて降りる準備を始めた。窓から見える真紀子の顔に気付き「今降りるから」と叫びながら降りて行った。この今ある日常が、とても穏やかな空気が流れていることに気付いた都子がそこに居た。真紀子に「行かせてくれてありがとう」と都子は言い、家路に着いた。
 久しぶりに自宅に戻った都子は、リュックに入っていたタケノコと山菜を渡した。
 タケノコはあく抜きをしないといけなく「真紀子のやる気に期待する」と正樹が言った。「ママ今日は、タケノコご飯だね」と都子が言ったが、真紀子からの反応は薄かった。ただ、京都駅まで迎えに行っただけなのに「疲れた」と真紀子が言っていた。心配になった都子は「ママ、大丈夫」と言ったが「気が重いだけ」と真紀子が答えた。真紀子の重い腰が上がる前であったが、都子は「ママ、ありがとう」と先に誘導するかの如く言った。
 都子が一番気になっていたのが、新しい家の事であった。都子は、今、京都市内の幼稚園に通っていたが、今年度年長さんになり、あと一年で小学生になる。正樹の考えは、このタイミングで持ち家に住もうと思ったのだ。都子が幼稚園で作った友達とは、離れる事になるけれど、新しい家に住んでから、きっと新しい友達ができるはず。
 来年、芳樹も幼稚園に入るので、だからこそ、この時を家の買い時と正樹は信じたくなったのだ。だから、昨日家を建てる為に、土地を探しに行ったのだと正樹が言った。都子は新しい家に胸を躍らせて「いいよ」と正樹に言った。それから、本題の土地の話へと入っていった。正樹は「ところでお父さんは日本人、お母さんも日本人」という事から話しが始まった。「だから都子も日本人だよね」と正樹に言った。
 都子は早速女学生から仕入れた話しをし始めた。「この日本には、在日朝鮮人がいるんやって!」と聞きたてホヤホヤの情報を言葉にした。正樹は、話した事のない言葉を知っている都子に驚いてしまった。「なんでそんなこと知ってんねん?」と正樹が逆に聞いてきた。「今日帰りの電車でお姉ちゃんから聞いたんや」と都子が言うと、正樹が「その住んでいる人たちの近くの土地に、住もうと思ってるんや」と都子に伝えた。「いいよ」と都子が言った。「ほんまにええんか?」と正樹が念押してきたが、都子は「この世に生まれた人は、この世でのやり遂げないといけない目的があって生れて来てるんやろ」と正樹に問いかけた。「だからみんなその目的の為に必死に生きようとしてるはずやねん、それなのに・・・・・・」とここで言葉を詰まらせた都子は、涙をポロポロとこぼしてしまった。
 正樹が、人間生まれて来た時から、その目標に向かって生きている。その目標に向かう前に差別だの偏見などを受けたら、いったいどうして生き抜けばいいのだ。今回生まれてきた目的というのは、前世でやり残したことを改めて修行することであるのだ。「誰もが、その自分の目標と闘っているんだよ」と優しい声で正樹が都子の頭を撫でながら言った。この世では、この闘いの相手が、完全にすり替わってしまっている。この修行の相手は、自分自身の心と向き合い闘っていかないといけないはずなのだ。それなのに、全く修行とは関係もない赤の他人を相手にして闘っている。『これでは、人間として生まれてきた価値がないのだ』と強く正樹は自分に言い聞かせたのだ。人間の目標が変わってしまった現代社会が、本当のアクである事を都子に心から伝えた正樹は、昨日見てきた土地を買う事に決めた。この現代において実際に起こっている問題と向き合う機会でもあり、都子が大人になっていく過程において、目を背けるではなく、温かく見届ける目を養ってほしいと正樹は願っていた。
 そんなぽっと温かい空気が流れた我が家から、白い花を咲かせている雪の下が見えた。都子は、誰にでも分け隔てなく仕えている雪の下の方が、遥かに人間よりも尊い存在であると確信していた。
この二人の会話を全く知らない真紀子は、タケノコのあく抜きが終わり、タケノコご飯を作るところであった。正樹が「あの土地買う事に決めたから」と真紀子に伝えた。真紀子があの土地に連れて行かれた時から『きっと買うんだろう』と心で思っていた事もあり、全く驚かなかったが「この土地の話は都子も納得して住む事になったから」と言ったその時に、真紀子が「ちゃんと理解出来たの?」と聞いてきた。「うん」と都子が頷いた。真紀子が、タケノコと格闘している間に、都子としていた話しを聞いて、少しではなく、かなり大人になった都子を誇らしげに思った真紀子であった。これから、本格的に始まる持ち家計画は毎週末住宅メーカーに通うことになり、忙しい週末を迎える事になっていった。
 都子は、家を建てる事やその経緯についてシヅ子に手紙を書くことにした。勿論、その最大の目的は、一人旅が無事に終わったお礼であった。シヅ子やヨシ子との想い出をたくさん便せんに綴った。
 この家に住むのも、あと一年足らずとなり、友達との別れが刻一刻と迫っていることが確かに悲しかったが、これも自身の成長の為と思っていた都子は、大切な友達との時間を笑顔で過ごす事を目標に、残り一年頑張ることにしたのだ。この春、年長さんになった都子は、年少さんのお世話係の仕事をいただいた。都子の自宅には、弟の芳樹がいて、お姉ちゃんとしてお世話しているつもりであったが、ここの幼稚園では、他人の子どもなので、取り扱いがとても難しかったのだ。同級生の友達は、年少の女の子のお世話をしていたが、都子には実際に弟がいることを知っている先生から「男の子のお世話をしてほしい」と言われたのだ。都子がお世話する男の子は、かなり乱暴な子どもであり、子どもの都子がしつけるには大変であったのだ。一人っ子の男の子は、自分が大将と思い込んでいて、事あるごとに自分が一番でないと気が済まないという性格であった。幼稚園にあるおもちゃを、まず真っ先に自分が遊んで飽きなければ、おもちゃを手放さなかったのだ。この一人っ子の男の子には、順番という言葉が頭にないようで、すっかり都子は疲労困憊していた。
  その男の子の話を自宅に戻った都子は、正樹にしてみた。都子は「芳樹なんてまだ可愛い方だよ」と言いだしたのだ。その事を聞いていた芳樹は「芳くんの事可愛いと思ってくれて、ありがとう」と都子に伝えていたのだ。本当はそこまで可愛いと思って言った言葉ではなかったが、この芳樹の言葉があまりにも可愛く聴こえた都子は「私の弟に生まれてきてくれて、ありがとう」と伝えたのだ。芳樹のように素直な子どもであるならば、すぐに都子の気持ちが伝わると思ったが、その問題児の男の子は、子どもなのに素直さがなかったのだ。都子は、人間としてこれから生き抜くにあたって、どんなことにおいても優先順位があり、特にそれらに優先順位をつける必要でない時は、平等に順番を守ることを教えてあげないと、この男の子が損をしてしまう為に、根気よく教える事にしたのだ。
 その日の夜は、幼稚園で相当疲れたようで、都子は芳樹よりも早く寝てしまった。この男の子の話を聞いていなかった真紀子は「もう、都子寝たの?」と言い、びっくりしていた。正樹が、都子から聞いた話をすると「お姉ちゃん、芳くんのことが可愛いと言ってくれたんだ」と芳樹が割って入り、真紀子の膝に乗ってきた。それから「芳くんお姉ちゃんの事大好き」と言い、真紀子の膝の上でそのまま眠ってしまった。真紀子は芳樹を抱き、寝室へ連れていき、布団の上で寝かせた。真紀子は、都子の成長を誇らしげに思っていた。
 翌朝、都子は昨夜早く寝すぎた為に、早く起きてしまった。リビングの窓から見える雪の下を見ていた。雪の下は以前、都子の傷を治してくれた。しかし、そんな身体の傷だけでなく、都子の心の傷も癒してくれているように感じていた。雪の下の力は、どんなものであっても治してくれる万能薬なのだと確信した。その万能薬の効力を拝借した都子は、お世話係として、わかりやすい比喩表現を用いながら根気よく男の子に接することにした。今日一日では、わかって貰えなかったが、少しずつ耳を傾けてくれるようになり、数日後には、本当のお姉ちゃんのように慕われるようになっていた。都子は、人間の心は捨てたものではなく、この頑張りをきっと神様が見てくれているから都子の願いが叶ったのだと思っていた。
 それから次の週末を迎えた。週末といえば、住宅メーカーに行く日。都子たちは、朝から約束の時間に合わせて準備をしていた。都子は、夢部屋の絵を描いていた。都子の部屋の絵となるが、その他にも玄関先の絵を描いていたのだ。その玄関先には、勿論シヅ子の雪の下も描かれていた。すでに、準備が終わってしまった都子は、キッチンとリビングの絵も描きだしていた。よく見ると間取りらしくなってきた絵に、色まで付け始めていた。理想の間取りをあみ出した都子は、それを見て一人満足げであった。真紀子の身支度をみんなで待っていた時「ママ、まだ?」と芳樹が言ってくれた。みんなもこの言葉を言いたかったが、急かす事になる言葉を掛ける勇気がなかったのだ。こんな恐ろしい言葉を掛けられるのは、芳樹しかいないのだ。絶好のタイミングでの言葉に、陰ながら芳樹を褒めていた正樹と都子がいたのだ。やっと準備が整った真紀子が「今から出るよ」とみんなに声を掛けた。待ちあぐんでいた正樹たちは、すでに車に乗り込んでいた。自分だけ取り残されている事に気付いた真紀子は、急いで家の鍵を締めて車に飛び乗った。その車内で初めて真紀子は、都子の描いた絵を目にしたのだった。子どもが描いた間取りに、真剣に物申してきたのだ。「キッチン周りは私が決める」と怖い顔で言ってきたのだ。「ただこれはあくまで、都子の理想を絵にしただけ」だと、正樹が柔らかい言葉で介入した。常に子どもの意見を尊重する正樹の性格を知り尽くしている真紀子は、この間取りにされてしまうと勝手に思い込んでしまったのだ。まだ年長である都子に対して、ムキになっていたのだった。あまりにも大人げない言動に、真紀子は「いつも都子中心にするから」と正樹に逆切れしていた。このやり取りを見ていた都子は、素直に謝らない真紀子に対して、人間の醜い心を垣間見れたようで、大人になる事が少し怖くなっていった。だからといって、正樹のように心の変わらない大人だって存在している事は確かであった。しかし、例え大人であっても、真紀子のように自分の間違った考えでさえも否定するだけでなく、肯定しようとする考え方が、なお、都子が怖いと思った瞬間でもあったのだ。
 車内で、重たい空気が流れた時もあったが、正樹が目前にして最寄りのコンビニに立ち寄ったのだ。一旦車を停めた正樹は「アイスクリームでも食べようか」と言い、車からみんなを降ろした。「この後、頭を悩ませる難題が待ち構えているから、甘いものを食べたくなった」と笑いながら正樹が言った。その笑顔を見た真紀子は「ごめんね」と謝ってきたのだ。あまりゆっくり食べる時間のない正樹は、急いで頬張り車を運転し始めたのだ。その間車内では、子どもたちがゆっくり美味しそうにアイスクリームを食べていた。その様子に真紀子は「はよ食べや溶けるで」と急かしていた。こうして、タイミング良く心の雪解けが図れた正樹は、気を良くして目的地まで運転する事ができたのだ。この一家の到着を待っていた営業担当者は、笑顔で迎えてくれ、例の揉め事の本題へと突入していったのだ。そんな事を知らないこの担当者の田中は、自分の力作の間取りを用意していたのだ。
 この土地には、この間取りというオーソドックスな間取りであった。真紀子は、頭の中で巡らせていた間取りがあったようで、この田中の間取りを却下した。田中の用意した間取りの図案がまるで木っ端微塵にされたようでもあったのだ。溶けかけた氷であったはずなのだが、一瞬にして張りつめた空気に変わっていったのが、都子にもわかったほどであった。明らかに、田中の目が正樹に助けを呼んでいるのがわかった。この緊迫した空気の中で、今度は都子が「これ、私が描いたの」と言って田中に見せた。田中はすぐに、玄関周りの雪の下を見つけてくれた。その眼力に期待したい都子は、自分の理想の家を話し始めた。その思いを汲み取った田中は「もう一度、一から間取り考えますね」と言ってくれた。勿論、真紀子の理想の間取りも頭に入れた田中は、我が家に相応しい間取りを考え、後日改めて提案してくれたのだ。その田中が提案する間取りからは、彼の温かさが加わり真紀子を説得できるものであった。彼の頑張りを無駄に出来ないと感じた正樹は「真紀子の理想の間取りが出来たよ」と意気揚々と言葉を発した。「これでいいけど」とあっさり真紀子は了承したのだ。
 すでに、全身の力が抜けていた田中は「ありがとうございます」と一礼したのだ。この後、新居にかかる見積もりが大まかにでてきた。現在の見積もり額を超えないように正樹は、田中が提案してくれている家の四種の神器とも言えるシステムキッチン・システムバス・トイレ・洗面化粧台をどのグレードにしようかと思い悩んでいたら、真紀子から「もう、決まってるで!」と正樹が悩む前に言ってきたのだ。勿論、これらの商品は、金額を出せば出すほど便利機能も充実していた。しかし、限られた予算の中で、満足を得たい想いの強かった正樹は、真紀子の気持ちを聞く余裕のないまま、真紀子からいきなり告げられたのだ。理想をどこまでも叶えたい真紀子の答えは、聞くまでもなく最高のグレードのものであった。「こんな機会ないんやし、見た目も中身もええもんがいいわ」と返ってきたのだ。「そりゃ、ええもんわええに決まってるやろ」と思わずムキになり、売り言葉に買い言葉ほどではないが、いつもの冷静さを失くした正樹が突っ立って言った言葉だった。この二人の会話に田中が介入して「その『ええもん』のよさを教えたる」と言ってきたのだ。
 今まで、取って付けたような標準語を使っていた田中が、ここにきて関西弁丸出しに言ってきた。もしや、これも田中の作戦なのか?なんて、頭を巡らせた正樹だったが、その田中の作戦とやらを聞きたくなったのだ。田中はこう見えて、引く事を知っていた。引ける男だったから、正樹は信頼出来たのだ。しかし、今、ここでの田中は、引きではなく押してきていた。さすが営業マンと思わすにはいられなかった。こんなところで感心している場合ではなかったが、正樹も田中のしゃべりが聞きたくなってしまったのだ。そんな時、都子が先に「田中さん聞かせて」と思った素直な言葉を口にしていたのだ。一瞬にして、みんなの視線が田中へと向けられて、少し照れながら田中は話し始めたのだった。田中の熱弁に真紀子はすっかり洗脳されてしまったかのように「やっぱりええもんがいいわ」と念押してきたのだ。
 正樹も満更でもない顔をしていたその時だった。その顔を見た都子は「お金大丈夫なん?」と正樹に『我に返れ』と言わんばかりの冷静な言葉を、ここで口にしてくれたのだ。正樹はこの言葉にハッと気が付いたが「その熱弁プランの見積もりをして」と田中に言ったのだ。その答えに真紀子の顔がほころび「ありがとう」と正樹に伝えた。「なんでありがとうなの?」とまだ寝むそうに芳樹が言った。実は、この田中の熱弁中、眠たくなった芳樹は熟睡していたのだ。全く何の会話もわからない状況での『ありがとう』の言葉に違和感を覚えた芳樹が、寝ぼけ眼のまま発しただけだった。その違和感とは、真紀子が素直に『ありがとう』という感謝の言葉を通常言わない事を芳樹が知っていたからであった。この事に気付いた正樹は「芳くんありがとう」と言った。「なんでありがとうなの?」と再び同じ会話が繰り返されそうになった時、正樹が「大きくなってくれてありがとう」と芳樹に言い換えたのだ。「芳くん大きくなったよ」と自慢げに言った。こんな日常会話を目にした田中は「それでは、ご期待に添えるような家に田中が致します」と一礼して、車に乗り込んだ都子たちを見送ってくれていた。
 この早い段階で、大まかなプランが整ってきた新居計画に、正樹と真紀子の気持ちがやっと合致してきたのだ。結婚して以来、揉め事の度にお互いの歩み寄りは、もっぱら正樹の方からしてきたが、出産を機に弱めることなく、ますます強くなってきていた真紀子が、ここにきて変わってくれたのだ。この有り難い真紀子の気持ちの変化に感謝し、この計画をこのタイムングで出来た事にも感謝する正樹であった。この日以降、新居の完成が年度末という事もあり、田中との打ち合わせの回数が減っていった。
 特に予定のない夏休みが近づき、家族みんなで天橋立に行く事になった。勿論、お泊りするのは、シヅ子の家であった。今までも、高額な旅行をしてこなかったが、新居計画の真っ只中。財布の紐を緩める訳にはいかなかったのだ。そのことを知っている都子は「おばあちゃんに会えるの楽しみやわ」と言ってくれていた。折角なので、正樹が水着だけでも新調しようと思ったが「去年の着れるからええわ!」と都子が言った。
 これから、減る事無く教育費がかかっていく事を知っているかのように、都子は遠慮したのだった。これ以上都子に気を遣わせないようにしたいと思った正樹は、都子にお小遣いを渡す事にしたのだ。このお小遣いのネーミングを『都子式プラス志向』と正樹が名付けた。まず月額の小遣いの金額三百円を月初に渡し、この金額にお手伝いをした分上乗せする事にしたのだ。どんなに小さいお手伝いをしても、一回十円加算することにした。都子は、初めてのお小遣いを楽しみにしていた。早速、七月から始める事にした。真紀子が財務大臣をしているが、こ了承を得られたのだ。 
 翌朝、都子にお小遣いを三百二十円渡した。この加算の二十円だが、昨夜正樹が帰ってきた時に、靴を揃えてくれたからと芳樹に絵本を読んでくれたからであった。加算金があったことに驚いていた都子は、お小遣いを貯めて新居に必要なものを買いたいと言っていた。この事を公にしていなかったが、お小遣いの存在を芳樹に知られてしまった。当然、話しすらしていなかった芳樹にはなかった。「お姉ちゃんだけずるい」と芳樹が言ってきた。
 芳樹の気持ちもわかったので、芳樹には『芳樹式プラス志向』という渡し方をする事にした。今までお小遣いのなかった都子と同じく、月額をなくしお手伝いをした分渡す事にした。芳樹は、加算金をお小遣いだと思っていた為、都子にお小遣いを渡しだした年長までは月額のお小遣いを渡さない事にしたのだ。芳樹の場合、お小遣いではなく所謂『お駄賃』であった。それでも芳樹は嬉しいようで「お小遣いが増えるの楽しみ」と言ってくれていた。都子は、玄関先に置いてある鉢植えの雪の下に水やりをしていた。勿論、これもお手伝いになるので、加算金の対象となった。都子は、この雪の下に関して「加算金はいらない」と言っていたが、こんなに大事に思ってくれている我が子を見ていると渡さずにはいられなかった。正樹は、都子のおかげで雪の下にも愛情を持つようになっていたのだ。人の心を変えてくれた都子同様に、雪の下愛を持つ男になった正樹であった。
 夏期休暇を利用し正樹たちは、シヅ子の家に行く当日の朝に、雪の下の鉢植えを車に乗せた。それから、真紀子を待って出発した。当初、雪の下は置いていこうと思っていが、都子がシヅ子に見せたいと言い、持っていく事になった。正樹の運転する車はスムーズに走り、昼前にはシヅ子の家に着いた。都子は車から降りて、真っ先に雪の下を手に取りシヅ子の家の玄関先に置いた。それからいつもの元気な声で「おばあちゃんきたよ」と言った。車の音で気付いていたシヅ子だったが、毎回この都子の威勢のいい声が聞きたくて、車の音に気付いてもまだ部屋の中で構えていたのだ。「おばあちゃん雪の下持ってきたで」と都子が言った。「水もあげなあかんし、いろいろ考えたけど見せたいのもあって持ってきたわ」と都子は自分の気持ちをそのままに、シヅ子に伝えていたのだ。
 早速、正樹は土産を渡し、真紀子と共に部屋に入った。正樹は、新居の話や子どもたちのお小遣いの話しをしていた。間もなく昼食をいただきにヨシ子の家に向かう時間となり、みんなで正樹の運転する車に乗った。その車内では、芳樹のおしゃべりが炸裂していた。シヅ子の家に向かっている道中、しっかりと睡眠をとっていた芳樹は、その車内では寝息以外の音は立てずいつもよりかなり静かにお利口にしていたのだ。その分を発散させるかのように、いきなり爆発した。この筋書きのない話には、天才なのかと思うくらい語尾なく、エンドレスに話しを続けていた。この終わらない話しには、勿論内容すらないが、主文すらないのだ。
 ただ、芳樹がこれだけの言葉を知っている事と、おしゃべりである事それから、都子だけでなく芳樹もいるよという存在自体をアピールしたかったに違いないのだ。芳樹は、ヨシ子の家に着いても、そのおしゃべりに花が枯れる事無く咲き続いていたのだ。そんな芳樹の成長を見ていたシヅ子は、幼い頃の真紀子にそっくりだと呟いた。その頃の事を知っていたヨシ子も「まぁほんに」と相槌を打っていた。そのヨシ子が、作ってくれたのが、海鮮冷やし中華だった。それを見ると、海の幸がふんだんに散りばめられていた。美味しくいただいた後に、シヅ子の作った冷え冷えのスイカが登場した。このヨシ子の家には、大きな冷凍庫があったので、すいかはその中で短時間眠っていたらしかった。その為、ギンギンに冷えたすいかが出来上がったのだ。少しシャリシャリ感の残るすいかに満足した都子は、
新居では家庭用冷凍庫が必須であるかのように話しをまとめてきた。勝手にまとめられてしまったが、保存のきく冷凍庫は、買い物をする頻度を減らせるだけでなく、大きな食材でもたっぷりと入る優れ物には違いない。
 この案に反対していない正樹は、大型冷蔵庫の他に家庭用冷凍庫を置くスペースを例の間取りから確保したいと思ったのだった。勿論、買い物全般真紀子の担当である為に、負担が軽減されるものを導入する案に異論はなかった。こうしてこの夏に家庭用冷凍庫の設置が決まり、例の間取りのどこかのスペースに配置を決める事が新たな悩みのタネとなった。ここにきて、新たなお題を都子に与えられた正樹は「このポイントは大きいから」と真紀子にまで言われ、かなりの圧力を一人で背負う事となった。これも今後の幸せの為と思った正樹は、家庭用冷凍庫のサイズなどをネットでアクセスし、齷齪していた。折角の夏期休暇であったが、精神的な安らぎを求められなくなり、更に追い込まれる事になっていった。
 心に休暇を与えられなかった正樹は、夏期休暇を終え、出社をしていた。昨夜、無事に自宅までシヅ子の家から帰ってきた正樹であったが、全く道中運転していた記憶がなかったのだ。こんな状態で始まった仕事であったが、正樹にとって家庭よりも安らぎを感じている職場でやっと我を取り戻した。職場に逃げ込めた事で英気を養った正樹は、例の配置の件で田中に相談する事にしたのだ。田中のアドバイスは、キッチンにパントリー収納を作る事になっていた為、その収納の中に家庭用冷凍庫を収めればいいのではということであった。それを稼働させる為のコンセントをその中に取り付ける事を提案された。自宅に戻った正樹は、田中の提案を真紀子に話した。真紀子は、その提案に賛同し、具体的なイメージがそのエリアに広がっていった。田中のおかげで、都子の理想とするキッチンに家庭用冷凍庫の配置が決まった。こうして理想の新居のイメージが順調に出来上がっていった。
 季節が秋を迎えようとした頃、地鎮祭が行われた。そこにお供えする野菜をシヅ子が送ってくれた。シヅ子もこの日を楽しみにしてくれており、形のよいものを選りすぐり送ってくれたのだ。いつもよりも立派に見える野菜たちそしてシヅ子に感謝した。改めて思ったが、たくさんの実りが送られるのも楽しみであった。この実りのシーズンは、毎日のようにシヅ子が山に出掛けていた。勿論、自分の畑で出来た定番のサツマイモも送ってくれていた。そのサツマイモは、あまり蒸されたり焼かれたりする事はなく、真紀子食堂ではほとんど天ぷらにされていたのだ。その時の天ぷらの主役はサツマイモであり、他の具材は玉葱やにんじんやかぼちゃといった野菜たちであった。しかしこの年から、雪の下も天ぷらにされる事になった。この日を『雪の下・野菜天ぷらの日』と家族間で呼んでいた。このサツマイモ以外のものをシヅ子は、せっせと山まで足を運んでくれていたのだ。目指すはこの時期、高級食材が実るアカマツの木。そこに辿り着くまでに栗の木もあり。栗拾いをしながら最大の目的のマツタケを探すのだった。シヅ子曰く「雨上がりの朝方に、お目当てのマツタケは、いつもよりたくさん顔を出す」と言っていた。この秋のシーズンには都子たちは行けなかったが、こんな足場の悪い所に行ってまでも、マツタケを採り送ってくれているシヅ子の思いが嬉しかった。シヅ子は都子たちの新居の進捗状況を、毎回電話で確認してきた。時々シヅ子に、その状況を知らせる写真を送ったりしていた。実は新居には、シヅ子の部屋も作られる事になっていた。いつでもシヅ子が、遊びに来られるようにしていたのだ。
 そんな時、真紀子が春から働くことが決まった。勿論、芳樹が幼稚園に行っている間だけであった。新居を建てるにあたり、住宅ローンを組む事になった我が家の家計が圧迫しないように、少しでも手助けになりたいと真紀子から言いだしたことであった。その事に関して、不安を覚えたのは、正樹であった。真紀子が仕事をしだして、今よりも忙しくなる事で、家事ができなくなり、その矛先が正樹に向く事を恐れていたのだ。しかし、都子がその事に気付いたのか「都子がお手伝い頑張ってするよ」と言ってきたのだ。その言葉を聞いた正樹は「出来るだけ手伝うようにするよ」と真紀子に言った。そして都子には「ありがとう」と感謝した。その会話を聞いていた芳樹が「芳くんも手伝うよ」と言った。それから真紀子に向かって「お小遣い貯めてママにあげるんだ」と芳樹が嬉しそうに言った。この子どもたちの気持ちが嬉しくなった正樹は、今までよりも家のことを手伝いたいと自ら思えたのだった。
この後本格的な寒さがやってきた。家作りは佳境に入り、システムキッチンなどの搬入が終わり、いよいよ設置となった。自分たちが選んだ商品が運ばれ、ラッピングされていたパーツの日の目を迎えた。たくさんのパーツたちは、素早く組み立てられ、あっという間にキッチンが出来た。週末になると、家の大工工事の様子を、家族で見に行っていた。だんだん理想の家に出来上がっていく、この工程を見る事を楽しみにしていた芳樹が「大工さんになりたい」と言いだしていた。何もないところから始まった工事であったが、この後壁紙が貼られる事となった。白っぽい壁紙は、家をより広く見せる演出をしてくれた。最後の工程である新居の和室に、畳が入れられたのだ。い草の匂いが漂い家の柔らかさが出てきたように感じた正樹は、都子に「これがパパの大好きない草の香りだよ」と教えていた。落ち着くこの香りに救われた正樹に「い草は雪の下と同じ万能薬なんだね」と都子が言った。万能薬が収められた新居は、三月の上旬に完成を迎えた。
 新居の引っ越しの前に、都子は新しい花壇に雪の下を植え替えた。この雪の下の万能薬のおかげで、強く生きていく自信が湧いてきた。どんな事があろうとも、都子は正しい事を曲げずに生きていきたいと思っていた。それには、この万能薬を調和薬とし、いずれ和解となった暁には、氷を溶かしてくれる融解剤となってくれる事を期待していたのだ。この雪の下のように、都子は縁の下で支える決意を固めていた。
時を同じくして、シヅ子の玄関先にも、いつもと変わらない雪の下が花をつけていた。
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