蓮華

鎌目 秋摩

文字の大きさ
上 下
488 / 675
動きだす刻

第77話 潜む者たち ~梁瀬 5~

しおりを挟む
 梁瀬も岩場の陰からハンスの指した方角へ単眼鏡を向けた。
 静かだった周辺に、突然、人の気配が漂ってきた。
 使い慣れない単眼鏡でなにもない土地をぐるりと見渡す。

「……なにかいるな」

「うん。人……かな」

 徳丸と同じものを見ていた。
 ただ、単眼鏡を使っても遠くてそれがなんなのかを確認できない。
 男が振り返り、倍率の上げ方を教えてくれた。
 梁瀬も徳丸も言われたとおりに操作していると、人の気配が一気に広がり、大きな音が響き渡ってきた。

「馬鹿者! 早くせんか!」

 ハンスに急かされ、あわてて単眼鏡を手にさっきの人影を探す。
 そのあいだに視界に飛び込んできたのは、ヘイトと庸儀の混じった大部隊だった。
 それはどうやら、ロマジェリカ城へ向かっているようだ。
 視線を巡らせてみても城の動きはまだない。

「梁瀬!」

 徳丸に呼ばれ、最初に見た辺りまで視線を戻した。

「……あれは!」

「間違いない。麻乃だ」

 数万の兵が進軍している先に、ぽつんと一人だけ立ち尽くしている。
 単眼鏡の倍率を最大まで上げたお陰で、その表情まで見て取れた。

 無表情のままの麻乃は視線を足もとに落としている。
 フードが外れて現れた髪は、これまでに見たことがないほどに紅い。
 ほとんど正面と言っていい位置だったおかげで、瞳の色までしっかりと見えた。

「やっぱり……麻乃さんはもう覚醒している」

「あんな場所じゃあ、軍勢に飲み込まれちまうぞ!」

 片手で単眼鏡を覗き込んだまま、徳丸は空いた手で梁瀬の腕を掴んできた。
 助けに行こうにも、この場所からではどんなに急いだところで間に合わない。

 それに……。

 こんなところまで連れられてきて、みせられたのが麻乃だという意味を、梁瀬は考えていた。
 視線を麻乃に向けたまま身動きできずにいるのは、梁瀬だけではなく徳丸も同じようで、口調に焦りを感じても動く気配がない。

 スッと麻乃が腰を沈め、刀に手をかけた。
 広がる軍勢が麻乃を飲み込んだ次の瞬間、麻乃の周辺の騎馬兵が崩れるように倒れていった。
 砂埃の立ち上る中でも、そこに麻乃がいることがわかるのは、その髪の色のせいだろうか。

「なんなんだ……あいつのあの動きは……」

 徳丸が呟く。
 麻乃は進軍を止めない兵のあいだを掻い潜り、攻撃さえもたやすく避けて確実に相手を仕留めている。

 時折、兵の剣が麻乃をかすめても、裂かれるのは衣服だけで傷一つ負っていない。
 黒い刀身が振るわれるたびに、その足もとに兵が転がった。
 気がつけば、いつの間にかロマジェリカの軍も出兵していて、戦場は混乱を極めていた。

「そろそろ潮時だろう」

 隣でハンスが呟いた数秒後、空が赤く染まった。

「あれは……閃光弾? 撤退の合図か?」

「……うん。多分そうだろうね」

 梁瀬の腕を握る徳丸の手に更に力がこもった。
 一瞬、梁瀬はその手に視線を向けてから、徳丸の顔を見上げた。

「トクさん?」

「……気づいていやがる」

「えっ?」

 梁瀬はもう一度、麻乃のほうへと視線を戻した。
 紅い瞳がレンズ越しに梁瀬を見つめ、そのあとハッとしたように麻乃は他へと視線を移した。
 なにが気になったのだろうか。
 麻乃の表情はきつい。

「さぁ、もういいだろう。いつまでもこんな場所にいては危ない」

 呆然と立ち尽くしていた梁瀬と徳丸は、ハンスに優しく背を押され、車へと戻った。
 帰りも来たときと同様、誰もなにも話さない。
 クロムの家がある森が見えてきたあたりで、梁瀬は思いきってハンスに問いかけてみた。

「ハンスさん……今日のあれは一体なんなんですか? どうしてあなたがあんな場所で……」

 助手席に身を寄せた梁瀬を、ハンスは振り返らずにミラーで見返してきた。
 徳丸もショックを隠せないままでいながらも話しにしっかり耳を傾けている。

「ワシの孫がヘイトの軍に属していたと言ったろう?」

「はい」

「今日、あの場所でロマジェリカへ進軍すると情報が入った。ロマジェリカには最近、どうやら伝承を継ぐものが現れたと聞いていたからな」

「伝承……」

「今日、連れ出すのが梁瀬だとは思わなかったけれど、おまえたちは今日の出来事を見ておくべきだと思ったから連れ出したまでよ」

 伝承というのは泉翔で母に見せられたそれだ。
 ハンスの言う継ぐものというのが麻乃だということはわかった。
 ということは、伝承の紅き華は、やっぱり麻乃だったんだ。

 たった今見てきた麻乃の姿はこれまでとまるで違う。
 姿も動きも。
 数万いた軍勢の、恐らくは三分の一ほどを倒してしまった。
 そのことが、梁瀬と徳丸には大きな衝撃だった。
しおりを挟む

処理中です...