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実験を終えて研究室に戻った時、町田は椅子と自分が一体化してしまったのではないかと思った。
いつも腰の支えにしているクッションを胸に抱き、机に突っ伏す。結局、昨晩帰って眠りにつけたのは二時近くになってからだった。
重い疲労が全身にまとわりついている。
身支度を整えて家路につくのが酷く億劫だ。このまま研究室に泊まってしまおうかと机の下にある寝袋に視線を向ける。そんな事をしても疲労が蓄積するだけだと浅はかな考えは却下する。
往生際悪く身じろぎすると、何かに腕が当たって積み上げた論文が崩れる音がした。深くため息を吐く。
扉の開く音に視線を動かした。入ってきたのは、院生の吉川だった。彼は同じ研究室に所属している先輩で、何かと良くしてくれている。彼は奇抜なところのない、誰でも親しみやすい穏やかな風貌をした人だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ。なんか本当に疲れた顔をしてるね」
彼はこういう事によく気が付いた。
「昨日寝たのが遅くて」
「何かあった?」
「課題が終わらなくて」
実際は大岡について考えていた時間の方が長いのだが、彼の事を言うには説明が難しかった。それに、町田自身どうしてあんなにも大岡の事が頭から離れないのか分からない。
吉川が「そうなんだ」と相槌を打つ。
「大変だったね」
「量は大したことなかったんですけど、なかなかはかどらなくて」
肩をすくめる。実のところ課題は十五分もあれば終わった。
「無理はしないようにね。睡眠不足は脳にも心臓にも悪いよ」
「吉川先輩こそ、まだバイトしてるんですよね?」
吉川は薬学部の学生にしては珍しく修士二年生になってもアルバイトをしていた。薬学部は研究や実習で時間の融通が利かないため、学部一年か遅くても二年の頃には辞める学生が多い。
詳しく聞いた事はないが、彼は夜勤の接客業をしているらしかった。
「俺は大丈夫だよ。夜勤だけど早上がりさせてもらってるし、昨日も休みだったしね」
「いいバイト先ですね」
「まぁ、ね」
断言はしかねるような言い方だった。それでも肯定して曖昧に笑う。
「疲れてるなら早く帰った方がいいよ。もう授業はないんでしょ?」
「そうします」
いつまでもここで時間を潰していても仕方がない。町田は腹の前で両手を組み合わせ、腕を伸ばした。肩甲骨の辺りが凝り固まって張っているのが分かる。
今日こそは湯船に浸かろうと決意して、浴槽用の洗剤が切れていたのを思い出した。
* * *
おかえり、その言葉を聞くのはどれくらいぶりだろうか。上京して以来だから、四年か。
自宅の前でニコニコと笑みを浮かべる大岡に困惑を隠せない。ダークスーツの青年が家の前で待ち受けているのは、まるで借金の取り立てか何かにあっているかのようだった。
町田が近づくと隣家のポーチライトがぼんやりと灯る。暗い光が二人の影を不鮮明に床へ落とした。
「どうしてここに……?」
「慧が会いに来てくれそうにないから俺が来ちゃった」
「家を教えた覚えはないですけど」
「調べたんだよ」
「調べたって……どうやって」
「ヒミツ」
これ以上問い詰めるべきではない、そう思った。彼と関わってしまった数週間前の自分が恨めしい。どうやら大岡はとんでもない相手であったらしい。
「俺と会いたくなかった?」
「いや……」
「嘘つかなくていいよ。ねぇ、何が嫌だった? もしかして、慧ってタチ?」
「そういう問題じゃないです」
「あー、なるほど。慧はセックスは好きな相手とって考えの人なんだ」
的確に表現された言葉はとても女々しく聞こえた。しかし、それは正しい道徳観で、恥じる事は何もない。つまらない奴だと笑われる事には慣れていた。
この発言には恐らくアルファとベータの性質の違いも関係している。アルファやオメガは性欲が強く、不特定多数との性交渉に抵抗が少ない。一方でベータは性欲が薄く、恋人や配偶者との性交渉を好むとの研究結果があった。
「その通りです」
「そっかぁ」
予想に反して、大岡は町田を笑いはしなかった。代わりに困ったように視線を彷徨わせ、頭を掻く。右へ流したオールバックが少し乱れた。
「どうしたら慧と仲良くなれる?」
「僕と?」
「そう」
「……どうして」
「いい匂いがするから」
鋭利な目が町田の視線を捉える。己の意思を押し通そうとする時のアルファ特有の目をしていた。フェロモンが強まり空気が皮膚にまとわりつく。アルファフェロモンには慣れているつもりだったが、ここまで強い緊迫感を感じるのは初めてだ。
「落ちついて下さい」
「落ち着いてるよ」
「なら、僕に言う事を聞かせてやろうとするのはやめて下さい」
「じゃあ、どうしたらいい?」
突き放すような口調にも大岡は怯まない。むしろ距離を詰めて迫ってきた。近寄られた分だけ後ずさり、再び同じだけの距離を取る。
「たしかにこの前は助けてもらいました。でもいきなり押しかけられるのは困ります」
「もしかして怒ってる? ごめんね? でもその顔も好きだよ」
話の通じなさにぞっとしない。家の特定など彼にとってはなんでもない事らしかった。
「僕はあなたと関わる気はありません」
「今日は冷たいね」
つつ、と大岡の指に頬を撫でられる。それだけで体が痺れるような感覚がして動くことができなくなった。
「じゃあさ、セックスが駄目なら友達になろうよ」
「友達?」
彼がなにを言い出したのか分からなかった。困惑した町田を置いて大岡は続ける。
「そ。友達。それなら?」
「僕とあなたはそんな間柄じゃないでしょう」
「だからこれからそうなろうよ。ね、慧」
一歩下がった大岡が握手を求めるように右手を差し出す。先ほどまでの緊迫感から一転、蠱惑的なフェロモンが辺りに漂った。こんなにもフェロモンにあてられる経験は初めてで脳の働きが鈍る。
しばしの沈黙の後に、町田は大岡の手を取っていた。そうしなければならない気がしたのだ。握手だなんておかしな感じがする。
もうすぐ冬だというのに彼の手は暖かく、肌に染み込んでくるかのようだった。
* * *
友人になるにあたり、町田は大岡とある約束を交わした。会うのは木曜日の十九時、待ち合わせは駅前のオブジェの前で、というものだった。何も条件をつけずに友人になってしまえば彼の思う壺のような気がしたのだ。
木曜日を指定したのはその日は唯一授業がなく、研究や実験をしていても他の曜日よりも比較的早く帰宅する事ができるからだった。授業のある日は実験が長引く事もあり、帰る時間を決める事が難しい。
今日は彼と会うようになって三回目の木曜日だった。約束通り駅前へ向かって歩いてゆく。閑散としていた道は駅に近づくにつれてだんだんと人気を増した。
大して親しくもない男二人が会ってする事と言えば食事くらいのもので、約束の場所で落ち合っては外食をするのが恒例になっていた。自分と食事をして何が楽しいのか分からないが、今のところ大岡は欠かさずやって来ている。
目印のオブジェの傍らに彼の姿が見えた。白と黒ばかりの人ごみの中であの金髪は一際目立つ。
いち早く町田に気が付いた大岡が飛び跳ねん勢いで手を振った。
町田は遅刻こそしないものの、到着時間には余裕を持たないタイプだった。早く着いてしまった時の手持無沙汰な時間が苦手なのだ。本を読んで中途半端に終わるのも嫌だし、スマートフォンを弄っているのもつまらない。
そのため、大岡と待ち合わせた三回とも彼より後に到着していた。
「おまたせ」
「慧のためなら何時間でも待つよ」
笑いながら、しかし真剣な声で大岡が言う。まるでどこかの忠犬だと町田は少し失礼な事を思った。
「慧、何か食べたいものはある?」
「いや、これといってないけど……君は?」
「俺は慧のおすすめが食べたいな」
「おすすめ……たまに行く店ならいくつかあるけど……嫌いなものは?」
「特にないよ。あ、でも店とは近くない所がいいな。知り合いに会いたくないからさ」
「なら蕎麦屋にしよう」
駅前の大通りを東へと進んだところに時折行く蕎麦屋があった。大学とも適度に離れていて、自身としても丁度いい。学校の近くに住むのは概ね便利だが、知り合いとの遭遇率が高いという点では不便だった。
二人は並んで大通りの方へと歩き始める。
大人しそうな町田とやんちゃそうな大岡の組み合せは異質で、周囲とは明らかに浮いていた。親密という訳ではなく、かといって見ず知らずという訳でもない、中途半端な距離感も馴染まない要因の一つだろう。
町田が案内した蕎麦屋は路地裏にある雑居ビルの一階のくたびれた店だった。駅からある程度離れているためいつも空いていて、大学の人間と会った事もない。
町田は天ぷら蕎麦を、大岡は親子丼と冷たい山かけ蕎麦をそれぞれ注文した。
「そういえば慧って何を勉強してるの?」
「僕は創薬学だよ」
「そうやく?」
「簡単に言えば薬を作ったり、調べたりする学問」
「そうなんだ。そういえば、うちの店にも薬の研究してるって奴がいるっけ」
「大学生?」
「多分ね」
大岡の返事はそっけない。町田が自分以外の人間に興味を持った事が面白くないらしかった。
「趣味はあるの?」
話が百八十度転換する。
大岡は何かと町田の事を知りたがった。
「趣味は、これといったものはないけど、調べものは好きかな」
「ネットサーフィン?」
「いや、図書館で」
「本かぁ。慧って頭いいんだね」
「僕なんか平凡だよ。本を読んだって分からない事が増えるばかりだしね。読んだって分からない事もある」
「分からないのに読むの?」
「分からないから読むんだよ」
「変わってるね」
言われ慣れない言葉に町田はどんな顔をすればいいのか分からなかった。今までの人生で変わっているなどと言われた事はない。
困惑していると大岡は「その顔、かわいい」と満足げに笑みを浮かべた。その意味も分からなくてますます困る。かわいいとは如何なる意味であったか、自分の中の定義が揺らいだ。
「ねぇ、慧の事もっと教えて?」
「教える程の情報なんて何もないよ」
「あるよ、いっぱい。誕生日は? 歳は? 好きな食べ物は? ね? 教えてよ」
「そんなの……知ってどうするの? 暗証番号でも抜き取られるの?」
「それもできるかもだけど、違うよ。慧を知りたいだけ。それに、そんなパクられるような間抜けな真似、俺はしないよ」
屈託のない言葉に気まずさを感じる。
理屈も下心もなく相手の事を知りたいと思う気持ちは町田にも分かる。しかし、どうしてそれが自分に向くのか、理解できなかった。平凡なベータである自分に強いアルファである彼が執着する気が知れない。物珍しがられているのだろうか。彼とは対極にある、あまりに平凡なベータというものを。それが好意と似ていて、彼も自分も勘違いをしている。
そう思うのに絆されそうになる自分が恨めしかった。深入りして傷つくのはもうごめんだというのに、ままならない。
たった一人の肉親に置いて行かれた時に強く思ったのだ。二度とこんな思いはしまいと。
自分から興味を逸らそうと逆に大岡のことを訪ねてみる。
「僕の事が知りたいなら、まず君の事を教えてよ」
「俺? いいよ。俺はね、五月二十二日生まれ、二十一歳、血液型はAB型、身長は百八十センチ、好きな肉の部位はミスジだよ。仕事は黒服。たまに借金の取り立てとか」
「待って待って。よく知りもしない相手にそんな簡単に話しちゃ駄目だよ」
「今から知るから大丈夫だよ。慧」
大岡がねだるように「ねぇ」と首を傾げる。言外に次は君が教える番だよと言われているのが分かって、逃げ道を塞がれたと気づく。そんなものは元から用意などされていなかったのかもしれないが、今となっては分からない。
「誕生日は、二月十七日。歳は二十三。好きな食べ物は、なんだろうな……サンドイッチとかかな。これで満足した?」
「誕生日二月なんだ。三か月後だね。何か欲しい物ある?」
「いや。ないよ」
「時計とか、財布は? 現金でも俺はいいよ」
「もう誕生日を喜ぶような歳でもないし」
「どうして?」
物をもらうほどの仲ではないと言っていいものか悩んで、やめた。
「申し訳ないから」
「申し訳ない? 俺がプレゼントしたいのに?」
「気持ちだけで十分だよ」
「何か」
話を遮るように蕎麦が運ばれてきた。
町田の前に天ぷら蕎麦が、大岡の前には山かけ蕎麦が置かれる。飯物はできあがるのに少し余計に時間がかかるようだった。
「本当に欲しいものないの?」
まだその話をするのかと町田はややうんざりした。
一方でそこまでして知りたいのなら適当に教えてやろうかとも思い始める。
「どうしてそんなにこだわるの?」
「記念日は大切にしなきゃでしょ? 特に慧が生まれた日なんだから」
大岡の目がじっと町田を見つめる。これは言わねば解放されそうにない。
「強いて言えば、黒のゲルボールペンが欲しいかな。使いやすいやつがあるんだけど、切れそうで」
あまりに大したことのない物に大岡が唇を尖らせた。その子供じみた仕草に町田は失笑する。
プレゼントで喜ばせたいという幼さと合わさって、妙な愛しさが込み上げてきた。心臓の奥がそわそわとして、なんだか落ち着かない。
「慧って物欲ないタイプ?」
「そうかも」
「俺はたくさんあるよ。ジュピターの革靴に、この前発売した新作ゲームに、時計に、掃除機に、洋服とか」
視線を上に向けて指折り欲しいものを数える大岡の無邪気な表情についつい見惚れてしまう。
するりと大岡の指先が手の甲に触れた。
「でも、やっぱり一番は慧かな」
油断も隙もなかった。
「照れてる?」
「いや……困ってる」
「慧はすぐに困っちゃうんだよね。そういうところ、かわいいと思うよ」
彼の言う「かわいい」は「マジ」とか「ヤバイ」とか、そういうものの一つなのだろう。いろいろな意味を含んだ便利な言葉で、特に深い意味はないのだ。
「君が困らせるような事ばかり言うから」
「そうかなぁ。じゃあ困らない事を聞こうか。慧の身長は? 何センチ? これなら困らないよね?」
「百六十七センチくらいだよ」
春の健康診断で出た数値を思い出す。毎年数ミリの誤差はあれど、百六十八を超えた事はなかった。
「かわいいね。足のサイズは?」
「今の靴は二十七センチ」
「俺と一緒だ。俺の方が高いのに」
大岡が驚いたように目を瞬かせる。
「足のサイズと身長はあまり比例しないよ」
「そうなの?」
もりもりと食べる大岡の蕎麦はもうすぐなくなりそうだった。
「二、三センチは誤差の範囲だから」
「そっかぁ。嬉しいね」
「なんで?」
「俺と慧の靴のサイズが一緒なんだよ? それってスッゲー嬉しいでしょ」
意味が分からず険しい顔をすれば反対に大岡は心底愉快そうに笑い声を上げた。
店中の視線が二人に集まる。
ちょうど親子丼を運んできた店員がおずおずと二人の間にそれを置いて立ち去った。
「何がそんなに面白かったの?」
「慧は本当に何でも困っちゃうんだなぁって思って」
「君は……からかわないでよ」
「からかってないってば」
人が困っているのを笑うのはからかっている以外の何なのか。町田はそう思うが、大岡にそんなつもりは本気でないのだろう。
彼とはあまりにも価値観が違って理解が及ばない事だらけだ。それが少し面白いと感じている自分がいた。
大岡が大きな口で親子丼を頬張る。蕎麦はもう全て彼の胃の中に収まっていた。
「深い意味なんてないよ。慧と共通点があって嬉しいだけだよ。慧は俺が慧の事をすごく思ってるって信じられないんだよね? だから訳が分からないんでしょ」
自分は彼の事は何も分からないのに、彼はまるで自分のことを何でも知っているかのようだ。見透かされているとも違う。握られているというのが一番しっくりくる感覚だった。
* * *
第一性は授精時に精子と卵子が持つ染色体によって決まり、第二性は第二次成長期頃に性別ホルモンが分泌され始める事によって確定する。
性別ホルモンにはソルゲンとウルティモゲンの二つが存在し、前者はオメガフェロモンの分泌に、後者はアルファフェロモンの分泌に関係した。ソルゲンしか持たない個体はアルファに、ウルティモゲンしか持たない個体はオメガとなり、両方を持つ個体はベータとなるのだ。
第二性の割合はベータが六割を占め、残り四割をアルファとオメガがおよそ二分していた。
町田は現在、第二性に係るフェロモン受容の差異について研究をしている。誰が嗅いでもおよそ同一に感じられる臭気に対して、フェロモンは嗅ぐ人間によって強さも香りも大きく変化する。その原因を究明するというものだ。
「今大丈夫?」
「はい」
夕方の実験室で声をかけてきたのは吉川だった。タイミングを見計らって話しかけてきたのだろう。作業していた香り成分の合成に丁度ひと段落ついたところだった。
「今日の飲み会の場所だけどさ」
「飲み会……? 今日でしたっけ?」
「そうだよ。十五日」
「あー、あ、あ……」
完全に失念していた。そもそも、この約束をいつしたのかすら思い出せない。他のゼミ生にしつこく誘われて頷いたのは覚えているが、いつ日付が決まったのだったか。何にせよ、うっかりしていた。
今日は木曜日なのだ。大岡との約束がある。
「今日はちょっと、用事があるんで……」
「えっ。でも町田君合わせの日程って聞いたけど」
吉川の表情が曇る。彼にしては珍しい、本当に困ったような表情だった。
「ですよね……」
渋る町田にみんなが日程を合わせて今日の飲み会の日が決まったのだ。それをドタキャンはいただけない。
「それに参加者が増えたから人数分の予約しちゃったんだよね」
「そうなんですか?」
「彼が聞きつけたみたいで」
吉川が彼、と視線を向けたのは物だらけの机に向かう学生、根室だった。アッセイと呼ばれる化合物の評価結果を熱心に見ている。
長い前髪と分厚い黒縁眼鏡が大人しい印象を与える彼だが、実際は驚驚嘆すべき社交性を持ち合わせていた。大学の誰もが友達を数人辿れば彼にたどり着けるだろう。
話の矛先が自分に向いた事に気づいた根室がすかさず顔を向けてくる。使い古された椅子がギシリと音を立てた。
「ははは、すまんなぁ! 吉川さん達が飲み会やる聞いて、ついみんなに話してもうて」
集中していたように見えたが、しっかりと会話も聞いていたらしい。アルファには多かれ少なかれこうした器用さがある。
「吉川先輩に聞かれたのなら仕方がないですね……」
「呆れんとってよ町田君! 楽しみは皆で共有せんと! それに、人数多いほうが楽しいやろ?」
「うーん」
町田は唸った。あまり大勢での集まりは好きではない。だからゼミでの飲み会もなるべく断っていたのだ。
「俺は今回は教授も来るって聞いてそれを言いふらしたばあよ。教授もひとっちゃあ飲みに来おへんから、みんな参加したがって」
根室が仕方ないと言わんばかりに首を振る。町田もだが、ゼミの教授も飲み会には参加したがらない人だった。それが今回は参加するらしい。
「もちろん町田君も参加するやろ?」
「分かりましたよ」
「よかった。場所は後でメッセージ送っておくから」
吉川が安心したように笑う。
「いやぁ、めでたい! 記念に馬サーの奴らにも声掛けしよか!」
「おい。これ以上増やすなよ。予約の数とかあるんだから」
早速スマートフォンを取り出した根室を吉川が止めた。
「馬サーおると盛り上がんで? 馬サーは明教大、いや、地域一の乱痴気騒ぎサークルやから。ちなみに、我が柔道部は涙涙のワースト二位や」
「余計な気遣いはしなくていいから」
吉川が呆れたように言う。
「僕ちょっと外に出てきます」
町田は二人を後目に実験室を出た。重い足取りで人気のない廊下の奥へ向かう。
白衣のポケットから角の削れたスマートフォンを取り出してメール画面を呼び出した。今時、大岡はメッセージアプリを使っていない。
タイトルに『今夜の食事について』と入れて本文を打ち込む。
謝罪と簡単な事情の説明だが、端々に残念さが滲み出た文章ができた。それを見て自分が想像以上に彼との夕食を楽しみにしている事に気づいてしまった。
少し悩んで文面を作り直す。本文から無駄な感情を削り、あくまでも事務的な内容に変えた。
最後にもう一度タイトルと本文を確認して、送信ボタンをタップする。
連絡先の交換はしていたものの、実際に大岡へメールを送るのはこれが始めてだった。
よく知らないテレビの話題、興味のない分野についての話、少しばかりの噂話。会話の何もかもがつまらない。だから飲み会は嫌いなのだ。町田は好きでもないチューハイを一口飲んで、大量に余っているサラダを自分に取り分けた。これなら大岡と食事をする方がずっといい。
町田に合わせて開催された飲み会の割に、肝心の町田は吉川が時折話を振ってくる以外は隅で黙って話を聞き流していた。
彼らは別に町田に参加して欲しかったわけではない。研究室のメンバー全員で飲み会をするという事実が欲しかっただけなのだ。団結感とか、そういうものを得るために。
大岡なら他でもない、町田自身を必要としてくれるのに、と女々しい考えが頭をよぎる。
仄かに薄荷の香りが鼻をかすめた気がした。
ガラリと音を立ててチェーン居酒屋の安っぽい個室の戸が開かれる。何か注文したものが来たのかと視線をやった全員の動きが止まった。来たのは店員ではない。三つ揃えのダークスーツを着た、背の高い金髪の青年だった。部屋を間違えていますよ、とも誰も言えない。それほどまでに彼は堂々として、威厳のようなものを纏っていた。
彼の目が個室の隅にいた町田を捉えて柔らかく緩む。
「見つけた」
「お、大岡君……! どうしてここに」
その場にいた全員の視線が二人に注がれる。それまでの喧騒はどこかへ吹き飛んでいた。
「なかなか来ないから心配で探したんだよ。でもフェロモンが分かる範囲にいてくれてよかった。俺との約束、忘れちゃった?」
「今日は急用ができていけないと、メールを送ったけど……」
まさか送れていなかったのだろうか。しかし電波が悪い訳でもなかったし、送信完了画面はしっかりと確認した。
大岡は笑顔だがその下の真意までは読めない。怒っているのだろうか。
「ふぅん」
彼が興味なさそうに鼻を鳴らす。
「俺との約束を蹴ってまでやるのが他の奴との食事ってこと?」
明確に威嚇されている訳ではない。だが、彼の発する威圧感にじっとりと首筋に汗が浮かんだ。
それは研究室の面々も同じようだった。大岡と同じアルファも多いのに、誰一人として身じろぎすらできないでいる。
「前々から約束していたのを忘れてたんだ。ダブルブッキングになってしまって……ごめん……」
メールだけではなく電話もすべきだったか。しかしそこまで面倒を見てやる必要はあるのだろうか。そもそもこんな飲み会よりも君といる方がずっといいと思っている。そんな取り留めもない考えが頭を巡った。
「分かった」
大岡が引き下がるのはすぐだった。個室の扉を開けっぱなしにしたまま悠然と去っていく。ほんの少しだけ、このまま連れ去ってくれればいいのにと思った。
彼が去った後もしばらくは彼のフェロモンが残って微妙な緊迫感が漂っていた。
すっかり空気の冷え切った飲み会は、あの後ほどなくして解散となった。明日以降、どんな顔をして大学へ行けばいいのだろう。そんな事を煩悶しながら自宅へ戻る。
マンションの廊下を曲がった所で町田の動きは一瞬止まった。大岡が部屋の扉に背中を預けてしゃがんでいる。どうしてそんな場所にいるのか。
恐る恐る近づくと声をかけるより先に彼が顔を上げて表情をほころばせた。
「待ってたよ」
今現在、時刻は二十一時を少し過ぎたところだった。大岡の乱入からほどなく帰宅しているとはいえ、冬の風は十分に冷気をはらんで体を芯まで蝕む。スーツしか着ていない大岡の耳や鼻などの末端はすっかり赤らんでしまっていた。
町田は急いで家の鍵を開けると、中へ大岡を招き入れた。電気をつければ切れかけた白色電球が二人を出迎える。
「どうしてこんなところで……寒かったでしょ」
「まぁね。でも慧を見たら全部吹き飛んじゃった」
「君はすぐにそういう事を……こんなに冷えてる」
町田は少し高い場所にある大岡の頬に触れた。生きている人のものとは思えぬほどに冷たい。
「何か暖かいものを出すよ」
玄関にカバンを置くと、町田ははやる気持ちを押さえて洗面所へ入った。いつもより素早く手を洗ってゆく。
手のひら、手の甲を揉み、親指から順に指を一本ずつ洗ってゆく様子を大岡は珍しそうに後ろから見ていた。
「もしかして潔癖症?」
「いや。そういう訳じゃないよ。これは癖みたいなものかな」
薬学部では実験室に菌を持ち込まないよう手洗いを徹底的にする。出先から帰った時にこうして手を洗うのは最早習慣だった。
最後にうがいをして、町田は大岡に洗面台を譲った。
「夕飯はまだだよね?」
「うん」
何を作ろうか思案しながらキッチンへと向かう。その後を大岡がついてきた。
「手洗いとうがいは?」
「俺はいいよ」
「それはよくない。外から帰ったらちゃんとした方がいいよ」
「うーん。慧はそうして欲しい?」
「うん」
「分かった。慧がそう言うならいいよ」
大岡が洗面所へと戻るのを確認して、町田は今度こそキッチンに入った。
洗面所から聞こえてくる水の流れる音をBGMに冷蔵庫を開いて中身を確認する。ニンジン、キャベツ、玉ねぎ、ベーコンが残っていた。冷凍庫には昨日炊いた白米もある。トマトソースの缶も買い置きがあり、リゾットならば作る事ができそうだった。
食材を取り出し、調理台の上に並べる。
手始めにベーコンを刻んでいると、手を洗い終えた大岡がキッチンへと入ってきた。
「洗ってきたよ」
大岡がまだ水気の残る両手を町田に見せる。どこか誇らしげな顔だった。
「そっちの方がいいよ」
「分かった。次からはそうする」
子供とするような会話だ。大岡はこういう常識的なところが少し抜けていた。あるいは町田とは違っていると言うべきか。
「少し待っていて。リゾットを作るから」
「料理できるんだ。すごいね?」
「一人暮らししてるとね」
「へぇ」
脈絡なく首筋に鼻を寄せられて、町田は驚きに身を強張らせた。皮をむいていた玉ねぎがゴトンと音を立ててシンクへ落ちる。
「何……」
「慧、お酒飲んできた?」
「あぁ……後で着替えるから、嗅がないで」
アルファの習性とはいえ、体臭を嗅がれるのはあまりいい気分ではない。一日の終わりともなれば汗や皮脂の臭いが鼻につくだろう。ましてや大人数での飲み会の後だ。
「もう少しだけ。慧からいつもよりもっと、いい匂いがする」
「いい匂い?」
服を嗅いでみるが、酒と油の混ざった臭いがするだけだった。
「分からないや。大岡君はにおいに敏感なのかな?」
そう口にして、ふと彼からいつも感じる香りを思い出した。爽やかな、よく香る、でも強すぎないあの匂い。
「君はいつもいい香りの香水をつけてるよね」
「香水? 俺は香水なんてつけてないよ」
「じゃあ柔軟剤か何かかな。エルメントールとオクタン酸エチル系の匂いだ」
「メントールってリップクリームの?」
「入ってるものがあるね。これは……何だったかな。ど忘れした。あの、パフェの生クリームの上とかに乗ってる、緑色の葉っぱ」
玉ねぎを洗いながら町田は適切な言葉を探して眉をしかめた。酔いが回っていてすぐに単語が出てこない。
「ミント?」
「そうだ、ミント、薄荷だ。エルメントールは薄荷から取れる香り成分でね。爽やかな香りがするんだよ。オクタン酸エチルはアンズの砂糖漬けみたいな、甘い匂いのこと」
町田の説明に大岡がおかしそうにくすくすと笑う。
「そんなに難しい説明はできるのにミントが思い出せないなんて、面白いね」
「今は酔ってるから、普段使わない単語が出てこなくて」
ニンジンのヘタを切り落として、包丁で皮を剥がしてゆく。皮が薄く長く連なるのを大岡は感心したように見ていた。まじまじと作業を見られているとどうにも落ち着かない。
町田は一度包丁を置いてコーヒー渋のついたカップを手に取った。そこミルクを入れて、電子レンジで三十秒加熱する。新しい台布巾でカップを包み、大岡に差し出した。
「リビングでこれでも飲んでて。体が温まるよ」
「わあ、ありがとう」
大げさに喜んだ大岡がコップを受け取る。それから流れるように町田の頬に口づけた。
「はっ?」
急なキスに町田は固まる。それから一拍遅れて動き出した頭がアルファはスキンシップを好む個体が多いと情報を吐き出した。
大岡は何事もなかったかのようにキッチンカウンターの向こうへと移動している。
「慧がお酒飲むの以外だな」
「まぁ……ある程度はね」
あまりに自然に会話を続けられて今のは錯覚かとすら思う。けれど頬には唇の柔らかな感触と、湯を垂らされたような熱が確かに残っていた。彼に気に入られて喜ぼうとする本能を理性で抑え込む。
おかしかった。オメガはアルファに気に入られる事に対して喜びを感じるようにできている。群れのボスに気に入られればよい生活が送れるという太古の記憶が本能に刻まれているからだ。だが、町田はベータだった。
「慧は飲まない人だと思ってた」
「自分ではあんまり飲まない事にしてるんだ」
「どうして?」
問いかける大岡の口調はいつもの軽薄なものとは違うように聞こえた。例えるなら獲物を狙う狼のような獰猛さが薄く透けている。
妙な緊張感があった。
作業に没頭する事でそれを振り払おうとするが、自分で作業しているのにも関わらず人参を切る規則的な音が耳についた。
「アルコールを飲むと頭の回転が悪くなるから。色んな事が思い出せなくなる。さっきみたいに」
普通に会話をしている自分が不思議だった。突然キスをするのは失礼だと言おうと思うのに、舌に乗らない。
「ふぅん。じゃあさ、俺の名前、分かる?」
「君は大岡君でしょ?」
「下の名前は?」
「夕貴君」
「覚えててくれたんだ。呼んでくれないから忘れちゃったのかと思った」
「忘れないよ。あれは随分衝撃的だったから」
「そっか」
ふと大岡の口調が甘く緩む。
「じゃあ何を忘れちゃっても大丈夫だよ。俺の事だけ覚えていて?」
「そんな訳にはいかないよ」
いつもの雰囲気を取り戻した彼に胸を撫で下ろした。彼が狼なら町田はガゼルだ。ひとたび睨まれれば恐怖に立ちすくみ、その鋭い牙が身に沈むのを待つしかない。
鍋をコンロに置いて火をかけた。バターを入れ、食材を軽く炒める。
「あは、その顔、すっげーそそる。ねぇ、番になろうよ」
あっけらかんと告げられた言葉をすぐには飲み込めなかった。自分とは無関係な行為に頭がついていかない。
言葉の意味を理解してなお、発言の意図が分からなかった。
「大岡君……君は僕を、」
オメガと勘違いしているんじゃないか、と言うことができなかった。言ってしまえばこのまやかしのような関係が崩れてしまうような気がして。
「あれ? もしかして怒らせちゃった? そんなつもりはなかったんだけど。ごめんね」
殊勝な顔をした大岡がカウンターの向こうから機嫌を窺うように首を傾ける。
沈黙を続けていると白いカップを持った彼がキッチンへと戻って来た。
鍋に入れたトマトソースがふつふつと小さく音を立てている。出しておいた白米を投入すればその冷たさに波が引くように気泡が消えた。
「怒ってはいないよ」
何とか言葉を絞り出した。
「慧の事、好きだよ」
「大岡君」
「ちゃんと意味、伝わってるよね?」
口に弧を描く大岡の目は笑っていない。時折覗く鋭い視線が町田を捉えていた。
空になったカップがシンクへと置かれる。わざとらしく大きな音がした。
「ごちそうさま」
大岡がゆっくりと町田との距離を詰める。
「オメガとかベータとか関係なく、俺は慧が好きなんだよ」
「それは、駄目だ」
キッチンの奥に追いつめられて逃げ場を失う。
指一本触れられていないのに、体を押さえつけられているかのようだ。アルファフェロモンによる威嚇。ベータであってもハッキリと感じる強さだった。
「どうして?」
「君はいつか、僕を捨てる……」
大岡の目が大きく開く。数度瞳を瞬かせて、彼は笑い声を上げた。
風船がはじけるように圧迫感が消える。
今の瞬間、町田の性は大岡の持つ強力なアルファ性に完全に屈服していた。
「あー、ははは。本当に、慧は最高だなぁ」
「僕と君は……友達だ」
覆いかぶさろうとする大岡を押しのけて、町田は沸騰する鍋を確認した。ステンレス製の鍋底は幸いにして焦げついていない。
白米はまだ完全には解凍しきっておらず、もう少し煮詰めなければならなそうだった。
「いいよ。慧がそうしていたいなら。
今はね」
「ずっと、そうだよ」
祈るような気持ちで鍋をゴムべらでかき混ぜる。こんな気持ちになるのは、彼に惹かれる気持ちがあるせいだ。それはもう言い訳のしようがない。だが、彼の遊びに付き合うほどの余裕が町田にはなかった。いつか彼に見捨てられてしまうのなら、傷は浅い方がいい。
白米が完全になじんだのを見計らって、コンロの火を止める。仕上げにコンソメと塩コショウで軽く味を調えた。味見をすれば可もなく不可もない味が舌の上に広がる。
「できたよ。できる限り多めに作ったつもりだけど、足りなければ何か買ってくる」
ひっそりと深呼吸を繰り返しながら白い深皿にリゾットをよそう。
「大丈夫だよ。それより俺は慧と食べたい」
「僕はもう食べてきちゃったから」
「いてくれるだけでいいよ。俺とおしゃべりしよう」
「分かった」
町田は大岡を普段使っているダイニングチェアへと座らせて、自身は隣の寝室から勉強用の椅子を持って来た。
あの威圧感が消えた事にひそかに安堵する。
「うまっ!」
リゾットを食べた大岡が声を上げた。
「すごい! おいしいよ!」
「ならよかった」
どうしてこうも彼の言葉に心が動かされるのだろう。頬が緩みそうになるのを抑え町田は角を挟んで大岡の隣に座った。単身者用のダイニングテーブルは狭く、膝が触れ合いそうだ。
「慧も食べてみなよ」
「いや、僕はさっき味見したから」
可もなく不可もない味である事は知っていた。味見をするのは大岡も見ていたはずだ。
しかし、差し出されたスプーンに拒否を受け入れる様子はない。仕方なく手を伸ばすと、それを避けて口元へと向けられた。このまま食べろという事らしい。
逡巡の間も大岡は当然とばかりに町田を待っている。
結局、考えても何か浮かぶ訳でもなく、町田はそれを食べた。
「どう? おいしい?」
「不味くはないと思うけど……」
特筆して感想もない。いつか見たレシピ通りに作っているのだから、その通りの味がした。
「俺は慧の料理好きだよ」
「そっか……嬉しいよ」
たとえお世辞だとしても胸の奥が仄かに温もる。褒められた事そのものより、彼に言われた事が嬉しかった。
「そういえば慧、俺にメールしてくれたんだよね」
大岡が思い出したように話題を変える。
「ああ。見ていなかったみたいだけど」
「俺、スマホ持ち歩かないんだよね。メールとか電話とかめんどくさいしさ」
今時スマホを持ち歩かない人間がいるのか。それでは実質、連絡手段がないのと同じではないか。今後も今日のような行き違いがあるのかと思うと気が重くなった。
「俺が持ってるの店長から渡されたやつでさ、GPS入ってるんだよね」
大岡から何度か「店長」については聞いた事があった。奔放な性格の大岡にはほとほと手を焼いているようで、聞く話のほとんどが怒られた、というものだった。彼の話をする大岡はいつも如何にも面倒くさいと言わんばかりの口ぶりをしている。
「前にスマホ店に置きっぱにしてたら女の子に持ってかれちゃった時があったんだけど。どうしてお前のスマホがキャストの家にあるんだって店長マジギレでさ。時々、位置情報見てるっぽいんだよね」
「えっ」
スマホを勝手に持っていかれる事も、GPSで監視されている事も、町田の理解を超えていた。ただ驚くしかできない。
「なんとかね。キャストに手ぇ出すと罰金がヤバくてさ。急いでそのキャストをシメて事情を説明させられたからよかったんだけど」
「シメてって……」
「ああ、そんな酷い事はしてないよ。ちょっと脅かしたらすぐ、他のキャストに嫌がらせしようとしたら間違えたって白状してくれたから。結構キャスト同士での争いって多いんだよね」
大岡は物騒な話をさも当然というように話す。煌びやかな夜の世界の裏側では人間同士の醜い争いがあるらしい。その辺り、触れない方が賢明だろう。
「ごちそうさま」
大岡が空になった器を置く。多めに作ったつもりだったが、なくなるのはあっという間だった。
「少なかった?」
「平気だよ。肉があると嬉しかったけど」
「次は用意しておくよ」
自然と「次」と言う言葉が出ていた。
「楽しみだな。肉じゃなくても慧が作るものなら何でも嬉しいけどね」
「君は肉が好きなの? 前に好きな肉はミスジだって言ってたけど」
「覚えててくれたんだ。奢られるなら肉だけど、一番好きなのは茄子だよ」
「茄子?」
意外な食べ物だった。どちらかといえば大岡は野菜よりも肉を好むような気がしていた。
「漬物とか味噌汁とか、おいしいなって」
「そっか。じゃあ次は肉と茄子で何かを作るよ。機会があればね」
「本当? 嬉しいなぁ。楽しみにしてるね」
「うん……」
すっかり絆されている。よくない傾向だ。大岡の興味から生まれたこの関係は遅かれ早かれ終わりを迎える。見たところ彼は熱しやすく冷めやすい。一つの事にいつまでものめり込む町田とは正反対だ。
それに、ベータである町田にアルファの彼を繋ぎ止めるだけのものは何もなかった。時間が経てば経つほど辛い思いをするのは自分の方だ。
彼の光に呑まれる前に手を離さなくてはならない。町田は人一倍、人との別れを恐れる臆病者だった。
* * *
テーブルを拭いていると大岡と田辺の揉める声が聞こえてきた。吉川が顔を上げると丁度田辺の硬い膝が大岡の腹にめり込むところだった。二、三歩よろけた大岡が痛みに顔をしかめる。それから不服を隠しもせずに田辺を見た。そんな事ができるのはこの店では彼だけだ。
田辺が大岡の顔にタバコの煙を吹きかける。彼の吸うそれは鼻の曲がりそうなほど臭い。
閉店の準備をする従業員達は二人の揉め事に巻き込まれないよう誰もが遠巻きに我関せずを決め込んでいた。巻き込まれれば理不尽な目に会うと誰も分かっている。
「お前さぁ、最近遅刻多すぎ。毎週毎週、注意したよな? それなのに昨日は無断欠勤? どういうつもりだ? 俺はお前をまともな大人にしてくれって社長に頼まれてるんだよ。 時間くらい守ってくれないと困るわけ」
「はい」
「適当な返事してんじゃねぇよ」
田辺の掌が大岡の頬を打つ。肌と肌がぶつかって乾いた音がした。
「俺がこの一年お前に何してやったか全部忘れたか? 俺は朝な夕なお前と一緒にいてお前のクソみてぇな時間感覚を矯正してやったよな?」
「俺はアンタのクソみたいな臭いを我慢してますけどね。そのタバコ止めたらどうですか?」
今度は拳が飛ぶも大岡には当たらなかった。決して生温い攻撃ではなかったが、それ以上に避けるのが速かった。
「やっとまともに敬語が使えるようになってきたってのに、その性格だけは少しも変わりゃしねぇな。いっちょまえに喧嘩だけは強くなりやがって。俺とお前、どっちが上か分かってんだろうな?」
「店長です」
「だよなぁ。俺は店長、お前はボーイ。じゃあなんで俺の言う事が聞けないんだ?」
「そんな義理ないからですよ」
平然と言い切った大岡からぶわりと強いアルファフェロモンが漏れ出す。店の隅々まで威圧するようなそれは、アルファですら戸惑いを覚えるほどだった。
耳をつんざくような音が店内に響く。
見ればオメガの従業員が腰を抜かしてアイスペールをぶちまけていた。アルファフェロモンに当てられて急性ヒート症状を起こしかけている。
店内で身動きが取れるのは大岡の外に田辺とあとは吉川だけだった。ベータの従業員も全員動きが止まっている。
「逆らってんじゃねぇよ」
それまで冷ややかな表情を浮かべていた田辺の顔があからさまな怒りへと変わる。
さっきよりも大振りな拳が大岡を襲った。しかし感情に任せた一撃は隙が大きい。大岡は右手で田辺の肘を押さえて拳を止めた。無防備になった胸元へ身を寄せる。左手で田辺の細い腰を抱き寄せて首元に顔をうずめた。ワイシャツのカーラーの上から首筋に歯を立てる。
犬が上下関係を示すような行為。それはアルファが自らの番を作る行為でもあった。番はアルファがオメガのうなじを噛む事で成立する関係を言う。
オメガはヒートと呼ばれる発情期間に入ると誘淫作用のあるオメガフェロモンを分泌し、生殖相手を引き寄せる。このフェロモンは番を持たないオメガのものは不特定多数に作用するが、番を持つと特定のアルファ以外には作用しなくなる。ただし、一度番になるとオメガはその後二度と新たな番を作る事はできなかった。
屈辱的な示威行為に田辺の手から短くなったタバコが転げ落ちる。
「ッの、やろ……!」
田辺が大岡のベストの背中を強く引いた。抵抗なく、すんなりと彼が離れる。
「この世は弱肉強食、なんですよね?」
「お前は弱者、だろうがッ」
「店長もでしょう」
それが普遍の事実であるかのような言葉に、田辺の瞳に強い怒りが滾る。だがそれはほんの一瞬で。大きく息を吐いて視線を伏せ、次に前を見た時には寂寥とした暗い目が戻っていた。
「確かに、お前にゃ何の義理もねぇだろうよ。自分の親がこさえた借金なんぞお前は気にしないだろうからな。だがな、そんなのは関係ねぇんだよ。社長がお前を気に入って、お前の親の借金を肩代わりした。そこにお前の意思なんていらねぇ。社長がお前を気に入った時点で、お前に拒否権なんてありゃしねぇんだよ」
「俺は社長より強いのに?」
「アルファ性だけ強くたって何にもなんねぇよ。組の奴等が本気で片付けようと思やぁお前なんぞ一瞬だ。現に、お前は俺すらどうにもできてねぇだろうが。力づくで支配できるのなんざ、オメガか精々力の弱いベータだけだけんだよ」
「じゃあ、俺じゃなくたっていいですよね? そんなに役に立たない俺なんか気にしなくていいじゃないですか」
「分かってんだろ。馬鹿なふりして屁理屈捏ねてんじゃねぇよ」
張り詰めた糸が切れるように店内の空気が緩む。そこにいた全員の肩から力が抜ける。ただ一人、大岡だけが変わらない。
「俺は誰かにこき使われるなんて真っ平だよ。今アンタについてるのはアンタと遊ぶのが楽しかったからだ。俺はいつアンタと離れたっていいんですよ」
「いつまでもヌルい事言ってんなよ。痛い目見る前に気づいとけ。俺はなんだってやるぞ」
「今更?」
「町田慧」
突きつけられた名前に再び大岡のフェロモンが溢れ出す。威嚇を通り越して殺気のようだった。
「男、ベータ。明教大学薬学部、内分泌生体薬理学教室所属の四年生。毎朝十時に家を出て、早ければ十八時には帰宅。遅い日は零時を過ぎる事もある」
田辺がつらつらと個人情報を並べ立てる。
「二十三歳、二月十七日生まれ。身長百六十七センチ、体重五十八キロ。ぱっとしない見た目だがツラはいい。お前好みだな?」
最後は嘲るような口調だった。
大岡が田辺の胸倉を掴み上げる。怒りによって増幅したフェロモンは息苦しささえ感じさせた。
先ほど倒れたオメガはいよいよ限界が近いようだった。これ以上は危険と判断した吉川はオメガに肩を貸してバックヤードへと向かった。
「携帯さえ置いてきゃ分からねぇと思ったか? そういう所が浅はかなんだよ」
田辺の拳が大岡の腹へめり込む。
無駄のない鋭さで放たれたそれに、さすがの大岡も怯んだ。胸倉を掴む手が緩み、田辺が素早く身を離す。
「店の女に手ぇ出さなきゃ仕事以外の時間に何してようが構わねぇよ。毎日女取っ替え引っ替えしようが、それが男だろうが、百歩譲って俺の家でヤってようが許してやる。だがな、仕事にだけは支障を出すんじゃねぇ」
田辺の声は裏にまで聞こえていた。
吉川はオメガに水と、念のために抑制剤を飲むように促した。ひとまず落ち着いたところでしばらく安静にするように伝える。
表に戻ろうとしたところでバックヤードに入ってきた田辺と鉢合わせた。それと同時にけたたましい音が響き渡る。何事かとホールを見れば足の細い丸テーブルがリノリウムの床を転がっていた。
足元まで来たそれを起こして元あった場所へと置き直す。これを蹴ったであろう大岡は仁王立ちで貧乏ゆすりをしていた。
「吉川、お前、町田慧って知ってるよな」
いきなりの言葉にテーブルを整える手が止まる。彼に町田と顔見知りだと話した事はない。なるべくなら大岡には知られたくなかった。アルファの独占欲ほど厄介なものはない。
「知ってますけど、そんな話しましたっけ?」
「そこの大学で薬の勉強してんだろ」
「ああ、なるほど」
確かに近くの大学に通っている事は彼に話した事があった。彼の中では大学も中学や高校と変わらぬ認識なのだろう。
「今回はたまたま知ってましたけど、大学は通ってるだけで学生全員と顔見知りって訳じゃないですからね。一応言っておきますけど」
「慧の近くにカタギじゃねぇ奴っている?」
「さぁ……見ただけじゃ分からないですよ」
「ならいい」
用済みだとばかりに大岡が手を振る。
あまりのぞんざいさに吉川は思わず苦笑した。とはいえ無理に会話を繋げる必要も感じず、素直に店内の清掃作業へ戻った。
大岡と働き始めてもう二年は経つが彼との仲は一向に深まらない。殆ど毎日一緒に働いているのだから、もう少し親しくなっていてもいいと思うのだが。それだけ吉川に興味がないのだろう。大岡は遊ぶつもりのない相手には概してそうだった。遊び相手にはとことん尽くすが、それ以外にはにべもない。
その点、田辺だけは特別だと言える。二人の間には何か特別な関係があった。それは徹底された上下関係だったり、肉体関係だったりと複雑だ。
肉体関係については今も続いているのかは分からないが、吉川の知る限り一度は確実にあった。それに気づいている人間は今のところは他にいない。
大岡と田辺に関してはあまり首を突っ込むなというのが店の暗黙の了解だった。田辺のバックには明らかにアンダーグラウンドな人間がいる。時給だけはいいこの店で上手くやるコツは他人に無関心でいる事だった。
「おい」
雑巾を水で濯いでいると大岡に呼ばれた。
「慧に何かあったらただじゃ済まねぇからな」
それはともすれば田辺と近しい吉川への牽制だった。吉川は特別田辺に肩入れしているつもりはないのだが、他所からはどうもそう見えるらしい。
たしかに個人的な頼まれ事をしてはいるが、金銭は受け取っている。つまるところバイトの延長に過ぎないのだ。しかしそんな説明で彼は納得しないだろう。重要なのは彼にどう見えるか、どう思うかなのだから。
「困ったな」
頭を掻くと切ったばかりの髪が掌にチクチクと刺さった。
* * *
研究室に入ると、机に向かっていた吉川が大きく伸びをしていた。町田は後ろからその背中へ声をかけた。
「お疲れ様です、吉川先輩」
「ああ。お疲れ」
手を振った彼は心なしか元気がない。
「どうかしたんですか?」
「いや、アッセイのパラメーターの設定が悪かったみたいでさ。今回の化合物はリードから選び直さないと駄目っぽいんだよ」
化合物は合成する前、コンピューターを用いてシミュレーションを行う。その際にいくつかのパラメーターを設定するのだが、今回はその数値が間違っていたらしい。
パラメーターは過去の実験結果に基づいて設定される予測値で、実際のアッセイとでは結果が異なる場合がある。
「やっぱり吸入式の抑制剤って難しいんですね」
「吸入式は未知の領域だからねぇ」
現在流通しているオメガの抑制剤はすべて錠剤型のものだった。それで問題があるわけでもなく、広く流通している。
「なんで錠剤じゃ駄目なんですか?」
「錠剤式だとオメガの匂いまでは隠せないだろ? オメガである事まで完全に隠す事のできる抑制剤を作りたいんだよ」
「なるほど」
高い志だ。
手探りの状況から始めたという吉川の研究は、今や現行の錠剤式抑制剤と肩を並べるほどの効果が見込まれている。とはいえ、まだ副作用が強く、臭いや服用回数が課題として残っていた。
彼の抑制剤は薬自体の臭いが強く、流通すれば結局はオメガである事が分かってしまう。また、一日に三十本もの薬を吸い続けなければ効果が持続できない点にも問題があった。
吉川がアッセイの結果が印字された紙をまとめて束ねる。それから時計を見たのにつられて町田も時計へ目を向けた。
十八時三十六分。大岡との約束まであと二十四分しかない。今すぐ大学を出ても間に合うかどうかという時間だ。
「わ。もうこんな時間。僕、そろそろ行きます」
「うん。じゃあ」
「はい。さようなら」
目的だった本の返却をして、町田は急いで学校を出た。いつもは駅まで徒歩なのだが、今日はちょうどもうすぐ来るバスに乗ることにした。
普段は十五分ほどかけて歩く道のりも、バスにかかればたったの五分だ。
「お、町田君やん」
バスを降りてしばらく歩いたところで名前を呼ばれる。呼んだのは大岡ではない。誰かと周囲を見回せば、果たして声の主は根室だった。
茶色のダッフルコートを着た彼が近づいてくる。
「今帰り? 今日は早いんやね」
「ちょっと用事があって。根室先輩はこれから大学ですか?」
「そそ、六限。あと卒業研究もせんと」
「大変ですね」
「来年は町田君の番やでぇ」
薬学科は薬剤師になるための長期実習が五年時に行われるのだが、学生はそれと並行して卒業研究も行わなくてはならなかった。
「単位はもう足りてるんで大丈夫なんですけど、実習が心配です」
「大変やぞー」
脅かすような口調で根室が言う。芝居がかったその仕草がよく似合った。
「じゃ、俺、そろそろ行くわぁ」
「はい。六限頑張ってください」
軽い別れの挨拶をして根室と別れる。
時計を確認すると時刻はもうすぐ十九時になるところだった。
「今の、誰?」
アルファ特有の重みを含んだ声にゾッと背筋が震える。驚いて振り向けば背後に大岡が立っていた。
「顔見えなかったけど、男の、アルファだったね?」
「ゼミの、先輩です」
圧迫感に息が詰まった。空気が水飴のようにどろりと重い。
「ふぅん。仲、良さそうに見えたけど」
「同じ研究室なので……」
「あんな顔初めて見たな」
冷汗が背を伝った。今まで彼が見せてきた威圧感は戯れのようなものだったのだと思い知らされる。
どんなに理性を保とうとしても彼の言葉に従い降伏したくなる。欲求に喉がごくりと音を立てた。
「大岡君……」
「ねぇ他は? どんな顔をするの?」
「やめてよ。こんな場所で……」
異様な空気に先ほどから人々の視線がちらちらと痛い。時間が時間だけにその数は決して少なくない。
唯一、大岡の威嚇が自分だけに向いている事だけが救いだった。こんなものを不特定多数に浴びせれば間違いなく大きな騒動になる。
「ごめんね? でも嫉妬しちゃうな」
「嫉妬……?」
彼は何を言っているのだろう。
「そう。だって、二人凄く仲が良さそうだったから」
「そんな、普通だよ」
町田には見ただけで仲の良し悪しを断じる理論も、誰かと一緒にいただけで嫉妬する感情も分からない。おかげで彼をどうなだめればいいか見当もつかなかった。
そんな二人の緊迫した空気を壊したのは低い間延びした声だった。
「夕貴クーン。何してんの?」
慌てるでもなくゆっくりと歩いて現れた男の腕が大岡の首に回る。それだけで息も詰まる程だったフェロモンが一気に薄まった。
「申し訳ありません。ウチの大岡が」
「えっと……」
「初めまして。そこのキャバクラ、オーデンセで店長やってます、田辺です」
真っ白で一切の飾り気がない名刺を手渡された。大岡の持っていたショップカードとは全く趣が違う。
「店長はすっこんでて下さい」
「お前、先戻ってろ」
「でも」
「いいから。走れ。分かってんだろ」
有無を言わせぬ田辺に大岡は渋々ながら従った。名残惜しげに視線を残して、繁華街へと走っていく。
町田も無意識に彼を目で追っていた。
そんな視線を遮るように田辺が間に割り込んできてハッとする。自分は今、何と思おうとしていたのか。
「さて、ウチのがご迷惑をかけたようで。途中までお送りしますよ」
「いや」
「遠慮なさらずに」
押し問答はするだけ無駄のようだった。口調は丁寧だが断固として意思を曲げる気配がない。どこか大岡と似た雰囲気があった。
「町田君は、ウチの店はいらした事ないですよね」
二人並んで雑踏を繁華街へと歩く。名前を知られている事に戸惑った。
「まだ学生ですし、あんまりそういうお店に興味がないので……」
「学生さんもたまにいらっしゃいますよ」
「そうなんですか……」
田辺の横はどうにも居心地が悪かった。
オーデンセの裏を過ぎた辺りで彼がワイシャツの胸ポケットから革製のシガレットケースを取り出す。底を叩いて飛び出た一本を咥えて、火をつけた。
ヘキサノールやエタンチオールの混ざったような臭いが鼻を掠める。どこかで嗅いだことのある臭いだった。
「どうしてアイツの事を拒まないんです?」
問う田辺は口調こそ変わらないものの、表情は酷く冷たいものになっていた。
「拒む理由もないので……」
「アイツの事好きになっちゃいました?」
「僕は、ベータですよ」
「分かってるじゃないですか。なら話は早い。アイツとはもう金輪際会わないで下さい」
「は……?」
脈絡なく聞こえる言葉に気の抜けた音が出た。なぜと聞き返す事すらできず、無言のまま路地を抜ける。
目の前を空車のタクシーが通り過ぎた。ヘッドライトに照らされた影が鳥のようにアスファルトの上を飛び去ってゆく。
「今はひなびたキャバクラで黒服なんかしてますけどね。アルファなんですよ、アイツは。この意味、分かります? 大学生にはピンと来ませんかね?」
町田の沈黙を肯定と捉えた田辺が言葉を続ける。
「アンタのエリート大学にはアルファはいっぱいいるんでしょう。でもね、普通はそうそういるもんじゃないんですよ、アルファってのは」
「それは、分かります」
ベータやオメガに比べ、アルファの大学進学率は異様に高くなっている。そして、その進学先の多くが難関校と呼ばれる大学だとの統計があった。町田の周りにいる教授は九割が、生徒も半分以上がアルファだった。
職業別に見ても医者や弁護士、政治家といった社会的地位のある職業はほとんどがアルファで占められている。
「アンタ、アイツの事どれだけ知ってます?」
「……ほとんど、何も」
彼について知っている事といえば名前や誕生日くらいのものだった。どこで生まれ、どう生きてきたのか、何も知らない。それは当然で。誰も自分と会っている時以外の相手を知る事はできない。
だが、田辺は違うのだろう。彼はきっと、大岡のすべてを知っている。
T字路で田辺が立ち止まった。
それに合わせて町田もまた足を止める。
この角を曲がればもうすぐ家だった。
「あの大学の学生だなんて立派じゃないですか。この先も平和で、クリーンに生きていきましょうよ。アイツとは関われば関わるほど自分からは縁が切れなくなりますよ」
「彼は一体……」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼすって、言うでしょ?」
言い聞かせるような口調だった。町田の知らない暗澹をほのめかされる。裏社会というものが実在するのか、町田には分からない。しかし、あるとすれば田辺は間違いなくそちら側の人間だ。
そして、大岡も。
億劫そうなどんよりとした瞳が町田を見下ろした。睨まれている訳でも、フェロモンで威嚇されている訳でもないのに、後ずさりしたくなるような迫力がある。
「夕貴はウチの社長のお気に入りでね。もう後戻りなんてできない場所にいるんです。夕貴の為を思うんなら、アンタが関わらない事が一番だ。ベータなんかにアイツの人生をめちゃくちゃにしてもらっちゃ困る」
それに、と田辺が続ける。
「アイツはアンタを面白がってるだけですよ。恋愛ごっこをしているガキなんです」
突きつけられた現実は冷酷だった。そのくらいは分かりますと言ってやる気力も出ないほどに。
冷たいフローリングに転がって、そこら中に落ちた髪の毛をぼうっと眺める。思えばもう一か月近く掃除機をかけていない。
頭の中では「アンタを面白がってる」という田辺の言葉が無意味に回り続けていた。
コートもシャツも脱ぐのが億劫で、急に重力が増したかのように体が重い。壁際に放り捨てた鞄の中にはやるべき事がまだ残っているのに、動く気力が少しも湧かない。
小さく体を曲げて、固く目を瞑った。
* * *
「は……?」
顔を強張らせた大岡に、なるべく淡々と同じ言葉を繰り返す。つけ入る隙を見せる訳にはいかなかった。
「もう君と会うつもりはない。絶交だ」
「どうして? 俺、何かした?」
急激に大岡の発するアルファフェロモンが濃さを増す。今日は家に呼んでおいてよかったと心底思った。
平静を装いはしたが町田の心臓は早鐘を打って、額には脂汗が浮いている。心臓に爪を立てられているかのような緊張と、自身の内にある形の見えない恐怖に足の先から血の気が引いた。
「店長に何か言われた?」
ガタ、と椅子の脚が床を擦る。立ち上がった大岡がゆっくりと近づいて来た。
「君の事を聞いたよ。奨学金の事もあるし僕はリスクのある相手とは関わりたくない」
用意しておいた嘘は思っていたよりもすんなりと口から出た。我ながらこじつけ過ぎる、酷い言い訳だったが。
「じゃああの店辞めるよ。店長とももう会わない。店長は社長と盃交わしてるけど、俺はやってないからさ。簡単に抜けられるよ」
「嘘だ。彼らが君をそう簡単に手放すとは思えない」
そう言うと強く顎を掴まれ、俯いていた顔を力任せに持ち上げられた。その瞬間、音が消えた気がした。柔らかいものが唇に押し当てられて息が止まる。
口の中にぬるりと舌が入って歯列をなぞる。逃れようと手足を暴れさせれば、ただでさえ強く香っていたアルファフェロモンが体を押さえつけるように増した。抵抗しようという思考が薄れて、全身から力が抜けてゆく。底の知れないフェロモンの強さに、頭の芯が戦慄いた。被支配欲に溺れそうになる。
初めて彼に恐怖を感じた。
しかし、行動の乱暴さに反して彼の舌を吸い、唇を舐める動作は堪らなく甘い。腹の奥に響くような燻りを感じて、町田は咄嗟に大岡の胸を強く押した。
じゅっと下品な音を立てて大岡が離れる。
「なにするんだっ!」
「好きだよ、慧。愛してる」
「やめてくれっ! 頼むから……」
大岡の胸に縋った手は震えて、声は泣き出しそうな音をしていた。
もうこれ以上彼の言葉を聞いていたくない。それなのに何もできない自分に嫌気がさした。
「分かった」
あっさりした返事に町田の手は呆気なく滑り落ちた。言いようのない悲しみが胸の内を覆う。
大岡がどんな顔をしているのか、見当もつかない。俯いたまま、自分の膝を見つめるしかできなかった。自分は無力で、何もできない、つまらない人間だ。やっぱり、大岡には釣り合わない。
どれほどそうしていたのか、次に顔を上げた時、大岡の姿はなかった。
* * *
薬品を秤量して、乳鉢で混ぜる。神経を使う作業だが、町田は実験の中ではこの作業が一番好きだった。頭を使わない訳ではなく、かといって複雑な思考や緊張を強いられない。
「町田君、最近熱心だね」
何の脈絡もなくかけられた言葉に反射で「うん」と頷いて、我に返った。
振り向けばすぐ後ろの台で吉川が顕微鏡を覗き込んでいた。
「何かあったの? この一週間ずっと大学にいるらしいじゃん」
「あぁ、いや。ずっとではないですよ。ただ、新しく調べたい事ができて。今やってる研究とは関係ないことなんですけど」
「それ、アルファとオメガのフェロモンだよね?」
「はい。今までの定説だとオメガフェロモンはリリーサーフェロモンで、アルファフェロモンはオメガに対してプライマーフェロモン、ベータに対してはリリーサーフェロモンな訳ですけど。もしかするとアルファフェロモンはベータに対してもプライマーフェロモンの作用を持つんじゃないかと思って」
リリーサーフェロモンが他者に特定の行動を起こさせるのに対し、プライマーフェロモンは受容した個体の機能に影響を与える。これまでの研究ではアルファフェロモンは受容した者に被支配的思考を引き起こすリリーサーフェロモンと同定されていた。
しかし、町田は長期間多量のアルファフェロモンを摂取する事でベータの内分泌系に変化を与えるのではないかと考えたのだ。
「具体的にどんな変化が?」
「まだ仮説ですけど、アルファホルモンが減少してオメガホルモンが増えるんじゃないかと」
「そうすると、ベータが疑似的にオメガになるって事? でもヒートが来る訳じゃないし、何か変化が?」
「それが、調べてみたらベータがヒートに似た症状を起こしている症例がいくつかあったんです。原因は不明らしいんですけど、何か関係があるのかもと思って」
「よくそんな事に気が付いたね」
「まぁ……」
実体験からとは言えなかった。ヒートまでは起こしていないものの、大岡のフェロモンを浴びた時の状態は明らかに正常ではなかった。
薬剤を試験管に入れ、蓋を閉める。反応が起こるまで少し待たなければならない。
吉川の方を見ればいつの間にか作業を終え町田の方を向いていた。
先輩に心配をかけてしまうとは情けない。しかし、頭を使っていないと脳が勝手に大岡の事を考え始めてしまって駄目なのだ。
終わりの見えていた人間関係で、あまりにも情けない体たらくだった。
二十三時五十二分。日付を跨ぐ少し前、町田は家の前に立っていた。実は研究室に泊まろうかとも思ったのだが、帰宅する吉川に釘を刺されたのでやめた。
差し込んだ鍵を回すと妙に感触が軽かった。不審に思いつつ逆に回せばガチャリと音が鳴る。念のため夜気に冷えたノブを引けば、やはり鍵が閉まっていた。
出かける時に鍵を閉め忘れたのか。
不思議に思いながらもう一度鍵を差し込もうとすると、それよりも早く鍵が回った。
勢いよく開いた扉に総毛立つ。
「おかえり、慧」
「は……」
笑顔で顔をのぞかせたのは大岡だった。
替えていない玄関のライトが薄暗く明滅していた。開いた扉から砂糖菓子と果実の甘さが混ざったような香りが漏れ出してきている。
「入って」
強い力で手首を掴まれ、家の中へ引きずり込まれた。靴を脱ぐ間も与えられず、廊下で何とか脱ぎ捨てた。
奥に進むにつれ匂いはどんどん強さを増してゆく。まるで部屋の中に匂いの発生源があるかのようだ。
嫌な予感に額に汗が滲む。この甘い香りはオメガフェロモンに間違いなかった。しかも、この濃度は発情したオメガのものだ。
だが、それにしては大岡があまりにも平然とし過ぎている。オメガのフェロモンはアルファの性衝動を強く誘発する。これだけの香りの中では番でもいない限り、衝動に抗えないはずだ。ベータである町田ですら欲求を引き出されている。
そんな悠長な考えは大岡がダイニングの扉を開いた瞬間に全て消し飛んだ。
「驚いた?」
「大岡、君」
声が震える。
殺風景なリビングの真ん中に両手足を縛られた黒髪の男が転がっていた。猿轡と目隠しで分かりにくいが、間違いなく、田辺だった。
忙しなく背中が上下している。生きてはいるが平常な状態ではない。
「何……」
「大丈夫。ほら、座って」
愛を囁くように優しい声も今は恐怖しか感じない。言われるがまま、田辺はダイニングチェアに腰を下ろした。
指の先が震えるほど心臓が激しくのたうっている。
「店長が慧に言ったんでしょ? 俺ともう会うなってさ」
否定も肯定もできず、かと言って黙っている事も恐ろしい。
大岡の意図も、これから何をされるのかも、皆目見当がつかない。何を言っても無事ではいられないだろう。
「大岡、君……君は一体、何を、」
「店長さぁ、オメガなんだ」
「抑制剤なら病院、いや、近くなら大学、に、あるから」
「ああ、そんなのなくたって放っておけば収まるから大丈夫。それか放り出しておけばアルファかベータにマワしてもらえるだろうし」
「そ、そんなの! 許される訳がない……!」
「別に許してもらわなくても平気だよ」
軽やかな足取りで大岡が動く。その気配を察したのか、それまで荒い息を吐き出すだけだった田辺が顔を上げた。
身を屈めた大岡が乱暴な手つきで田辺の目隠しと猿轡を剥ぎ取る。ようやく見えた顔は赤く染まり、睨みつける目は涙に潤んでいた。体液の増加はヒートの第三段階に見られる特徴で、この段階まで症状の進んだオメガは激しく性交を求めるようになる。フェロモンが届く範囲にアルファがいる場合、その衝動に抗う事は不可能とも言われる。
だがその状態でなお、田辺は大岡に抗おうとしていた。
「ッ、このッ、ガキ!」
「スタンガン三発食らってこんだけ元気って、やっぱアンタ化け物だな。吉川で試した時は一発で動けなくなったんだけど」
大岡が不服そうな声と共に田辺を見下ろす。容赦なく振り下ろされる足が何度も田辺の脚を蹴りつけていた。
「ねぇ慧。これなんだか分かる?」
田辺に向ける表情とは掠りもしない顔で大岡が笑った。
胸ポケットから取り出したのは半透明のプラスチック容器と二.五ミリリットルサイズの注射器だった。
「テメェ、まだ……! この、クソッタレ!」
それまでされるがままだった田辺が叫けぶ。口汚い言葉を喚き散らしながら激しく体を暴れさせていた。
「うるさいなぁ。俺は慧に話してるんだよ。ねぇ、知ってる?」
「分からない……それだけじゃ……」
「これ、打つとオメガのにおいがスッゲー強くなって、ヤバいセックスができるって薬。俺はこれが使うの初めてなんだけど」
「だ、駄目だ! そんな薬……!」
止めなければと思うのに金縛りのように体が動かない。
大岡が学生よりも覚束ない手つきでプラスチック容器から薬品を吸い出した。
田辺の抵抗が激しさを増す。
「誰のおかげでここまで生きてこれたと思ってやがる! お前の頭が狂ってるのはとっくの昔に分かってたがな! 俺を巻き込むんじゃねぇ!」
「先に手ェ出したのはアンタだ。アンタよく言うだろ? 自分でしでかした事の落とし前はキッチリ自分でつけろってさ」
大岡が注射器を持つのとは逆の手でスタンガンを構える。側面のボタンを押すと派手な音を立てて青い火花が散った。
田辺の顔が引き攣る。
「やめろ、おいっ、ぁ゛、あ!」
一切のためらいなく押しつけられた電流に悲鳴が上がる。田辺は痛みに大きく仰け反ると、それからぐったりと動かなくなってしまった。
町田はぎこちない動きで大岡の脚へと縋り付いた。その動作は殆ど椅子から転げ落ちるようだった。
「大岡君、やめてよ。どうして、こんな」
震えの止まらない体を大岡に抱きしめられた。その両手はあまりにも優しい。
不要だとばかりに投げ捨てられたスタンガンが床に当たって鈍い音を立てる。
「怖がらないで。慧には絶対こんな酷い事しないから」
「君、は、分かって、やっているの?」
「慧を怖がらせてる事?」
「違う。こんな、酷い事を……」
「勿論。分かってるよ。でもね、俺は酷い世界に住んでるんだよ」
「違う、同じだ! 同じ場所にいるだろ! 今僕と君は、同じ場所に、いるじゃないか……」
反論はあまりに的外れだった。
大岡が骨ばった手で大岡の真っ直ぐな髪の毛を梳く。つむじに鼻を寄せ、匂いを吸われた。
「慧のそういう綺麗で物分かりの悪い所、好きだよ」
「お願いだ。こんな事は、やめてくれ。君がこんな事をするのを見たくない」
「我儘だね」
唇が触れそうな距離で囁かれる。
纏わりつくような声色に町田は頬が燃えるように熱くなるのを感じた。
「そういう所も好き」
「駄目だ、やめてくれ、嫌だ、嫌なんだ」
「何が嫌なの? 俺が酷い事をするのが? それとも別の事?」
大岡のアルファフェロモンが町田の心の深い場所を引きずり出そうとていた。無防備な場所を晒す恐怖に胸が締め付けられる。
「ねぇ、何が嫌なの?」
「君が、僕に好きだと言うから。そんな事言わないでくれ……!」
「どうして? 俺はこんなに慧が好きなのに」
ぼろり。町田の瞳の縁から大粒の涙が溢れた。泣くつもりなどないのに、次から次へと頬を伝って止まらない。
「君を、好きになってしまったから」
きつく噛み締めた唇を大岡の指がそっとなぞった。
「凄いよ、慧。分かる? 俺のフェロモンが絶対慧を放さないって言ってる。好きだよ。慧」
夢を見ているかのような口調だった。
町田は首を振り、必死に誘惑を拒もうとする。
「君はアルファだ。君にはオメガがいる。僕はベータだ。君には愛されない」
アルファとオメガの誘引関係にベータが入り込む余地はない。いくら愛を錯覚したとしても、オメガのフェロモンを前にすればそんなものは砂上の楼閣となり果てる。
オメガフェロモンを摂取した時にアルファの脳内で分泌されるドーパミンは恋愛感情を引き起こす。それは他の性別間の恋愛とは比べ物にならない強制力を持つ。
「分かってるよ。慧は信じてくれないって。だからヒートのオメガなんかに見向きもしないって所を見せるよ。そうしたら信じてくれるでしょ」
うっそりと笑んだ大岡が注射器を掲げる。
オメガの匂いを増幅させる薬剤はウルティモゲン製剤が考えられるが、合法薬ではない可能性も高い。何にせよ、ヒートのオメガに打てばただでは済まない。
「だめだ。どんな作用があるか分からないし、薬の乱用は危険だ」
「大丈夫だよ。店長丈夫だからさ」
「指導を受けていない非医療従事者が注射を打つのは法律に反する」
「へぇ。なら、慧が打ってよ」
「え……?」
「それなら大丈夫でしょ?」
注射器を握らせられる。
そのまま、初めての共同作業よろしく田辺の腕に切っ先を宛がわさせられた。
添えられた手に力が籠もる。注射器がワイシャツを破って皮膚に沈む。
田辺のどんよりとした瞳が町田を見上げた。急速に意識が引き戻される。
「大岡君ッ」
手を振り上げた弾みに注射器が部屋の隅へ転がる。
充満するフェロモンのせいで思考が鈍く錆びついている。大岡の言う事がすべて正しいかのように思えて、咄嗟に正しい判断ができない。反射に倫理や道徳が追い付いていなかった。
「まちだ」
田辺の唸るような呂律の回っていない声に呼ばれる。町田は脈を計るため、彼の首筋へと手を伸ばした。
「やめろ」
「でも」
「さわる、な」
田辺は緩く首を振って拒絶すると、苦しげに深く息を吐き出した。
フローリングには汗で小さな水溜まりができている。オメガはヒートになると直腸からビドロー腺液という自浄作用を持つ体液を分泌するが、その影響で涙や汗など他の体液も増加するのだ。
大岡は近くの壁に背を預け、二人の成り行きを見守っていた。
「これ、ぜんぶ、切って」
「分かりました」
カウンター越しに手を伸ばして町田はキッチンからハサミを手に取る。田辺はハサミが触れる僅かな刺激にさえ小さく吐息を漏らした。手首には抵抗の後が赤く残っている。
「抑制剤は」
「かまうな」
ダイニングテーブルに縋りながら田辺が力の入らない体を立ち上がらせる。
その肩を大岡が強く掴んだ。碌に力の入っていない体を反転させ、今まで寄りかかっていた壁に叩きつける。
町田の静止はする前に視線だけで制された。
「離せ、畜生ッ、ぅ、ぐ……」
むせ返るほどのオメガフェロモンを発しながら、田辺は大岡に抵抗し続けていた。黒い瞳に憎悪すら湛えて大岡を睨みつける。
「手前でした事の落とし前は手前でつけなきゃならない。そう言ったのは店長ですよ」
「ハ……なに、が、落とし前だ……都合よく、物を言うんじゃ、ねぇ、よ゛……」
「都合押しつけてんのはテメェだろ」
低く底冷えした声に町田は腹の奥がぞっと竦むのを感じた。恐ろしさと愛おしさが入り混じってまた思考がおかしくなる。
今まで大岡が見せる事のなかった本性に、完全に心が屈服していた。
「好きなように俺を利用してればいい。でも、俺の事に手出しするんじゃねぇ」
「ぁ、ア、この……ッ」
震える田辺の脚はもう殆ど体重を支えられていない。服を掴む手は引きはがそうとしているのか引き寄せようとしているのか分からなかった。
二人のもみ合いに胸の奥を締めつけられる。気が付けば考えるよりも早く町田は大岡に手を伸ばしていた。
「どうしたの?」
「大岡君……頼むから……」
「うん?」
「こんな事はやめてよ……僕が悪かったんだ。全部、僕が……だから、お願いだ……」
「慧が悪い事なんてなんにもないよ」
「嫌なんだ。僕のせいで君がこんな……」
脚から力が抜けて、ずるずると床にへたり込んでしまう。
「いいんだよ。これで慧が安心するなら、こんな事なんでもないよ」
大岡があっさりと田辺を解放する。膝をついて震えだしそうな町田の体を抱きしめた。頬に鼻筋に触れるだけのキスを繰り返される。
「大岡君、嫌だよ。こんなの。僕のせいで、君が汚れてしまうのは、そんなの、嫌だ」
つたなくなった言葉に大岡の目が丸くなる。情けないと思うのにどうしようもなかった。
表情を変えた大岡が目を細めて笑う。
「慧のそういうところ、好きだよ」
自然な仕草で唇が重ねられる。
触れた場所から蕩けてしまいそうに熱い。大岡の舌が歯の質感を確かめるように蠢いた。呼吸すら許されないようなキスに町田は必死になって応える。彼が離れてゆく時には舌で追いすがってしまうほど夢中になっていた。
「はは。慧、可愛すぎ」
「お、おか、くん……」
頬に耳朶に首筋に、大岡の唇が触れると体が戦慄いて深い場所に熱が溜まる。
その時、町田は臀部にある強烈な違和感に気が付いた。尻の割れ目が湿り気を帯びている。つい数時間前まで取り組んでいた研究が頭の中を駆け巡った。
アルファフェロモンによる機能の変化。
ビドロー腺液はベータでも分泌される物質だが、分泌量は然程多くない。肛門から滴るほどに分泌するのはオメガだけの特徴だ。
「だ、めだ。大岡君、離れて……」
「どうして?」
「ぁ、ぁ、僕は、僕は……」
燃えるような熱が体の奥から湧き上がる。知識では知っている。ヒートの兆候だ。それも、第三段階に入っている。本来ならば心拍数の増加や香りの発露が先にあるはずだが、異常な状況に気がとられて気がつく事ができなかったらしい。あるいはベータのヒートは第三段階から始まるのかもしれない。
「ん……慧の匂い。さっきから凄く濃くなってる」
恍惚とした声の大岡の鼻先が首に触れる。それだけで指の先まで痺れるような錯覚がした。
「オメガ、に、あぁ……」
「オメガ?」
「ドーパミンが、増え、て、君が、アルファだから……」
意味を理解しかねて顔を顰める大岡に、町田は唇を噛みしめた。それを咎めるようにまたキスをされてますます舌が回らなくなってしまう。
思うように伝えられない。それだけで涙がこみ上げた。
「そんな泣きそうな顔しないで」
「お、お、おか、くん、お、おか、く、ん」
「もしかして慧、オメガになったの?」
どうして彼には考えている事が分かってしまうのだろう。
何度も首を縦に振れば、大輪が咲くように大岡の顔に喜色が広がった。
「俺の事が好きすぎてオメガになっちゃったんだ。スゲー嬉しい」
「ぁっ! や、だめ、だっ……! はな、れて」
「どうして?」
大岡の指がワイシャツの上から脇腹をなぞる。それだけで体がびくびくと引き攣った。感覚が過敏になって、すぐにでも達してしまいそうだ。
ズボンの下では触られてもいないものが固く張りつめている。
「がまん、でき、ない……き、みを、おそ、て、し、ま、う」
「我慢なんてしなくていいんだよ。慧のヒートが終わるまで、何日でも、何週間でも一緒にいるよ」
「だ、めだ」
「何がだめなの?」
「ふじゅ、ん、だ」
たっぷり十秒以上かけて、大岡は噴き出した。
町田の体を抱きしめ、クスクスと喉を震わせる。
「あー、はは。笑ってごめんね。ただ、あんまりに可愛い事を言うから」
「ふつう、だ」
「そうかな。慧の普通は分かんないや。でも俺は可愛いと思うよ。愛してる。だから、俺とお付き合いして?」
町田の思考はもう跡形もなく煮崩れていた。深く考える事もせず何度も頷いてしまう。丸裸にされた本心が頼りなく震えていた。
「うん。世界一大切にする」
きっぱりと告げられた言葉はありふれているのに誠実そうに聞こえた。たとえ一時の夢なのだとしても今はそれに浸りきっていたい。
背中に回された大岡の腕に力が入る。かと思うと突然体が浮き上がった。横抱きにされて町田は目の前の首に抱きついた。
「お、大岡くんッ」
「大丈夫、落とさないよ」
言葉通り、力強い腕は少しも危なげない。
大岡が部屋の隅でうなだれる田辺へ目を向ける。
「出てけ」
不意に大岡が部屋の隅で息を殺す田辺を睨みつけた。
田辺の顔に憎悪と絶望が過る。しかし結局は何も言わず、ギリと唇を噛み締めるだけだった。今にも倒れこみそうな足取りで大岡の横を通り抜けてゆく。
「あっ、ま、って。駄目です。そんな状態、で……!」
「大丈夫」
身をよじった町田の動きを大岡が封じる。
「抑制剤もあるし、俺といる方がフェロモンの影響を受けて良くないから」
その言葉には妙な説得力があった。
始まったヒートを止める抑制剤などないのに、それなら大丈夫かと思わされてしまう。
大岡は勝手知ったる様子でリビングの奥にある寝室の引き戸を開いた。
電気をつけると部屋に置かれたベッドが目につく。冷え切ったそこに横たえられて、町田は腹の奥が切なく何かを求めるのを感じた。
大岡の髪の毛が首元に触れてぞわぞわとしたものが背筋を駆け上がる。べろりと鎖骨を舐められて、耐え切れず高い声が出た。
「あ、は、ぁあ……!」
ワイシャツのボタンが一つ一つ丁寧に外されてゆく。合間に降ってくる啄むようなキスは愛していると囁かれているかのようだった。
体の奥からビドロー腺液が溢れて止まらない。きっと下着の中は酷い事になっているだろう。
今まで異物など食んだ事のない場所が疼いて無意識に足を擦り合わせた。
「我慢しないで」
「あ、う、ぁ、あ、」
「慧……俺の、運命の番」
「お、おか、く、ぁ、ア!」
熱い手が薄い皮膚の下に隠された肋骨を確かめるように撫でていく。
「おぉか、く、も、いや゛、だ、やめ゛、て」
懇願する声は殆ど泣き声だった。
幼い子供をなだめるように頭を撫でられる。
「どうしたの」
「おか、しく、な、って、しま、う、か、らッ」
「慧……」
大岡が深いため息を吐いた。肺の空気をすべて出し切るようなそれに不安がよぎる。ベータの男が浅ましく欲に溺れている姿はさぞ見苦しいものだろう。
「ダメだよ、そんな事言っちゃ」
「え、ぁ、あ! ああッ!」
ズボンの上から強めに股間を握られて、町田は目の前が白く明滅するのを感じた。腰が勝手に跳ね上がり、快楽が雪のように溶けていく。馴染のある感覚に自分が絶頂に達した事を知る。
しかし、通常ならば訪れるはずの平静さは一向に訪れなかった。それどころか奥の秘められた場所が更なる刺激を求めてヒクついている。
大岡にズボンを開かれると、羞恥にカッと頭に血が上った。
「本当はもっとじっくり、頭の先から足の先までとろとろにしたかったんだけどね。もう、我慢、できないや」
下着をずり下げられる。射精を終えて萎え始めたものが暖かい粘膜に包まれた。達したばかりの場所には強すぎる刺激だった。
「そ、な、やめっ、て、ァッア゛~!」
甘く感じ入った声に大岡の瞳が細められる。
慣れない行為に流される。町田の体は素直だった。更なる快楽を求めて腰がベッドから浮き上がる。
大岡は喉の奥へ入ろうとする性器をいなしながら、中途半端な場所で止まっていた町田のズボンとパンツを完全に脱がせた。
遮るものがなくなって無防備に孔が晒される。濡れて光るそこに指が這うと、くちゅりと厭らしい水音が鳴った。
固く締まった場所に中指の先がそっと押し入ってくる。
「う、ぁ゛あ」
感じたこともない異物感と共に、紛れもない快感が背筋を貫いた。中から止めどなく粘液が溢れている。もっと奥に大岡を受け入れたいと深い場所が疼く。狭い場所を広げるように動く指がもどかしかった。
前と後ろ両方からの刺激に頭がどうにかなりそうだ。
性器からは白い濁った体液が粗相のように溢れ出している。精液にしては薄く、先走りにしては濃いそれは、射精なのか何なのかも分からない。
「ぁ、ア゛、も、いれ、て、ぉ、く、おねが、ァ、ぃ」
「はっ……まだ、ダメだよ。我慢して」
「きみ、が、ア! ほし、ィ、あッ! は、ァ!」
「っ、俺も、早く入れたいよ。でも、傷つけたくないから」
「ひど、い……こ、ん゛なッ」
濁った喘ぎ声を上げながら感情のままにしゃくり上げる。普段ならば絶対に言わないよう自分本位な言葉ばかりが口から零れた。
「ん、ふ、ァ、ぁ……は。ひ」
「二本目、入ったよ。分かる?」
大岡の問いにシーツに頭を擦り付けるように首を横に振る。下半身は既に麻痺してしまって快楽以外の感覚を拾わない。これもヒート時の特徴の一つだ。感覚は鈍麻するが、反比例して快楽だけは鋭敏に拾うようになる。
すでに飽和しそうな快楽の中、まだこの先があると思うとぞっとした。知識では知っているからこそ、未知の感覚があまりに恐ろしい。先を求める気持ちを恐怖が僅かに凌駕した。
「ヒ、ァ゛、ま、ま゛、って、お、ねが、」
「待ってるよ。いつまでも」
「あ、ぁ、あ゛!」
「だから俺に全部任せて」
大岡の指が柔らかな内壁を擦って押し広げる。二本の指ですら十分すぎるほど狭いそこは、なのにそれだけでは物足りないと収斂していた。
少し指を動かすだけで嬌声が出る。
たっぷりと粘液を纏った大岡の指が引き抜かれ、くちゅっと大きく水音が鳴った。二人の間を細い銀糸が繋ぐ。
「指、三本入ったら俺の入れてあげるね」
「も、むり゛、だ……できな゛い」
「じゃあ、どうしたい?」
大岡が欲しい、もうやめて欲しい、相反する感情に言葉が出ず、強く唇を噛みしめた。自分でも分からない感情で頭の中が占拠されている。ただ漠然と、いつも傍にいた寂しさという不安と恐怖だけが明確にあった。
熱と不安に溢れ出した涙を大岡が舐め取る。
腕に引っかかったままだったワイシャツやタンクトップを脱がされる。布が肌に擦れる感覚すら今は快楽に変わった。
「凄い。全身熱くて、火傷しちゃいそう」
「さむい、よ。さむ、い」
「じゃあ、暖めようか」
強く大岡に抱きしめられる。ワイシャツ越しとは思えない熱さなのに、体の芯が冷えてゆくのを感じた。逞しい背中に縋りついて鼻腔いっぱいにフェロモンを吸い込んでなお、冷えは消えない。
含むものを失った穴が切なさに泣いていた。
「お、ぉ、かくん、おおおか、く、ん」
「いいんだよ、何を言っても。俺が叶えてあげる。どんな君でも好きだよ」
愛しむように頭を撫でながら囁かれて、町田は大きく体を震わせた。どこまでも邪魔をする孤独への恐怖心が蜜蝋のように融けてゆく。
「なん、で、君、は」
不安に揺れる声は半ばで途切れた。
だが、音にならずとも大岡にはすべて伝わっていた。
「僕なんかが好きなんだ? って? それはね、臆病で、わがままで、優しくて、お人好しで、頭がよくて、善良だからだよ。それに、見た目も好き」
「ぼく、は」
「黒目の大きなところとか、鼻の曲線とか、硬い髪の毛とか」
瞼、鼻梁、汗ばんだ前髪に大岡の唇が降り注ぐ。嘘吐きと浮かんだ言葉は形にならずに吐息として吸い込まれた。
その間にも大岡の動きは止まらない。次々と町田の特徴を挙げてはキスを落とす。
「小さい唇も、良く動く喉仏も、肩の骨の形も。筋肉のないところだって、ちんこの形も好きだよ。これだけ勃ってるのに、あんまり亀頭は硬くならないんだね」
「ひ。ぁ。も、やめ、て……」
「真っ赤になってるところも可愛い。荒れた指先だって、長い指だって、もっとたくさん俺は言えるよ? それとも目に見えない場所がいい?」
「ぼく、が、わる、かった、許、して……」
「何にも悪い事なんてないよ。だから、許す事もない」
「そん、な」
「でも許してあげる。慧がそうして欲しいなら、何だって許すよ」
「あ、ア゛ァ゛!」
挿入された指に町田は大きく目を見開いた。大袈裟な水音が響いて、電流のような快楽が走る。放置されて油断していた後孔はあっさりと二本の指を飲み込んで、三本目すら咥えてしまった。やや強引に挿入された最後の指にも痛みはない。ただ物理的な圧迫感に呼吸が浅くなった。
「ぁ、はひ、イ、ァ、」
「ちゃんと、大きく息を吸って」
「は、ぁ、ぁ、」
「そう。いい感じ」
「ア、アッ」
三本の指がバラバラに動き回って体の中を押し広げる。腹側をくすぐるように撫でられると目の前に光が散った。
指を広げられ、内壁がひんやりとした空気に触れる。
ずるりと指が抜けていくのに町田は虚空へと手を伸ばした。
空を切りかけた手を掴まれて、握られる。
「俺はここにいるよ」
「ぉ、か、く、う、ぁッ、ア」
穴に大岡の先端が擦りつけられるだけでゾワゾワとしたものが全身を駆け巡った。つま先が丸まって、逃げを打つ脚がシーツに大きな波紋を描く。
「うア! あ、あ゛ッ! か、はっ――!」
一息に熱いものを押し入れられ、肺から空気が押し出される。
交合で一気に濃さを増した大岡のフェロモンにめまいがする。
それでももっと彼が欲しい。大岡に両手を回し、強く体を引き寄せた。
「は、やく、も、っとぉ、お、かく、ほしッ」
「ッ! 慧っ!」
「アア!」
強く腰を打ち付けられる。ただでさえ深い場所にあったものが更に奥へと侵入を果たそうとする。待ちわびていたものに中が蠕動して、余すところなくそれを堪能しようとしていた。
最早町田の理性は粉々だ。
「ぁ、ア! す、きだ、ぉ、か、く、すき、ぁ、あぁあ!」
「はっ、はぁ……っ! お、れも、好き、だよ。愛してるッ」
「ああ、あぁ゛あ゛アあ゛ぁア!」
最奥を強く押されて町田はガクガクと体を震わせた。
中が一際強く収縮して深い場所へと突き落とされる。もうこれ以上などないと思うのに、大岡が突き上げる度に体が熱を上げて止まらない。
彼とならばどこまでも行ってしまいたくて、無我夢中で大岡を求める。
「ぁ、あ゛、あ゛、ぉ、おッ」
「ふッ、ぅ、ぁ、はは……慧っ、俺の、俺の、番……」
大岡の肉食獣のような瞳が町田を見下ろした。距離を縮められて結合がより深まる。
「――ッ! は――ッ」
もう声すら出なかった。喉を晒して音なき悲鳴を上げる。
その無防備な喉元に、大岡の硬い歯が立てられた。恐怖はない。あるのは陶酔だ。
狭められた気道に掠れた呼吸を繰り返しながら、町田は大岡を受け入れた。
胸に彼のくすんだ金髪を抱きしめる。頭の中が幸福で占められて胸が詰まった。
「これで、ずっと、一緒だ」
満足そうに、幸せそうに大岡が笑う。彼と同じ幸福を感じているかと思うと、喜びに体が戦慄いた。彼の番になりたいと心から願う。
しかし、それは叶うはずのない願望で。ベータの体に番の機能は備わっていない。例えアルファフェロモンで内分泌系が変化しようと、それは一時的なものにすぎない。町田は子を孕めない。
番は婚姻とは違い、肉体の契約だ。子を孕めない番など枷になるだけだ。
「ぉ、おかくんッ、おお、おか、く、ん……! ほ、しい、ぁ、き、みが、お、くに、」
引き裂かれそうな心のまま、大岡を求める。
「慧ッ」
最奥を突き破られるのではないかと思うほど深く大岡のものが深くへと押し入る。ただでさえ中をみっしりと満たしていたものが更に膨張して、熱いものが中で弾けた。
女やオメガであれば子宮があるはずの場所に子種が注がれる。
「ぁ、あ、あ……!」
初めての感覚だった。ただでさえ限界に中を満たすものが膨らむのに、喉がヒュッと音を立てる。息苦しさに体が逃げを打った。
「ぁ、ぁ、お、おおか、くん」
「はは、楔化するのなんて、久しぶり」
「むり、むりだ、こわ、れるッ」
オメガと番ったアルファの根本は女性の拳ほどまでに膨れ上がる。それは受精をより確実にするための栓なのだが、到底十分に開発もされていないベータが受け止められるものではない。
鈍っていてもなお感じる痛みに体が強張った。
ベッドを蹴り上げ、何とか大岡から逃れようとする。
「あ゛う゛!」
熱いものに勢いよく後孔を擦られ、頭の芯が快楽で痺れた。大岡を咥え込んでいた場所から白いものがこぷりと溢れ出す。
種付けを邪魔された彼のフェロモンが不機嫌そうに揺れた。
「慧を壊したりなんかしないよ」
「むり、だ……ぼくは、オメガじゃ、ない。君のものは、受け止め、られない」
「でも、慧はオメガになったんでしょ?」
「フェロモンの受容と、分泌に対しては、限りなくオメガ、だ、よ。体の反応、も、オメガに近い……けど、基礎的な作りは、ベータのまま、なんだ、よ」
「どういうこと?」
「体は、そう簡単に、変わらない……僕は、君を受け入れられない、し、君の子供も産めない」
「俺は別に子供なんていらないけど。欲しいの?」
「……君の、子なら」
口走って、ハッとする。
見上げた大岡は欲に染まりきった顔で町田を見下ろしていた。その表情にまた体の奥が疼く。
「じゃあ、産めるようになろう」
「無理だ。僕は、ベータなんだ」
「でも、オメガになれたでしょ。きっと産めるよ」
「そんな事……」
「できるよ」
口元に笑みを浮かべた大岡が町田の耳殻に歯を立てる。僅かな痛みと共に快楽未満の悦楽が背筋を這い上がった。そのまま耳の形を確かめるように舌を動かされて、水音がダイレクトに鼓膜を揺らす。
そんな事は不可能だと分かっているのに、期待してしまう。
「ぅ、は、あ、あ、ぁ……」
「ゆっくり、時間をかけて、俺のものにするから」
「う、ぅ゛、ぁ、あ! ア!」
再度、解けた穴に大岡のものが押しつけられる。そのまま固い先端をぐぷぐぷと潜り込まされて、また目の前が白く弾けた。腹の中で彼の形がハッキリと分かる。
高みにまで押し上げられた町田の体は小刻みに震えていた。ガチガチになった性器から勢いなく精液が溢れている。それは尾を引くような絶頂だった。
すでに快楽は許容を超えているのに、与えられない最奥への刺激に満足できない。いくらでも彼が欲しかった。
「あ゛、ぁっ、ぁっ、もっ、とッ、おく、ぅ」
「いつか、一番奥まで俺でいっぱいにしてあげる」
「は、ひ、ィ゛、あ、ァ」
柔らかく浅い場所を突かれ、快楽が幾重にも広がってゆく。
全身で大岡の熱を感じながら、町田は深い場所へと沈んでいった。
繋がったままの大岡が噛み痕のついた首筋を舐める。そのくすぐったい感覚に町田は体をよじった。
「大岡、くん」
先ほどまで覚束なかった呂律はかなりしっかりとしていた。フェロモンも薄まり、頭がハッキリとしている。
先ほどまでの行為を思い出すと自分が口走ったことの数々に後悔が湧く。どうしてあんな事を思ったのか分からない。だが、紛れもなくすべて本心だった。
大岡の動きだしそうな気配に町田はかすれた声でストップをかけた。
「もう、いやだ」
「疲れちゃった?」
それだけではなかったが、確かに疲れてもいた。行為を始めて大岡は四回、町田は三回射精をしている。オメガとアルファの行為では少ないが、ベータの行為ではかなり多い。
町田が首を縦に振ったのに大岡がいまだ勃ち上がったものを抜く。
「分かった。今日は終わりにしよう。楔も消えたしね。でも楔化したら普段はもっと続くんだけど、なんでだろう」
「それは、僕がベータだから」
「オメガになったんじゃないの?」
「疑似的に、ね。君の精液を摂取したから収まったんだと、思う」
大岡が少し残念そうに「そっか」と呟く。その顔に本当にオメガになれたらいいのにと思って、愕然とした。自分の思考が恐ろしい。
「次はもっと、戻れなくなっちゃうくらいどろどろにしてあげるね」
耳元で囁かれて中が締まった。すっかり彼に絆されている。感覚をやり過ごすために細く息を吐き出した。
「次はないよ」
「どうして? 恋人なのに?」」
「ベッドでの言葉は本気にしない方がいいよ」
我ながら似合わない言葉が出た。しかしそんなことは意に介さず彼は笑う。
「でも、慧が俺の事を好きなのは本当でしょ?」
「勝手な事を言わないでよ。君に僕のなにが分るんだ」
殊の外強い拒絶が出た。それに自分で驚いて逃げるように大岡から体を離す。
「帰って」
後孔から精液があふれ出るのも構わずに町田は寝室を出た。
いつも腰の支えにしているクッションを胸に抱き、机に突っ伏す。結局、昨晩帰って眠りにつけたのは二時近くになってからだった。
重い疲労が全身にまとわりついている。
身支度を整えて家路につくのが酷く億劫だ。このまま研究室に泊まってしまおうかと机の下にある寝袋に視線を向ける。そんな事をしても疲労が蓄積するだけだと浅はかな考えは却下する。
往生際悪く身じろぎすると、何かに腕が当たって積み上げた論文が崩れる音がした。深くため息を吐く。
扉の開く音に視線を動かした。入ってきたのは、院生の吉川だった。彼は同じ研究室に所属している先輩で、何かと良くしてくれている。彼は奇抜なところのない、誰でも親しみやすい穏やかな風貌をした人だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ。なんか本当に疲れた顔をしてるね」
彼はこういう事によく気が付いた。
「昨日寝たのが遅くて」
「何かあった?」
「課題が終わらなくて」
実際は大岡について考えていた時間の方が長いのだが、彼の事を言うには説明が難しかった。それに、町田自身どうしてあんなにも大岡の事が頭から離れないのか分からない。
吉川が「そうなんだ」と相槌を打つ。
「大変だったね」
「量は大したことなかったんですけど、なかなかはかどらなくて」
肩をすくめる。実のところ課題は十五分もあれば終わった。
「無理はしないようにね。睡眠不足は脳にも心臓にも悪いよ」
「吉川先輩こそ、まだバイトしてるんですよね?」
吉川は薬学部の学生にしては珍しく修士二年生になってもアルバイトをしていた。薬学部は研究や実習で時間の融通が利かないため、学部一年か遅くても二年の頃には辞める学生が多い。
詳しく聞いた事はないが、彼は夜勤の接客業をしているらしかった。
「俺は大丈夫だよ。夜勤だけど早上がりさせてもらってるし、昨日も休みだったしね」
「いいバイト先ですね」
「まぁ、ね」
断言はしかねるような言い方だった。それでも肯定して曖昧に笑う。
「疲れてるなら早く帰った方がいいよ。もう授業はないんでしょ?」
「そうします」
いつまでもここで時間を潰していても仕方がない。町田は腹の前で両手を組み合わせ、腕を伸ばした。肩甲骨の辺りが凝り固まって張っているのが分かる。
今日こそは湯船に浸かろうと決意して、浴槽用の洗剤が切れていたのを思い出した。
* * *
おかえり、その言葉を聞くのはどれくらいぶりだろうか。上京して以来だから、四年か。
自宅の前でニコニコと笑みを浮かべる大岡に困惑を隠せない。ダークスーツの青年が家の前で待ち受けているのは、まるで借金の取り立てか何かにあっているかのようだった。
町田が近づくと隣家のポーチライトがぼんやりと灯る。暗い光が二人の影を不鮮明に床へ落とした。
「どうしてここに……?」
「慧が会いに来てくれそうにないから俺が来ちゃった」
「家を教えた覚えはないですけど」
「調べたんだよ」
「調べたって……どうやって」
「ヒミツ」
これ以上問い詰めるべきではない、そう思った。彼と関わってしまった数週間前の自分が恨めしい。どうやら大岡はとんでもない相手であったらしい。
「俺と会いたくなかった?」
「いや……」
「嘘つかなくていいよ。ねぇ、何が嫌だった? もしかして、慧ってタチ?」
「そういう問題じゃないです」
「あー、なるほど。慧はセックスは好きな相手とって考えの人なんだ」
的確に表現された言葉はとても女々しく聞こえた。しかし、それは正しい道徳観で、恥じる事は何もない。つまらない奴だと笑われる事には慣れていた。
この発言には恐らくアルファとベータの性質の違いも関係している。アルファやオメガは性欲が強く、不特定多数との性交渉に抵抗が少ない。一方でベータは性欲が薄く、恋人や配偶者との性交渉を好むとの研究結果があった。
「その通りです」
「そっかぁ」
予想に反して、大岡は町田を笑いはしなかった。代わりに困ったように視線を彷徨わせ、頭を掻く。右へ流したオールバックが少し乱れた。
「どうしたら慧と仲良くなれる?」
「僕と?」
「そう」
「……どうして」
「いい匂いがするから」
鋭利な目が町田の視線を捉える。己の意思を押し通そうとする時のアルファ特有の目をしていた。フェロモンが強まり空気が皮膚にまとわりつく。アルファフェロモンには慣れているつもりだったが、ここまで強い緊迫感を感じるのは初めてだ。
「落ちついて下さい」
「落ち着いてるよ」
「なら、僕に言う事を聞かせてやろうとするのはやめて下さい」
「じゃあ、どうしたらいい?」
突き放すような口調にも大岡は怯まない。むしろ距離を詰めて迫ってきた。近寄られた分だけ後ずさり、再び同じだけの距離を取る。
「たしかにこの前は助けてもらいました。でもいきなり押しかけられるのは困ります」
「もしかして怒ってる? ごめんね? でもその顔も好きだよ」
話の通じなさにぞっとしない。家の特定など彼にとってはなんでもない事らしかった。
「僕はあなたと関わる気はありません」
「今日は冷たいね」
つつ、と大岡の指に頬を撫でられる。それだけで体が痺れるような感覚がして動くことができなくなった。
「じゃあさ、セックスが駄目なら友達になろうよ」
「友達?」
彼がなにを言い出したのか分からなかった。困惑した町田を置いて大岡は続ける。
「そ。友達。それなら?」
「僕とあなたはそんな間柄じゃないでしょう」
「だからこれからそうなろうよ。ね、慧」
一歩下がった大岡が握手を求めるように右手を差し出す。先ほどまでの緊迫感から一転、蠱惑的なフェロモンが辺りに漂った。こんなにもフェロモンにあてられる経験は初めてで脳の働きが鈍る。
しばしの沈黙の後に、町田は大岡の手を取っていた。そうしなければならない気がしたのだ。握手だなんておかしな感じがする。
もうすぐ冬だというのに彼の手は暖かく、肌に染み込んでくるかのようだった。
* * *
友人になるにあたり、町田は大岡とある約束を交わした。会うのは木曜日の十九時、待ち合わせは駅前のオブジェの前で、というものだった。何も条件をつけずに友人になってしまえば彼の思う壺のような気がしたのだ。
木曜日を指定したのはその日は唯一授業がなく、研究や実験をしていても他の曜日よりも比較的早く帰宅する事ができるからだった。授業のある日は実験が長引く事もあり、帰る時間を決める事が難しい。
今日は彼と会うようになって三回目の木曜日だった。約束通り駅前へ向かって歩いてゆく。閑散としていた道は駅に近づくにつれてだんだんと人気を増した。
大して親しくもない男二人が会ってする事と言えば食事くらいのもので、約束の場所で落ち合っては外食をするのが恒例になっていた。自分と食事をして何が楽しいのか分からないが、今のところ大岡は欠かさずやって来ている。
目印のオブジェの傍らに彼の姿が見えた。白と黒ばかりの人ごみの中であの金髪は一際目立つ。
いち早く町田に気が付いた大岡が飛び跳ねん勢いで手を振った。
町田は遅刻こそしないものの、到着時間には余裕を持たないタイプだった。早く着いてしまった時の手持無沙汰な時間が苦手なのだ。本を読んで中途半端に終わるのも嫌だし、スマートフォンを弄っているのもつまらない。
そのため、大岡と待ち合わせた三回とも彼より後に到着していた。
「おまたせ」
「慧のためなら何時間でも待つよ」
笑いながら、しかし真剣な声で大岡が言う。まるでどこかの忠犬だと町田は少し失礼な事を思った。
「慧、何か食べたいものはある?」
「いや、これといってないけど……君は?」
「俺は慧のおすすめが食べたいな」
「おすすめ……たまに行く店ならいくつかあるけど……嫌いなものは?」
「特にないよ。あ、でも店とは近くない所がいいな。知り合いに会いたくないからさ」
「なら蕎麦屋にしよう」
駅前の大通りを東へと進んだところに時折行く蕎麦屋があった。大学とも適度に離れていて、自身としても丁度いい。学校の近くに住むのは概ね便利だが、知り合いとの遭遇率が高いという点では不便だった。
二人は並んで大通りの方へと歩き始める。
大人しそうな町田とやんちゃそうな大岡の組み合せは異質で、周囲とは明らかに浮いていた。親密という訳ではなく、かといって見ず知らずという訳でもない、中途半端な距離感も馴染まない要因の一つだろう。
町田が案内した蕎麦屋は路地裏にある雑居ビルの一階のくたびれた店だった。駅からある程度離れているためいつも空いていて、大学の人間と会った事もない。
町田は天ぷら蕎麦を、大岡は親子丼と冷たい山かけ蕎麦をそれぞれ注文した。
「そういえば慧って何を勉強してるの?」
「僕は創薬学だよ」
「そうやく?」
「簡単に言えば薬を作ったり、調べたりする学問」
「そうなんだ。そういえば、うちの店にも薬の研究してるって奴がいるっけ」
「大学生?」
「多分ね」
大岡の返事はそっけない。町田が自分以外の人間に興味を持った事が面白くないらしかった。
「趣味はあるの?」
話が百八十度転換する。
大岡は何かと町田の事を知りたがった。
「趣味は、これといったものはないけど、調べものは好きかな」
「ネットサーフィン?」
「いや、図書館で」
「本かぁ。慧って頭いいんだね」
「僕なんか平凡だよ。本を読んだって分からない事が増えるばかりだしね。読んだって分からない事もある」
「分からないのに読むの?」
「分からないから読むんだよ」
「変わってるね」
言われ慣れない言葉に町田はどんな顔をすればいいのか分からなかった。今までの人生で変わっているなどと言われた事はない。
困惑していると大岡は「その顔、かわいい」と満足げに笑みを浮かべた。その意味も分からなくてますます困る。かわいいとは如何なる意味であったか、自分の中の定義が揺らいだ。
「ねぇ、慧の事もっと教えて?」
「教える程の情報なんて何もないよ」
「あるよ、いっぱい。誕生日は? 歳は? 好きな食べ物は? ね? 教えてよ」
「そんなの……知ってどうするの? 暗証番号でも抜き取られるの?」
「それもできるかもだけど、違うよ。慧を知りたいだけ。それに、そんなパクられるような間抜けな真似、俺はしないよ」
屈託のない言葉に気まずさを感じる。
理屈も下心もなく相手の事を知りたいと思う気持ちは町田にも分かる。しかし、どうしてそれが自分に向くのか、理解できなかった。平凡なベータである自分に強いアルファである彼が執着する気が知れない。物珍しがられているのだろうか。彼とは対極にある、あまりに平凡なベータというものを。それが好意と似ていて、彼も自分も勘違いをしている。
そう思うのに絆されそうになる自分が恨めしかった。深入りして傷つくのはもうごめんだというのに、ままならない。
たった一人の肉親に置いて行かれた時に強く思ったのだ。二度とこんな思いはしまいと。
自分から興味を逸らそうと逆に大岡のことを訪ねてみる。
「僕の事が知りたいなら、まず君の事を教えてよ」
「俺? いいよ。俺はね、五月二十二日生まれ、二十一歳、血液型はAB型、身長は百八十センチ、好きな肉の部位はミスジだよ。仕事は黒服。たまに借金の取り立てとか」
「待って待って。よく知りもしない相手にそんな簡単に話しちゃ駄目だよ」
「今から知るから大丈夫だよ。慧」
大岡がねだるように「ねぇ」と首を傾げる。言外に次は君が教える番だよと言われているのが分かって、逃げ道を塞がれたと気づく。そんなものは元から用意などされていなかったのかもしれないが、今となっては分からない。
「誕生日は、二月十七日。歳は二十三。好きな食べ物は、なんだろうな……サンドイッチとかかな。これで満足した?」
「誕生日二月なんだ。三か月後だね。何か欲しい物ある?」
「いや。ないよ」
「時計とか、財布は? 現金でも俺はいいよ」
「もう誕生日を喜ぶような歳でもないし」
「どうして?」
物をもらうほどの仲ではないと言っていいものか悩んで、やめた。
「申し訳ないから」
「申し訳ない? 俺がプレゼントしたいのに?」
「気持ちだけで十分だよ」
「何か」
話を遮るように蕎麦が運ばれてきた。
町田の前に天ぷら蕎麦が、大岡の前には山かけ蕎麦が置かれる。飯物はできあがるのに少し余計に時間がかかるようだった。
「本当に欲しいものないの?」
まだその話をするのかと町田はややうんざりした。
一方でそこまでして知りたいのなら適当に教えてやろうかとも思い始める。
「どうしてそんなにこだわるの?」
「記念日は大切にしなきゃでしょ? 特に慧が生まれた日なんだから」
大岡の目がじっと町田を見つめる。これは言わねば解放されそうにない。
「強いて言えば、黒のゲルボールペンが欲しいかな。使いやすいやつがあるんだけど、切れそうで」
あまりに大したことのない物に大岡が唇を尖らせた。その子供じみた仕草に町田は失笑する。
プレゼントで喜ばせたいという幼さと合わさって、妙な愛しさが込み上げてきた。心臓の奥がそわそわとして、なんだか落ち着かない。
「慧って物欲ないタイプ?」
「そうかも」
「俺はたくさんあるよ。ジュピターの革靴に、この前発売した新作ゲームに、時計に、掃除機に、洋服とか」
視線を上に向けて指折り欲しいものを数える大岡の無邪気な表情についつい見惚れてしまう。
するりと大岡の指先が手の甲に触れた。
「でも、やっぱり一番は慧かな」
油断も隙もなかった。
「照れてる?」
「いや……困ってる」
「慧はすぐに困っちゃうんだよね。そういうところ、かわいいと思うよ」
彼の言う「かわいい」は「マジ」とか「ヤバイ」とか、そういうものの一つなのだろう。いろいろな意味を含んだ便利な言葉で、特に深い意味はないのだ。
「君が困らせるような事ばかり言うから」
「そうかなぁ。じゃあ困らない事を聞こうか。慧の身長は? 何センチ? これなら困らないよね?」
「百六十七センチくらいだよ」
春の健康診断で出た数値を思い出す。毎年数ミリの誤差はあれど、百六十八を超えた事はなかった。
「かわいいね。足のサイズは?」
「今の靴は二十七センチ」
「俺と一緒だ。俺の方が高いのに」
大岡が驚いたように目を瞬かせる。
「足のサイズと身長はあまり比例しないよ」
「そうなの?」
もりもりと食べる大岡の蕎麦はもうすぐなくなりそうだった。
「二、三センチは誤差の範囲だから」
「そっかぁ。嬉しいね」
「なんで?」
「俺と慧の靴のサイズが一緒なんだよ? それってスッゲー嬉しいでしょ」
意味が分からず険しい顔をすれば反対に大岡は心底愉快そうに笑い声を上げた。
店中の視線が二人に集まる。
ちょうど親子丼を運んできた店員がおずおずと二人の間にそれを置いて立ち去った。
「何がそんなに面白かったの?」
「慧は本当に何でも困っちゃうんだなぁって思って」
「君は……からかわないでよ」
「からかってないってば」
人が困っているのを笑うのはからかっている以外の何なのか。町田はそう思うが、大岡にそんなつもりは本気でないのだろう。
彼とはあまりにも価値観が違って理解が及ばない事だらけだ。それが少し面白いと感じている自分がいた。
大岡が大きな口で親子丼を頬張る。蕎麦はもう全て彼の胃の中に収まっていた。
「深い意味なんてないよ。慧と共通点があって嬉しいだけだよ。慧は俺が慧の事をすごく思ってるって信じられないんだよね? だから訳が分からないんでしょ」
自分は彼の事は何も分からないのに、彼はまるで自分のことを何でも知っているかのようだ。見透かされているとも違う。握られているというのが一番しっくりくる感覚だった。
* * *
第一性は授精時に精子と卵子が持つ染色体によって決まり、第二性は第二次成長期頃に性別ホルモンが分泌され始める事によって確定する。
性別ホルモンにはソルゲンとウルティモゲンの二つが存在し、前者はオメガフェロモンの分泌に、後者はアルファフェロモンの分泌に関係した。ソルゲンしか持たない個体はアルファに、ウルティモゲンしか持たない個体はオメガとなり、両方を持つ個体はベータとなるのだ。
第二性の割合はベータが六割を占め、残り四割をアルファとオメガがおよそ二分していた。
町田は現在、第二性に係るフェロモン受容の差異について研究をしている。誰が嗅いでもおよそ同一に感じられる臭気に対して、フェロモンは嗅ぐ人間によって強さも香りも大きく変化する。その原因を究明するというものだ。
「今大丈夫?」
「はい」
夕方の実験室で声をかけてきたのは吉川だった。タイミングを見計らって話しかけてきたのだろう。作業していた香り成分の合成に丁度ひと段落ついたところだった。
「今日の飲み会の場所だけどさ」
「飲み会……? 今日でしたっけ?」
「そうだよ。十五日」
「あー、あ、あ……」
完全に失念していた。そもそも、この約束をいつしたのかすら思い出せない。他のゼミ生にしつこく誘われて頷いたのは覚えているが、いつ日付が決まったのだったか。何にせよ、うっかりしていた。
今日は木曜日なのだ。大岡との約束がある。
「今日はちょっと、用事があるんで……」
「えっ。でも町田君合わせの日程って聞いたけど」
吉川の表情が曇る。彼にしては珍しい、本当に困ったような表情だった。
「ですよね……」
渋る町田にみんなが日程を合わせて今日の飲み会の日が決まったのだ。それをドタキャンはいただけない。
「それに参加者が増えたから人数分の予約しちゃったんだよね」
「そうなんですか?」
「彼が聞きつけたみたいで」
吉川が彼、と視線を向けたのは物だらけの机に向かう学生、根室だった。アッセイと呼ばれる化合物の評価結果を熱心に見ている。
長い前髪と分厚い黒縁眼鏡が大人しい印象を与える彼だが、実際は驚驚嘆すべき社交性を持ち合わせていた。大学の誰もが友達を数人辿れば彼にたどり着けるだろう。
話の矛先が自分に向いた事に気づいた根室がすかさず顔を向けてくる。使い古された椅子がギシリと音を立てた。
「ははは、すまんなぁ! 吉川さん達が飲み会やる聞いて、ついみんなに話してもうて」
集中していたように見えたが、しっかりと会話も聞いていたらしい。アルファには多かれ少なかれこうした器用さがある。
「吉川先輩に聞かれたのなら仕方がないですね……」
「呆れんとってよ町田君! 楽しみは皆で共有せんと! それに、人数多いほうが楽しいやろ?」
「うーん」
町田は唸った。あまり大勢での集まりは好きではない。だからゼミでの飲み会もなるべく断っていたのだ。
「俺は今回は教授も来るって聞いてそれを言いふらしたばあよ。教授もひとっちゃあ飲みに来おへんから、みんな参加したがって」
根室が仕方ないと言わんばかりに首を振る。町田もだが、ゼミの教授も飲み会には参加したがらない人だった。それが今回は参加するらしい。
「もちろん町田君も参加するやろ?」
「分かりましたよ」
「よかった。場所は後でメッセージ送っておくから」
吉川が安心したように笑う。
「いやぁ、めでたい! 記念に馬サーの奴らにも声掛けしよか!」
「おい。これ以上増やすなよ。予約の数とかあるんだから」
早速スマートフォンを取り出した根室を吉川が止めた。
「馬サーおると盛り上がんで? 馬サーは明教大、いや、地域一の乱痴気騒ぎサークルやから。ちなみに、我が柔道部は涙涙のワースト二位や」
「余計な気遣いはしなくていいから」
吉川が呆れたように言う。
「僕ちょっと外に出てきます」
町田は二人を後目に実験室を出た。重い足取りで人気のない廊下の奥へ向かう。
白衣のポケットから角の削れたスマートフォンを取り出してメール画面を呼び出した。今時、大岡はメッセージアプリを使っていない。
タイトルに『今夜の食事について』と入れて本文を打ち込む。
謝罪と簡単な事情の説明だが、端々に残念さが滲み出た文章ができた。それを見て自分が想像以上に彼との夕食を楽しみにしている事に気づいてしまった。
少し悩んで文面を作り直す。本文から無駄な感情を削り、あくまでも事務的な内容に変えた。
最後にもう一度タイトルと本文を確認して、送信ボタンをタップする。
連絡先の交換はしていたものの、実際に大岡へメールを送るのはこれが始めてだった。
よく知らないテレビの話題、興味のない分野についての話、少しばかりの噂話。会話の何もかもがつまらない。だから飲み会は嫌いなのだ。町田は好きでもないチューハイを一口飲んで、大量に余っているサラダを自分に取り分けた。これなら大岡と食事をする方がずっといい。
町田に合わせて開催された飲み会の割に、肝心の町田は吉川が時折話を振ってくる以外は隅で黙って話を聞き流していた。
彼らは別に町田に参加して欲しかったわけではない。研究室のメンバー全員で飲み会をするという事実が欲しかっただけなのだ。団結感とか、そういうものを得るために。
大岡なら他でもない、町田自身を必要としてくれるのに、と女々しい考えが頭をよぎる。
仄かに薄荷の香りが鼻をかすめた気がした。
ガラリと音を立ててチェーン居酒屋の安っぽい個室の戸が開かれる。何か注文したものが来たのかと視線をやった全員の動きが止まった。来たのは店員ではない。三つ揃えのダークスーツを着た、背の高い金髪の青年だった。部屋を間違えていますよ、とも誰も言えない。それほどまでに彼は堂々として、威厳のようなものを纏っていた。
彼の目が個室の隅にいた町田を捉えて柔らかく緩む。
「見つけた」
「お、大岡君……! どうしてここに」
その場にいた全員の視線が二人に注がれる。それまでの喧騒はどこかへ吹き飛んでいた。
「なかなか来ないから心配で探したんだよ。でもフェロモンが分かる範囲にいてくれてよかった。俺との約束、忘れちゃった?」
「今日は急用ができていけないと、メールを送ったけど……」
まさか送れていなかったのだろうか。しかし電波が悪い訳でもなかったし、送信完了画面はしっかりと確認した。
大岡は笑顔だがその下の真意までは読めない。怒っているのだろうか。
「ふぅん」
彼が興味なさそうに鼻を鳴らす。
「俺との約束を蹴ってまでやるのが他の奴との食事ってこと?」
明確に威嚇されている訳ではない。だが、彼の発する威圧感にじっとりと首筋に汗が浮かんだ。
それは研究室の面々も同じようだった。大岡と同じアルファも多いのに、誰一人として身じろぎすらできないでいる。
「前々から約束していたのを忘れてたんだ。ダブルブッキングになってしまって……ごめん……」
メールだけではなく電話もすべきだったか。しかしそこまで面倒を見てやる必要はあるのだろうか。そもそもこんな飲み会よりも君といる方がずっといいと思っている。そんな取り留めもない考えが頭を巡った。
「分かった」
大岡が引き下がるのはすぐだった。個室の扉を開けっぱなしにしたまま悠然と去っていく。ほんの少しだけ、このまま連れ去ってくれればいいのにと思った。
彼が去った後もしばらくは彼のフェロモンが残って微妙な緊迫感が漂っていた。
すっかり空気の冷え切った飲み会は、あの後ほどなくして解散となった。明日以降、どんな顔をして大学へ行けばいいのだろう。そんな事を煩悶しながら自宅へ戻る。
マンションの廊下を曲がった所で町田の動きは一瞬止まった。大岡が部屋の扉に背中を預けてしゃがんでいる。どうしてそんな場所にいるのか。
恐る恐る近づくと声をかけるより先に彼が顔を上げて表情をほころばせた。
「待ってたよ」
今現在、時刻は二十一時を少し過ぎたところだった。大岡の乱入からほどなく帰宅しているとはいえ、冬の風は十分に冷気をはらんで体を芯まで蝕む。スーツしか着ていない大岡の耳や鼻などの末端はすっかり赤らんでしまっていた。
町田は急いで家の鍵を開けると、中へ大岡を招き入れた。電気をつければ切れかけた白色電球が二人を出迎える。
「どうしてこんなところで……寒かったでしょ」
「まぁね。でも慧を見たら全部吹き飛んじゃった」
「君はすぐにそういう事を……こんなに冷えてる」
町田は少し高い場所にある大岡の頬に触れた。生きている人のものとは思えぬほどに冷たい。
「何か暖かいものを出すよ」
玄関にカバンを置くと、町田ははやる気持ちを押さえて洗面所へ入った。いつもより素早く手を洗ってゆく。
手のひら、手の甲を揉み、親指から順に指を一本ずつ洗ってゆく様子を大岡は珍しそうに後ろから見ていた。
「もしかして潔癖症?」
「いや。そういう訳じゃないよ。これは癖みたいなものかな」
薬学部では実験室に菌を持ち込まないよう手洗いを徹底的にする。出先から帰った時にこうして手を洗うのは最早習慣だった。
最後にうがいをして、町田は大岡に洗面台を譲った。
「夕飯はまだだよね?」
「うん」
何を作ろうか思案しながらキッチンへと向かう。その後を大岡がついてきた。
「手洗いとうがいは?」
「俺はいいよ」
「それはよくない。外から帰ったらちゃんとした方がいいよ」
「うーん。慧はそうして欲しい?」
「うん」
「分かった。慧がそう言うならいいよ」
大岡が洗面所へと戻るのを確認して、町田は今度こそキッチンに入った。
洗面所から聞こえてくる水の流れる音をBGMに冷蔵庫を開いて中身を確認する。ニンジン、キャベツ、玉ねぎ、ベーコンが残っていた。冷凍庫には昨日炊いた白米もある。トマトソースの缶も買い置きがあり、リゾットならば作る事ができそうだった。
食材を取り出し、調理台の上に並べる。
手始めにベーコンを刻んでいると、手を洗い終えた大岡がキッチンへと入ってきた。
「洗ってきたよ」
大岡がまだ水気の残る両手を町田に見せる。どこか誇らしげな顔だった。
「そっちの方がいいよ」
「分かった。次からはそうする」
子供とするような会話だ。大岡はこういう常識的なところが少し抜けていた。あるいは町田とは違っていると言うべきか。
「少し待っていて。リゾットを作るから」
「料理できるんだ。すごいね?」
「一人暮らししてるとね」
「へぇ」
脈絡なく首筋に鼻を寄せられて、町田は驚きに身を強張らせた。皮をむいていた玉ねぎがゴトンと音を立ててシンクへ落ちる。
「何……」
「慧、お酒飲んできた?」
「あぁ……後で着替えるから、嗅がないで」
アルファの習性とはいえ、体臭を嗅がれるのはあまりいい気分ではない。一日の終わりともなれば汗や皮脂の臭いが鼻につくだろう。ましてや大人数での飲み会の後だ。
「もう少しだけ。慧からいつもよりもっと、いい匂いがする」
「いい匂い?」
服を嗅いでみるが、酒と油の混ざった臭いがするだけだった。
「分からないや。大岡君はにおいに敏感なのかな?」
そう口にして、ふと彼からいつも感じる香りを思い出した。爽やかな、よく香る、でも強すぎないあの匂い。
「君はいつもいい香りの香水をつけてるよね」
「香水? 俺は香水なんてつけてないよ」
「じゃあ柔軟剤か何かかな。エルメントールとオクタン酸エチル系の匂いだ」
「メントールってリップクリームの?」
「入ってるものがあるね。これは……何だったかな。ど忘れした。あの、パフェの生クリームの上とかに乗ってる、緑色の葉っぱ」
玉ねぎを洗いながら町田は適切な言葉を探して眉をしかめた。酔いが回っていてすぐに単語が出てこない。
「ミント?」
「そうだ、ミント、薄荷だ。エルメントールは薄荷から取れる香り成分でね。爽やかな香りがするんだよ。オクタン酸エチルはアンズの砂糖漬けみたいな、甘い匂いのこと」
町田の説明に大岡がおかしそうにくすくすと笑う。
「そんなに難しい説明はできるのにミントが思い出せないなんて、面白いね」
「今は酔ってるから、普段使わない単語が出てこなくて」
ニンジンのヘタを切り落として、包丁で皮を剥がしてゆく。皮が薄く長く連なるのを大岡は感心したように見ていた。まじまじと作業を見られているとどうにも落ち着かない。
町田は一度包丁を置いてコーヒー渋のついたカップを手に取った。そこミルクを入れて、電子レンジで三十秒加熱する。新しい台布巾でカップを包み、大岡に差し出した。
「リビングでこれでも飲んでて。体が温まるよ」
「わあ、ありがとう」
大げさに喜んだ大岡がコップを受け取る。それから流れるように町田の頬に口づけた。
「はっ?」
急なキスに町田は固まる。それから一拍遅れて動き出した頭がアルファはスキンシップを好む個体が多いと情報を吐き出した。
大岡は何事もなかったかのようにキッチンカウンターの向こうへと移動している。
「慧がお酒飲むの以外だな」
「まぁ……ある程度はね」
あまりに自然に会話を続けられて今のは錯覚かとすら思う。けれど頬には唇の柔らかな感触と、湯を垂らされたような熱が確かに残っていた。彼に気に入られて喜ぼうとする本能を理性で抑え込む。
おかしかった。オメガはアルファに気に入られる事に対して喜びを感じるようにできている。群れのボスに気に入られればよい生活が送れるという太古の記憶が本能に刻まれているからだ。だが、町田はベータだった。
「慧は飲まない人だと思ってた」
「自分ではあんまり飲まない事にしてるんだ」
「どうして?」
問いかける大岡の口調はいつもの軽薄なものとは違うように聞こえた。例えるなら獲物を狙う狼のような獰猛さが薄く透けている。
妙な緊張感があった。
作業に没頭する事でそれを振り払おうとするが、自分で作業しているのにも関わらず人参を切る規則的な音が耳についた。
「アルコールを飲むと頭の回転が悪くなるから。色んな事が思い出せなくなる。さっきみたいに」
普通に会話をしている自分が不思議だった。突然キスをするのは失礼だと言おうと思うのに、舌に乗らない。
「ふぅん。じゃあさ、俺の名前、分かる?」
「君は大岡君でしょ?」
「下の名前は?」
「夕貴君」
「覚えててくれたんだ。呼んでくれないから忘れちゃったのかと思った」
「忘れないよ。あれは随分衝撃的だったから」
「そっか」
ふと大岡の口調が甘く緩む。
「じゃあ何を忘れちゃっても大丈夫だよ。俺の事だけ覚えていて?」
「そんな訳にはいかないよ」
いつもの雰囲気を取り戻した彼に胸を撫で下ろした。彼が狼なら町田はガゼルだ。ひとたび睨まれれば恐怖に立ちすくみ、その鋭い牙が身に沈むのを待つしかない。
鍋をコンロに置いて火をかけた。バターを入れ、食材を軽く炒める。
「あは、その顔、すっげーそそる。ねぇ、番になろうよ」
あっけらかんと告げられた言葉をすぐには飲み込めなかった。自分とは無関係な行為に頭がついていかない。
言葉の意味を理解してなお、発言の意図が分からなかった。
「大岡君……君は僕を、」
オメガと勘違いしているんじゃないか、と言うことができなかった。言ってしまえばこのまやかしのような関係が崩れてしまうような気がして。
「あれ? もしかして怒らせちゃった? そんなつもりはなかったんだけど。ごめんね」
殊勝な顔をした大岡がカウンターの向こうから機嫌を窺うように首を傾ける。
沈黙を続けていると白いカップを持った彼がキッチンへと戻って来た。
鍋に入れたトマトソースがふつふつと小さく音を立てている。出しておいた白米を投入すればその冷たさに波が引くように気泡が消えた。
「怒ってはいないよ」
何とか言葉を絞り出した。
「慧の事、好きだよ」
「大岡君」
「ちゃんと意味、伝わってるよね?」
口に弧を描く大岡の目は笑っていない。時折覗く鋭い視線が町田を捉えていた。
空になったカップがシンクへと置かれる。わざとらしく大きな音がした。
「ごちそうさま」
大岡がゆっくりと町田との距離を詰める。
「オメガとかベータとか関係なく、俺は慧が好きなんだよ」
「それは、駄目だ」
キッチンの奥に追いつめられて逃げ場を失う。
指一本触れられていないのに、体を押さえつけられているかのようだ。アルファフェロモンによる威嚇。ベータであってもハッキリと感じる強さだった。
「どうして?」
「君はいつか、僕を捨てる……」
大岡の目が大きく開く。数度瞳を瞬かせて、彼は笑い声を上げた。
風船がはじけるように圧迫感が消える。
今の瞬間、町田の性は大岡の持つ強力なアルファ性に完全に屈服していた。
「あー、ははは。本当に、慧は最高だなぁ」
「僕と君は……友達だ」
覆いかぶさろうとする大岡を押しのけて、町田は沸騰する鍋を確認した。ステンレス製の鍋底は幸いにして焦げついていない。
白米はまだ完全には解凍しきっておらず、もう少し煮詰めなければならなそうだった。
「いいよ。慧がそうしていたいなら。
今はね」
「ずっと、そうだよ」
祈るような気持ちで鍋をゴムべらでかき混ぜる。こんな気持ちになるのは、彼に惹かれる気持ちがあるせいだ。それはもう言い訳のしようがない。だが、彼の遊びに付き合うほどの余裕が町田にはなかった。いつか彼に見捨てられてしまうのなら、傷は浅い方がいい。
白米が完全になじんだのを見計らって、コンロの火を止める。仕上げにコンソメと塩コショウで軽く味を調えた。味見をすれば可もなく不可もない味が舌の上に広がる。
「できたよ。できる限り多めに作ったつもりだけど、足りなければ何か買ってくる」
ひっそりと深呼吸を繰り返しながら白い深皿にリゾットをよそう。
「大丈夫だよ。それより俺は慧と食べたい」
「僕はもう食べてきちゃったから」
「いてくれるだけでいいよ。俺とおしゃべりしよう」
「分かった」
町田は大岡を普段使っているダイニングチェアへと座らせて、自身は隣の寝室から勉強用の椅子を持って来た。
あの威圧感が消えた事にひそかに安堵する。
「うまっ!」
リゾットを食べた大岡が声を上げた。
「すごい! おいしいよ!」
「ならよかった」
どうしてこうも彼の言葉に心が動かされるのだろう。頬が緩みそうになるのを抑え町田は角を挟んで大岡の隣に座った。単身者用のダイニングテーブルは狭く、膝が触れ合いそうだ。
「慧も食べてみなよ」
「いや、僕はさっき味見したから」
可もなく不可もない味である事は知っていた。味見をするのは大岡も見ていたはずだ。
しかし、差し出されたスプーンに拒否を受け入れる様子はない。仕方なく手を伸ばすと、それを避けて口元へと向けられた。このまま食べろという事らしい。
逡巡の間も大岡は当然とばかりに町田を待っている。
結局、考えても何か浮かぶ訳でもなく、町田はそれを食べた。
「どう? おいしい?」
「不味くはないと思うけど……」
特筆して感想もない。いつか見たレシピ通りに作っているのだから、その通りの味がした。
「俺は慧の料理好きだよ」
「そっか……嬉しいよ」
たとえお世辞だとしても胸の奥が仄かに温もる。褒められた事そのものより、彼に言われた事が嬉しかった。
「そういえば慧、俺にメールしてくれたんだよね」
大岡が思い出したように話題を変える。
「ああ。見ていなかったみたいだけど」
「俺、スマホ持ち歩かないんだよね。メールとか電話とかめんどくさいしさ」
今時スマホを持ち歩かない人間がいるのか。それでは実質、連絡手段がないのと同じではないか。今後も今日のような行き違いがあるのかと思うと気が重くなった。
「俺が持ってるの店長から渡されたやつでさ、GPS入ってるんだよね」
大岡から何度か「店長」については聞いた事があった。奔放な性格の大岡にはほとほと手を焼いているようで、聞く話のほとんどが怒られた、というものだった。彼の話をする大岡はいつも如何にも面倒くさいと言わんばかりの口ぶりをしている。
「前にスマホ店に置きっぱにしてたら女の子に持ってかれちゃった時があったんだけど。どうしてお前のスマホがキャストの家にあるんだって店長マジギレでさ。時々、位置情報見てるっぽいんだよね」
「えっ」
スマホを勝手に持っていかれる事も、GPSで監視されている事も、町田の理解を超えていた。ただ驚くしかできない。
「なんとかね。キャストに手ぇ出すと罰金がヤバくてさ。急いでそのキャストをシメて事情を説明させられたからよかったんだけど」
「シメてって……」
「ああ、そんな酷い事はしてないよ。ちょっと脅かしたらすぐ、他のキャストに嫌がらせしようとしたら間違えたって白状してくれたから。結構キャスト同士での争いって多いんだよね」
大岡は物騒な話をさも当然というように話す。煌びやかな夜の世界の裏側では人間同士の醜い争いがあるらしい。その辺り、触れない方が賢明だろう。
「ごちそうさま」
大岡が空になった器を置く。多めに作ったつもりだったが、なくなるのはあっという間だった。
「少なかった?」
「平気だよ。肉があると嬉しかったけど」
「次は用意しておくよ」
自然と「次」と言う言葉が出ていた。
「楽しみだな。肉じゃなくても慧が作るものなら何でも嬉しいけどね」
「君は肉が好きなの? 前に好きな肉はミスジだって言ってたけど」
「覚えててくれたんだ。奢られるなら肉だけど、一番好きなのは茄子だよ」
「茄子?」
意外な食べ物だった。どちらかといえば大岡は野菜よりも肉を好むような気がしていた。
「漬物とか味噌汁とか、おいしいなって」
「そっか。じゃあ次は肉と茄子で何かを作るよ。機会があればね」
「本当? 嬉しいなぁ。楽しみにしてるね」
「うん……」
すっかり絆されている。よくない傾向だ。大岡の興味から生まれたこの関係は遅かれ早かれ終わりを迎える。見たところ彼は熱しやすく冷めやすい。一つの事にいつまでものめり込む町田とは正反対だ。
それに、ベータである町田にアルファの彼を繋ぎ止めるだけのものは何もなかった。時間が経てば経つほど辛い思いをするのは自分の方だ。
彼の光に呑まれる前に手を離さなくてはならない。町田は人一倍、人との別れを恐れる臆病者だった。
* * *
テーブルを拭いていると大岡と田辺の揉める声が聞こえてきた。吉川が顔を上げると丁度田辺の硬い膝が大岡の腹にめり込むところだった。二、三歩よろけた大岡が痛みに顔をしかめる。それから不服を隠しもせずに田辺を見た。そんな事ができるのはこの店では彼だけだ。
田辺が大岡の顔にタバコの煙を吹きかける。彼の吸うそれは鼻の曲がりそうなほど臭い。
閉店の準備をする従業員達は二人の揉め事に巻き込まれないよう誰もが遠巻きに我関せずを決め込んでいた。巻き込まれれば理不尽な目に会うと誰も分かっている。
「お前さぁ、最近遅刻多すぎ。毎週毎週、注意したよな? それなのに昨日は無断欠勤? どういうつもりだ? 俺はお前をまともな大人にしてくれって社長に頼まれてるんだよ。 時間くらい守ってくれないと困るわけ」
「はい」
「適当な返事してんじゃねぇよ」
田辺の掌が大岡の頬を打つ。肌と肌がぶつかって乾いた音がした。
「俺がこの一年お前に何してやったか全部忘れたか? 俺は朝な夕なお前と一緒にいてお前のクソみてぇな時間感覚を矯正してやったよな?」
「俺はアンタのクソみたいな臭いを我慢してますけどね。そのタバコ止めたらどうですか?」
今度は拳が飛ぶも大岡には当たらなかった。決して生温い攻撃ではなかったが、それ以上に避けるのが速かった。
「やっとまともに敬語が使えるようになってきたってのに、その性格だけは少しも変わりゃしねぇな。いっちょまえに喧嘩だけは強くなりやがって。俺とお前、どっちが上か分かってんだろうな?」
「店長です」
「だよなぁ。俺は店長、お前はボーイ。じゃあなんで俺の言う事が聞けないんだ?」
「そんな義理ないからですよ」
平然と言い切った大岡からぶわりと強いアルファフェロモンが漏れ出す。店の隅々まで威圧するようなそれは、アルファですら戸惑いを覚えるほどだった。
耳をつんざくような音が店内に響く。
見ればオメガの従業員が腰を抜かしてアイスペールをぶちまけていた。アルファフェロモンに当てられて急性ヒート症状を起こしかけている。
店内で身動きが取れるのは大岡の外に田辺とあとは吉川だけだった。ベータの従業員も全員動きが止まっている。
「逆らってんじゃねぇよ」
それまで冷ややかな表情を浮かべていた田辺の顔があからさまな怒りへと変わる。
さっきよりも大振りな拳が大岡を襲った。しかし感情に任せた一撃は隙が大きい。大岡は右手で田辺の肘を押さえて拳を止めた。無防備になった胸元へ身を寄せる。左手で田辺の細い腰を抱き寄せて首元に顔をうずめた。ワイシャツのカーラーの上から首筋に歯を立てる。
犬が上下関係を示すような行為。それはアルファが自らの番を作る行為でもあった。番はアルファがオメガのうなじを噛む事で成立する関係を言う。
オメガはヒートと呼ばれる発情期間に入ると誘淫作用のあるオメガフェロモンを分泌し、生殖相手を引き寄せる。このフェロモンは番を持たないオメガのものは不特定多数に作用するが、番を持つと特定のアルファ以外には作用しなくなる。ただし、一度番になるとオメガはその後二度と新たな番を作る事はできなかった。
屈辱的な示威行為に田辺の手から短くなったタバコが転げ落ちる。
「ッの、やろ……!」
田辺が大岡のベストの背中を強く引いた。抵抗なく、すんなりと彼が離れる。
「この世は弱肉強食、なんですよね?」
「お前は弱者、だろうがッ」
「店長もでしょう」
それが普遍の事実であるかのような言葉に、田辺の瞳に強い怒りが滾る。だがそれはほんの一瞬で。大きく息を吐いて視線を伏せ、次に前を見た時には寂寥とした暗い目が戻っていた。
「確かに、お前にゃ何の義理もねぇだろうよ。自分の親がこさえた借金なんぞお前は気にしないだろうからな。だがな、そんなのは関係ねぇんだよ。社長がお前を気に入って、お前の親の借金を肩代わりした。そこにお前の意思なんていらねぇ。社長がお前を気に入った時点で、お前に拒否権なんてありゃしねぇんだよ」
「俺は社長より強いのに?」
「アルファ性だけ強くたって何にもなんねぇよ。組の奴等が本気で片付けようと思やぁお前なんぞ一瞬だ。現に、お前は俺すらどうにもできてねぇだろうが。力づくで支配できるのなんざ、オメガか精々力の弱いベータだけだけんだよ」
「じゃあ、俺じゃなくたっていいですよね? そんなに役に立たない俺なんか気にしなくていいじゃないですか」
「分かってんだろ。馬鹿なふりして屁理屈捏ねてんじゃねぇよ」
張り詰めた糸が切れるように店内の空気が緩む。そこにいた全員の肩から力が抜ける。ただ一人、大岡だけが変わらない。
「俺は誰かにこき使われるなんて真っ平だよ。今アンタについてるのはアンタと遊ぶのが楽しかったからだ。俺はいつアンタと離れたっていいんですよ」
「いつまでもヌルい事言ってんなよ。痛い目見る前に気づいとけ。俺はなんだってやるぞ」
「今更?」
「町田慧」
突きつけられた名前に再び大岡のフェロモンが溢れ出す。威嚇を通り越して殺気のようだった。
「男、ベータ。明教大学薬学部、内分泌生体薬理学教室所属の四年生。毎朝十時に家を出て、早ければ十八時には帰宅。遅い日は零時を過ぎる事もある」
田辺がつらつらと個人情報を並べ立てる。
「二十三歳、二月十七日生まれ。身長百六十七センチ、体重五十八キロ。ぱっとしない見た目だがツラはいい。お前好みだな?」
最後は嘲るような口調だった。
大岡が田辺の胸倉を掴み上げる。怒りによって増幅したフェロモンは息苦しささえ感じさせた。
先ほど倒れたオメガはいよいよ限界が近いようだった。これ以上は危険と判断した吉川はオメガに肩を貸してバックヤードへと向かった。
「携帯さえ置いてきゃ分からねぇと思ったか? そういう所が浅はかなんだよ」
田辺の拳が大岡の腹へめり込む。
無駄のない鋭さで放たれたそれに、さすがの大岡も怯んだ。胸倉を掴む手が緩み、田辺が素早く身を離す。
「店の女に手ぇ出さなきゃ仕事以外の時間に何してようが構わねぇよ。毎日女取っ替え引っ替えしようが、それが男だろうが、百歩譲って俺の家でヤってようが許してやる。だがな、仕事にだけは支障を出すんじゃねぇ」
田辺の声は裏にまで聞こえていた。
吉川はオメガに水と、念のために抑制剤を飲むように促した。ひとまず落ち着いたところでしばらく安静にするように伝える。
表に戻ろうとしたところでバックヤードに入ってきた田辺と鉢合わせた。それと同時にけたたましい音が響き渡る。何事かとホールを見れば足の細い丸テーブルがリノリウムの床を転がっていた。
足元まで来たそれを起こして元あった場所へと置き直す。これを蹴ったであろう大岡は仁王立ちで貧乏ゆすりをしていた。
「吉川、お前、町田慧って知ってるよな」
いきなりの言葉にテーブルを整える手が止まる。彼に町田と顔見知りだと話した事はない。なるべくなら大岡には知られたくなかった。アルファの独占欲ほど厄介なものはない。
「知ってますけど、そんな話しましたっけ?」
「そこの大学で薬の勉強してんだろ」
「ああ、なるほど」
確かに近くの大学に通っている事は彼に話した事があった。彼の中では大学も中学や高校と変わらぬ認識なのだろう。
「今回はたまたま知ってましたけど、大学は通ってるだけで学生全員と顔見知りって訳じゃないですからね。一応言っておきますけど」
「慧の近くにカタギじゃねぇ奴っている?」
「さぁ……見ただけじゃ分からないですよ」
「ならいい」
用済みだとばかりに大岡が手を振る。
あまりのぞんざいさに吉川は思わず苦笑した。とはいえ無理に会話を繋げる必要も感じず、素直に店内の清掃作業へ戻った。
大岡と働き始めてもう二年は経つが彼との仲は一向に深まらない。殆ど毎日一緒に働いているのだから、もう少し親しくなっていてもいいと思うのだが。それだけ吉川に興味がないのだろう。大岡は遊ぶつもりのない相手には概してそうだった。遊び相手にはとことん尽くすが、それ以外にはにべもない。
その点、田辺だけは特別だと言える。二人の間には何か特別な関係があった。それは徹底された上下関係だったり、肉体関係だったりと複雑だ。
肉体関係については今も続いているのかは分からないが、吉川の知る限り一度は確実にあった。それに気づいている人間は今のところは他にいない。
大岡と田辺に関してはあまり首を突っ込むなというのが店の暗黙の了解だった。田辺のバックには明らかにアンダーグラウンドな人間がいる。時給だけはいいこの店で上手くやるコツは他人に無関心でいる事だった。
「おい」
雑巾を水で濯いでいると大岡に呼ばれた。
「慧に何かあったらただじゃ済まねぇからな」
それはともすれば田辺と近しい吉川への牽制だった。吉川は特別田辺に肩入れしているつもりはないのだが、他所からはどうもそう見えるらしい。
たしかに個人的な頼まれ事をしてはいるが、金銭は受け取っている。つまるところバイトの延長に過ぎないのだ。しかしそんな説明で彼は納得しないだろう。重要なのは彼にどう見えるか、どう思うかなのだから。
「困ったな」
頭を掻くと切ったばかりの髪が掌にチクチクと刺さった。
* * *
研究室に入ると、机に向かっていた吉川が大きく伸びをしていた。町田は後ろからその背中へ声をかけた。
「お疲れ様です、吉川先輩」
「ああ。お疲れ」
手を振った彼は心なしか元気がない。
「どうかしたんですか?」
「いや、アッセイのパラメーターの設定が悪かったみたいでさ。今回の化合物はリードから選び直さないと駄目っぽいんだよ」
化合物は合成する前、コンピューターを用いてシミュレーションを行う。その際にいくつかのパラメーターを設定するのだが、今回はその数値が間違っていたらしい。
パラメーターは過去の実験結果に基づいて設定される予測値で、実際のアッセイとでは結果が異なる場合がある。
「やっぱり吸入式の抑制剤って難しいんですね」
「吸入式は未知の領域だからねぇ」
現在流通しているオメガの抑制剤はすべて錠剤型のものだった。それで問題があるわけでもなく、広く流通している。
「なんで錠剤じゃ駄目なんですか?」
「錠剤式だとオメガの匂いまでは隠せないだろ? オメガである事まで完全に隠す事のできる抑制剤を作りたいんだよ」
「なるほど」
高い志だ。
手探りの状況から始めたという吉川の研究は、今や現行の錠剤式抑制剤と肩を並べるほどの効果が見込まれている。とはいえ、まだ副作用が強く、臭いや服用回数が課題として残っていた。
彼の抑制剤は薬自体の臭いが強く、流通すれば結局はオメガである事が分かってしまう。また、一日に三十本もの薬を吸い続けなければ効果が持続できない点にも問題があった。
吉川がアッセイの結果が印字された紙をまとめて束ねる。それから時計を見たのにつられて町田も時計へ目を向けた。
十八時三十六分。大岡との約束まであと二十四分しかない。今すぐ大学を出ても間に合うかどうかという時間だ。
「わ。もうこんな時間。僕、そろそろ行きます」
「うん。じゃあ」
「はい。さようなら」
目的だった本の返却をして、町田は急いで学校を出た。いつもは駅まで徒歩なのだが、今日はちょうどもうすぐ来るバスに乗ることにした。
普段は十五分ほどかけて歩く道のりも、バスにかかればたったの五分だ。
「お、町田君やん」
バスを降りてしばらく歩いたところで名前を呼ばれる。呼んだのは大岡ではない。誰かと周囲を見回せば、果たして声の主は根室だった。
茶色のダッフルコートを着た彼が近づいてくる。
「今帰り? 今日は早いんやね」
「ちょっと用事があって。根室先輩はこれから大学ですか?」
「そそ、六限。あと卒業研究もせんと」
「大変ですね」
「来年は町田君の番やでぇ」
薬学科は薬剤師になるための長期実習が五年時に行われるのだが、学生はそれと並行して卒業研究も行わなくてはならなかった。
「単位はもう足りてるんで大丈夫なんですけど、実習が心配です」
「大変やぞー」
脅かすような口調で根室が言う。芝居がかったその仕草がよく似合った。
「じゃ、俺、そろそろ行くわぁ」
「はい。六限頑張ってください」
軽い別れの挨拶をして根室と別れる。
時計を確認すると時刻はもうすぐ十九時になるところだった。
「今の、誰?」
アルファ特有の重みを含んだ声にゾッと背筋が震える。驚いて振り向けば背後に大岡が立っていた。
「顔見えなかったけど、男の、アルファだったね?」
「ゼミの、先輩です」
圧迫感に息が詰まった。空気が水飴のようにどろりと重い。
「ふぅん。仲、良さそうに見えたけど」
「同じ研究室なので……」
「あんな顔初めて見たな」
冷汗が背を伝った。今まで彼が見せてきた威圧感は戯れのようなものだったのだと思い知らされる。
どんなに理性を保とうとしても彼の言葉に従い降伏したくなる。欲求に喉がごくりと音を立てた。
「大岡君……」
「ねぇ他は? どんな顔をするの?」
「やめてよ。こんな場所で……」
異様な空気に先ほどから人々の視線がちらちらと痛い。時間が時間だけにその数は決して少なくない。
唯一、大岡の威嚇が自分だけに向いている事だけが救いだった。こんなものを不特定多数に浴びせれば間違いなく大きな騒動になる。
「ごめんね? でも嫉妬しちゃうな」
「嫉妬……?」
彼は何を言っているのだろう。
「そう。だって、二人凄く仲が良さそうだったから」
「そんな、普通だよ」
町田には見ただけで仲の良し悪しを断じる理論も、誰かと一緒にいただけで嫉妬する感情も分からない。おかげで彼をどうなだめればいいか見当もつかなかった。
そんな二人の緊迫した空気を壊したのは低い間延びした声だった。
「夕貴クーン。何してんの?」
慌てるでもなくゆっくりと歩いて現れた男の腕が大岡の首に回る。それだけで息も詰まる程だったフェロモンが一気に薄まった。
「申し訳ありません。ウチの大岡が」
「えっと……」
「初めまして。そこのキャバクラ、オーデンセで店長やってます、田辺です」
真っ白で一切の飾り気がない名刺を手渡された。大岡の持っていたショップカードとは全く趣が違う。
「店長はすっこんでて下さい」
「お前、先戻ってろ」
「でも」
「いいから。走れ。分かってんだろ」
有無を言わせぬ田辺に大岡は渋々ながら従った。名残惜しげに視線を残して、繁華街へと走っていく。
町田も無意識に彼を目で追っていた。
そんな視線を遮るように田辺が間に割り込んできてハッとする。自分は今、何と思おうとしていたのか。
「さて、ウチのがご迷惑をかけたようで。途中までお送りしますよ」
「いや」
「遠慮なさらずに」
押し問答はするだけ無駄のようだった。口調は丁寧だが断固として意思を曲げる気配がない。どこか大岡と似た雰囲気があった。
「町田君は、ウチの店はいらした事ないですよね」
二人並んで雑踏を繁華街へと歩く。名前を知られている事に戸惑った。
「まだ学生ですし、あんまりそういうお店に興味がないので……」
「学生さんもたまにいらっしゃいますよ」
「そうなんですか……」
田辺の横はどうにも居心地が悪かった。
オーデンセの裏を過ぎた辺りで彼がワイシャツの胸ポケットから革製のシガレットケースを取り出す。底を叩いて飛び出た一本を咥えて、火をつけた。
ヘキサノールやエタンチオールの混ざったような臭いが鼻を掠める。どこかで嗅いだことのある臭いだった。
「どうしてアイツの事を拒まないんです?」
問う田辺は口調こそ変わらないものの、表情は酷く冷たいものになっていた。
「拒む理由もないので……」
「アイツの事好きになっちゃいました?」
「僕は、ベータですよ」
「分かってるじゃないですか。なら話は早い。アイツとはもう金輪際会わないで下さい」
「は……?」
脈絡なく聞こえる言葉に気の抜けた音が出た。なぜと聞き返す事すらできず、無言のまま路地を抜ける。
目の前を空車のタクシーが通り過ぎた。ヘッドライトに照らされた影が鳥のようにアスファルトの上を飛び去ってゆく。
「今はひなびたキャバクラで黒服なんかしてますけどね。アルファなんですよ、アイツは。この意味、分かります? 大学生にはピンと来ませんかね?」
町田の沈黙を肯定と捉えた田辺が言葉を続ける。
「アンタのエリート大学にはアルファはいっぱいいるんでしょう。でもね、普通はそうそういるもんじゃないんですよ、アルファってのは」
「それは、分かります」
ベータやオメガに比べ、アルファの大学進学率は異様に高くなっている。そして、その進学先の多くが難関校と呼ばれる大学だとの統計があった。町田の周りにいる教授は九割が、生徒も半分以上がアルファだった。
職業別に見ても医者や弁護士、政治家といった社会的地位のある職業はほとんどがアルファで占められている。
「アンタ、アイツの事どれだけ知ってます?」
「……ほとんど、何も」
彼について知っている事といえば名前や誕生日くらいのものだった。どこで生まれ、どう生きてきたのか、何も知らない。それは当然で。誰も自分と会っている時以外の相手を知る事はできない。
だが、田辺は違うのだろう。彼はきっと、大岡のすべてを知っている。
T字路で田辺が立ち止まった。
それに合わせて町田もまた足を止める。
この角を曲がればもうすぐ家だった。
「あの大学の学生だなんて立派じゃないですか。この先も平和で、クリーンに生きていきましょうよ。アイツとは関われば関わるほど自分からは縁が切れなくなりますよ」
「彼は一体……」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼすって、言うでしょ?」
言い聞かせるような口調だった。町田の知らない暗澹をほのめかされる。裏社会というものが実在するのか、町田には分からない。しかし、あるとすれば田辺は間違いなくそちら側の人間だ。
そして、大岡も。
億劫そうなどんよりとした瞳が町田を見下ろした。睨まれている訳でも、フェロモンで威嚇されている訳でもないのに、後ずさりしたくなるような迫力がある。
「夕貴はウチの社長のお気に入りでね。もう後戻りなんてできない場所にいるんです。夕貴の為を思うんなら、アンタが関わらない事が一番だ。ベータなんかにアイツの人生をめちゃくちゃにしてもらっちゃ困る」
それに、と田辺が続ける。
「アイツはアンタを面白がってるだけですよ。恋愛ごっこをしているガキなんです」
突きつけられた現実は冷酷だった。そのくらいは分かりますと言ってやる気力も出ないほどに。
冷たいフローリングに転がって、そこら中に落ちた髪の毛をぼうっと眺める。思えばもう一か月近く掃除機をかけていない。
頭の中では「アンタを面白がってる」という田辺の言葉が無意味に回り続けていた。
コートもシャツも脱ぐのが億劫で、急に重力が増したかのように体が重い。壁際に放り捨てた鞄の中にはやるべき事がまだ残っているのに、動く気力が少しも湧かない。
小さく体を曲げて、固く目を瞑った。
* * *
「は……?」
顔を強張らせた大岡に、なるべく淡々と同じ言葉を繰り返す。つけ入る隙を見せる訳にはいかなかった。
「もう君と会うつもりはない。絶交だ」
「どうして? 俺、何かした?」
急激に大岡の発するアルファフェロモンが濃さを増す。今日は家に呼んでおいてよかったと心底思った。
平静を装いはしたが町田の心臓は早鐘を打って、額には脂汗が浮いている。心臓に爪を立てられているかのような緊張と、自身の内にある形の見えない恐怖に足の先から血の気が引いた。
「店長に何か言われた?」
ガタ、と椅子の脚が床を擦る。立ち上がった大岡がゆっくりと近づいて来た。
「君の事を聞いたよ。奨学金の事もあるし僕はリスクのある相手とは関わりたくない」
用意しておいた嘘は思っていたよりもすんなりと口から出た。我ながらこじつけ過ぎる、酷い言い訳だったが。
「じゃああの店辞めるよ。店長とももう会わない。店長は社長と盃交わしてるけど、俺はやってないからさ。簡単に抜けられるよ」
「嘘だ。彼らが君をそう簡単に手放すとは思えない」
そう言うと強く顎を掴まれ、俯いていた顔を力任せに持ち上げられた。その瞬間、音が消えた気がした。柔らかいものが唇に押し当てられて息が止まる。
口の中にぬるりと舌が入って歯列をなぞる。逃れようと手足を暴れさせれば、ただでさえ強く香っていたアルファフェロモンが体を押さえつけるように増した。抵抗しようという思考が薄れて、全身から力が抜けてゆく。底の知れないフェロモンの強さに、頭の芯が戦慄いた。被支配欲に溺れそうになる。
初めて彼に恐怖を感じた。
しかし、行動の乱暴さに反して彼の舌を吸い、唇を舐める動作は堪らなく甘い。腹の奥に響くような燻りを感じて、町田は咄嗟に大岡の胸を強く押した。
じゅっと下品な音を立てて大岡が離れる。
「なにするんだっ!」
「好きだよ、慧。愛してる」
「やめてくれっ! 頼むから……」
大岡の胸に縋った手は震えて、声は泣き出しそうな音をしていた。
もうこれ以上彼の言葉を聞いていたくない。それなのに何もできない自分に嫌気がさした。
「分かった」
あっさりした返事に町田の手は呆気なく滑り落ちた。言いようのない悲しみが胸の内を覆う。
大岡がどんな顔をしているのか、見当もつかない。俯いたまま、自分の膝を見つめるしかできなかった。自分は無力で、何もできない、つまらない人間だ。やっぱり、大岡には釣り合わない。
どれほどそうしていたのか、次に顔を上げた時、大岡の姿はなかった。
* * *
薬品を秤量して、乳鉢で混ぜる。神経を使う作業だが、町田は実験の中ではこの作業が一番好きだった。頭を使わない訳ではなく、かといって複雑な思考や緊張を強いられない。
「町田君、最近熱心だね」
何の脈絡もなくかけられた言葉に反射で「うん」と頷いて、我に返った。
振り向けばすぐ後ろの台で吉川が顕微鏡を覗き込んでいた。
「何かあったの? この一週間ずっと大学にいるらしいじゃん」
「あぁ、いや。ずっとではないですよ。ただ、新しく調べたい事ができて。今やってる研究とは関係ないことなんですけど」
「それ、アルファとオメガのフェロモンだよね?」
「はい。今までの定説だとオメガフェロモンはリリーサーフェロモンで、アルファフェロモンはオメガに対してプライマーフェロモン、ベータに対してはリリーサーフェロモンな訳ですけど。もしかするとアルファフェロモンはベータに対してもプライマーフェロモンの作用を持つんじゃないかと思って」
リリーサーフェロモンが他者に特定の行動を起こさせるのに対し、プライマーフェロモンは受容した個体の機能に影響を与える。これまでの研究ではアルファフェロモンは受容した者に被支配的思考を引き起こすリリーサーフェロモンと同定されていた。
しかし、町田は長期間多量のアルファフェロモンを摂取する事でベータの内分泌系に変化を与えるのではないかと考えたのだ。
「具体的にどんな変化が?」
「まだ仮説ですけど、アルファホルモンが減少してオメガホルモンが増えるんじゃないかと」
「そうすると、ベータが疑似的にオメガになるって事? でもヒートが来る訳じゃないし、何か変化が?」
「それが、調べてみたらベータがヒートに似た症状を起こしている症例がいくつかあったんです。原因は不明らしいんですけど、何か関係があるのかもと思って」
「よくそんな事に気が付いたね」
「まぁ……」
実体験からとは言えなかった。ヒートまでは起こしていないものの、大岡のフェロモンを浴びた時の状態は明らかに正常ではなかった。
薬剤を試験管に入れ、蓋を閉める。反応が起こるまで少し待たなければならない。
吉川の方を見ればいつの間にか作業を終え町田の方を向いていた。
先輩に心配をかけてしまうとは情けない。しかし、頭を使っていないと脳が勝手に大岡の事を考え始めてしまって駄目なのだ。
終わりの見えていた人間関係で、あまりにも情けない体たらくだった。
二十三時五十二分。日付を跨ぐ少し前、町田は家の前に立っていた。実は研究室に泊まろうかとも思ったのだが、帰宅する吉川に釘を刺されたのでやめた。
差し込んだ鍵を回すと妙に感触が軽かった。不審に思いつつ逆に回せばガチャリと音が鳴る。念のため夜気に冷えたノブを引けば、やはり鍵が閉まっていた。
出かける時に鍵を閉め忘れたのか。
不思議に思いながらもう一度鍵を差し込もうとすると、それよりも早く鍵が回った。
勢いよく開いた扉に総毛立つ。
「おかえり、慧」
「は……」
笑顔で顔をのぞかせたのは大岡だった。
替えていない玄関のライトが薄暗く明滅していた。開いた扉から砂糖菓子と果実の甘さが混ざったような香りが漏れ出してきている。
「入って」
強い力で手首を掴まれ、家の中へ引きずり込まれた。靴を脱ぐ間も与えられず、廊下で何とか脱ぎ捨てた。
奥に進むにつれ匂いはどんどん強さを増してゆく。まるで部屋の中に匂いの発生源があるかのようだ。
嫌な予感に額に汗が滲む。この甘い香りはオメガフェロモンに間違いなかった。しかも、この濃度は発情したオメガのものだ。
だが、それにしては大岡があまりにも平然とし過ぎている。オメガのフェロモンはアルファの性衝動を強く誘発する。これだけの香りの中では番でもいない限り、衝動に抗えないはずだ。ベータである町田ですら欲求を引き出されている。
そんな悠長な考えは大岡がダイニングの扉を開いた瞬間に全て消し飛んだ。
「驚いた?」
「大岡、君」
声が震える。
殺風景なリビングの真ん中に両手足を縛られた黒髪の男が転がっていた。猿轡と目隠しで分かりにくいが、間違いなく、田辺だった。
忙しなく背中が上下している。生きてはいるが平常な状態ではない。
「何……」
「大丈夫。ほら、座って」
愛を囁くように優しい声も今は恐怖しか感じない。言われるがまま、田辺はダイニングチェアに腰を下ろした。
指の先が震えるほど心臓が激しくのたうっている。
「店長が慧に言ったんでしょ? 俺ともう会うなってさ」
否定も肯定もできず、かと言って黙っている事も恐ろしい。
大岡の意図も、これから何をされるのかも、皆目見当がつかない。何を言っても無事ではいられないだろう。
「大岡、君……君は一体、何を、」
「店長さぁ、オメガなんだ」
「抑制剤なら病院、いや、近くなら大学、に、あるから」
「ああ、そんなのなくたって放っておけば収まるから大丈夫。それか放り出しておけばアルファかベータにマワしてもらえるだろうし」
「そ、そんなの! 許される訳がない……!」
「別に許してもらわなくても平気だよ」
軽やかな足取りで大岡が動く。その気配を察したのか、それまで荒い息を吐き出すだけだった田辺が顔を上げた。
身を屈めた大岡が乱暴な手つきで田辺の目隠しと猿轡を剥ぎ取る。ようやく見えた顔は赤く染まり、睨みつける目は涙に潤んでいた。体液の増加はヒートの第三段階に見られる特徴で、この段階まで症状の進んだオメガは激しく性交を求めるようになる。フェロモンが届く範囲にアルファがいる場合、その衝動に抗う事は不可能とも言われる。
だがその状態でなお、田辺は大岡に抗おうとしていた。
「ッ、このッ、ガキ!」
「スタンガン三発食らってこんだけ元気って、やっぱアンタ化け物だな。吉川で試した時は一発で動けなくなったんだけど」
大岡が不服そうな声と共に田辺を見下ろす。容赦なく振り下ろされる足が何度も田辺の脚を蹴りつけていた。
「ねぇ慧。これなんだか分かる?」
田辺に向ける表情とは掠りもしない顔で大岡が笑った。
胸ポケットから取り出したのは半透明のプラスチック容器と二.五ミリリットルサイズの注射器だった。
「テメェ、まだ……! この、クソッタレ!」
それまでされるがままだった田辺が叫けぶ。口汚い言葉を喚き散らしながら激しく体を暴れさせていた。
「うるさいなぁ。俺は慧に話してるんだよ。ねぇ、知ってる?」
「分からない……それだけじゃ……」
「これ、打つとオメガのにおいがスッゲー強くなって、ヤバいセックスができるって薬。俺はこれが使うの初めてなんだけど」
「だ、駄目だ! そんな薬……!」
止めなければと思うのに金縛りのように体が動かない。
大岡が学生よりも覚束ない手つきでプラスチック容器から薬品を吸い出した。
田辺の抵抗が激しさを増す。
「誰のおかげでここまで生きてこれたと思ってやがる! お前の頭が狂ってるのはとっくの昔に分かってたがな! 俺を巻き込むんじゃねぇ!」
「先に手ェ出したのはアンタだ。アンタよく言うだろ? 自分でしでかした事の落とし前はキッチリ自分でつけろってさ」
大岡が注射器を持つのとは逆の手でスタンガンを構える。側面のボタンを押すと派手な音を立てて青い火花が散った。
田辺の顔が引き攣る。
「やめろ、おいっ、ぁ゛、あ!」
一切のためらいなく押しつけられた電流に悲鳴が上がる。田辺は痛みに大きく仰け反ると、それからぐったりと動かなくなってしまった。
町田はぎこちない動きで大岡の脚へと縋り付いた。その動作は殆ど椅子から転げ落ちるようだった。
「大岡君、やめてよ。どうして、こんな」
震えの止まらない体を大岡に抱きしめられた。その両手はあまりにも優しい。
不要だとばかりに投げ捨てられたスタンガンが床に当たって鈍い音を立てる。
「怖がらないで。慧には絶対こんな酷い事しないから」
「君、は、分かって、やっているの?」
「慧を怖がらせてる事?」
「違う。こんな、酷い事を……」
「勿論。分かってるよ。でもね、俺は酷い世界に住んでるんだよ」
「違う、同じだ! 同じ場所にいるだろ! 今僕と君は、同じ場所に、いるじゃないか……」
反論はあまりに的外れだった。
大岡が骨ばった手で大岡の真っ直ぐな髪の毛を梳く。つむじに鼻を寄せ、匂いを吸われた。
「慧のそういう綺麗で物分かりの悪い所、好きだよ」
「お願いだ。こんな事は、やめてくれ。君がこんな事をするのを見たくない」
「我儘だね」
唇が触れそうな距離で囁かれる。
纏わりつくような声色に町田は頬が燃えるように熱くなるのを感じた。
「そういう所も好き」
「駄目だ、やめてくれ、嫌だ、嫌なんだ」
「何が嫌なの? 俺が酷い事をするのが? それとも別の事?」
大岡のアルファフェロモンが町田の心の深い場所を引きずり出そうとていた。無防備な場所を晒す恐怖に胸が締め付けられる。
「ねぇ、何が嫌なの?」
「君が、僕に好きだと言うから。そんな事言わないでくれ……!」
「どうして? 俺はこんなに慧が好きなのに」
ぼろり。町田の瞳の縁から大粒の涙が溢れた。泣くつもりなどないのに、次から次へと頬を伝って止まらない。
「君を、好きになってしまったから」
きつく噛み締めた唇を大岡の指がそっとなぞった。
「凄いよ、慧。分かる? 俺のフェロモンが絶対慧を放さないって言ってる。好きだよ。慧」
夢を見ているかのような口調だった。
町田は首を振り、必死に誘惑を拒もうとする。
「君はアルファだ。君にはオメガがいる。僕はベータだ。君には愛されない」
アルファとオメガの誘引関係にベータが入り込む余地はない。いくら愛を錯覚したとしても、オメガのフェロモンを前にすればそんなものは砂上の楼閣となり果てる。
オメガフェロモンを摂取した時にアルファの脳内で分泌されるドーパミンは恋愛感情を引き起こす。それは他の性別間の恋愛とは比べ物にならない強制力を持つ。
「分かってるよ。慧は信じてくれないって。だからヒートのオメガなんかに見向きもしないって所を見せるよ。そうしたら信じてくれるでしょ」
うっそりと笑んだ大岡が注射器を掲げる。
オメガの匂いを増幅させる薬剤はウルティモゲン製剤が考えられるが、合法薬ではない可能性も高い。何にせよ、ヒートのオメガに打てばただでは済まない。
「だめだ。どんな作用があるか分からないし、薬の乱用は危険だ」
「大丈夫だよ。店長丈夫だからさ」
「指導を受けていない非医療従事者が注射を打つのは法律に反する」
「へぇ。なら、慧が打ってよ」
「え……?」
「それなら大丈夫でしょ?」
注射器を握らせられる。
そのまま、初めての共同作業よろしく田辺の腕に切っ先を宛がわさせられた。
添えられた手に力が籠もる。注射器がワイシャツを破って皮膚に沈む。
田辺のどんよりとした瞳が町田を見上げた。急速に意識が引き戻される。
「大岡君ッ」
手を振り上げた弾みに注射器が部屋の隅へ転がる。
充満するフェロモンのせいで思考が鈍く錆びついている。大岡の言う事がすべて正しいかのように思えて、咄嗟に正しい判断ができない。反射に倫理や道徳が追い付いていなかった。
「まちだ」
田辺の唸るような呂律の回っていない声に呼ばれる。町田は脈を計るため、彼の首筋へと手を伸ばした。
「やめろ」
「でも」
「さわる、な」
田辺は緩く首を振って拒絶すると、苦しげに深く息を吐き出した。
フローリングには汗で小さな水溜まりができている。オメガはヒートになると直腸からビドロー腺液という自浄作用を持つ体液を分泌するが、その影響で涙や汗など他の体液も増加するのだ。
大岡は近くの壁に背を預け、二人の成り行きを見守っていた。
「これ、ぜんぶ、切って」
「分かりました」
カウンター越しに手を伸ばして町田はキッチンからハサミを手に取る。田辺はハサミが触れる僅かな刺激にさえ小さく吐息を漏らした。手首には抵抗の後が赤く残っている。
「抑制剤は」
「かまうな」
ダイニングテーブルに縋りながら田辺が力の入らない体を立ち上がらせる。
その肩を大岡が強く掴んだ。碌に力の入っていない体を反転させ、今まで寄りかかっていた壁に叩きつける。
町田の静止はする前に視線だけで制された。
「離せ、畜生ッ、ぅ、ぐ……」
むせ返るほどのオメガフェロモンを発しながら、田辺は大岡に抵抗し続けていた。黒い瞳に憎悪すら湛えて大岡を睨みつける。
「手前でした事の落とし前は手前でつけなきゃならない。そう言ったのは店長ですよ」
「ハ……なに、が、落とし前だ……都合よく、物を言うんじゃ、ねぇ、よ゛……」
「都合押しつけてんのはテメェだろ」
低く底冷えした声に町田は腹の奥がぞっと竦むのを感じた。恐ろしさと愛おしさが入り混じってまた思考がおかしくなる。
今まで大岡が見せる事のなかった本性に、完全に心が屈服していた。
「好きなように俺を利用してればいい。でも、俺の事に手出しするんじゃねぇ」
「ぁ、ア、この……ッ」
震える田辺の脚はもう殆ど体重を支えられていない。服を掴む手は引きはがそうとしているのか引き寄せようとしているのか分からなかった。
二人のもみ合いに胸の奥を締めつけられる。気が付けば考えるよりも早く町田は大岡に手を伸ばしていた。
「どうしたの?」
「大岡君……頼むから……」
「うん?」
「こんな事はやめてよ……僕が悪かったんだ。全部、僕が……だから、お願いだ……」
「慧が悪い事なんてなんにもないよ」
「嫌なんだ。僕のせいで君がこんな……」
脚から力が抜けて、ずるずると床にへたり込んでしまう。
「いいんだよ。これで慧が安心するなら、こんな事なんでもないよ」
大岡があっさりと田辺を解放する。膝をついて震えだしそうな町田の体を抱きしめた。頬に鼻筋に触れるだけのキスを繰り返される。
「大岡君、嫌だよ。こんなの。僕のせいで、君が汚れてしまうのは、そんなの、嫌だ」
つたなくなった言葉に大岡の目が丸くなる。情けないと思うのにどうしようもなかった。
表情を変えた大岡が目を細めて笑う。
「慧のそういうところ、好きだよ」
自然な仕草で唇が重ねられる。
触れた場所から蕩けてしまいそうに熱い。大岡の舌が歯の質感を確かめるように蠢いた。呼吸すら許されないようなキスに町田は必死になって応える。彼が離れてゆく時には舌で追いすがってしまうほど夢中になっていた。
「はは。慧、可愛すぎ」
「お、おか、くん……」
頬に耳朶に首筋に、大岡の唇が触れると体が戦慄いて深い場所に熱が溜まる。
その時、町田は臀部にある強烈な違和感に気が付いた。尻の割れ目が湿り気を帯びている。つい数時間前まで取り組んでいた研究が頭の中を駆け巡った。
アルファフェロモンによる機能の変化。
ビドロー腺液はベータでも分泌される物質だが、分泌量は然程多くない。肛門から滴るほどに分泌するのはオメガだけの特徴だ。
「だ、めだ。大岡君、離れて……」
「どうして?」
「ぁ、ぁ、僕は、僕は……」
燃えるような熱が体の奥から湧き上がる。知識では知っている。ヒートの兆候だ。それも、第三段階に入っている。本来ならば心拍数の増加や香りの発露が先にあるはずだが、異常な状況に気がとられて気がつく事ができなかったらしい。あるいはベータのヒートは第三段階から始まるのかもしれない。
「ん……慧の匂い。さっきから凄く濃くなってる」
恍惚とした声の大岡の鼻先が首に触れる。それだけで指の先まで痺れるような錯覚がした。
「オメガ、に、あぁ……」
「オメガ?」
「ドーパミンが、増え、て、君が、アルファだから……」
意味を理解しかねて顔を顰める大岡に、町田は唇を噛みしめた。それを咎めるようにまたキスをされてますます舌が回らなくなってしまう。
思うように伝えられない。それだけで涙がこみ上げた。
「そんな泣きそうな顔しないで」
「お、お、おか、くん、お、おか、く、ん」
「もしかして慧、オメガになったの?」
どうして彼には考えている事が分かってしまうのだろう。
何度も首を縦に振れば、大輪が咲くように大岡の顔に喜色が広がった。
「俺の事が好きすぎてオメガになっちゃったんだ。スゲー嬉しい」
「ぁっ! や、だめ、だっ……! はな、れて」
「どうして?」
大岡の指がワイシャツの上から脇腹をなぞる。それだけで体がびくびくと引き攣った。感覚が過敏になって、すぐにでも達してしまいそうだ。
ズボンの下では触られてもいないものが固く張りつめている。
「がまん、でき、ない……き、みを、おそ、て、し、ま、う」
「我慢なんてしなくていいんだよ。慧のヒートが終わるまで、何日でも、何週間でも一緒にいるよ」
「だ、めだ」
「何がだめなの?」
「ふじゅ、ん、だ」
たっぷり十秒以上かけて、大岡は噴き出した。
町田の体を抱きしめ、クスクスと喉を震わせる。
「あー、はは。笑ってごめんね。ただ、あんまりに可愛い事を言うから」
「ふつう、だ」
「そうかな。慧の普通は分かんないや。でも俺は可愛いと思うよ。愛してる。だから、俺とお付き合いして?」
町田の思考はもう跡形もなく煮崩れていた。深く考える事もせず何度も頷いてしまう。丸裸にされた本心が頼りなく震えていた。
「うん。世界一大切にする」
きっぱりと告げられた言葉はありふれているのに誠実そうに聞こえた。たとえ一時の夢なのだとしても今はそれに浸りきっていたい。
背中に回された大岡の腕に力が入る。かと思うと突然体が浮き上がった。横抱きにされて町田は目の前の首に抱きついた。
「お、大岡くんッ」
「大丈夫、落とさないよ」
言葉通り、力強い腕は少しも危なげない。
大岡が部屋の隅でうなだれる田辺へ目を向ける。
「出てけ」
不意に大岡が部屋の隅で息を殺す田辺を睨みつけた。
田辺の顔に憎悪と絶望が過る。しかし結局は何も言わず、ギリと唇を噛み締めるだけだった。今にも倒れこみそうな足取りで大岡の横を通り抜けてゆく。
「あっ、ま、って。駄目です。そんな状態、で……!」
「大丈夫」
身をよじった町田の動きを大岡が封じる。
「抑制剤もあるし、俺といる方がフェロモンの影響を受けて良くないから」
その言葉には妙な説得力があった。
始まったヒートを止める抑制剤などないのに、それなら大丈夫かと思わされてしまう。
大岡は勝手知ったる様子でリビングの奥にある寝室の引き戸を開いた。
電気をつけると部屋に置かれたベッドが目につく。冷え切ったそこに横たえられて、町田は腹の奥が切なく何かを求めるのを感じた。
大岡の髪の毛が首元に触れてぞわぞわとしたものが背筋を駆け上がる。べろりと鎖骨を舐められて、耐え切れず高い声が出た。
「あ、は、ぁあ……!」
ワイシャツのボタンが一つ一つ丁寧に外されてゆく。合間に降ってくる啄むようなキスは愛していると囁かれているかのようだった。
体の奥からビドロー腺液が溢れて止まらない。きっと下着の中は酷い事になっているだろう。
今まで異物など食んだ事のない場所が疼いて無意識に足を擦り合わせた。
「我慢しないで」
「あ、う、ぁ、あ、」
「慧……俺の、運命の番」
「お、おか、く、ぁ、ア!」
熱い手が薄い皮膚の下に隠された肋骨を確かめるように撫でていく。
「おぉか、く、も、いや゛、だ、やめ゛、て」
懇願する声は殆ど泣き声だった。
幼い子供をなだめるように頭を撫でられる。
「どうしたの」
「おか、しく、な、って、しま、う、か、らッ」
「慧……」
大岡が深いため息を吐いた。肺の空気をすべて出し切るようなそれに不安がよぎる。ベータの男が浅ましく欲に溺れている姿はさぞ見苦しいものだろう。
「ダメだよ、そんな事言っちゃ」
「え、ぁ、あ! ああッ!」
ズボンの上から強めに股間を握られて、町田は目の前が白く明滅するのを感じた。腰が勝手に跳ね上がり、快楽が雪のように溶けていく。馴染のある感覚に自分が絶頂に達した事を知る。
しかし、通常ならば訪れるはずの平静さは一向に訪れなかった。それどころか奥の秘められた場所が更なる刺激を求めてヒクついている。
大岡にズボンを開かれると、羞恥にカッと頭に血が上った。
「本当はもっとじっくり、頭の先から足の先までとろとろにしたかったんだけどね。もう、我慢、できないや」
下着をずり下げられる。射精を終えて萎え始めたものが暖かい粘膜に包まれた。達したばかりの場所には強すぎる刺激だった。
「そ、な、やめっ、て、ァッア゛~!」
甘く感じ入った声に大岡の瞳が細められる。
慣れない行為に流される。町田の体は素直だった。更なる快楽を求めて腰がベッドから浮き上がる。
大岡は喉の奥へ入ろうとする性器をいなしながら、中途半端な場所で止まっていた町田のズボンとパンツを完全に脱がせた。
遮るものがなくなって無防備に孔が晒される。濡れて光るそこに指が這うと、くちゅりと厭らしい水音が鳴った。
固く締まった場所に中指の先がそっと押し入ってくる。
「う、ぁ゛あ」
感じたこともない異物感と共に、紛れもない快感が背筋を貫いた。中から止めどなく粘液が溢れている。もっと奥に大岡を受け入れたいと深い場所が疼く。狭い場所を広げるように動く指がもどかしかった。
前と後ろ両方からの刺激に頭がどうにかなりそうだ。
性器からは白い濁った体液が粗相のように溢れ出している。精液にしては薄く、先走りにしては濃いそれは、射精なのか何なのかも分からない。
「ぁ、ア゛、も、いれ、て、ぉ、く、おねが、ァ、ぃ」
「はっ……まだ、ダメだよ。我慢して」
「きみ、が、ア! ほし、ィ、あッ! は、ァ!」
「っ、俺も、早く入れたいよ。でも、傷つけたくないから」
「ひど、い……こ、ん゛なッ」
濁った喘ぎ声を上げながら感情のままにしゃくり上げる。普段ならば絶対に言わないよう自分本位な言葉ばかりが口から零れた。
「ん、ふ、ァ、ぁ……は。ひ」
「二本目、入ったよ。分かる?」
大岡の問いにシーツに頭を擦り付けるように首を横に振る。下半身は既に麻痺してしまって快楽以外の感覚を拾わない。これもヒート時の特徴の一つだ。感覚は鈍麻するが、反比例して快楽だけは鋭敏に拾うようになる。
すでに飽和しそうな快楽の中、まだこの先があると思うとぞっとした。知識では知っているからこそ、未知の感覚があまりに恐ろしい。先を求める気持ちを恐怖が僅かに凌駕した。
「ヒ、ァ゛、ま、ま゛、って、お、ねが、」
「待ってるよ。いつまでも」
「あ、ぁ、あ゛!」
「だから俺に全部任せて」
大岡の指が柔らかな内壁を擦って押し広げる。二本の指ですら十分すぎるほど狭いそこは、なのにそれだけでは物足りないと収斂していた。
少し指を動かすだけで嬌声が出る。
たっぷりと粘液を纏った大岡の指が引き抜かれ、くちゅっと大きく水音が鳴った。二人の間を細い銀糸が繋ぐ。
「指、三本入ったら俺の入れてあげるね」
「も、むり゛、だ……できな゛い」
「じゃあ、どうしたい?」
大岡が欲しい、もうやめて欲しい、相反する感情に言葉が出ず、強く唇を噛みしめた。自分でも分からない感情で頭の中が占拠されている。ただ漠然と、いつも傍にいた寂しさという不安と恐怖だけが明確にあった。
熱と不安に溢れ出した涙を大岡が舐め取る。
腕に引っかかったままだったワイシャツやタンクトップを脱がされる。布が肌に擦れる感覚すら今は快楽に変わった。
「凄い。全身熱くて、火傷しちゃいそう」
「さむい、よ。さむ、い」
「じゃあ、暖めようか」
強く大岡に抱きしめられる。ワイシャツ越しとは思えない熱さなのに、体の芯が冷えてゆくのを感じた。逞しい背中に縋りついて鼻腔いっぱいにフェロモンを吸い込んでなお、冷えは消えない。
含むものを失った穴が切なさに泣いていた。
「お、ぉ、かくん、おおおか、く、ん」
「いいんだよ、何を言っても。俺が叶えてあげる。どんな君でも好きだよ」
愛しむように頭を撫でながら囁かれて、町田は大きく体を震わせた。どこまでも邪魔をする孤独への恐怖心が蜜蝋のように融けてゆく。
「なん、で、君、は」
不安に揺れる声は半ばで途切れた。
だが、音にならずとも大岡にはすべて伝わっていた。
「僕なんかが好きなんだ? って? それはね、臆病で、わがままで、優しくて、お人好しで、頭がよくて、善良だからだよ。それに、見た目も好き」
「ぼく、は」
「黒目の大きなところとか、鼻の曲線とか、硬い髪の毛とか」
瞼、鼻梁、汗ばんだ前髪に大岡の唇が降り注ぐ。嘘吐きと浮かんだ言葉は形にならずに吐息として吸い込まれた。
その間にも大岡の動きは止まらない。次々と町田の特徴を挙げてはキスを落とす。
「小さい唇も、良く動く喉仏も、肩の骨の形も。筋肉のないところだって、ちんこの形も好きだよ。これだけ勃ってるのに、あんまり亀頭は硬くならないんだね」
「ひ。ぁ。も、やめ、て……」
「真っ赤になってるところも可愛い。荒れた指先だって、長い指だって、もっとたくさん俺は言えるよ? それとも目に見えない場所がいい?」
「ぼく、が、わる、かった、許、して……」
「何にも悪い事なんてないよ。だから、許す事もない」
「そん、な」
「でも許してあげる。慧がそうして欲しいなら、何だって許すよ」
「あ、ア゛ァ゛!」
挿入された指に町田は大きく目を見開いた。大袈裟な水音が響いて、電流のような快楽が走る。放置されて油断していた後孔はあっさりと二本の指を飲み込んで、三本目すら咥えてしまった。やや強引に挿入された最後の指にも痛みはない。ただ物理的な圧迫感に呼吸が浅くなった。
「ぁ、はひ、イ、ァ、」
「ちゃんと、大きく息を吸って」
「は、ぁ、ぁ、」
「そう。いい感じ」
「ア、アッ」
三本の指がバラバラに動き回って体の中を押し広げる。腹側をくすぐるように撫でられると目の前に光が散った。
指を広げられ、内壁がひんやりとした空気に触れる。
ずるりと指が抜けていくのに町田は虚空へと手を伸ばした。
空を切りかけた手を掴まれて、握られる。
「俺はここにいるよ」
「ぉ、か、く、う、ぁッ、ア」
穴に大岡の先端が擦りつけられるだけでゾワゾワとしたものが全身を駆け巡った。つま先が丸まって、逃げを打つ脚がシーツに大きな波紋を描く。
「うア! あ、あ゛ッ! か、はっ――!」
一息に熱いものを押し入れられ、肺から空気が押し出される。
交合で一気に濃さを増した大岡のフェロモンにめまいがする。
それでももっと彼が欲しい。大岡に両手を回し、強く体を引き寄せた。
「は、やく、も、っとぉ、お、かく、ほしッ」
「ッ! 慧っ!」
「アア!」
強く腰を打ち付けられる。ただでさえ深い場所にあったものが更に奥へと侵入を果たそうとする。待ちわびていたものに中が蠕動して、余すところなくそれを堪能しようとしていた。
最早町田の理性は粉々だ。
「ぁ、ア! す、きだ、ぉ、か、く、すき、ぁ、あぁあ!」
「はっ、はぁ……っ! お、れも、好き、だよ。愛してるッ」
「ああ、あぁ゛あ゛アあ゛ぁア!」
最奥を強く押されて町田はガクガクと体を震わせた。
中が一際強く収縮して深い場所へと突き落とされる。もうこれ以上などないと思うのに、大岡が突き上げる度に体が熱を上げて止まらない。
彼とならばどこまでも行ってしまいたくて、無我夢中で大岡を求める。
「ぁ、あ゛、あ゛、ぉ、おッ」
「ふッ、ぅ、ぁ、はは……慧っ、俺の、俺の、番……」
大岡の肉食獣のような瞳が町田を見下ろした。距離を縮められて結合がより深まる。
「――ッ! は――ッ」
もう声すら出なかった。喉を晒して音なき悲鳴を上げる。
その無防備な喉元に、大岡の硬い歯が立てられた。恐怖はない。あるのは陶酔だ。
狭められた気道に掠れた呼吸を繰り返しながら、町田は大岡を受け入れた。
胸に彼のくすんだ金髪を抱きしめる。頭の中が幸福で占められて胸が詰まった。
「これで、ずっと、一緒だ」
満足そうに、幸せそうに大岡が笑う。彼と同じ幸福を感じているかと思うと、喜びに体が戦慄いた。彼の番になりたいと心から願う。
しかし、それは叶うはずのない願望で。ベータの体に番の機能は備わっていない。例えアルファフェロモンで内分泌系が変化しようと、それは一時的なものにすぎない。町田は子を孕めない。
番は婚姻とは違い、肉体の契約だ。子を孕めない番など枷になるだけだ。
「ぉ、おかくんッ、おお、おか、く、ん……! ほ、しい、ぁ、き、みが、お、くに、」
引き裂かれそうな心のまま、大岡を求める。
「慧ッ」
最奥を突き破られるのではないかと思うほど深く大岡のものが深くへと押し入る。ただでさえ中をみっしりと満たしていたものが更に膨張して、熱いものが中で弾けた。
女やオメガであれば子宮があるはずの場所に子種が注がれる。
「ぁ、あ、あ……!」
初めての感覚だった。ただでさえ限界に中を満たすものが膨らむのに、喉がヒュッと音を立てる。息苦しさに体が逃げを打った。
「ぁ、ぁ、お、おおか、くん」
「はは、楔化するのなんて、久しぶり」
「むり、むりだ、こわ、れるッ」
オメガと番ったアルファの根本は女性の拳ほどまでに膨れ上がる。それは受精をより確実にするための栓なのだが、到底十分に開発もされていないベータが受け止められるものではない。
鈍っていてもなお感じる痛みに体が強張った。
ベッドを蹴り上げ、何とか大岡から逃れようとする。
「あ゛う゛!」
熱いものに勢いよく後孔を擦られ、頭の芯が快楽で痺れた。大岡を咥え込んでいた場所から白いものがこぷりと溢れ出す。
種付けを邪魔された彼のフェロモンが不機嫌そうに揺れた。
「慧を壊したりなんかしないよ」
「むり、だ……ぼくは、オメガじゃ、ない。君のものは、受け止め、られない」
「でも、慧はオメガになったんでしょ?」
「フェロモンの受容と、分泌に対しては、限りなくオメガ、だ、よ。体の反応、も、オメガに近い……けど、基礎的な作りは、ベータのまま、なんだ、よ」
「どういうこと?」
「体は、そう簡単に、変わらない……僕は、君を受け入れられない、し、君の子供も産めない」
「俺は別に子供なんていらないけど。欲しいの?」
「……君の、子なら」
口走って、ハッとする。
見上げた大岡は欲に染まりきった顔で町田を見下ろしていた。その表情にまた体の奥が疼く。
「じゃあ、産めるようになろう」
「無理だ。僕は、ベータなんだ」
「でも、オメガになれたでしょ。きっと産めるよ」
「そんな事……」
「できるよ」
口元に笑みを浮かべた大岡が町田の耳殻に歯を立てる。僅かな痛みと共に快楽未満の悦楽が背筋を這い上がった。そのまま耳の形を確かめるように舌を動かされて、水音がダイレクトに鼓膜を揺らす。
そんな事は不可能だと分かっているのに、期待してしまう。
「ぅ、は、あ、あ、ぁ……」
「ゆっくり、時間をかけて、俺のものにするから」
「う、ぅ゛、ぁ、あ! ア!」
再度、解けた穴に大岡のものが押しつけられる。そのまま固い先端をぐぷぐぷと潜り込まされて、また目の前が白く弾けた。腹の中で彼の形がハッキリと分かる。
高みにまで押し上げられた町田の体は小刻みに震えていた。ガチガチになった性器から勢いなく精液が溢れている。それは尾を引くような絶頂だった。
すでに快楽は許容を超えているのに、与えられない最奥への刺激に満足できない。いくらでも彼が欲しかった。
「あ゛、ぁっ、ぁっ、もっ、とッ、おく、ぅ」
「いつか、一番奥まで俺でいっぱいにしてあげる」
「は、ひ、ィ゛、あ、ァ」
柔らかく浅い場所を突かれ、快楽が幾重にも広がってゆく。
全身で大岡の熱を感じながら、町田は深い場所へと沈んでいった。
繋がったままの大岡が噛み痕のついた首筋を舐める。そのくすぐったい感覚に町田は体をよじった。
「大岡、くん」
先ほどまで覚束なかった呂律はかなりしっかりとしていた。フェロモンも薄まり、頭がハッキリとしている。
先ほどまでの行為を思い出すと自分が口走ったことの数々に後悔が湧く。どうしてあんな事を思ったのか分からない。だが、紛れもなくすべて本心だった。
大岡の動きだしそうな気配に町田はかすれた声でストップをかけた。
「もう、いやだ」
「疲れちゃった?」
それだけではなかったが、確かに疲れてもいた。行為を始めて大岡は四回、町田は三回射精をしている。オメガとアルファの行為では少ないが、ベータの行為ではかなり多い。
町田が首を縦に振ったのに大岡がいまだ勃ち上がったものを抜く。
「分かった。今日は終わりにしよう。楔も消えたしね。でも楔化したら普段はもっと続くんだけど、なんでだろう」
「それは、僕がベータだから」
「オメガになったんじゃないの?」
「疑似的に、ね。君の精液を摂取したから収まったんだと、思う」
大岡が少し残念そうに「そっか」と呟く。その顔に本当にオメガになれたらいいのにと思って、愕然とした。自分の思考が恐ろしい。
「次はもっと、戻れなくなっちゃうくらいどろどろにしてあげるね」
耳元で囁かれて中が締まった。すっかり彼に絆されている。感覚をやり過ごすために細く息を吐き出した。
「次はないよ」
「どうして? 恋人なのに?」」
「ベッドでの言葉は本気にしない方がいいよ」
我ながら似合わない言葉が出た。しかしそんなことは意に介さず彼は笑う。
「でも、慧が俺の事を好きなのは本当でしょ?」
「勝手な事を言わないでよ。君に僕のなにが分るんだ」
殊の外強い拒絶が出た。それに自分で驚いて逃げるように大岡から体を離す。
「帰って」
後孔から精液があふれ出るのも構わずに町田は寝室を出た。
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