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真面目な警察官は、やっぱり真面目に恋をする

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真面目で、勤勉で、頭の良い警官。
他の模範になるような。
「松尾君、今回もお手柄だった!次に本部に帰る時は昇進を期待していたまえ」
「ありがとうございます!」
敬礼をして笑顔を作る。
実際、僕は真面目だと思う。
求められていることを忠実にやるし、それが苦痛ではない。
そして、ルールを守ることも大切だと思っている。
だけど。
人を好きになる時までそうでないといけないかな。



「トシユキさん、今度ご実家に行く話なんだけど…」
付き合いだして一年経つ彼女は、着々と結婚への準備を進めている。
しっかり者で、どこに出しても遜色ない彼女。
「うちの父も京大の出身だから、トシユキさんのお父様とお話が合うと思うの」
家柄とか学歴とか、その他の色々な足枷や価値基準が、人を好きになる部分にまで侵食してくる。それが当たり前なんだろうか。
僕は何となく居心地の悪さを感じたまま、一年経ってしまった。


まだ、警官になりたてで、地域のパトロールを細かくやっていた頃。
女性や子供を狙った悪質な変質者の周知の為に、チラシを持って一軒一軒回ったことがあった。
一人暮らしの女性の家にも行った。お一人暮らしですか?と確認して、その住人がそうです、と言ったから実際そうなんだろうと思ったが、その女性の部屋には男性用の香水の匂いがしていて、それが随分印象に残っていた。
その数日後、その女性は明らかに堅気ではない雰囲気の男と歩いていた。
全く普通のOL然とした女性がチンピラ風の男と歩いているその様子は、明らかにちぐはぐでお似合いとは言い難かったが、二人の表情はとても幸せそうで、二人の間には愛情と信頼以外には何も必要としていないようだった。


もうあれを見てから何年経つだろう。
十年まではいかないが、五年以上は経つんじゃないだろうか。それほどに、その二人の光景は僕の心を捉えていた。
人を好きになるのに、何か条件が必要なのか。
その疑問はずっと僕の心の片隅に、溶けない雪のように残っていた。
目の前の彼女は、僕が警察官で、年齢の割には出世していて、良い大学を出ているという条件が無かったら付き合っていたんだろうか?
キスも身体を重ねることも、まるで流れ作業のように。どんな風に愛しても、彼女は全てを委ねてくれない。
こうすれば、こう声を上げれば、男の人は嬉しいんでしょう、とあしらわれているように感じられて、僕は心のどこかがいつもひんやりしている。
こんなものなんだろうか、人を好きになったり結婚をする事って。




「トシユキ君?!キャサリンよ。ジュンの復活パーティーにご招待!また連絡するわ」
電話が掛かっていて、留守電を聞くと、それは以前殺人事件に巻き込まれた被害者、行政ジュン君の保護者のキャサリンさんからだった。
市内中心部とここはどれだけ離れてると思ってるんだ。
そんなことお構いなしに誘ってくる雰囲気が僕の周りの人には無いものでとても面白く感じられた。
ちょうどその翌日は非番だ。
日勤を上がったら車を走らせてみるのもストレスが解消されるかもしれないな。
僕はキャサリンさんに電話を掛けた。
「まさかあなたから掛かってくるとは思ってなかったわ」
「何だか面白そうだと思って」
「そういう時はね、あなたに会いたいと思って、っていうのがレティーに対する礼儀よ!」
何だろうこの掛け合い。本当におかしくて僕は笑ってしまった。
「ジュン君の快気祝いなんでしょう?」
「そうよ、おかげ様ですっかり元気になって、高校にも通い始めたわ」
「それは良かった、直接彼と話ができるのを楽しみにしてます」
「あ、泊まる場所は心配しないで。うちに泊まって」
「いや、さすがにそれは!」
「ジュンも住んでる大きな一軒家なの。ゲストルームはたくさんあるわ。遠慮なく来て。襲いやしないから」
そこを心配していたわけじゃなくて、単に申し訳なくて遠慮していたのだが、わざと自虐的に言う事で、こちらの遠慮を失くしてくれているんだな。
気の利く良い人だ。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
「しっかり飲ませるから、列車で来るのよ!」
「え?車は?」
「ダメよ!楽しんでもらうために来てもらうんですもの」
押したり引いたりのやり取りの後、僕が根負けして公共交通機関で向かうことになった。
「ジュンに迎えに行かせるから。パーティーを楽しみにしてて」



結局、終電の特急で向かった。
駅に到着すると、ジュン君が迎えに来てくれていた。
「お久しぶりです!松尾さん!」
「ジュン君、元気そうで何よりだ」
流れる景色を見ながら、ジュン君の近況を聞いた。
「定時制の高校に行き始めました。中退する前の学校での単位も認められたので、ちゃんと通えばそれほど年数はかからないと思います」
「それは良かった。頑張ってるんだな」
「松尾さん、あの…」
「何だい?」
「兄さんって呼んでいいですか?」
ジュン君が目をキラキラさせて言った。彼は親も無くし、愛する人も目の前で亡くした。今はキャサリンさんが保護者として世話をしているが、寂しい事も多いだろう。
「もちろんだよ。兄さんだと思ってくれ」
「ありがとうございます!トシユキ兄さん」


程なく繁華街に到着した。
「兄さん、ここで降りてください。車置いてきます」
夜の街。こういう場所に来るのも久しぶりだな。
目の前を多くの人が通り過ぎていく。
色の褪せたような赤いTシャツを着た背の高いツーブロックのきれいな子が通り過ぎていった。髪も赤いブラウンでモデルみたいだな。
今の子は男性か女性かぱっと見じゃわからないなあ。
「お待たせしました。こちらです」
ジュン君について歩く。
「この上なんですけど」
「へえ、お店随分上にあるんだね」
僕は雑居ビルを見上げた。
7Fに着く。真っ赤な扉が出迎えてくれた。
扉を開けると、
「きゃーー!!トシユキ君待ってたわよー!!」
キャサリンさんが抱きついてきた。
この人、本当に男性だったんだろうか。柔らかい。
「遠くからありがとう。ジュンもすごく喜んでる。あんな笑顔見たの久しぶりよ」
「そうですか、それなら良かった」
僕が何か役に立っているなら、それは嬉しい事だ。
「通常営業しているけど、パーティーも並行してやるから、楽しんで行ってね。だから今日はいつもと違うショーもやるから」


店には様々な人がいた。
サラリーマン風の男、実業家風の熟年、女装した人、若いギャルみたいな子もいれば、落ち着いた女性もいて、フリーキーな男女が鋲のついた革ジャンをお揃いで着ているかと思えば、スニーカーにスウェット上下の体操服みたいな人がいたり、その奥を見やれば腰までスリットが入っているようなセクシーな服を纏った女性がピンヒールで闊歩している。そもそも男性か女性かわからない人もたくさんいた。
何となく、皆自由になりに来ている、束の間自分の社会的な足枷を外しに来ているんじゃないかと思えた。
規律と規則、規範の世界にいる僕からすれば、ここはある意味興味深く、そして恐ろしい。自分の知らないタガが外れてしまうんじゃないかと、ほんのちょっとだけ、心の奥で怖いようなワクワクするような気分を覚えた。
「トシユキ兄さん、飲んでますか?」
ジュン君が笑顔で話しかけてきた。
「ああ、ありがとう。飲んでる。ここは飲み物も美味しいね」
「バーテンダースタッフがいるから、美味しいって皆さん言われます」
「ここで働いてるんだろ?」
「そうなんです。ボーイで」
一人で自分で食べていくというのは大変だ。誰の助けもなければ、尚のこと。
愛する人を目の前で失った彼が、心を立ち直らせていくまでに、どのぐらいの時間がかかるのだろうか。
「待ってるから、警察官になりに来いよ」
僕はジュン君の肩に、励ますように手を置いた。


「はーい!アナタ達!今日は、うちの可愛くて強いうさぎボーイ、ジュンの快気パーティーよ!ゲストのショーもあるから楽しんで行ってちょうだい!」
キャサリンさんがそうアナウンスすると、シャンパンが一杯ずつ振る舞われた。
「カンパーイ!!」
知らない人たちと目を合わせグラスを上げて乾杯する。知らないみんなが同じ場所にいるのが面白い。付き合っている彼女が見たら眉をしかめそうだ。
ジュン君はあちこちに呼ばれてもみくちゃにされていた。
ビートの効いた音楽が鳴り始める。
「今日はお祝いに私の友達のダンスチームが来てくれたわ!Team Paraíso!」
3人の人たちが踊り出した。他の人たちも様々な人と言葉を交わしていて、キャサリンさんはきっと人脈が広いのだろうな。
舞台を見ていて、不思議な事に気付いた。一人の人が、男性か女性かわからない。なのにとても美しくて、僕の視線は釘付けになった。
あれは、店に入る前に赤いTシャツを着て通り過ぎた子か。仕事柄人の顔を覚える訓練をしているのですぐに思い出すことができた。
それにしても。
男か女かもわからない外見。そしてダンス。
3人組で、他の二人は、男性1名女性1名だとわかる。あと一人の子はどちらか本当に分からない。男にしては線が細いが、筋肉のつき方は男性的だ。それにしては頬はふっくらと柔らかそうで、ワイルドな目つきで睨んだかと思えば、ふんわりと微笑みながら体をひねった。
キャサリンさんもだが、こういう生き方をするというのは、どんな気持ちなのだろうか。ルールと秩序、約束や守る事柄ばかりに囲まれている僕には伺い知れない世界だと思った。
きれいだな。
それはその子だからそう思ったのか、ダンスが素晴らしかったからそう思ったのかもその時は僕はわからなかった。ただ、3人のダンスがそのチーム名通りに違う世界を見せてくれているのは確かだった。

「ねえ、あの人たち知ってる?」
色んな人にもみくちゃにされて戻ってきたジュンに話しかけた。
「パライソさん達ですか?」
「うん」
「何度かここでダンスされたことがあります」
「あの、真ん中の人は、男なの?女なの?」
「あ、ファンサンさん…あの方は、よくわからないんです。教えてくれないというか、それが暗黙の了解というか…」
「じゃあ、あの人には性別は無いんだな」
ファンサン?変わったステージネームだ。ジュンによれば、外国の言葉で幻とか幻想とかいう意味だという。確かにそういう感じだ。どちらでもありどちらでもない性。
夕焼けの色のようなブラウンの髪を揺らして、その人は踊っていた。


それからたくさんの人と話をした。上下スウェットの若者は”ちょっと詳しくは言えないんです。国に関わってるんで”という仕事をしており、また腰までスリットの入った女性は実は学校の先生だったりした。鋲のついた服のカップルは本当に治安が悪くて、未成年飲酒だったら捕まえてやる、と思ってしまう自分に笑った。
様々な人がやってくる場所。それも仮面を脱ぎ捨てて。いい場所だ。
じゃあ僕は、ここで仮面を取っているだろうか?そもそも、仮面を取った僕はどんな人間なんだろう?
楽しい時間は過ぎ、0時を過ぎた頃、キャサリンさんが帰宅を促した。パーティーはお開きらしい。
「じゃあジュン、ちょっと早いけどトシユキ君とファンサン、家まで送ってって」
「了解!帰りにチキン買っていきます」
「ジュン、アンタまだ食べるの⁈冷蔵庫のものは適当に食べたり飲んだりしてね、トシユキ君」
「そこまでお世話になるのは……帰りにコンビニもあるでしょうし」
「いいのよ、もうたくさん買って詰め込んでるんだから、食べるのがノルマよ!さあ、行って行って!」
僕は、ファンサン、というその人の名前が気になって、何故か胸がドキドキした。話すチャンスがあるかもしれない。
「兄さん、行きましょう。駐車場まで少し歩きます」
キャサリンさんや他のスタッフ、まだいる話をした人達に挨拶をして、僕はジュン君の後について行った。
「あ、ファンサンさんは?」
「多分もう、駐車場近くにいると思います。ちょっと人が多いのが苦手みたいだから」
ジュン君の車が見えてくると、街灯でも赤く光る艶のある髪の毛が見えた。
「ファンサンさん!お待たせしました」
その人は僕よりも、ジュン君よりも少し背が低かった。舞台では全くそうは見えなかったけれど。
「今日はお二人がキャサリンハウスのゲストです。こちらがトシユキ兄さん、こちらがファンサンさんです」
「あ、どうも、先ほどは素敵なダンスを見せてもらいました」
僕はそう挨拶した。
「初めまして。見てくれてありがとう」
その人の声は、やはり女性にしては低く男性にしては高い声だった。そして至近距離で見ると、やっぱり僕が好きなタイプの頬と口元をしていた。キュッと微笑むと丸く上がる頬。
困ったな。
僕はこの人に興味を持ってしまった。



繁華街にほど近い郊外にあるキャサリンさんの家に着いた。一人や二人で暮らす家じゃない。どおりでゲストルームがあるはずだ。
「おっきい家だなあ」
「キャサリン姐さんが気合いで買った家です!」
ジュン君が笑わせてくる。
「じゃあ、気合いを入れて泊まらないといけないな」
立食パーティーでもできるんじゃないかという広さのリビングに通された。
「奥が部屋になります、荷物置いてください。ここがファンサンさんで、隣がトシユキ兄さんの部屋です。置いたら、リビングに来てくださいね!ファンサンさんの打ち上げです」
ニッコリ可愛らしく笑ってジュン君がリビングに戻って行った。この時間でまだ飲んだり食べたりできるのか、若いな、と思うと同時に、隣にいる人がダンスの後何も食べていないなら腹が減っているだろうとも思った。
「じゃあ、また後ほど」
会釈して、僕は部屋に入ろうとした。
「トシユキさん」
「はい?」
「頭にゴミがついてるよ」
「え」
僕は髪を触って払ってみたが、その人は何気なく僕の頭に手を伸ばして、ゴミを取った。近づいたせいか、汗と香水かデオドラントが混じった匂いがふわりと漂って来た。なのに嫌ではなかった。
「あ、すみません」
その人は綺麗な顔で僕を覗き込んでいて、僕は少年のようにドギマギして目を逸らした。
――チュッ
その人の唇が僕の同じ部分に触れた。
「あなた、可愛い人だね」
フフフ……と笑いながら、ファンサンは部屋に入っていった。
僕はその場からしばらく動けなかった。
こんなにゴツイ僕が可愛いだって⁈だいたい、突然キスするって何なんだ⁈まともに話してもいないのに!完全に僕は混乱したまま、ボストンバッグを持って借りた部屋に入った。

ベッドの端に座り、頭を抱える。今日は異世界に来たみたいだ。一つ一つの事を理解するのに時間がかかりすぎる。大体何で、ファンサンは僕にキスをしたんだ?僕を気に入ったのか?それにしてもいきなりキスしないだろ。遊ぶにしたってこんなパッと見堅物の僕を選ぶのは選択を間違っている。
先にシャワーを浴びさせてもらおう。荷物を開け、着替えを取り出した。


部屋を出てリビングに行くと、ファンサンはもうリビングにいて食べ物をつまんでいた。もぐもぐ動く頬がリスみたいだ。
「ジュン君、先にシャワー浴びさせてもらっていいかな?」
「兄さんお疲れですよね。どうぞこちらです」
「快気祝いなのに、お世話になってばかりで申し訳ないね」
「いいんです。ここまで元気になれたのも兄さんが助けてくれたからですから」
ジュン君が元気になってよかった。あの悲惨な光景は僕の目にもまだ焼き付いている。目の前で愛する人を殺された彼の心のケアを、誰がやっているのだろう。その話もしたかったが、キャサリンさんが帰ってきてからの話になりそうだ。
入ってみるとシャワー室は独立していて広く、隣に猫足のバスタブもあった。香りのよいシャンプーやコンディショナーが揃っていて、キャサリンさんが身体を磨き上げる姿が想像できた。彼女の趣味が詰まった風呂だな。
シャワーを浴びながら思う。ファンサンって子、キスしたっていうのに僕を見ても平気な顔してたな。ああいうのに慣れてる人なのか。
僕も冷静になろう。そう、僕には、彼女がいるし。
取ってつけたように彼女の存在を思い出した。でも、長く付き合っているのに、彼女の顏が頭の中で上手く像を結ばない。僕は、付き合っている彼女の事がもう好きではない。それを直視するのが怖いだけなのも頭の隅ではわかっていた。



「トシユキ兄さん、何飲みますか?」
シャワーを出た僕に笑顔でジュン君が訊いてくる。
「あー、水と…」
「ビールと焼酎とあと、シャンパン開いてますよ」
「じゃあ、シャンパンにしようかな。開いてるなら」
色々と気を遣う彼に申し訳なく思う。
「……開いてるからじゃなくて、好きなの飲めばいいのに」
ファンサンが微笑みながら言った。僕は、いきなりそんなことを言うファンサンを思わず見つめた。
「……シャンパン好きだから、飲むんだよ」
「焼酎飲んでたじゃない」
僕を店で見ていたのだろうか?いや、誰だって飲むから当てずっぽうだな。
「いや、これがいいんだ。一人じゃ飲まないから」
「あー、一気に飲み過ぎたぁ!行ってきまーす!」
ジュン君が席を立った。トイレだな。思わず微笑んだ。
「じゃあ君は何が好きなの?」
チキンをつまむファンサンに喧嘩腰にならないように言った。気を遣う性格を指摘されてムッとしたけど、別に喧嘩したい訳じゃない。
「うーん……気を遣ってシャンパンを選ぶ男かな」
フルートグラスに入った金色に光る液体を飲み干して微笑んだ。その言葉が恥ずかしくて耳が熱くなる。
「僕が言ってるのは、男の好みじゃなくてさ、酒の種類だよ」
僕は呆れて、思わず笑った。
「だって、あなた可愛らしいから。自分の周りにはいないタイプだよ」
「大人になってから可愛いなんて言われた事無いよ」
僕は肩をすくめてからファンサンのグラスにシャンパンを注いだ。人への好意を隠さずに伝えること。こんなにストレートに言ってくる人は今まで居なかったな。僕の住む世界にはいない人。
「どうして、君はそんなにストレートなの?」
「え?ストレートかゲイかってこと?」
「違う違う、そうじゃなくて!」
僕は口に入れたばかりのチーズが載ったクラッカーを吹き出しそうになった。
ちょっと待って、と手のひらをファンサンに向けながら、噛み下した。
「どうして、そんな風に自分がどう思ってるかを素直に言えるのかってこと。初めて会った人間に、あなたが好みだとか普通言わないから。僕のいる世界ではね」
そして、いきなりキスもしない。でもそれは言わなかった。
ファンサンは頬に手を当ててクスクスと笑っている。
「後悔したくないからだよ。人はいつまで生きてるかわからないでしょ?」
「ああ……シンプルだね」
「ずっと一緒に続く関係なんてありはしないし、次会えるかどうかわからない人ならなおさら」
「えらく悲観的なんだな」
「現実的なだけだよ。後悔したくないだけ」
「なるほどね」
青ざめたジュン君が帰ってきた。
「うう……」
「大丈夫か。気づかなくてごめんな」
「急に気分が悪くなってきて……一気に飲み過ぎたみたいです……店で飲んでないから……」
「水飲んで」
ペットボトルの水を渡し、大きなソファに寝かせた。
「すみません、お客さんなのに介抱していただいて」
「そんなに飲めるほどに腹が回復したならそれだけで僕は嬉しいよ。どうする?部屋まで連れて行こうか」
どう見ても眠気も回っていて、寝た方がよさそうだった。
「お願いします……」
ファンサンはまたチキンを食べながら、僕らのやり取りを聞いた後にテーブルに広げ過ぎた食べ物を片付け始めていた。
僕はジュン君に肩を回して引き上げ、寝室に連れて行った。
途中でトイレに寄ったりしながら。何だかこういうのも悪くない。飲み過ぎた人を介抱するなんて久しぶりだ。僕は色んなものを捨ててしまったり置いてきたりしたみたいだ。
ジュン君を寝かせた。ガタイのいい若者なので中々大変だったが、何とかジーンズを脱がせた。飲み過ぎで腹部がきついのは良くない。
頑張ってるな。すやすやと寝息を立て始めたジュン君の頭を撫で、布団を掛けた。

やっとリビングへ戻る。
ファンサンは二本目のシャンパンを開けていたが、二人には多すぎる食べ物は片付いていた。
「キャサリンが帰ってきて食べそうなのは冷蔵庫に入れといた。ジュンは大丈夫?」
「ありがとう。ジュン君は沈没したよ。迎えに来てもらったりしたから疲れたんだろう。君はもうしっかり食べたの?」
「うん、チキンとチーズとこれがあればいいから」
フルートグラスを掲げる。
「タンパク質をしっかり摂るなんて流石ダンサーだな」
「まあね。でもだいぶ酔ってきた」
微笑みながらトロンとした目で僕を見る。この人も潰れる前にシャワー浴びた方がいいんじゃないんだろうか。
「あの、潰れる前に先にシャワー浴びてきたら」
ファンサンは目を丸くしたあと、僕をじっと見て物ありげな笑顔で答えた。
「……そうだね。これから何があるかわからないから、きれいにしとく」
何が?僕はしばらく考えた。
……あ!
「……あるわけないだろ!」
ケラケラ笑いながら、蝶が舞うようにファンサンはリビングを出ていった。からかうにも程があるな。面白いけど、こういうやりとりは苦手だ。慣れてない。それに、ファンサンが男なのか女なのか、結局わからないままだ。あんな言い方をあの人はするけれど、僕は男性とは寝たことが無いし想像もできない。
僕は冷蔵庫からメキシコの薄いビールを取り出し、栓を開けた。タッパーに切ったレモンが入れてあったので、一つ取り出してビールに少し絞り、瓶の中に落とした。しゅわしゅわと泡が上がってくる。ごくごくと三口飲んで、ホウ、と溜息をついた。
この旅は、気分転換とジュン君の快気祝いの為に来たけれど、何か大きく自分の中で変化が起きる気がする。とても刺激的で自由な人たちばかりに出逢った。もっと僕も自分を自由にしていいのかもしれない……。そう思いながら、僕の大きな身体すらゆったりと包むソファに寝そべりながら考えると、すぐに眠気が襲って来た。




「ねえ……起きてよ……」
誰かが僕の髪を撫でている。胸元から肩が少し重たい。首に腕が巻かれている。彼女かな。僕からも彼女に腕を回した。
ん??彼女?
でもこれは明らかに感触が違うし今僕はそういえば……!
目を見開くと、目の前、というよりも顔がくっつきそうな距離にファンサンがいた。僕の好きなタイプの頬と唇がすぐ側に。僕は大声を出した。
「わああっ!?」
「親切に起こしたのにそれはないよ」
ファンサンは眉を下げてクスクス笑っている。
「首に腕巻き付けて起こすとか聞いたことないぞ」
ファンサンが巻き付けた腕はそのままだ。僕の目の前から離れようとしない。
「好きな人ならあるかもしれないじゃない」
「……だからさ、どうして君は初対面の人間をからかうんだ。普通に話したいのに」
少し悲しそうな眼をして目の前の人は僕を見た。
「……からかってないよ。話してもみんな自分の身体を見たら続かないから、最初からそれでいいんだよ」
シャンパンの甘い香りがする。
「そうじゃない人はいなかったのか?」
僕はファンサンにもう一度腕を回して訊いた。そうしないとこの人が逃げてしまいそうで。
「一人ぐらいいただろ」
「昔はね……」
全部聞かせてほしい。僕の事をからかってないなら。
「……開いてるシャンパンを気を遣って飲む男は、色々と知りたがり屋でもあるんだ」
僕はファンサンにキスをした。
自分からキスをしてきた時は自信満々だったのに、目の前にいるその人は小鳥のようにひわひわとした感触で僕の唇を受け入れた。
「ねえ、君のことを教えてくれないか」



ファンサンがどうして僕に話してくれたのかはわからないけれど、間違いなくこの人は傷ついていた。身も心も。個人的な話をするのに広い場所は適さない。リビングから撤退した僕達はシャンパンとビールを持ってファンサンの部屋へ行った。
「小さい頃に家が火事になってね。大火傷を負ったんだ。ほら」
ファンサンはTシャツをめくって背中を見せた。背中一面のケロイドが、どれだけの惨状だったのかを伝えてきた。
「これは大変だったね。もう引きつれたりはしない?」
「何とかね。皮膚の移植手術を繰り返して、その度に動かせるようにならないといけなかったから。ダンスはリハビリなんだ」
Tシャツを戻してファンサンは言った。
「脚には皮膚を切り取った痕だよ。こんな人間抱けないでしょ。だから一回きりっていうのはそういうこと」
「あのさ……僕は、仕事柄悲惨な現場にも立ち会うし、受傷した人のその後も知ることが多い。だから言う訳じゃないけど、一回きりだなんて自分を安売りしないでくれよ」
「安売り?」
ファンサンの眉がピクンと跳ね、声が低くなった。
「それでも、寂しい時もあるって、わからない?……わからないよねあなたには。正しくていつも間違ったことはしなさそうだ」
出す声の強さとは裏腹に、その人は目に涙を溜めていた。
「……そうじゃ、ないんだ……」
このままファンサンを抱きたいと思っているにも関わらず、僕は躊躇していた。Tシャツをめくった時に見えた小さく膨らむ乳房と、キスした時に回した手に触れた筋肉の感触が男性なのか女性なのかを判断させなかったから。
でも、ともう一人の僕が言う。
それって関係あるのか?ファンサンが女だったら抱いて、男だったから抱かないのか?女なら好きじゃなくなっても抱けるから?それを選択している今のお前は幸せか?
「ファンサン、寝た後も僕と付き合ってくれるなら、君を抱く。一度きりは嫌だ」
ゆっくりと近づいて、頬に触れた。思った通りに柔らかくてしっとりしている頬。
三度目のキスは深く口づけた。
「男性ホルモン入れた、男でも女でもないみたいな身体でも?」
掠れた声でファンサンが言う。
しっかりとついた筋肉と少ない皮下脂肪、声の低さの理由が分かった。ファンサンは女性なのか。
「理由はたくさんあるんだろうけど、それは後で聞くよ」
きっと彼女は、大やけどをした自分の身体を嫌い、ダンスに道を見出して、そしてダンスの為という理由で男性ホルモンを入れて女性には無い筋肉をつけた。その名の通り、幻のような存在になるために。
ファンサンは、抱きしめてみると同じぐらいの身長の男性よりははるかに華奢で、自由に見えて、どれだけ寂しさを覆い隠して生きてきたのだろうと思った。
僕はファンサンの全ての傷にキスをした。彼女が乗り越えてきた人生を少しは理解する人間がいると伝えたかったから。
「火傷してるから背中は感じないよ?」
「……僕がしたいんだ」
それが伝わったのかどうかわからないけれど、ファンサンは僕に素直に抱かれた。投げやりな事も、無理して快楽に溺れる事も無く。
「……トシユキ……!」
初めて彼女が僕の名前を呼び捨てにしたのは、彼女が美しく背中を反らせて達した時だった。
掠れて上手く出ない声で僕の名を呼ぶ人。
出逢ったその日に誰かを抱いたことなんて無かった。こういう恋の始まり方もあるのだと僕は初めて知った。



「ファンサン、僕は数か月の内に転勤でこの街に戻ってくる。それまで待っててくれないかな」
「……約束はしない質だから、その時会えたら」
「ダメだ。約束して。誰かに取られたら嫌なんだ。つきあってよ」
ファンサンを抱く前から、僕は今の彼女を別れることを決めていた。彼女と別れてもいないのに、抱いたばかりの相手につきあってだなんて。今までの僕ならそんなことは口が裂けても言わなかった。
「だって、後悔しないように生きるんだろ?僕もそう生きることにした」
片眉を上げ、口を引き結んで見せた。
「……困った人だね」
彼女は僕のえくぼを人差し指で押すと、両手で顔を包んでキスをしてきた。
ファンサン、そう生きろって君が僕に教えたんだよ。


翌朝遅くにおはようございます、とリビングへ行くと、キャサリンさんがいた。
「おはよう!よく眠れたみたいね」
そうだった。ここはキャサリンさんの家で、僕は好意で泊まらせてもらっている身で、ファンサンとあんなことを……。言葉を探していると、キャサリンさんがこう言った。
「二人とも、もう一晩ゆっくりしていく?」
「え?」
「シーツがきれいなままの部屋がまだあるから」
全部お見通しだ。僕らは顔を真っ赤にしながら、キャサリンさんが出してくれた朝食を食べた。
ジュン君は完全なる二日酔いで、頭の痛みとむかつきで青ざめながら、
「トシユキ兄さん、来てくださってありがとうございました。こんなですけど、僕頑張ります!……うっ、いってえ……」
と言って部屋に戻っていった。あの元気があるなら、定時制の高校もきちんと卒業できるだろう。

僕とファンサンはキャサリンさんに送ってもらうことになった。
「あの後昔の友達が来て、長くなっちゃったの。ゆっくり話せなくて残念だったけど、また二人とも来てちょうだい」
「キャサリンさんの旧友ですか。お会いしたかったなあ」
僕がそう言うと、キャサリンさんは片手を振りながら、
「ダーメダメあいつは。警察官のトシユキ君と鉢合わせたら戦争になっちゃうわ」
「どういうことですか?」
「……だって、あいつヤクザだもん」
「は?!」
反社会勢力と直接繋がりがあるとは聞き逃せない。僕は思わず仕事モードに入った。
「……高校の時の同級生なんだけどね。大人になって再会したと思ったら、私はドラァグクイーン、あいつはヤクザになってた。二人で話す時は何も変わらないのに、皮肉なものよね」
どのくらい関係しているのか、訊いた方がいいかもしれない。職務上はそうすべきだ。だが……。
バックミラーで僕に視線を合わせながらキャサリンさんは続けた。
「トシユキ君が思っているようなことは無いから安心して。むしろいい加減やめろって言い続けてるぐらいなんだから」
ミラーに移るキャサリンさんの目は悲しそうで、それ以上言葉を継ぐことを僕は止めた。
しばらく車は走り、郊外の少しごちゃごちゃした場所で車が停車した。
「ファンサン、着いたわよ」
「ありがとうキャサリン」
「いつでも、また来るのよ」
「そうさせてもらうね」
ファンサンはするりと車を降りた。昨日の出来事が幻のように。
「あ、忘れ物」
「え、何忘れた?」
荷物も車から降ろしたはずのファンサンがもう一度車の中に入ってきた。
僕は自分の席の周りを見回した。何か落としたのかな。
「トシユキ?」
「ん?」
僕が顔を上げると、ファンサンは風が通り過ぎるようなキスをした。
「……またね」
「ああ……連絡する」
バタン、と車のドアが閉まり、笑顔で手を振る彼女に、運転席の窓を開けてキャサリンさんが言った。
「やっとまともな男捕まえたわね!離れるんじゃないわよ!」
車は僕を乗せて空港へ走り出した。
バックミラーからの視線を感じる。
「……ちょっとぉ、トシユキ君、アンタ見かけによらず、やるのねえ……?」
「いや、あの、いつもはこうじゃないんですが」
しどろもどろになる。
フフ、とキャサリンさんは笑った。
「ファンサンは、あの通りの子だから、扱いが難しいわ。トシユキ君があの子の頑なな部分を溶かしてくれたら嬉しい」
「……僕も彼女に色々教わりました。そうできれば良いなと思ってます」
「え?何初めて知ったプレイでもあった⁈」
「違いますよ、解ってるクセにひどいなあキャサリンさん」
僕は笑いながら、僕が知っている世界はひどく狭くて、正しいけれどつまらないものだったな、と思った。




郡部に帰り、またいつもの仕事の日々が始まった。たった一泊二日の旅だったのに、僕はすっかり見える世界が変わったことに驚いていた。
ルール、規律、義務。やるべきことはたくさんあって、それを社会人としてやるのは当たり前のことだ。けれど制服を脱いだ時に僕はその警官としてのペルソナを被りすぎていることにようやく気付いた。
”お帰りなさい、トシユキさん。ところで結婚式の日取りなんだけど……”
帰ったその日の夜にメッセージが来た。
旅行はどうだった?と一言も訊かない彼女に一気に心が冷えた。この人は物分かりがいいんじゃない。キャリア組の公務員と結婚がしたいだけであって、僕に興味は無いのだ。勝手に結婚の話が進んでいることにも鼻白んだ。
「あのさ、話があるんだ」
僕は旅行から戻った後の最初の休日に、彼女にきっぱりと別れを告げた。
婚約破棄だなんだと騒いでいたが、そもそもそんな約束は一つもしていないこと、もう好きではないのに結婚もつきあい続けることもできないと伝えた。
「私の何が、いけなかったの?」
怒りに満ちた彼女の顏。
「僕と同じようなスペックなら、誰でも良いように見えたんだ。僕は、自動車じゃないから」
彼女は顔を真っ赤にして置いていた荷物を詰め、部屋を出ていった。
「ごめんよ」
出ていく彼女の背中に声を掛けたが、返事は無かった。


ファンサンにメッセージを送った。
”連絡が遅くなってごめん。色々片付けることがあって。距離が遠いけど、休みの日には会いに行くし、いつか必ず市内に帰るから”
僕はまだ、彼女のことを何も知らない。本当の名前すら。だから何だというのだろう。僕がファンサンを好きなことには何の変わりもない。
数時間経ってから、返信が来た。返事が来るまでずっとそわそわしていて、初めて好きな女の子とやり取りする少年みたいに落ち着かなかった。
”次の休みはいつ?”
メッセージを確認すると、僕はすぐに電話を掛けた。なんだか十代の子みたいだね、とファンサンは笑った。




数か月後、僕は異例の昇進をして本部に戻った。
「寂しくなるが、ここではよく頑張ってくれた。向こうに戻ってもより警察官としての職務に励むことを願います」
捜査で必要だと思った事は好きなようにやれ、責任は私が取る、と言ってくれるとても良い上司だった。大好きな同僚たち。馴染みになった地域の人々にも挨拶をして、部屋の鍵を返した。



「ねえ、アンタ達が一緒になるなんて、一体誰が想像したと思う??予言者でも知らなかったわよ!未だに信じられないわ!」
新しくできたというイタリアンレストランでキャサリンさんが大きな声でそう言った。僕とファンサンの結婚祝いだとキャサリンさんが一席設けてくれたのだ。
「うるせーぞお前。特別にアイドルタイム開けて貸し切りにしてやってんだから、俺らの店の品が無くなるようなでけえ声出してんじゃねえ」
「何よ!アンタこそ何なのよ、その相変わらず口が悪いのどうにかなんない訳⁈」
キャサリンさんの昔からの知り合いだというシェフが、彼女を注意したけれどどっちもどっちで思わず笑ってしまう。
「ユウヤ兄さん、これ美味いです!どうやったら作れるんだろう……?」
「だろ?この味出すのにどれだけ試作を繰り返したか。ジュン、興味があるなら見習い来てみるか?」
いや僕は、警察官になりたいんです……とジュン君が言った声がかき消された。
「おい!ユウヤ!油売ってないで料理売ってくれ。次作れよ!」
「今スタッフをスカウト……わー!わかりましたよジンさん!」
「お邪魔いたしました。どうぞごゆっくり」
とハンサムなオーナーさんがシェフを引っ張っていって、まるでコントみたいだった。
「あんなんで店は大丈夫なのかしら⁈信じられないことが多すぎるわ」
キャサリンさんは首を振った。
「ホントだよ、キャサリン。あの日トシユキに会えてホントに良かった。ありがとう」
ファンサンはそう言ってキャサリンさんの手を取った。
「こういうコトする子じゃなかったのに……。トシユキ君、ファンサンの事頼んだわよ」
「僕も頼ってますよ、ファンサンに」
「そうね、支え合ってちょうだい」
キャサリンさんは嬉しそうに涙ぐんでいて、ジュン君も笑顔だった。境遇も何もかもが違う人間がこうやってお互いを喜び合ったり、気持ちを分かち合えること。
素顔の僕はこういう事を大切にして生きていきたいのだとやっとわかった。

「僕達、色々あるかもしれないけど幸せでいましょう」
昼下がりの太陽の光が反射して、きらきらと僕らを照らした。

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