サーベイランスA

淀川 大

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第1部

2038年4月12日(月) 3

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 新日ネット新聞社編集局社会部のフロアは遠くまで広がっていた。向かい合わせて置かれた机の「島」が何列も並べられ、それらの各机の上には、取材資料やプリントアウトされた記事原稿が雑然と積み上げられている。六つないし八つの机で構成される「島」の末席側には、スチール製の本棚が壁に沿って奥まで並べられていて、どの「島」も、その反対側の上座の位置に、各「島」の向かい合わせに置かれた机の列を正面に臨む形で、少し大きめの机が置かれていた。窓を背にして置かれたその少し大きな机の後ろには、通路部分も含めて広めの間隔がとられていて、その先に背の低いパーテーションが並んでいる。パーテーションと窓との間にも十分なスペースがあり、そこには打ち合わせ用のテーブルや、大型の複合機、応接セットなどが、余裕のある間隔で置かれていた。窓は高さのある半窓で、その前に薄い緑色のブラインドが掛けられている。半窓の下には低い棚が走り、その棚の上には二十センチ四方ほどの立方体の機械が、机の「島」が作られている位置に合わせて間隔をとって置かれていた。それらのデータ・バックアップ用のドライブ・ボックスは、どれも前面に並んだ小さな緑色や赤色のランプを不規則に速いテンポで点滅させていた。ドライブ・ボックスの間に置かれた大きめの置時計の針が午後四時を回っている。この時間、この社会部編集フロアの中は猛烈な忙しさと緊張に包まれていた。
 報道スピードに価値が置かれたインターネット新聞は夕刊による当日ニュースの速報が中心となっていた。新日ネット新聞は午後五時の配信である。各部で編集した記事データを社内の専用サーバーに送信するタイム・リミットは午後四時となっていた。政治部や経済部、文化部などの他の部署が、その期限を念頭に計画的に取材を進め、余裕をもって記事作成と編集を実現していく一方で、突発的な事件・事故を扱う社会部の記者たちは絶えず時間との戦いを余儀なくされ、毎日、その時刻が迫ると猛烈な勢いで記事を仕上げ、期限ギリギリになって編集済みのデータを送信する始末であった。いや、むしろ規定時刻を過ぎることの方が多い。今日もその時刻を過ぎていた。壁際の本棚の上の掛け時計に何度も目を遣りながら、社会部の記者たちは必死の形相で記事データを作成したり、電話を掛けたり、忙しなく動き回ったりしている。室内には苛立った記者たちの荒々しい声が飛び交い、時には罵声とも呼べる発言も響いていた。
 その怱々としたフロアの一番奥の突き当たりに社会部の部長室と次長室が並んでいる。二つの部屋のドアの前に作られた机の「島」には、三つずつ横に並べて向かい合わせに六つの事務机が置かれていた。壁の本棚に近い一番角の席には、部長室のドアを背にして、ワイシャツ姿の初老の男が座っている。老眼鏡を掛けた胡麻塩頭のその男は机上の薄型モニターの画面を睨んでいた。その向かいの席には、ジーンズ生地の薄いジャケットを着た三十代前半の女性が座っていた。彼女は薄型のヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着して、机の上に置かれた横長で黒く平らな板の上でキーボートを叩くように指を動かしている。その女性の隣の席は空席であり、机の上は隅の方に固定電話が一つ置かれているだけで、綺麗に片付いていた。同じく空席であるその向かい側の机の上は、資料や書籍が堆く積まれ、雑然として散らかっている。そこから窓側に隣の席には、肩幅の広い短髪の日焼けした男が座っていた。腕まくりしたワイシャツから筋肉質な腕を出したその三十代後半の男は、ホログラフィーで平面状に立体投影された文書に顔を向けたまま素早くキーボードを打っている。彼の向かいの席も空席であったが、やはり散らかっていた。正確には、そこは彼の隣の席のように物乗せ用に一時的に使用されているという訳ではなく、他の机から雪崩のように崩れて広がったままの書類によって占拠されている。これら六つの机の上座の位置には、窓際の棚の上の割り当てられたドライブ・ボックスを背にする形で置かれた、もう一つの机、つまりがあるが、その少し大きめの机の上に積まれた紙の資料の山が崩れ、そこからはみ出し、左の前にある机の上に広がっているのだ。その上座の机の前には、四十代後半の背の高い男が長い脚を組んで座っている。皺だらけのワイシャツを着たその中年男は、自分の机の上に置かれた立体パソコンから空中に投影されたホログラフィー画像の文書に顔を近づけて、それを熱心に読んでいた。彼の横には、綺麗にアイロンが掛けられたワイシャツに細身のネクタイを緩めに締めた小柄な中年男が、険しい顔で立っている。彼は椅子に座っている長身の男に言った。
「どうする、神作こうさ。これで行くか」
 記事原稿の文書ホログラフィー画像に顔を向けながら、新日ネット新聞社会部第一班のキャップ・神作真哉こうさしんやは答えた。
「いや、待て、うえにょ。さっきの時吉弁護士の話がマジなら、この記事はまだ早いかもしれん」
 彼の横で地団太を踏みながら、社会部次長の上野秀則うえのひでのりは言った。
「だから『うえにょ』って呼ぶな。『上野デスク』と呼べ、『上野デスク』と。今は俺の方が上司だぞ」
 二人は共に四十七歳で、同期だった。だが、上野秀則が社内で「デスク」と呼ばれる次長職の地位である一方、神作真哉は現場の記者チームの指揮官である「キャップ」と呼ばれる職長クラスの立場に過ぎなかった。
 神作真哉は肩を丸めて記事原稿に目を通しながら言った。
「そりゃ、悪かったねえ」
 そして、顔を上げて後輩に尋ねた。
「永山、真明しんめい教団の記事、上がったか」
 神作の右前の席に座っていた筋肉質な短髪の男が、腕まくりした手で、机の上に置かれた外付けのキーボードを操作しながら答えた。
「はい。今、しげさんに校閲してもらっています」
 一番下座の角に座っていた胡麻塩頭の初老の男性は、老眼鏡を掛けた顔を机の上のモニターに向けたまま、黙って左手を上げた。
 神作真哉は、永山哲也ながやまてつやの隣の席に積まれた資料と書籍の山の向こうから、重成直人しげなりなおとの手が上がったのを確認して、椅子の背もたれに背中を当てた。椅子を少し横に回すと、真剣な顔で上野に言う。
「ストンスロプ社の研究機関『GIESCOジエスコ』が汎用型の兵員輸送機を極秘に開発しているネタを掴んだのはいいが、まさか、アキナガ・メガネ社の特許技術を盗用している疑いがあるとはなあ。アップする予定のこの記事内容だと、開発中の兵員輸送機はGIESCOが発明した最新科学技術の結集って内容だもんな。間逆の内容だ。やっぱ、一つ一つの使用テクノロジーの特許関係とか、もう少しよく調べてからの方がいいんじゃねえか」
 上野秀則は腕組みをしながら、彫りの浅い顔の眉間に皺を寄せた。
「だが、ウラ取りするとなると、かなり時間が掛かるぞ。国防軍に納入される予定の新型兵員輸送機は極秘扱いだ。まず間違いなく、特許庁でも閲覧禁止になっているだろう。使用されている主な最新テクノロジーも何百とあるはずだし、それを一つ一つ手探りで調べていたら、何年もかかっちまう。ということは、この記事はお蔵入りだな。いっそ、今から大急ぎで記事を修正して、『技術盗用の疑いあり』で行くか」
 神作真哉は険しい顔で言う。
「でもよ、兵員輸送機を製造しているのは、日本が世界に誇る研究機関のGIESCOだろ。それが他社から盗用した技術を使っていると書けば、GIESCOの親会社のストンスロプ社が黙っちゃいないぞ。今や『世界のストンスロプ社』だからな。しかも、ウチの有力スポンサー企業でもある。そこを叩くんだぜ。上がそんな記事の掲載を許すかね」
「黒木局長か。社長や会長の顔色ばかり伺っているからな」
 そう言った上野秀則は、腕組みをしたままフロアの向こうに目を遣った。そこからフロアのほぼ対角に位置するところにある遠くの出入り用ゲートの前で、スーツ姿の大柄な男が壁際のスチール製の本棚の角を時計の秒針のリズムに合わせて指先で叩いていた。編集局長の黒木健治くろきけんじだった。彼は苛立った顔で声を荒げた。
「おい、社会部、何やってんだ。また編集データの提出が遅れているぞ。とっくにサーバーへの取り込みの時間は過ぎてるじゃないか。このままじゃ、ネットへの夕刊のアップが遅れちまうだろ。ウチは電子新聞なんだ。時間は厳守しないと閲覧者からの信用を失って、アクセス数が減っちまうんだぞ。おまえら、会社を潰す気か。急げ!」
 黒機健治は本棚を強く叩いた。スチールの音が広いフロアに響く。
 神作真哉は下を向いて少し大きめの声で言った。
「いい加減な記事をアップする方が信用を失うっつうの」
「やめとけ神作。またヤバイことになるぞ」
 上野秀則は立ったまま下を向いて、小声で忠告した。
 フロアの奥に顔を向けた黒木健治が、遠くの上野を指差しながら大声で怒鳴った。
「こら、上野、何やってんだ。しっかり仕切れ! ここのデスクはお前だろうが!」
 上野秀則は手を振りながら、大きな声で返事をした。
「はーい。今、取り込んでるんですよ。分かってまーす」
 黒木健治は遠くから上野を一にらみすると、ゲートを潜ってエレベーターホールの方に出て行った。
 上野秀則は、重成の後ろのドアに視線を向けながら呟いた。
「ったく、谷里たにさと部長は何やってんだよ。局長の話を聞くのが、あの人の唯一の仕事だろうが。社会部の部長なら、エレベーターの前で局長を止めろっつうの」
 同じ方向を見た神作真哉は、視線が合った重成に尋ねた。
「シゲさん、どうですか。出来の方は」
 重成直人は老眼鏡を外しながら答えた。
「誤字一つ、後は問題なし。いま、千佳ちゃんにレイアウトしてもらっている」
 神作真哉は重成の向かいの席に目を遣った。永峰千佳ながみねちかはヘッド・マウント・ディスプレイをしたまま空中で手を動かしている。彼女だけに見えている仮想空間の中で電子ファイルを移動させた永峰千佳は、手を下ろして言った。
「今、永山さんのパソコンに送りました。あとは記者の電子署名だけです」
 神作真哉は顔を右に振ると、永山に尋ねた。
「永山、どうだ、終わったか」
「終わりました。今、そっちに飛ばしてます」
 返事を聞いた神作真哉は、机の上に投影されたホログラフィーのキーボードに素早く触れて立体パソコンを操作した。それまで彼の前に浮かんでいた兵員輸送機の記事のホログラフィーが小さくなり、隅に浮かんでいる箱の中に吸い込まれていった。神作真哉は、そのホログラフィーの箱に指先を入れると、中から紙を摘まみ出すように手を動かした。すると、彼の前に別の文書がホログラフィーで表示された。永山哲也が書いた記事だった。神作真哉は椅子から立ち上がって横に退いた。その椅子に上野秀則が座り、細い目を更に細くして、顔をそのホログラフィー文書に近づけた。
「どれどれ、ウチのエースが書いた記事は……」
 横で立っていた神作真哉は、何度も腕時計を見ながら、上野が記事原稿を読み終えるのを待った。重成直人は首を回したり、肩を叩いたりしている。ヘッド・マウント・ディスプレイを外した永峰千佳は、手鏡で目元のメイクが崩れていないかを確認していた。永山哲也はキーボードの上に指を乗せたまま、壁の時計と上野の顔を交互に見ている。
 やがて、上野が記事を読み終えた頃合に神作真哉が彼に言った。
「どうだ、良く出来ているだろ。新興宗教団体の『真明教団』は、実は赤字続き。それなのに、そこが保有する学校法人や医療法人に政府から巨額の補助金が下りている。まるで破れたザルの中に国民の血税を際限なく投げ込んでいるようなものだ」
 ホログラフィー文書から顔を離した上野秀則は、腕組みをしながら呟いた。
「財務省と文部省、厚生労働省の正式コメントも載せてあるな。文体も穏当だな……」
 そして、自分の膝を叩くと、椅子から立ち上がって言った。
「よし、とりあえず、これで行くか。時間も無いしな。新型兵員輸送機の件は、時吉弁護士を信じて、今はストップだ。彼が顧問弁護士を務めるアキナガ・メガネ社がGIESCOとストンスロプ社を相手に特許権侵害訴訟を提起したら、その時に一気に攻めるとしよう。それまでしっかり追っとけよ」
 上野秀則は神作を指差すと、速足で向こうの出入り口ゲートの方に歩いていった。
 神作真哉は椅子に座りながら言った。
「了解。さーすが、うえにょデスク。判断が早いねえ」
 隣の「島」の前で立ち止まった上野秀則は振り返って言う。
「おい、『上野デスク』って言え」
 神作真哉は彼に顔を向けずに、左手だけを一度大きく振って答えた。
 小さな鼻に皺を寄せた上野秀則は、永山に手を上げて言った。
「じゃ、黒木局長に話してくる。おつかれ」
 緊張の糸が切れた永山哲也は一気に息を吐いた。
 神作真哉はいつもの手順に従って指示を出す。
「じゃあ、千佳ちゃん。社会面のトップを差し替えだ。今から内部サーバーに上げる。それで調整してくれ」
「了解です」
 永峰千佳は再びヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着した。
 永山哲也は椅子に座ったまま左の肘を右肩の前に運んで右腕で引っ張りながらストレッチをしていた。そして、その姿勢で神作に尋ねた。
「キャップ、あれで本当にオーケーだったんですよね」
「おう、ばっちりだ。お前の記事のお蔭で俺もうえにょも首が繋がった。お礼に今度、何か美味い物でも奢ってやるよ」
「いいですよ、仕事ですから。それより、さっきの時吉弁護士の話、本当なんですかね。それなら、どうして彼は、すぐに動かないのでしょう」
 神作真哉は後ろの窓を肩越しに親指で指しながら言った。
「例の大富豪のお楽しみのためさ」
「大富豪のお楽しみ?」
 永山哲也はストレッチを続けながら、怪訝な顔で聞き返す。
 神作真哉は腕組みをしたまま後輩にレクチャーした。
「アキナガ・メガネ社って言えば、世界の眼鏡シェア第一位の大企業だろ。そこの社長の秋永広幸あきながひろゆきも、近々、司時空しじくう庁のタイムマシンに乗って『過去』の別世界に飛んでいく予定らしいぜ。だから秋永社長は、そのことで頭が一杯なんだろ。特許権侵害訴訟どころじゃないのさ」
 永山哲也は反対に伸ばしていた右手を下ろすと、神作に言った。
「いや、そうじゃなくて。その司時空庁ですよ。さっきの時吉弁護士が見せてくれた、津田長官からのメール。あれに添付されていた文書データは、どう見ても理科系の論文だったじゃないですか。中を詳しく読んでみないと分かりませんが、たぶん物理系の論文ですよね。そんなデータを何故、現役長官の津田が、わざわざ前長官の時吉総一郎に送ったのでしょう。しかも、『ご意見を伺いたい』とは」
「ああ、確かにな。何か裏がありそうだな」
 眉間に皺を寄せた神作に永山哲也が更に指摘した。
「それに、その文書データの署名」
「——『ドクターT』か」
「ええ。そんな匿名の署名で、あんな大容量の物理論文データが送られてきたら、あの司時空庁なら、すぐに独自に動いて投稿者を調べるんじゃないですかね」
 神作真哉は右手で顎を触りながら言った。
「そうだな。司時空庁と言えば、STS(Space Time Security)とかいう独自の実力部隊まで持っている官庁だからな。情報収集部隊とかを持っていても不思議じゃねえよな」
「それに、司時空庁は所管するタイムトラベル事業の成功で、今や政府の財政収入の要となっている官庁ですよ。そこに意見する学者が居れば、普通、政府そのものが正式に動くんじゃないですかね。なのに、どうして津田長官は個人メールアドレスで、
時吉長官にこっそり連絡をとったのでしょう。どうも妙ですよね。やっぱり、例の時吉総一郎のNNJ社からの収賄疑惑、あれが絡んでいるんでしょうか」
 神作真哉は首を傾げながら言った。
「うーん……でも、司時空庁の津田長官は、NNJ社や、その親会社のNNC社とも距離を置いているんだよな。ガチガチの国内派なんだろ」
 永山哲也は大きく頷いた。
 神作真哉は暫らく考えていたが、視界の隅で永峰がヘッド・マウント・ディスプレイを外したのを見てサーバーへの記事データの送信が終了したことを知り、その返事を待った。視線を永峰に向けたまま、彼は永山に言った。
「永山、ちょっと探ってみるか」
 すると、奥の席の重成直人が、受話器を高く持ち上げて神作に言った。
「神作ちゃん。下の紀子ちゃんから内線だ。十三番だ」
 神作真哉は更に深く眉間に皺を寄せると、自分の机の上の電話機からハンディータイプの受話器を取った。少し間を空けて重成の顔を見る。
 永山哲也が横から言った。
「十三番」
「また、不吉な内線番号で……」
 神作真哉はそう言いながら、その数字の内線ボタンを押そうとした。その時、永峰千佳が手を上げて神作にオーケーサインを出した。腕時計を覗き、何とか許容時間内に記事データの送信が終了したことを確認した神作真哉は、受話器を下ろして大きく息を吐く。そして、再び受話器を耳に当てた。
 永峰千佳は髪を整えながら、向かいの重成に言った。
「さっきの内線の時も、山野編集長、ものっすごく怒ってましたよね。また始まるんでしょうかね」
 永峰の発言が聞こえた永山哲也が、口の横に手を添えて、神作に聞こえるように、わざとらしい小声で永峰に言った。
「ノンさん、怒ると怖いからなあ」
 神作真哉は内線ボタンに指を当てたまま固まっていたが、その手を引くと、永山と永峰を交互に指差しながら言った。
「ほらほら、早く仕事に戻れ。サーバーに記事を送っても、まだ他にやる事があるだろ」
 永山哲也と永峰千佳は視線を合わせると、笑いを堪えながら首をすくめた。重成直人が心配そうに神作を見ている。意を決したように内線ボタンを押した神作真哉は、椅子を回して三人に背を向けると、受話器を耳に当てて咳払いをした。
「ゴホン。ああ、待たせたな。ああ、なんだ。時吉弁護士との話は上手くまとまっ……」
『なんだとは、なんじゃあ! 勝手にウチのネタを自分たちの交渉の道具にするんじゃないわよ! あんた、こっちが週刊誌だからって、馬鹿にしてるでしょ!』
 受話器のスピーカーを破壊せんばかりの勢いで飛び出してくる山野の大声に、神作真哉は思わず受話器から耳を離した。
 山野紀子は怒鳴る。
『時吉弁護士から手に入れたデータは、そっちには渡さないからね! ウチの情報と交換して入手した情報なんだから!』
 神作真哉は受話器を耳に当て、眉をハの字に垂らして言った。
「そう言うなよ、紀子。こっちもこれから、いろいろ調べてみようと……」
『編集長って言いなさい! いくら元夫だからって、調子に乗るんじゃないわよ。ここは職場よ。あんたはキャップ、私は編集長。いいわね』
 その言葉に神作真哉はキレた。
「あのな、編集長、編集長って、子会社の編集室の編集室長だろうが! こっちは時事新聞の編集局社会部のキャップなんだよ。部の方が室より上。アイドルの水着写真ばかり載せている週刊誌の編集室と一緒にすんじゃねえ!」
『なんですって。そっちだって、ウチと同列の子会社じゃない! ちょっと上の階にいるからって、いい気になってるんじゃないわよ。——ああ、そうか、高い所が好きなんだ。知能が低い動物は高い所が好きだって言うからねえ』
「なんだと、この、言いたいことがあるなら、こっちに上がってこい!」
 紅潮した顔でフロア一杯に広がるほどの大声を出して怒鳴っていた神作真哉の横に重成が来て、神作の肩を叩いた。
「まあ、まあ、神作ちゃん。落ち着いて。替わるから」
 神作真哉は受話器を重成に渡すと、顔から湯気を立てながら腕組みをして言った。
「何なんだ、あいつ!」
 紅潮した顔でしかめている神作の背後で重成直人が穏やかに山野と通話している。
 神作真哉は音を立てて大きく息を吐くと、椅子を回して永山の方を向いた。
「永山、とにかく、その『ドクターT』の正体を探るぞ。先にネタを掴んだら、下の馬鹿にさっきのデータを渡すように言えるからな」
 頭の後ろで両手を組んだ永山哲也は、呆れ顔で上司に言った。
「同じグループ会社で、しかも同じビルに入ってるのに、競わなくてもいいでしょ」
「しかも、元夫婦だし。もっと仲良くされたら……」
 永山に付け足した永峰千佳の発言の途中から、神作真哉は怒鳴った。
「うるさい! さっさと仕事しろ。チンタラやってると、定時になっちまうぞ。際限なく残業代が出るほど裕福な会社じゃねえんだよ、ウチは!」
 神作真哉はパソコンに向かうと、ホログラフィーに触れてインターネットに接続した。
 背中を丸めてネット上を探り始めた神作から壁の時計へと視線を移した永山哲也は、諦めたように肩を落として溜め息を吐いた。今日も定刻に帰れそうにない。両腕を広げて胸筋を伸ばした彼は、短く息を吐くと、椅子の背もたれから背中を離してパソコンのキーを叩き始めた。社内の資料サーバーに接続した彼のパソコンのホログラフィー画面に検索する文字列が打ち出されていく。そこには、「司時空庁 タイムマシン ドクターT」という文字が並んでいた。
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